もう一方の戦い(1)
時間は少し遡る。
それは、ビーがムーデナールと対峙しているころ。
エチルスはシャイナを抱え走っていた。
つい先程、後ろで激しい爆発と岩が崩れるような音が聞こえたが、気にしている余裕はない。
ただ一人残ったビーの安否が気がかりだったが、エチルスには彼の無事を信じるしかなかった。
灯りのない洞窟を抜けると、あの分かれ道に着いた。荷物もそのまま残っている。
「シャイナくん、もう少し辛抱してくださいね」
急いで、しかし丁寧にシャイナをその場に寝かせると、エチルスは腕につけた革製の入れ物からビー球をすべて取り出した。
水色と白色の球を、シャイナの周りに等間隔に置いていく。
足りない分はカバンをひっくり返して予備を持ってくる。
最後に小さな紙切れを、仰向けに寝かせたシャイナのお腹の辺りにのせた。
おびただしい出血が、彼の服を赤黒く染めている。
紙には丸い円と、その中に複雑な文様と古代文字が描かれていた。
それは、大きな術を用いる時に欠かせないパーツのひとつ、魔術印だった。
エチルスは、いつもこれを腕に忍ばせて持ち歩いてた。
いざという時、術印を一から描いていては間に合わない、きちんと書けるかどうかもわからない。
万が一の保険のつもりだった。
使う時が来ないことを祈りながらも、エチルスは忘れることなく身につけていた。
それが、こんなところで使うことになるなんて、誰が予想できただろう。
エチルスは至って冷静、というわけではなかった。
扱いなれているはずのビー球を何度も取り落とし、急いでいるのに足がもつれて転んだ。
それでもなんとか準備を終えた。
「……えっと、水の球は置いて、ある。ちゃんとある。……それで白もあってるし、え、数あってる?」
指さししながら最終確認をしている時、自分の手が震えていることに気がつく。
この術がうまく作動しなければ、未来ある幼い少年は死ぬ。
その事実がエチルスの首を絞めるかのように迫った。
集中しなければならないのに、恐怖が心臓を鷲掴みにする。
呼吸が荒くなり、頭がくらくらした。
失敗したくない、間違えてはならない、時間に猶予もない――この手に人一人の命がかかっていた。
その重圧がエチルスをパニックに導く。
怖い、痛い、辛い、負の感情が彼を取り囲む。
こんなことできっこない、僕には無理だと、身体の内側で声が上がる。
自分を守るように、エチルスは身体を縮こませた。
瞼をきつく閉じて、目の前の出来事に蓋をしようと思った矢先だった。
――頼む、シャイナを助けてくれ――
彼の背中が、瞼の裏の暗い闇に浮かびあがる。
短い旅の間ではあったが、彼はすべてを自分でこなし、誰かを頼ることはしない。
年齢は下なのに、自分の方が年下のようにも感じた。
その彼が、幼馴染を助けたい一心で、初めて自分を頼ったのだ。
そのビーの背中は、確かに何かを背負っていた。
友を失うという不安、命をかけた戦いに向かう恐怖、そして誰よりも友人を救いたいという強い思いを感じた。
エチルスは目を開ける。
血の気の失せた顔で、シャイナが横たわっていた。
夢ではない、これは現実なのだ。
両手を広げると、エチルスは思いっきり自分の両頬を叩いた。
バチーンと盛大な音がして、目の前がチカチカする。
その代わり、弱い心もどこかへ吹っ飛んだ気がした。
「……よし! シャイナくん、今助けますから!」
エチルスは呼吸を整えると、シャイナの身体の中心に置いた魔術印に手をかざした。
「東に頂くは 慈悲と恵みの神
西に佇むは 静観と穏やかなる月
北に聳えしは 果てなき大地に力の神
南に座すは 深き海と涵養の流れ
巡り巡りて
我らを助けん
白い息吹に願い込め
彼の者に目覚めの時を与えよ」
地面に置かれたビー球が輝き、シャイナの身体は光の膜に覆われた。
その膜の中を白い帯状の光が螺旋を描いて飛びまわる。
「天より得られる微笑みと
夜を退けるかすかな灯
厳しさをもって精錬し
渇きを潤す水を待つ
悠久の時を育むものたちよ
巡り巡れ 巡る巡らん
その肉体は誰のものぞ
その血は汝のものぞ
巡れ巡れ
すべてのものは繋がり
やがて結実す
――悠久の時の息吹!」




