グロエブの悪魔
ぞわりと寒気がビーの背中に伝うと同時に、踏みしめていた地面がふわりと柔らかくなる。
スローモーションのような光景の中で、ビーは自分の足が地面から離れるのが見えた。
次の瞬間身体は宙に舞い、見えていた景色は角度を変えどんどん遠ざかる。
気がついた時には、自分は地面を転がり、這いつくばっていた。
何が起こったのか――ビーは痛みをこらえ、大地に伏したまま考えた。
少し向こうに、シャイナとエチルスが、足を止めてこちらをふり返っているのが目に入った。
誰かに、有無をいわせぬ力で後ろに引っ張られたのだ。
身体が浮く直前、耳元で確かに聞こえた声。
――あの女だ――
怪しげな微笑を浮かべて、自分とシャイナたちとの間に女が立っていた。
「逃げ出しちゃだめよ、坊や」
「……なんでだ、俺たちにもう用はないだろう」
ビーは、ゆっくりと立ちあがった。
不意をつかれたが、攻撃という攻撃は受けていない。
ところどころ痛みはあるが、地面を転がっただけで軽傷だ。
しかし、女の力はますます底がわからなくなった。
女は頬に手を当てて考えるような仕草をすると、にこりと笑う。
「そうねぇ、ムーデナール様の相手をしてもらわなくちゃ。
彼は眠りから覚めて血に飢えているもの。知らないかしら? 『グロエブの悪魔』って」
「グロエブの悪魔……?」
「まぁ、坊やが生まれるだいぶ前の話だものね」
「もしかして、グロエブってあの!? ――ここは、この場所は」
反応したのはエチルスだった。
「あら、お兄さんはご存知?」
「エチルス、知ってるの?」
シャイナが女から目を離さず尋ねる。
エチルスはひどく喉が渇いているような気がした。
「は、はい……、思い出しました。エンフリードさんにうかがった時は、聞き覚えがあるような気がしてたんですけど、わからなくて……。
僕も詳しくは知らないんです。確か、国をも恐怖に陥れた殺人鬼がいたとか」
「殺人っ!?」
驚くシャイナに、エチルスは黙ってうなずいた。
「行方不明者は数知れず、戻ってきたものは一人もいない。
人の命をただ己が欲求を満たすためだけに狩った、残忍さ故についた名が『グロエブの悪魔』」
「お兄さん、なかなか博識ね」
「しかし、かなり昔の話です。
『グロエブの悪魔』はすでに捕まっていますし、もう生きてもいないはずです」
含みをはらんだ笑みを浮かべて、女は黒いブーツを履いた足を交差させる。
「そうね、人間の世界ではそういうことになってるわね」
「人間の世界、では……? どういう意味だ」
ビーの質問に、女は人差し指を唇に添えて横顔で答えた。
「ふふ、ここからは人間が知らない話。
その殺人鬼が捕まったのは事実、罪を償うために処刑も決まった。そして、それは実行された」
ネコだったときと同じ、三日月型の黒目が三人を見回す。
「でも、本当に処刑されたのは、ムーデナールだったのかしら?」
「そ、そんなこと」
エチルスが反論しかけるが、食い気味に女が話を続ける。
「あるわけないはずよね。でも答えは否。
ムーデナールは自ら人であることを捨てたのよ」
「……人であることを捨てる?」
シャイナのひとり言のような反芻に、女は丁寧に答えた。
「そうよ、お坊ちゃん。
人であることを捨てる、それはつまり人以外のものになること。
ムーデナールはね、自ら夢魔になることを望んだのよ」
「し、信じられません! 簡単にできることじゃないです」
「あら、でも博識なお兄さんなら知ってるわよね。
命あるものはすべて夢魔になり得る、ということを。坊やだって、知ってるんじゃないの?」
女の黄金色の瞳と銀の瞳が空中で絡み合った。
「彼の場合、よほどの執念があったみたいね。
かくして、世の中を震撼させた殺人は夢魔となり、再び人間を狩るようになりましたとさ。
物語風にいうなら、こういう感じかしら」
「あれが、人から夢魔になった殺人犯……」
「もとは、人間だったってこと……?」
「そ、そんな……」
三人とも女の言葉を信じられずにいた。
容姿も声も肉体も、何一つ人間と同じではない。
なんとか人型を保っている、といったほうがふさわしいかもしれない。
驚きを隠せない三人の様子に、女は満足しているようだった。
「ふふ。ま、でも、彼はちょっと目立ちすぎたのよね。
だからその後、人間風情なんかに封印されちゃったんだけど」
――そうだ、ヤツは封印されていた――
混乱しそうになりながらも、ビーは平静を保とうと努めた。
ムーデナールを封印した人間はだれか。
もちろん自分ではない。しかし、確かに女は言ったのだ、自分の血が必要だと。
知らなかったとはいえ、手順通りの解呪は問題なく機能した。そう、機能したのだ。
封印したのは、自分と血のつながりのあるもの。
祖父か、その血縁かに絞られる。
しかし、血縁というだけで封印が解けたりするものなのだろうか。
確証はないが、血縁でもかなり近しい存在でなければ難しいのではないだろうか。
祖父、もしくは自分の近親者――
考え続けるビーの頭に、女の声が響く。
「逃げるなら私がこの場で殺すわ。
あなたたちには、ムーデナールの肩慣らしにつき合ってもらわなくちゃ」
ゴールデンアイがビーを捉えていた。
視線が合うと小さく笑い、シャイナたちの方に向き直る。
シャイナの額を一筋の汗が流れた。
エチルスは小刻みに身体を震わせている。
「足掻きなさい人間。まあ、勝てる見込みはないかもしれないけど」
細い女の背中をビーは睨んだ。
解にたどり着けない問いが、ぐるぐると頭のなかを駆けめぐっていた。
あの女はムーデナールと何か関係があるか。
封印した人間を恨んでいる? それとも証拠隠滅、何のために? 誰が封印した?
圧倒的な力を持っていながら、なぜ自ら手を下さない?
「ビー!! うしろっ」




