回避不能(1)
シャイナの声で我に返った。
――しまった! 女に気を取られすぎたっ――
ビーは咄嗟に大地を蹴る。
次の瞬間、ビーが今の今までいた場所に、ムーデナールの刃が風を唸らせて横切った。
ビーはすぐに体勢を立て直して距離を取る。
シャイナとエチルスがビーに駆け寄った。
いつの間にか女の姿はない。
しかし、この空間には確かに女の気配があった。
おそらくどこからか監視しているのだろう。
「ビービー! 背中がっ」
エチルスの声に、ビーは思わず背中に手をまわした。しかし、痛みは感じない。
「間一髪だったね。少し上着が破れてるだけで、怪我はないみたい」
シャイナが上着を背中側からめくって、確かめる。
エチルスがほっとしたように、息を吐いた。
「よかったです」
「少しでもタイミングがずれてたら、やられてたな」
――シャイナが叫んでくれてなかったら、逃げられなかっただろう――
ムーデナールに動く気配はなく、先程の場所からこちらを窺っているようだった。手負いの獣のように、左足をかばうようにうずくまっている。
シャイナの真面目な声が響いた。
「ビー、……たぶん、あいつ、ずっとじゃないけど、瞬間的に早くなる。
足を傷つけられて、少しはスピードが落ちたみたいだけど」
「最初よりはましか」
「全く見えないよりは。ギリギリ目で追えるくらい」
「……正直、このまま逃げられればいいんだがな」
「うん」
「でも、あの女がいる」
「いくしかないね」
「あいつを、ムーデナールってやつを倒すしかない」
幼馴染の力強い言葉に、シャイナは大きく頷いた。
ビーはエチルスへ視線をうつす。
彼は不安げな表情を浮かべ、胸のあたりで両手をぎゅっと握りしめていた。
まるで、震える身体を抑え込もうとするかのようだ。
何か思案するように、ビーはゆっくりと一度まばたきをする。
そして、エチルスを見据えていった。
「マー、少し離れた場所で隠れててくれ。シャイナ、お前はマーを守れ」
「おう! ……ん?」
いつものように二つ返事で応じたシャイナだが、違和感を覚えて首を傾げる。
「今、なんて?」
「俺が戦ってる隙に、様子を見て外に出ろ」
「ほ、本気でいってんの?」
「冗談いえるような状況じゃないだろ。あいつとは俺が戦う。お前らは、自分の身を守れ」
「な、何いってんだよ!」
「ビービー、無茶です! 僕も戦います」
二人の反応を予想していたかのように、ビーは、特に声を荒げるわけでもなく、いつものように腰に巻いたホルスターから試験管を取り出し、銃倉を取りかえる。
「お前らは、じいちゃんに巻きこまれただけだ。ここで命を危険にさらすことはない」
「ビーだって、あいつの強さ見たじゃん! 一人でなんて無謀だよ」
「俺がムーデナールと戦って時間を稼ぐ。
ヤツと戦ってさえいれば、あの女も手を出さないかもしれない」
これ以上二人を危険な目にあわせたくない、それがビーの本心だった。
あの夢魔と戦って勝てる自信は、正直ない。
例えムーデナールを戦闘不能に追い込めたとしても、その時は自分もただでは済まないだろう。
生きてここから脱出できる確率がどれほど低いか。
わかっているからこそ、これ以上夢魔との戦いに参加させるわけにはいかなかった。
シャイナがビーの腕を掴む。
「ビーが戦ってるのに逃げられるわけないじゃん!
何一人で戦おうとしてんの? 一緒に戦った方が、まだ有利だろ」
「マーをそのまま放っておけない。お前がマーを連れて行かなきゃ、だれが行くんだ」
ビーはシャイナの腕をふり払うと、エチルスにいった。
「マー、お前は戦闘経験がほとんどない。
このままムーデナールと戦っても、すぐに殺られる。
森の魔獣とはわけが違うんだ、俺たちがあんたを守りながら戦えるほど優しい相手じゃない。
足手まといになる前に、シャイナと一緒にここから出ろ」
「!!」
何かいいかけたエチルスだが、ビーの氷のような冷たい物言いと否定できない真実に、下唇を噛んで項垂れた。
「ビー、そんな言い方ないだろ!」
「事実だ。俺とお前、二人がかりでもどうなるかわからないんだぞ」
「だったら、なおさら」
「気持ちだけで身体が動くんならいい、実力も上がるなら大いに結構だ。
だが、そうじゃない。
ここは物語やおとぎ話の中じゃないんだ、現実だ。本当に死ぬんだぞ」
『死』という言葉に、シャイナの心臓はドクリと跳ねた。
今までで一番、その言葉が存在感を帯びて、まるで自分のすぐ後ろに立っているかのようだった。
果てしなく暗く寒い、振り返れば飲み込まれてしまう。
もしかしたら、それを一番身近に感じているのは、ビーかもしれないとも思った。
しかし、その銀の瞳は自分とは違う恐怖におびえているように見える。
冷たい態度、心無い言葉。
シャイナにはわかっていた。それは決してビーの本心ではない。
巻きこんだ責任を一人で負って、この状況から自分たちを遠ざけようと、逃がそうとしているのだ。
「俺一人ならなんとかなる。対抗策もなくはない」
シャイナたちを動かすために口から出た方便だった。
自分の命が危険にさらされる、ということを考えていないわけではない。
しかし、それ以上に、二人が傷つくほうが何よりも怖かった。
エチルスはまだ出会って間もない。村に来て数日だ。
祖父に頼まれたという責任だけで、命を懸ける必要はない。
彼は優しい。誰かにお願いされたら、断れない性格だ。
生意気で、愛想のない子どもに、ここまでよくつき合ってくれた方だ。
森で助けられた時、もう十分にその役割を果たしている。
エチルスを引き合いに出せばシャイナは断れない、とビーは踏んでいた。
状況を理解している彼なら、エチルスを放っておくことはできないだろう。
シャイナには帰りを待つ両親がいる。彼は村の人気者だ。
彼がいないと、学校は火が消えたように賑やかさを失うし、村のみんなだって悲しむ。
おせっかいで、バカみたいに前向きで、楽天的で、いつも笑ってくれる。
無愛想で、人付き合いが苦手な自分を、いつも助けてくれた。
あの夜――覚えている一番古い記憶。
音もなく、色のない世界を生きていた。
すべての意味を見失っていた自分に、手を差し伸べ光があることを教えてくれたのは彼だ。
あの時出会わなければ、今の自分はここにいない。
二人を守らなければ――ビーは自分の心に強く誓った。




