月の水3
「失礼致します。陛下!ペロポソ大公、キプス・パパドプロス閣下が御拝謁を願っておられます。」
天幕の外から、アピテの声が聞こえる。
ボンヤリと涙でにじんだアルカスのアンバーの瞳に見入っていた実季子は、驚きでビクッと肩が跳ねた。
「あ……?ア、ア、ア、アルカス……。
あの……キプス・パパドプロス閣下がいらしてるの?」
「うむ……そうなんだ。
どうも、私が倒れた時点でキプスに連絡が行ったようでな……。今朝早くやって来た」
長いため息を溢し、眉を顰めて如何にも憂鬱そうな顔をする。
「陛下!聞こえていらっしゃいますか?」
天幕の外で、アピテが先程よりも大きな声でもう一度呼びかける。
「聞こえている。入れ」
実季子は、アルカスから飛び退くように離れる。
「陛下、お元気そうなご様子で御座いますな。
私の所に来た知らせは、陛下の意識がないと言う内容でしたが……。
御身が心配で駆けつけましたが、大事ないようで、安心いたしました」
低く落ち着いた声で、キプスは深い海の色の瞳で、ジロリとアルカスを見た。
紺地の詰襟のジュストコールは、前立てを燻した金の色のモールでとめられた、軍服のような意匠で、肩幅の広い彼が着るとまるで鎧でも纏っているかのように見える。
天幕の中に差し込む外からの淡い光が、耳の後ろの1房の青い髪を浮かび上がらせている。
アルカスは、一つ息をつくと、嫌そうにキプスを見る。
「わざわざ、来なくても良かったのに……」
「そう言うわけには参りません。
我が領土で、皇帝陛下が体調を崩したとなれば、何を置いても駆けつけるのは至極当然のこと。
我ら海の民は、ペラスギア建国の折より皇帝陛下の腹心として忠誠を誓い、現在に至るまで……」
キプスの話が長くなりそうなので、アルカスは大きな声で遮った。
「あー!分かった、分かった。
わざわざ、我が体調を心配して、ここまで足を運んでくれて感謝する。
今宵は、共に酒でも酌み交わそうぞ。帰るのは、明日でも良かろう?」
「ハッ!勿論で御座います。
陛下と共に酒を酌み交わせるなど、慶福に御座います」
キプス達、海の民は、建国の時からずっと、皇帝に唯一無二の忠誠を誓っており、その忠誠心は海よりも深いと言われている。
そのキプスの青い目が、実季子の方を向いた。
一瞬、ビクリと固まったが、日に何十回と練習した甲斐はあったようだ。
「閣下、建国祭以来で御座います。ご無沙汰をしておりました」
腰を落としてお辞儀をして、挨拶を述べることが出来た。
「ミキコさま、此方こそ、挨拶が遅れて失礼致した」
実季子に頭を下げたキプスに、アルカスが尋ねる。
「キプス、天幕はもう張ったのか?
未だなら、空いている土地に、幾つか天幕を張った方が良いのではないか?」
「はい。そのように致します。では、後ほど」
キプスは、挨拶をするとすんなりと出て行った。
キプスを見送ると、実季子はアルカスに今後の予定を尋ねた。
もうタブラを出て7日目だからだ。
「そうだな。明日には、出立したいところだな。
一応、シメオンには使いを出したが、あまり政務を任せっきりにも出来んからな」
アルカスは、少し、寂しそうに笑う。
「あの、じゃあ私、森の魔女に聞きたいことがあるから、魔女のお家まで出掛けてきてもいい?」
「魔女に?それは、構わないが。では、アピテを護衛に付けよう。」
さて、忙しい。
アルカスは、目的は達せられたと思っているようだが、実季子にはまだ、細々とやりたいことが残っているのだ。
実季子は、急いで天幕に戻ると、ソフィアが袋に入れておいてくれた石を持って、キプスの所に行き洞窟で拾った石だが、持って帰っても良いかと尋ねた。
その所領で採れた物の所有権は、所領の管理者、つまりペロポソ大公にあるからだ。
キプスは、幸い快く了承してくれた。
その後、アピテとソフィアを伴って、草薙剣を持つと森の魔女のところまで出掛ける。
魔女は、実季子達が来たのが分かっているかのように、濃い霧は薄まり、案内するかのように大木の所まで白い小さな花が咲いた道が出来た。
苔むした大木のキノコの階段を上がると、幹に濃い緑色の扉が現れ、中からヌゥッと森の魔女が現れる。
「お入り」
一言言うと、中の階段を降りていった。
階段を下り終えた先にあるテーブルの所に、ソフィアは持ってきた荷物を降ろすと、中から瓶を取り出した。
「森の魔女、此方はつまらぬ物ですが、お好きだと聞き及びまして。
良ければ、お納めください」
ソフィアが森の魔女に渡したのは、リンゴのワインの瓶だ。
「ほう。あんた、趣味が良いじゃないか」
ニヤリと嬉しげに眉を弓なりにして笑うと、シードルワインを大事そうに抱えて、奥のキッチンに消えていく。
そして、お茶のポットを持って出て来ると、実季子と、ソフィア、アピテに振る舞ってくれた。
フンワリと甘酸っぱい匂いのするリンゴのお茶だ。
「それで?」
短く尋ねた森の魔女に、実季子は草薙剣をテーブルの上に置いた。
「私が、元の世界に帰る手助けをして頂きたいのです。
洞窟の中で、800年前の月の乙女には、この草薙剣に宿った力で、元の世界に帰れるはずと言われました。
そして、貴女が力を貸してくれるとも。
私には、正直、この剣の使い方が良く分からないのです」
クックと、喉の奥で詰まったような笑いを溢すと、大きく2度頷く。
「勿論さ。月の乙女を助けること。それが、森の魔女の仕事。
あんたに頼まれなくとも、我が知識を全て使い、持てる力の全てを月の乙女のために使うことは、古から決まっていることなのさ」
「あの……、どうして、そこまで?」
「ヒッヒッ……それが、決まっていることだからさ」
そう言って笑う森の魔女を、不思議そうに眺めていたが、納得せざるをえなかった。
「さて……じゃあ、あんたの元の世界に帰るために、あんたが着ていた服や靴は置いてあるかい?
あんたが、此方に来た日は、84日だと聞いてるよ。
その日は、スーパームーンの日なんだよ。
だから、次のスーパームーンの日に、あんたが来たって言うタブラの城の南にある泉に飛び込んで貰おうかね」
「え……?」
泉に飛び込む?
スーパームーンの日に?
森の魔女が言うには、次のスーパームーンの日は、273日だそうだ。
此方の世界は、月が満ちる周期が短くて、満月は何度もやって来る。
更にスーパームーンだけではなく、色んな月の名前がある。
そう言えば、座学の時に月の名前や満ち欠けの周期などについても学んだが、正直覚えられなくて、頭の隅っこに引っかかっている程度だ。
もっと、ちゃんと勉強すれば良かった……
よもや、また月の満ち欠けの話が出て来るとは思わなかったのだ。
今日は、218日。
後、55日だ。
「さて。じゃあ、そのデカい剣を小さくしておくかねぇ」
魔女がパチンと指を鳴らすと、テーブルの上の草薙剣は見る見るうちに小さくなり、お人形が持つ玩具のような大きさになった。
違う部屋から、楕円のロケットの付いたペンダントを持ってきた魔女は、ロケットの中に草薙剣を仕舞うと、実季子に渡す。
「これで、持ち運びしやすいだろう?
後で、剣を大きくしたり、小さくしたりする魔術を教えてあげよう。
なに、あんたは魔力はあるんだ。練習すれば直ぐに使えるようになるよ」
「あ……あの。じゃあ、直ぐにでも教えて貰えますか?
私、今日の夜に、ヴロヒ湖の水を出来るだけ月の水に変えて持って帰りたいんです」
魔女は、目を細めて実季子を見たが、直ぐに片眉をあげてにやりと笑った。
「良いよ、教えよう」
実季子は、案外直ぐに大きくしたり、小さくしたりする魔術を使いこなせるようになった。
森の魔女が言うように、実季子に魔力量が沢山あるのと、洞窟の中で、月読尊に会って、奇しくも同じ空間で異次元を保つために魔力を使ったことによって、魔術の道が通りやすくなったらしい。
何がプラスに働くか分からないんだなぁ……
ボンヤリとそんなことを思う。
その日の夜は、アルカスとキプスの宴の席には参加せず、ヴロヒ湖の水を月の水に変えることにひたすら力を使った。
実季子が月の水を作ったそばからソフィアが色の変わった水を掬って瓶の中に入れ、アピテが瓶を持って、陸と湖を往復してくれた。
途中で何度か森の魔女に滋養強壮の薬を飲まされ、休憩を挟みながら作った月の水は、おかげで、かなりの量になった。
タブラから、このヴロヒ湖まで簡単に来れる距離ではないのだ。
元の世界に帰れる算段が付いた今、実季子がアルカスのために出来ることは、こんなことくらいしか思いつかない。
800年前の月の乙女、季子がゼスターにしたように、近くにいて、狂狼の力を断ち切ってあげることが出来れば……、ずっとそばにいて、アルカスの気持ちを癒せる存在になれるなら、この月の水は無用の長物だろう。
しかし、実季子は帰るのだ。
元の世界に。
そして、その後は二度と此方の世界に戻ってくることは叶わないだろう。
月の水と言っても、やはり水なので、長くおくと、腐ってしまうかもしれない。
森の魔女とソフィアと相談して、防腐の魔術をかけて、更に凍らせて保存することにした。
魔術をかけたり、凍らせたりして、月の水の力に変化があったりしないのか不安だったが、月の水とは言え、そもそも、実季子の魔力が宿っている水で、更にその上に魔術をかけたり、凍らせたりしても、その魔術は別々の物なので関係ないと言われた。
便利だなぁ……
魔術
自分の世界にない物なので、感心してしまう。
そうして、夜もかなり更けた頃、このグラシディの森でしないといけないタスクを、全て終わらせることが出来たのだった。




