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目を覚ますと、白い天上が目に入った。ベアは慌てて、体を起こす。ベアは、大きなフカフカのベッドに横になっていた。そこは真っ白な部屋だった。
「どこ、なの」
ベッドから下りて、辺りを見渡す。
「ねぇねぇ」
声をかけられて驚く。足元に、あの蛇が居たのだ。
「ま、また貴方なの!?」
「そうさ僕だよ。君を助けたいんだ」
「私を助ける……?」
ベアは屈んで、蛇を見る。
「ここは、オブラドス様の仮の住まいさ。もうすぐオブラドス様がやって来る。ついに君を神の世界に召し上げられて、喜んでいるだろう」
ベアは、眉を寄せる。
「あの人は、嫌いよ」
「酷い神様だものね。でも大丈夫だよ、君ならきっと村に帰れる」
「どうして?」
「だって君はオブラドス様が嫌いだろ? 天に召し上げられた後も自分の事を嫌いな女をいつまでも側に置いておく神様なんていないさ」
「それもそうね……それじゃあ私は今後も変わらず彼を嫌えば良いのね」
「その通りさ! そうしたら、オブラドス様も君を妻に迎える事は諦めるだろう」
「妻ですって……!?」
ベアはつい大きな声を出してしまった。
「彼は私を妻にする気なの……!?」
蛇が少し黙る。
「……そうさ、オブラドス様は君を妻にしようと思っている。だからあんなに熱心なんだ。でも君が、ずっと心を開かなければそれも心配ない」
ベアは頷く。
「えぇ、そうね。彼の妻になんて、絶対なりたくないわ」
蛇が笑みを浮かべたように見えた。
「頑張ってねベア。君の忍耐力を信じるよ」
そしてしゅるしゅると、柱を上ってどこかに行ってしまった。あの言葉を喋る蛇は何者なのだろうと、ベアは思った。
「でも、味方……なのよね」
ここにベアの味方はいない、唯一味方の蛇をベアは信頼するしか無かった。
そこに、足音がする。
「ベア」
ドアも無い大きな扉から、オブラドスが入って来た。暗い衣を着た彼は、相変わらず陰鬱な表情をしている。
「……オブラドス様」
「体の具合はどうだ。海の神にすぐに君を助けさせたが、君は落ちる時に気絶してしまったようだ」
あの高い崖から落ちたと言うのに、体に痛む場所は無かった。
「体なら大丈夫よ……」
ベアは顔を反らす。
「そうか、それは良かった」
彼は心底ほっとしたようだった。
「……私は、貴方の妻になどなりません」
顔を反らしたまま、ベアは言う。
「……いや、君はもう私の妻だ。君が私の言葉を受け、神の世界に召し上げられた時からそう決まっている」
ベアは目を見開き、そしてオブラドスを睨みつけた。
「酷い人! 貴方は私を騙してばかり!! 妻にしたかったと言うなら、少しは誠実さを見せたらどうなの!!」
「それは、申し訳ないと思っている……だが、急ぐ必要があったのだ。ベア、君の体も良いようだからすぐに出発するぞ」
「出発? どこへ」
「私の管轄する土地へだ」
彼は部屋を出て行く。ベアも仕方なく、彼の後を追いかける。彼は長い廊下を歩き、青い空の見える場所へとやって来た。いくつも太い柱のあるその場所は、空を見下ろす事が出来た。下を見て ベアは驚く。なぜなら、この建物は空の上に建っていたからだ。衝撃で目眩を覚える。
「危ない」
いつの間にか側に来ていたオブラドスが、ベアの背中の服を掴む。目眩と同時に、あやうくベアは空へ落ちる所だった。
「気をつけてくれ、空からの落下は人には耐えられない。落ちれば体がバラバラになるぞ」
ベアは青い顔をする。そこへ、遠くの空から何かが駆けて来る。それは、首の無い黒馬だった。馬は青白い炎をまとっている。
「あっ……」
馬の姿が恐ろしくて、ベアは震える。
「行くぞ」
しかし、オブラドスに抱きかかえられ馬の引く黒い馬車に乗せられてしまう。彼は手綱を引いて、馬を打った。馬は空を駆け、急速に下へと落下する。
「う、うあっ……!」
ベアは、馬にも馬車にも乗った経験は無い。おまけに、空を駆ける馬車に乗る事を想像した事もなかった。馬車は雲の中につっこみ、分厚い雲を抜けると地上が見えた。さらに馬は加速する。
「や、やめて!! やめて!!!」
ベアは思わず、自分を抱えたオブラドスに縋り付いていた。
「冥馬! 少しスピードを落とせ!!」
オブラドスが叫ぶと、冥馬は本当に少しだけスピードを落とした。
「すまない、久しぶりの外にこいつも少しはしゃいでいるんだ」
冥馬はその後もご機嫌に空を駆けて、ベアに悲鳴を上げさせたのだった。
そして、馬は人里離れた山に近づき、岩肌をむき出した山の中にある大きな穴へと入って行った。
「きゃあああ!!!」
巨大な穴は暗く、入ると何も見えなくなった。ベアは恐怖で震え、本能的にオブラドスにすがりついた。そんなベアを、オブラドスがそっと抱いた。
長い暗闇を抜けて、馬車はようやくどこかの空間に出た。そこは、黒い岩肌が剥き出しのままある場所だったが、不思議な青白い光が周囲に沢山灯っていてほのかに明るかった。
「ここは……」
冥馬はスピードを緩めて洞窟の中を走る。
「ここは冥界だ」
「冥界……」
馬車の下を見下ろせば、青白い光達が至る所に見えた。
「あれは、魂だ。次の体に生まれ変わるまで、しばしここで休息する」
「魂……!」
ベアが灯りだと思っていた青白い火の珠は、人の魂なのだ。
「ここに死人の魂が、毎日のように沢山やって来る。私はあれらが迷わぬように導き、休息の場所を与える責務についている」
ベアはオブラドスを見る。
「じゃあ貴方は……」
「私は死を司る、冥界の神だ」
ベアは目を見開く。神にも沢山の種類がいる。しかし、地下の冥界に住まう神は穢れた神ともされていた。その名を口にする事すら憚られ、吟遊詩人達も物語を口にしない。大神は三人の兄弟だとされている。太陽神カヴァンナ・海の神ドムス・そして冥界の神が居た。けれど、その冥界の神の名を知る者は誰もいなかった。
「冥界の神、オブラドス……」
ベアは陰鬱な闇を背負う男を見つめる、彼ももまたベアを見つめ返した。
馬車が目的地に着いたのか、地面に下りる。オブラドスがベアを抱えて馬車から下り、地面にそっと下ろす。しかし、緊張と恐怖と不安と興奮で体がガチガチに固くなっていたベアはそのまま下にへたりこんでしまう。
「立てないか」
彼が再びベアを持ち上げて、横抱きにする。そのまま、歩き始める。
「ま、まって。大丈夫、歩けるわ……」
いつまでも嫌いな男に抱かれいるのは、嫌だった。震えたまま、そう言葉を絞り出す。
「ふっ、気丈な女だ」
「オブラドス様!!」
そこに、小人が走って来る。しかしその小人には、頭に一本の角が生えていた。
「チャス、冥界の様子はどうだ」
「は、はい! 万能神サルベール様のおかげでどうにか機能していました!! ですが、サルベール様もお疲れでもうこれ以上のお仕事は無理のようです!!」
「そうか、ギリギリだったな」
オブラドスは頷く。
「すまないが、先にサルベールの元へ行く。彼に礼を言わなければいけない」
サルベールが誰なのかわからないまま、ベアは彼に抱かれたまま連れて行かれた。驚くべき事に、この地下の冥界にも巨大な建造物があった。それは黒い石で出来た建物で、天界の白い建物とは対象的なな印象を受けた。彼はその建物中に入り、奥の部屋へと行く。建物の中には、魂達が綺麗に列を作って並んでいた。するとその玉座に、月桂樹の冠を付けた金の髪をした美しい男が座っている。しかし、美しく輝く男の顔には疲労の色が見える。
「サルベール、今戻ったぞ」
サルベールと呼ばれた男が、オブラドスの方を見る。
「おぉ、戻ったかオブラドス。君が予定通り、五〇日で戻って来てくれて良かったよ、あやうく私が干からびる所だった」
金の男は力無く笑みを浮かべる。
「本当にありがとうサルベール。君のおかげで、こうして妻を連れ帰る事が出来た」
「あぁ、綺麗な人じゃないか。それに勝ち気そうだ。君には良い奥さんになるだろうね」
サルベールがベアを見て微笑んだ。しかしベアは眉を釣り上げる。
「いいえ、私は彼の妻などではありません!! 無理やり連れて来られたのです!!」
「へーそうなのか。まぁ五〇日しか無かったしね。心までは、手に入れられ無かったか。けれど、これから彼と長い時を過ごすんだ。きっと、彼の妻のなる事を喜べる時が来るよ」
彼は頷く。しかし、ベアは大きく首を横に振った。
「そんな日は来ません!!」
「だとさ、オブラドス」
「前途多難なんだ。よければ後で助言をくれ」
「ふああぁ、そうしてあげたいのは山々だけどもう眠くて仕方ないんだ。すまい、五〇年は目覚めないと思ってくれ」
彼は王座から下りて、すたすたと横を通り過ぎて行く。
「それじゃあね」
手を振って、男は去って行った。そして列を為す魂達は待っている。
「ふむ……」
オブラドスが見つめて来る。
「君はもう立てるか」
「立てるわ!」
声をかけられ、強い言葉で答える。オブラドスに下ろされる。
「私は仕事がある。ひとまず、小鬼のチャスに冥界の案内をして貰ってくれ」
チャスとは、先程の角の生えた小人の事のようだ。
「了解しましたオブラドス様! さぁ、行きますよ!!」
小さな体でぐいぐい引っ張られる。
「ちょ、ちょっと」
ずるずると引っ張られて、建物から出された。振り返ってオブラドスを見たが、彼はもう仕事に取り掛かってこちらを見ていなかった。
「奥様はなんと言うお名前なのですか?」
「私の名前はベアよ!! それから奥様じゃないわ!!」
「は、はぁ。申し訳ありません」
チャスが身を縮めて謝る。これでは、ベアがイジメているようだ。
「ちょっと、あんまりビクビクしないでよ」
「は、はい」
小鬼は頭を縦に振る。まだ、怯えているようだった。
「はぁ……とりあえず冥界を案内してちょうだい」
「おまかせください! 冥界には、近づいてはいけない危ない場所もあるので、よく覚えていてくださいね」
「そんな場所があるの?」
ベアは小首を傾げる。
「そりゃ、死を司る場所ですから。危ない場所なんてわんさかあります。僕達ですら落ちたら、死んじゃうような場所が!」
ベアは寒気がした。
「そ、そんな場所に私は連れて来られたのね……」
「奥様は冥界がお嫌いですか?」
ベアは周囲を見渡す。暗いばかりで、周囲には青白い魂しか無い場所だった。
「嫌いよ」
「そんなぁ」
小鬼は肩を落とす。
「嫌よこんなじめじめした薄暗い場所」
「でも、冥界が無いと、死人は行き場所が無くなってしまいますよ」
ベアは片眉をあげる。
「行き場所の無くなった魂はどうなるの?」
「そりゃあ、地上に吹き溜まるしかありませんよ。最近じゃあんまり見かけ無くなりましたが、行き場を無くした魂が死人の体に取り憑いて取りついてうろつくなんて昔はよくありましたよ。あいつらは人間を襲うから困ったものです」
べアは目を見開く。歩く死体の話しは吟遊詩人から聞いた事がある。
「でも冥界の神、オブラドス様のおかげで、そんな事も無くなりました!」
「ふーん、冥界の神様だからあんなに偉そうなのね」
ベアは腕を組む。冥界の神とは言え、彼の事を許す気は全く無かった。
「オブラドスがお嫌いなんですか?」
小鬼は上目使いに不安そうに見て来る。小鬼は子共のようで、多少の罪悪感を覚えた。しかしベアは唇を引き結ぶ。
「嫌いよ、あんな身勝手な人」
「オブラドス様は身勝手なんがじゃありません!」
小鬼は声を上げる。
「オブラドス様ほど、働きものの神様はいません!! だって、冥界の王になってから三百年間ずっと毎日働き続けてたんですよ!!」
ベアは少し驚く。
「毎日欠かさず?」
「はい、毎日欠かさずです!! だって、人は毎日死にますから!!」
人は毎日生まれ、毎日死ぬ。冥界の王に休みなど無いのだ。
「休めば、地上に危険なグールが溢れる事をオブラドス様はわかっているので、けして休まず働き続けてくださるんです!!」
ベアは眉を寄せる。
「わかった、わかったは。貴方の尊ぶ冥界の王はとっても立派な人よ」
ベアはため息をつく。
「でも、それとコレとは別だわ。私は、ここに攫われて来たのよ。恋人を盗られ、村の不作を理由に脅され、愛してもいない彼に攫われて来たのよ!」
叫ぶベアに小鬼はしゅんとした顔をして体を小さくする。これでは、まるでベアがイジメているみたいだ。
「ごめんなさい。貴方のせいでは無いわよね。叫んで悪かったわ……」
ベアは目を閉じて、額を押さえる。
「オブラドス様はずっと冥界にいらっしゃったので、女性にどう接すれば良いのかわからないのだと思います」
ベアは目を開ける。
「だから、あんな事したってわけ?」
「はい……僕なら、まず見初めた女性には花を贈ります」
「そうね、それが良いわ」
そんな出会ならば、ベアの心もこれ程固く閉ざされる事は無かっただろう。
「お願いです、ベア様。オブラドス様を嫌いにならないでください……僕、オブラドス様にお考えを改めるように言って来ますので」
「それで、改めてくれるかしら」
「大丈夫です! オブラドス様はとっても優しいんですよ!! きっと僕の話しも聞き入れてくれます! そしたら、きっとベア様にも優しくしてくれますよ!!」
ベアは、優しくなったオブラドスの事を想像してみる。しかし、ハッとして想像を止める。
「ち、違うわ! 私は地上に帰して欲しいのよ!!」
しかしそんなベアの言葉を聞かずに、案内人のはずだった小鬼はどこかに走って行ってしまっていた。
「ちょっと……」
足の早い小鬼の姿はすぐに見えなくなる。そしてベアは、知らぬ冥界に一人残された。辺りを見渡す。どこに連れて行かれていたのか、わからないが、青白い魂の姿は無かった。代わりに黒い岩肌が、青白く光っている。その幻想的な光景に、少し見とれた後、ベアはもと来た道を戻る事にした。あまり長い距離は歩いていないので、すぐに戻れるだろうと思ったのだ。
しかしその考えは甘かったらしい。歩いても歩いても、ベアは元の場所に戻れなかった。あの巨大な黒の建物も無ければ、青い白い魂達の列も見えて来なかった。
「もう……ここどこなのよ」
悪態をつきながら進む。なんだか、どんどん暗い場所に入って行っている気がする。青白かった岩肌が赤色に変化した。
その時、不意に声がかけられる。
「あら、迷ったの?」
振り向けば、後ろに女が立っていた。黒髪に赤い唇、豪華に着飾った美しい女だった。
「は、はい」
通った時はいなかったはずの女が突如後ろに現れて、ベアは驚く。
「オブラドス様の所に帰りたいのですが、道がわかりません」
「そう……なら着いてらっしゃい」
女は、元来た道を戻り始める。ベアは少し迷って、女の後を着いて行く。女は動く度に、しゃらしゃらと音がした。
「あの……貴方のように美しい方も冥界にはいらっしゃるのですね」
暗い冥界で、女は眩しい程美しかった。しかし、それはどこか妖しい美しさでもあった。
「ふふっ、ありがとう。そう言う貴方は珍しいのね、人が生きたままココにいるなんて」
女は振り向いて、人を惑わすような笑みを見せる。
「はい……オブラドス様に……連れて来られて……」
「そう、では貴方がオブラドス様の花嫁なのね」
「それは……」
ベアは言いよどむ。
「どうしたの」
「私は彼の花嫁になどなりたくありません。地上に帰りたいのです」
「あら、どうして? 冥界の神に愛されるなんて、名誉な事じゃなくて」
「私は心から愛せない人の妻になどなりたくありません……」
女は頷いた。
「さぁ、そちらに真っ直ぐ進みなさい」
立ち止まり、左の方を指す。
「ありがとうございます」
ベアは頭を下げて、女の指差す方に歩いた。歩いている途中で、彼女の名前を聞きそびれた事に気づいく。おそらく神様だと思うのだが、なんの神様だったのだろうか。女の示した道は一本道だったので、迷う事は無さそうだった。そして歩いている途中に、不意に体が下に落ちた。
「!」
なんと、地面が抜けたのだ。パニックを起こしたベアの体は地下に落ちる。
次に目を開けた時には、広い空間にいた。やけに熱いと思えば、ゴツゴツとした岩肌の側で赤いマグマが湖のように広がっていた。そして、巨大な岩の山が突如動く。
「あっ……」
岩の固まりだと思っていたそれは、黒い竜だった。大きな羽根を広げ天に吼える。
「-------!!!!」
表現し難い、竜の大きな咆哮を聞いてベアは頭がくらくらする。耳がやられてしまったのか、音が遠く感じた。そして竜は金の目でベアをじろりと見て、大きな口を開けて迫って来た。
「きゃーーーーーー!」
腰が抜けてしまい、動く事の出来ないベアは無力に目をぎゅっと閉じて噛み殺される痛みを待った。
「………」
しかしいつまで待っても、痛みはやって来ない。ベアはそっと目を開ける。前を見れば、自分の前に黒い何かが立っていた。それは、長い黒髪を持つ人だった。
「眠れ」
彼は片手を上げて竜を止め、彼の言葉を聞いた竜は口を閉じ、大人しくマグマの中に帰って行った。男は振り返る。
「大丈夫か」
オブラドスが、ベアに手を差し出す。ベアはガタガタと震える体を止める事が出来なかった。オブラドスが近づいて来て、ベアの体をそっと抱える。彼が、空間を睨むとそこに青い炎の門のような物が出来た。彼はその中に入る。すると、全く違う場所に出たのだ。ベアは恐怖に体を震わせながら、彼に運ばれた。彼は暗い冥界をベアを抱えて歩き、そして最初に見た建物の場所に連れて来た。魂達が列をなして彼を待っている。
「もう少し待っていてくれ」
彼は声をかけて、列の横を通り過ぎ、建物の奥へと行く。奥の部屋の一つに入り、そこの寝台にベアを横たえた。
「すまなかった……」
彼が頭を下げる。
「あ、あの竜はなんなんですか」
「あれは暴竜ルイジード。かつて、冥界の出来る以前の地下世界に住んでいた竜だ。私が冥界を作ってからは、あぁしてより深い場所で眠らせている」
「そう……なんですか……」
ベアの体の震えが少しずつ、無くなって来た。生きていると言う実感がわき、心底安心した。
「チャスが君を置いて来たと聞いて、すぐに探しに行ったのだが……よもや、暴竜のいるところに落ちているとは思わなかった。本当にすまない」
彼は何度も謝った。ベアは彼をじっと見る。
「謝るのなら、私を地上に戻してください」
「それは出来ない」
「何故ですか」
「君は私の妻だからだ」
「私は貴方の妻なんかじゃありません」
「どうしても、君は私の妻にはなってくれないのか」
「……貴方が私にやった事を私は許せません」
「……すまなかった。貴方を見た時、どうしても私の妻にしたいと思ったのだ。貴方だけが私の心を揺さぶったのだ」
その言葉はほんの少しベアの心に届いた。
「貴方に恋人がいると知った時、私は愛の女神アーグニャの力を借りた。もしも貴方の恋人が、貴方の事を愛しているのなら、どんな試練にも耐えられるはずだと彼女は言った。そして、彼女の分体を貴方の恋人の元へ差し向けたのだ」
ベアは眉を寄せる。
「卑怯よ、そんなのは」
「アーグニャの分体ローリーは美しい娘だが、神では無いただの娘だ。一人の女として彼に近づき、愛をささやきそしてジエルの心を手に入れた。彼女の言葉に嘘は無く、彼女は一生ジエルを愛すだろう」
ベアは俯く。あの二人の姿を思い出すと今でも、胸が痛んだ。彼らは、完成された恋人だった。あの隙間にベアが入る余地など無い。
「私なら、あの試練を超えられただろう」
ベアは顔を上げる。
「どうしてわかるの」
「私は大陸中の女を見ておまえを選んだのだ。おまえ以外に興味は無い」
「ふんっ、そんなのは口でいくらでも言えるは」
「では、どう証明すれば良い」
「貴方に心底惚れた美しい女に言い寄られても、相手を受け入れ無いのなら信じてあげるわ」
酷い条件だった。しかしそれが、彼のやった事だ。
「……無駄だとは思うが、良いだろう。愛の女神に相談してみよう」
彼は頷いた。
「いろいろあって、疲れただろう。今日は休め」
彼はベッドから離れ、部屋を出て行った。そんな風に優しく気遣う事が出来るのなら、何故最初からそうしてくれなかったのだろうか。
戸惑いながらも、冥界で数日過ごした。冥界には本当になんにも無かった。見渡す限りの黒い岩と、青白い魂だけが毎日やって来る。しかし不思議な事に、食事だけは地上と同じ物が食べられた。こんな暗い場所でどうやって育てているのか不思議だった。どこかに農園や牧場があるのだろうか。ベアには特になんの仕事も与えられなかった。娯楽も無いので、日々暇だった。そんな時、冥界に美しい女がやって来る。彼女が天馬を駆って冥界にやって来た時、そのあまりの輝かしい美しさにベアは目を奪われた。まるで彼女自身が光を放っているようだった。馬車から下り、黒い建物の中に彼女は向かう。ベアもその後を追いかける。柱の影から、彼女の姿を伺った。
「オブラドス様!」
彼女が高らかに叫ぶ。声まで美しい。
「なんだ」
「愛しいオブラドス様、 私メルケルスを貴方の妻にしてください」
美しい女はそう言った。
「断る」
「まぁ、強情なお方。私ほど、美しい女はこの世におらず、私ほど賢い妻はいないのに」
メルケルスは自身たっぷりにそう言った。ベアも、きっとそうだろうと感じた。
「君の言う事は本当なのだろう。だが、私は君を妻に迎える気は無い」
「何故ですか」
「私には妻がいるからだ」
「えぇ、存じております。ですが、彼女は地上に帰りたがっているとか」
オブラドスは眉を寄せた。
「意に沿わぬ者との結婚はお諦めになって、私を愛してください。私なら、貴方の愛をけして拒みません」
「……おまえは素晴らしい知恵を持った美しい娘なのだろう。だが、おまえに私の心は動かないのだ。どうか、諦めてくれ」
高らかにオブラドスに話しかけていた、メルケルスが息を飲む。
「そんな……どうしても愛してはくださらないのですね」
「あぁ」
娘はわななき、そして走り去った。柱の影から見ていたが、彼女は泣いているようだった。その姿を見て、ベアは胸が痛む。オブラドスのところに行き、彼に声をかける。
「どうして彼女を受け入れてあげないのですか」
あれではあまりに憐れだ。
「愛していない者を同情で妻に貰う事は出来ない」
「けれど、私は貴方の事を愛す事などありませんよ」
「それで良い」
ベアはその言葉に驚く。
「おまえが私を愛さなくても構わない。おまえが私の側に居てくれるだけで良いんだ」
「……どうしてですか……」
「冥界は何も無いところだ。だがおまえの姿を見れば私の暗く陰鬱な心が動く。数百年一度も動く事の無かった私の心がな」
ベアは眉を寄せた。ベアの心には、彼に対する同情心のような物が生じ始めていた。
「……失礼します」
何も答えられず、ベアは彼に背を向けて去った。自分の部屋に駆けこんで、ベッドに腰掛ける。自らの胸にそっと触れる。何故だかそこは、早鐘のように脈打ち続けるのだった。ベアは頬を押さえる。頬はやけに熱かった。
「ちがう……、ちがうわ」
戸惑いを口にする。
「何が違うの?」
突然聞こえた声に驚く。
「驚かせてごめん、僕だよ」
ベッドの下から蛇が顔を出した。
「どうしたの? 何かあったの?」
ベアは蛇を見て、口を開く。
「私の心がおかしいの、彼の事を嫌いだし許せないのに、彼の言葉を受け取る度に心が揺れるの……」
ベアは眉を寄せる。
「心が揺れるの? それはオブラドス様を憎からず思ってるって言う意味?」
ベアは戸惑い頷いた。
「でもそれは、勘違いだよ」
「勘違い?」
「これは内緒なんだけど、君に出された食べ物にはちょっと細工がしてあったんだ」
「細工?」
「君がオブラドス様の事を好きになるように、おまじないがしてあるんだ」
ベアは驚いた。
「そんな事が、本当に?」
「本当さ、チャスって小鬼の後を追いかけてごらん」
以前、ベアとオブラドスをくっつけよとした小鬼だった。
「わかったは、ありがとう蛇さん」
「うんうん、僕は君の味方だよ……」
蛇はしゅるしゅると、柱を上って消えた。彼が誰なのかわからないが、ベアには彼だけが味方だった。
つづく