絶望の淵(2)
――自分一人が消えれば、事は終わる。
ビーは、何もかもが丸く収まるような気がしていた。
シャイナとエチルスは助かり、ムーデナールは復讐を遂げられる。
猫女も満足だろう。
おつかいは失敗してしまったけれど、きっと何とかなる。
おっとりしているがしっかりしている祖母がいれば、祖父もちゃんと生活していける。
憎らしいが祖父の仕事の腕だけは一流だ。生活に窮することはない。
シャイナは、きっとエチルスが助けてくれている。
最初は悲しむだろうが周りがきっと支えてくれる。人気者だから、自分といるよりはエチルスや
パレットたちといた方が彼にとってはいいだろうとも思えた。
自分一人がいなくなったところで、何も変わりはしない。
身体は動かないのに、頭の中ではさまざまな記憶がよぎる。
物心ついたころには祖父母と生活し、シャイナとともに育った。
仲間たちといたずらを繰り返しては怒られ、祖父の引き起こしたトラブルを解決し、時折こっそり裏の倉庫を探検する。食べ物に困ることもなく、おひさまの匂いのするベッドで眠った。
何かにひどく制限されることはなく自由に暮らしていた、とビーは思う。
しかし、恵まれた環境にいながら、心にはほんのわずかな空洞があった。
それは常にビーの傍らに存在し、死が迫った今この時にも決して消えることはない。
例えるのならば、それは崖だ。
人生が一つの道ならば、ゴールは見えないほど遠いが、先は続いている。
これから様々な分かれ道を選択してこの道を歩いていく。
後ろを振り返れば、これまでの進んできた道があるはずだ。
ビーには、振り返った先の道はなかった。
全くないわけではない。
幼い頃にシャイナと初めて出会ったところあたりまでの記憶はあるが、それ以前の過去は、すっぱりと切り取られたようになくなっている。
まるで崖くずれか雪崩にでもあったかのように、道が断絶されていた。
その崖下は、底が見えないほど暗く、引きこまれそうになるほどの闇が広がっている。
物寂しいような、絶望が色をまとったような、そんな感情を呼び起こす。
その奥の道に何があったのかは想像に難くない。
父母の記憶だ。
祖父母と暮らす前、この村に来る前の記憶がビーにはない。
何かはあったのだ。
大きなことを見落としているような気がしてならなかった。
でももうその不安を抱えて生きていかなくてもいいと思うと、ビーは少し気が楽になった気がした。
――このまま、このまま……。
濁った視界の中でギラリと不気味な光がビーに届いた。
いつの間にか、夢魔はかつて自分の指だった刃を手に突き刺し、ビーへ向けて振り下ろさんしている。
――……もういいんだ。もう終わりにできる……。
ビーは静かに目を閉じた。
「命」を放棄しかけた、その時だ。
「――っ! ――んなっ!!」
かすかにビーの耳に飛びこんでくるものがあった。
チューニングを合わせるように、徐々にはっきりと大きくなる。
「――ビー、起きろ!」
それは、もう二度と聞くことはないとあきらめていた声だった。
身体は動かないはずなのに、思わずつぶやきが漏れる。
「……シャ、イナ……」
声は少し遠くから聞こえていた。
距離は一定して変わらず、近づいてくる気配も姿も見えない。
しかし、確かにそれは幼馴染の呼び声に違いなかった。
――……助かったのか。マーがちゃんと……よかった――
「立てよ、ビー!!」
「ビービー! 逃げてっ」
シャイナとともに、エチルスの叫びにも似た声もする。
ビーにとってそれが本物なのか、自分の都合で作り上げた幻聴なのかはもうどうでもよかった。
再びビーの世界から音が消えていく。
――これで、もう心配することはない――
安堵と解放、シャイナの生死がはっきりした今、ビーは穏やかな気持ちで自分の死を受け入れることができた。
ただ妄執の刃が振り下ろされるのを待つ。
ぎちぎちとムーデナールの奇怪な動作音がシャイナの声をかき消した。
ガキンッ!!




