エンフリードの店(2)
「――!? う、動かない?」
指先に力を込めて引いても、紐の結び目がほどけることはない。
そこだけ接着剤か何かで固定されているかのように、びくともしなかった。
そばにいたシャイナが、うきうきした表情で身をのりだす。
「ほんとに? オレにも、オレにもやらせて」
シャイナもビーと同じように紐を手に取るが、ちょうちょう結びはくずれない。
「何これ、すげぇ!!」
「……こんなこと、できるのか」
ビーは、手品でも見せられているような気分になる
シャイナと二人で引っ張っても、書状だけを抜き取ろうとしても徒労に終わった。
「うわぁ、紐でもできるんですね」
シャイナに代わって、今度はエチルスがちょうちょう結びに触れる。
紐のしなやかな性質はそのままに、引っ張ることはできるのだが、結び目は頑なに解けない。
「先生は知ってたか」
「ええ、僕が見たのは別の形状でしたけど」
「ちょっとしたアレンジだな。ほれ、騒ぐなガキども。
そんな難しいもんじゃない。お前たちもがんばって魔法や魔術を勉強すればできるだろ」
「勉強すればできるようになるのか?」
ビーが真顔でエンフリードに尋ねる。
その真剣なまなざしに、エンフリードは一瞬言葉につまる。
「……ま、じいさんも知ってる技術だ。帰ったら聞いてみるといい。
こういう分野はじいさんのほうが得意だと思うぞ」
ビーは祖父の仕事している姿を思い浮かべたが、残念ながら、何かやらかしているか、ふざけている姿しか出てこない。
家にある祖父の仕事場には何度か足を踏み入れたことがあるが、基本は勝手に入ってはいけないことになっている。祖父はビーが学校に行っている間にこもることが多いようだった。
祖父に聞くのは癪にさわるが、帰ってからの約束もある。
これまで頑なに教えてくれなかったことも、このおつかいをうまくこなせれば変わるのかもしれない。
軽く咳払いをすると、エンフリードは説明を続けた。
「その結びは、特定の場所に行けば自然と外れるようになっている。
そこからは、中の説明を読めばなんとかなるだろう」
「特定の場所というのはどこですか?」
「グロエブ採石場の入り口近くだ。洞窟を入って少し奥に歩けば、紐のほうから勝手に外れてくれるさ。手順通りに解除できれば採石場に入れるようになるから、そこにあるクリスタルを拾うか砕くかして持ってってくれ。確かじいさんの指示書があったな……、おい、じいさんの孫」
エンフリードは杖を持ち上げて、三人の後ろのカウンターを指す。
「そこのカウンターの一番大きな引き出しの中に、じいさんの手紙と一緒に指示書が入ってる。
ちょっと取ってきてくれ」
『孫』と呼ばれたことがないわけではなかったが、ビーはその居丈高ないい方に少しむっとした。
しかしここでケンカ腰に迎え撃てば、二人が止めに入るのは必至だった。
エンフリードを睨んでみるが、再度あごで指示される。
不服そうな顔をして、ビーは黙ってカウンターに向かった。
整頓されたカウンター内の机を探ると、すぐに見覚えのある筆跡と封筒が見つかる。
エンフリードはビーから渡された封筒を開けると、一枚紙を抜き出した。
「こいつがじいさんからの依頼の品だ。
この大きさなら、こぶし大のクリスタルが二、三個あればいけるだろ」
一緒に持っていけ、といってビーに差し出す。
その指示書には、事細かに形状と質、要望などが商品の絵とともに記載されている。
確かに自分の知る祖父の筆跡なのだが、専門用語も多くあって、ビーにはすべてを読み解くことができなかった。
シャイナとエチルスもその用紙をのぞきこむ。
「うっわ、難しいことがいっぱい書いてある……」
「さすが職人さん同士の手紙ですね」
「あんなんで意外と仕事できんだな、じじい」
ビーは少し祖父を尊敬できそうな気がした。
「じいさん、普段はあれだがな。結構いい仕事するぜ」
その後、三人はエンフリードからグロエブ採石場への詳しい行き方を聞いた。
採石場へは、約半日ほどで着くらしい。近くに別の小さな村もあるそうだ。
わざわざ戻ってきてもらう必要はないとのことで、クリスタルを収拾し、そのままレフュジ村へ帰ることとなった。
今日はこのイールストに宿泊し、明日早朝出発する。
帰る間際になって、エンフリードが祖父から依頼されたものがもう一つあるといった。
「こいつも持って帰ってくれ」
エンフリードに案内された奥の台所には、大量のリンゴが山積みにされていた。
ビーは思わず眉間に皺を寄せる。
「……は?」
「じいさん、この時期のリンゴが好きでな。来るときには必ず用意しといてくれって言われてんだ。
今年は豊作だって話したら、絶対たくさん欲しいって手紙に書かれててな。
ま、今回は見舞い代わりもかねてだな」
「え、これ全部?」
シャイナがかごに盛られたような宝石のようにつやつやと光るリンゴを指さす。
明らかに三人で持ち運べる量ではなかった。
エチルスは開いた口がふさがらない。
「いつもならじいさんのカバンにめいっぱい詰め込むんだが、今回は三人もいるからな、たくさん持ってけるな」
はっはっはっ、とエンフリードがその巨体を揺らしながら豪快に笑った。
――ちゃんと一言いっとけ、くそじじい!――
ビーは、心の中で叫んだ。
確認しなかった自分が悪かったのか、いやいわなかった祖父が悪い。エチルスも少しは聞いていたようだが(たぶん、だいぶさらっと伝えられたらしい)、さすがにここまでの量は予測していなかったようだ。
エンフリードに(ご丁寧に準備してあった)リュックを借りて、しばし三人はリンゴを詰める作業に没頭することになった。
エンフリードの店から重い荷物を背負い、三人は何とか今日の寝床を確保する。
サルサン村の宿屋も悪くはなかったが、イールストの宿泊部屋は広く、また質のいい調度品が揃えられて、一番安い部屋でもビーとシャイナにとっては豪華に感じた。
リュックに詰めるだけ詰めたリンゴの豊潤な香りが部屋に満ちている。
エチルスは疲れたビーたちに代わって、食料品を買い足しに外に出たところだ。
ベッドに突っ伏したまま、ビーは心の中で祖父に恨み言を呟いていた。
同じように隣のベッドに寝ころんだまま、シャイナがビーに話しかける。
「ね、ビー。村の外に出れてよかったんじゃね」
「んー……」
ビーは今日までの出来事を反芻する。
魔獣の襲撃にあったのは想定外だったが、それ以外は順調にきていた。
初めて訪れた隣村、同じ世界とは思えぬほど見知らぬものであふれるイールスト。材質の違う高い建物、変わった服装、口にしたことのない香辛料や食べ物、どれをとってもレフュジ村にはなかったものばかりだ。そしてエンフリードの店、未知の技術、祖父の仕事。
今回祖父が腰痛にならなければ、おつかいを頼まれなければ、エチルスがいなかったら、おそらく出会えなかった世界だ。
ビーが頭の中で思考を続けていると、シャイナが先に切り出した。
「オレは無理やりでもついてきてよかったなー。
村じゃぜーったい見られないものばっかだし、食べ物もおいしいし、びっくりすることもたくさんあるけど、すっげぇわくわくしてる」
「……そうだな。思ってたより、外は違ってた」
あの感覚、自分の想像以上のものに出会った時の心臓のざわめき、手足が勝手に動き出そうとする衝動、心が騒いで全然落ち着いてくれない。
「だろ! やっぱ、じいちゃんに頼まれたときに素直に行ってたらよかったんだよ」
「それはまた別だ」
興奮気味に語るシャイナを、言下に否定する。
祖父母への心配が消えるわけではない。
何事も起こってなければいいと思う心は常に存在する。
しかし、その心配さえも吹き飛ばすくらい、外の世界は魅力的だ。
涸れることを知らない湧水のように、もっと知りたい、もっと見たいという思いがこみあげてくるのをビーは実感していた。それは、初めて魔法・魔術に触れた時に似ていた。
「なぁ、なぁ、なぁ、なぁ」
いつのまにかシャイナがビーのベッド脇に座りこんでいた。
うつぶせになっているビーのすぐそばだ。
「なんだよ」
ビーはシャイナの高いテンションに軽くため息をつきながら、身体を起こした。
「また、おつかい頼まれようぜ。んで、そん時は絶対オレも行く」
「まだ終わってないだろうが」
「もうほとんど終わったも同然じゃん。明日、えーとクリスタル取りにいって、そこからそのまま帰るだけだろ。あれから魔獣ともあわないし」
「あの重たい荷物かかえてだぞ」
「でももうそれだけじゃん。クリスタル採れる場所の近くにモンスターはいるかもしれないけど、滅多に出ないらしいし、魔獣もいないって店のおっちゃんがいってたじゃん」
確かに、最近までエンフリードが行き来していたのだ。情報は確かだろう。
ちょっと楽観的ではあるが、もう最終工程に入ったと考えてもいいかもしれないなとビーは思った。
シャイナがいてくれたお陰で、乗り越えられた局面もある。
それに楽しそうにしている彼を見ると、こちらも気分が明るくなった。
そこに救われている面もあると、何とはなしに自覚している。
そして違う世界があるのなら知りたい。
春の雪解けのように、少しずつとけてやがて大河になるように、その思いはどんどん強く大きくなっていく。この気持ちに気づいてしまったら、もう知らなかったころには戻れないのだ。
ビーはシャイナの頭を軽く小突きながらいった。
「ま、次があったらな」
「黙っていくってのは無しな」
「わかってるよ。お前も親父さんをがんばって説得しろよ」
「げ、今それ忘れてたのに……」
二人がイールストの話で盛り上がっていると、エチルスが帰ってくる。
「ただいま戻りました~。あれ、なんだか賑やかですね」
「エチルス、おかえりー。今話してたんだけどさあ……」
二人が楽しそうに話しているのを眺めながら、ビーは考えていた。
無事商品を手に入れられれば、祖父の頼みはほぼ完了したといってもいい。
魔獣との交戦もないように思われた。
無事に旅の終わりが見え始め、三人とも心が軽くなったような気がしていた。
ビーたちがエンフリードの店を出て、しばらくのこと。
エンフリードはまた奥の居住スペースへと引っ込んでいた。
数週間前、崖から落ちたケガは思ったより重傷だ。普段通いなれた場所でヘマをするなど、彼にとっては痛みよりも驚きのほうが大きかったかもしれない。
ひとまず、取り急ぎの仕事は今日チェロベックの孫が代理で来たことで片付いた。
孫が人見知りで外に興味を示さない、とチェロベックがぼやいていたのをエンフリードは聞いていたが、幼馴染のシャイナはともかく、エチルスという教師とともにちゃんとここを訪れた。
三人の仲は悪いようには感じない。
次に会う時のいい話題ができた、とエンフリードは硬い髭をなでた。
居間に寝そべっていると、元気のよい声とともに裏口から誰かが入ってくる。
「ただいまー、わーるい、遅くなっちゃったね」
整理整頓が得意なエンフリードの妻だった。
店も、部屋の中も彼女の手が入っている。おかげさまで、きれいな店だと評判がいい。ただ片付けが過ぎて、たまに要るものまで捨ててしまうこともあるのが難点だ。
「おう、おかえり。チェロベックじいさんの孫が来てたぞ」
「え、そうなのかい? おじいさんと一緒に?」
妻は両手に荷物をたくさん抱えていた。出かけたついでに、夕食の買い物も済ませたようだ。
「いや、じいさん腰痛で動けないんだとよ。代理で孫がきた。
聞いてた通り、無愛想な坊ちゃんだったぜ」
「あら、動けないのはあんたと同じだね。へー、会ってみたかったね」
「誰が腰痛だ」
「似たようなもんじゃないか。さっき、焼き菓子もらったんだ。荷物片づけて、ちょっとお茶入れてくるよ」
「ああ」
いうが早いか、妻はさっと廊下を歩いていった。
しかし、すぐに声だけ戻ってくる。
「ねー、おじいさんに渡す書状ってこっちじゃなかったのかい?」
「ああ?」
大儀そうに、エンフリードはほふく前進で廊下のほうへ顔を出す。
そこに妻の姿はなく、台所のほうから大声でしゃべる声だけが聞こえてくる。
「ほら、まだ工房に青い紐の書状が残ってるよー」
荷物を整理しているのか、他にやるべきことがあるのか、妻はその書状を持ってきてくれる気はないようだった。
エンフリードは仕方なく、杖を手に工房へと向かう。
居間と台所の間に仕事部屋はあった。
出入りが多いので、ドアはあけっぱなしだ。
魔術道具の作成や、修理、加工などを手掛けている。
専門道具が雑然と並ぶこの部屋に立ち入れるのは、店主である自分だけだった。
廊下から薄暗い室内をのぞくと、灯りがついたままになっている机の端に青い紐で巻かれた書状が転がっている。
「んん?」
机に近づき、どすんと椅子に腰かけた。
巨体に文句をいうように、ぎちぎちと木がきしむ音がする。
青紐の書状を手に取り、頬杖をついてしばし眺めた。
「……まずい。間違った方を渡しちまったか」
確認はしたつもりだったが、取り間違えたか、勘違いしてたか――どちらにせよ、チェロベックの孫にはこちらを渡さなければならない。
まだそう遠くへは行っていないだろう――とエンフリードは考えた。
今日はこの街に宿泊するとも聞いていたし、大きな荷物を抱えているので目立ったはずだ。大通りに店をかまえる知り合い数人に尋ねれば、見つかる可能性は高い。
帰ってきたところ悪いが、エンフリードは妻に頼むことにした。
「うむ」
そう思い、立ちあがろうとした時だった。
急激な眠気が彼を襲う。
椅子から立ちあがるのも億劫だ。
重たくなっていく瞼で視界が狭くなる。考えたいのに、考えられない。
「な、んだ……」
動力源を奪われたかのように、身体はどんどん機能を停止していく。
机に頭を横たえると、もう眠気には抗えなかった。
エンフリードが眠りに落ちるその際、ぎりぎり見える光景の端のほうに、何か黒い影がよぎったような気がした。




