約束
ビーの身体は壁に激突した。
まともに受け身をとることもできず、体中が引き裂かれるような痛みが走る。
呼吸することもままならない。
「――ガっハッ……、ゲホッ」
今の今まで動かしていた身体とは思えないほど、何十キロの積み荷を背負ったかのように動きが重い。身体を動かすことはこんなに困難だったのだろうか。
ようやく吸った空気でさえも、身体が悲鳴を上げる。
気を失ってしまったほうがマシだったかもしれない。
どうしてこうなった。直前の記憶さえ飛んでいる。
――そうだ、アイツに。
なんとか息を吸う。
――また一瞬で距離を……。
四つん這いの姿勢を保つことさえ痛みを伴い、頭が動くことを拒否していた。
拒む脳を抑えつけ、ぎりぎりその状態をキープする。
――不覚にもアイツの一撃をくらった。壁に叩きつけられたのか――
咄嗟に突き出した銃は、あんな目にあっていながらもちゃんと自分の手のなかにあった。
相変わらず傷一つない。持ち主の身体はボロボロだというのに。
刃を向けられたはずだが、五体に切り傷はないようだった。
指も動かせるし、手も足も感覚がちゃんとある。そういう痕も見当たらない。
むしろ、壁にぶち当たった背中側や、身体の内側から痛みは発信されている。
今こうして生きているのも、おそらくこの銃が盾に……。
ふと、黄金色の中に小さな紅い斑点が目に入った。
無意識に右手を動かすと、手のひらが濡れている感触が伝わる。
手を返せば、そこは真っ赤に染まっていた。
「――なっ!!?」
最初は自分の感覚を疑った。戦いで痛みを感じていないだけなのか。
――いや、違う。俺じゃない、俺じゃないなら……。
すぐそばに見知った背中が横たわっていた。
ドクリと心臓が高鳴る。
自身を流れる血液がみるみるうちに冷えていく、それなのに心臓の鼓動はなぜか速まる。
少し伸びた髪が、しおれている。
服が少しずつ赤く染まっていく。
同じような背丈、身体つき。
炎から普通の刀身に戻った剣が、傍らで寂しそうに転がっていた。
「――っシャイナ!?」
その肩に触れれば、恐ろしいほど冷たい。
熱を奪うように、胸のあたりの深々した朱殷の谷から血が流れ出ている。
「…………ごめ……、……スった。――ガ、……なぃ……?」
「ない、俺はケガしてない! しゃべんなっ」
普段からは想像できないほどか細い声だった。
血色のいい肌はどんどん色をなくしていく。
今にも閉じられそうなまぶた、その奥に見える太陽色の瞳は徐々に曇りつつあった。
それでも戦いを続けようと、シャイナの右手が剣を求める。
「ぁ……つ、また……ぃっしゅ……で」
「いいから! 動くなっ、頼むから!」
ビーの頭の中は情報の渦になっていた。
これまで読んできた本の内容や誰かに聞いた話、祖父母に教わった方法、さまざまなものが動けと指示している。
それにも関わらず、ビーは何もできないでいた。
目の前の光景から目を離せない。
広がる血溜まりの中に、急速に弱っていくシャイナがいる。
やらなければ、何かしなければと遠くの方で叫んでいる。
わかっている、わかっているのに身体は指先ひとつ自由にならない。
嵐の中を進む船に乗っているかのように、地面が揺れる。
感覚を司る部分がどこかにいってしまい、抜け殻のような身体は蝋人形のように固まっている。
顔を逸らすことさえ許されない。
――どうすればいい、どうすればいい、どうすればいいっ!?
――俺が、俺がちゃんと見ていたら反応できた?
――嫌だ、いやだっ――
――俺のせいで、また……。また?――
――だめだ、だめだ、だめだっ――
――俺が、俺がシャイナを――
「ビービーっ!!」
突然肩をつかまれる。
「…………マー」
「シャイナくんっ! しっかりして、シャイナくん!」
エチルスがすばやく呪文を唱え始める。
すぐに淡く白い煌めきがシャイナを包んだ。
ビーは唇を強く噛みしめた。
――何やってる!
このままじゃ、みすみすシャイナを死なせることになる。
まだだ、まだ絶望するには早いっ!――
ビーは痛みの残る身体を起こし、ムーデナールから二人を隠すようにして立った。
夢魔は鉛色の肌を光らせ、うす気味悪く不敵に笑っている。
「マー、シャイナのこと治せるか?」
「……正直、わかりませんっ。せめて少しでも落ち着けるところで、時間があれば……」
「わかった。ひとまず止血してくれ。それができたら、シャイナを連れてここから出ろ」
「えっ!?」
「少しでもこの場所から離れて、治療できるところまで行け」
「でも」
「俺はあいつをどうにかする」
「だ「マー、頼む。シャイナを……、シャイナを助けてくれ」
ビーは絞り出すように、マーに希った。
自分の力では、シャイナを助けることはできない。
エチルスならば、傷を治療することができる。
ビーにできることは、ここから二人を逃がし、あの夢魔を倒すことだけだ。
「……ビービー……」
「頼んだぞ」
「あ、あのっ、ビービーもすぐに来てください! 僕の魔力だけじゃ足りません」
「……ああ」
「絶対ですからね。僕ら、三人一緒にレフュジ村に帰るんですから!」
「約束だ」
それはシャイナと三人で交わした約束だ。




