無縁---1
「うぅ、うんん……」
薄ら寒い感覚を覚えて、織姫は意識を覚醒させた。
まず感じるのは、さらさらという、涼しげにして心地よい川のせせらぎ。
そして、濃密な水気を含んだ、山特有の冷たい朝の空気。その独特な香り。
目を開けば、洞窟の入り口で仕切られた、ぼんやりと白み始めている外の景色が飛び込んでくる。朝日に照らされ、緑がキラキラと輝いている。
体を起こすと、体にかかっていた落ち葉がガサガサと音を立てた。
ちょっとだけそれを愉快に感じながらも、隣で未だ寝ている様子の瑞希を起こさないように、ゆっくりと立ち上がり、服に張り付いた落ち葉をポンポンと払い落とす。
頭を一つ振って、洞窟の外へと歩いて行った。
そこでは予想通り、一真が昨晩の焚き火を守っていた。
「おはよー」
声を掛けてその隣に腰を掛ける。
「おはようございます」
昨晩と変わらぬぶっきらぼうな様子で、火をつついている。
ふいと顔を上げ、何かに気づき、ひょいと織姫の頭に手を伸ばす。
織姫の髪についていた落ち葉を取り、そのまま火にくべた。
「これ、使いますか」
代わりにとばかりに差し出したのは、先程まで火であぶっていた竹の筒。中にはお湯が入っている。
「身だしなみは整えたいでしょう」
昨日私物だと言っていたタオルと共に、織姫に持たせた。
「それじゃ、私はしばらく散歩してきます」
そう言って腰をあげようとする。
「ちょっと!」
気づけば織姫は、その手をぎゅっと掴んでいた。
怪訝そうに首を傾げる一真。
「えーっと」
うまく言葉を紡げないながらも、真心を伝えようと、必死で言葉を探す。
「みずきちゃんが来てからでいいよ? そのほうがかずまも二度手間にならないし」
口から出たのは、そんな無難な言葉。
「……そうスか」
一真は素直に腰を降ろす。
「んで?」
続けてそんなことを言う。
予想だにしなかった言葉に、数瞬の間、言葉に詰まってしまう。
「それじゃあ言うけどね」
唇を濡らし、唾を飲む。
うるさい心臓を無理矢理に落ち着ける。
「わたしのことは、織姫って呼んでくれないかなぁ、とか、思っちゃうんだけど……」
ちらりと、一真の様子を窺う。
一真は、鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をして、押し黙っていた。
「ほら、一回みずきちゃんのことを“みずきさん”って呼んでたじゃん? そんな感じで、もっと気安くしてくれてもいいのになぁって思ってさ。わたしのことはずっと西谷さんだから、ちょっと疎外感感じちゃうよ」
眉をハの字に寄せ、肩をすくめる織姫。
一真は困惑した様子で、斜め上を見上げている。
「どうしても、名前じゃ呼べない?」
織姫の様子を見て、一真はため息をついた。
「どうにも経験がなくてですね、うまい対処の仕方が分からないんスよ」
こめかみの辺りを掻く一真。
「今まで全幅の信頼を置かれたこともなければ、好意しか感じられない相手に接したこともなかった」
ちらりと、織姫と一真の視線が重なる。
「そっか」
織姫は、焚き火へと視線をやった。
ゆらゆらと揺れ、しかしその場から動くことはない焔。
パチパチという薪の弾ける音が、耳に心地よく響いている。
ふと、悪戯心がわき上がってきた。
「じゃあ一回織姫ちゃんって呼んでみてよ。一回呼んだらだいぶハードル下がるでしょ」
案の定、一真は困惑に身を固くする。
「お、おり…… 初っぱなから難易度鬼すぎるだろ……」
口調すら崩れてしまっている。
眉根にシワを寄せ、若干顔色を赤らめながら、鼻の頭を掻く一真。
「ほらほら~、呼んでみてよ~♪」
今までの一真のイメージとのギャップに、ついつい楽しくなってきてしまう。
「呼んでくれないとみずきちゃん脱がすよ!?」
「とんだとばっちりだなおい」
「はーやーくぅ」
「うっ……」
視線を逸らし、手許の木の枝をもてあそびながら、ぼそりと言う。
「あー……。お、織姫ちゃん………………これでいいだろう!?」
「いいね~! それ定着させていこうよ!!」
「無理だな」
「なんでよ~!!」
「いや理屈では説明しづれぇところがあるから」
「いつもあんなに理屈っぽいのに?」
「いつも言われるけど自覚ねんだよ、それ」
「自覚なかったんだ……」
「それも毎回言われる」
そんな馬鹿な話をしているうちに。
「おはよー。一晩のうちにずいぶん仲良くなったもんだねぇ」
頭を掻きながら瑞希が起きてきた。
「おはよー!」
「……おはようございます」
警戒心丸出しで、おそるおそる言葉を発する一真。
対する瑞希の反応は……。
「……敬語やめないと脱ぐよ?」
「聞いてたなあんた!!」
「あはははははは!!」
こうして朝は賑やかに過ぎていくのだった。
その後は適当に朝食を済ませ、身支度をする。
一真の用意していた湯を用いて、女子二人が身体を拭う。一真は確認しておきたいことがあると言って、ふらりと森の中へ消えて行ってしまった。
「ふあぁぁぁ……。日本人の大変なところは、やっぱりお風呂に入りたくなっちゃう所だよね~」
「一日お風呂入らないだけで、こんなに気持ち悪いとは思ってなかったねー」
「キャンプによく行くって言っても、近くの温泉とかで身体洗ってきてたからなぁ」
「へぇー、そうなんだ? しかしこの服もなんとかしたいねー。一回着た服をまた着るのはやっぱり気持ち悪いし。織姫ちゃん何かいい方法知らなーい?」
「さすがに着替えをなんとかする方法は知らない……。ごめんね」
「いやいやー、ダメ元で訊いただけだから。気にしないでー。さすがにそんなの知ってたら、もはや野生児だよ」
服を着たあと、大剣を担ぎあげながら、瑞希が言う。
「さーて、今日はどう動こうか」
「かずまが帰ってきたら相談だね~」
身支度を終えた織姫と共に、洞窟の入り口で一真を待つ。
しばらくしたら、森の中から一真がひょこっと現れた。
「おーい!!」
「おまたせー。悪かったねー」
「遅れました」
走ってくる一真。若干左肩が上がっていないように見える。
「さて、これからの行動方針なんですけれどもー……」
二人のもとに辿り着くなり、一真は即座に話を始める。
「なんかヤバそうな雰囲気があるのでー、さっさとこの場所からズラかりたいと思います。根拠はこの洞窟の不自然さ。それと昨日の……織姫ちゃん……の、言葉も理由のひとつです」
口調が何とも言えない感じに微妙なのは、ノリノリで脱ごうとしてくる瑞希に脅される形で、フランクな会話を強要されているがゆえである。苦虫を五万匹ほどまとめて噛み潰したかのような凄まじい表情からも、一真の心境が窺える。
「不自然さって、どんなところが不自然だったの?」
「川のラインの外側は、遠心力から水の流れが速く、川岸が削れて洞窟のようになる場合もまぁ、ないことはない。しかしこの洞窟はそんな様子ではない。そのほかにもいろいろ考えられはするが、この洞窟は何らかの動物が、巣穴として使っていた可能性が高いと考えられる」
「それでわたしにどんな風に感じるかを訊いたんだね~」
「そしてその答えは“今は大丈夫”」
「それはさっさと逃げた方がよさそうだねー」
「全員の準備も完了しているみたいですしー、さっさと出発しまーす。行くぞ」
「ねぇ、なんかやさぐれてない?」
「知らん。きっと原因が近くにあって気が立ってんだろ」
「それ絶対あたしたちのことじゃーん」
「知らんったら知らん。早く行こう」
言うが早いか、一真は川下へ向けて足を踏み出して行ってしまった。
「置いてかないでよ~!!」
「そうだぞー、薄情者」
「ちゃんと距離は測ってる。……よっぽど離れるようなら立ち止まるつもりだったが、どうもそんな配慮は要らないようだな。しゃべることができる程度には元気らしい」
「そんな意地悪言わないでよぉ~……」
「あ、一真くん織姫ちゃんを泣かしたー。やーいやーい」
「小学生か」
川に沿って、山路を下ってゆく。
見上げれば気持ちのいい陽光。
傍には川のせせらぎ。
鳥がさえずり、蝶が舞う。
こんな状況でなければ、皆が羨ましがるような、豊かな自然。
一晩を過ごしたことで、瑞希たちは状況に慣れ始め、そんな周囲の様子を楽しむ余裕が生まれていた。
自然、その事が口にのぼる。
「気持ちいいねー。川の傍で涼しいしー、太陽の光が適度に当たるからあったかい」
「ほんとだよね! こういう沢くだりみたいなのは大好きだから、この三人でこうやって歩くことができて、本当に嬉しい!!」
「一真くんはどう思ってるの? 昨日一日黙りこくってたし、やっぱうるさいなぁとか?」
「一人だけ無風流みたいな扱いをしないでください。きちんと自然のありがたみなんかは理解してます」
「ほぉ! 一真くんでもそんな風に考えるんだ!!」
「私のことをなんだと思ってんスか……」
初日に気を抜けなかったため、今現在は必要以上に気が緩む。
それがマズかった。
最初に気付いたのは、やはり織姫。
「……何か聞こえない?」
「え?」
ズル、ズル、ズル
パキパキ
「………何かを引きずる音。重さで小枝が折れている。ってことは……」
顔を青ざめさせた一真がさっと振り返ると。
日の光を反射し、七色に光る体表。
並の子供ほどはある胴回り。
長く伸びた牙に、ちろちろと揺らめく先の割れた舌。
白い鱗に覆われた蟒蛇が、じっと三人を睨み付けていた。
『シャァァァァァァァァ』
目が合うなり、威嚇を始める蟒蛇。
瑞希が大剣を盾のように構えて、二人の前に躍り出る。
織姫を挟むようにして一真が後ろで身構え、他に生き物の姿がないかを確認する。
「一真くーん。どうしよっか」
「そもそも蛇を生で見ることすら初めてなんで、期待はしちゃあいけません」
緊張のためか、口調がいつも以上に固い。
織姫は、蛇の瞳をじっと見つめている。
「ちょっと討伐とかは考えたくないんだけど――」
「だめだよ」
瑞希の言葉をうけ、織姫が食い気味に告げる。
「この子、お腹が空いて視野が狭まってるだけだから、殺しちゃダメ」
「……お姫様もそうおっしゃってるし、悪いけど逃げるか捕獲かの方向性でよろしくー」
「無茶言ってくれるなぁ、おい」
額に汗を浮かべて、唇の端を歪める一真。
「こちとらたった今、蛇とのにらめっこから本分に帰ってきた所だ。頭ん中は真っ白だし、作戦もクソも、反応速度から何から全てが未知数なんで、戦略なんざ立てようがねぇよ」
あえて伝法な口調を作りつつ、頭を回す一真。
ちらりと川に視線をやる。
周囲にあるものを用いた逃げ方が、次々とシミュレーションされていく。
蟒蛇はそんな三人を待ってはいなかった。身体を波のような形に縮め、力をためる。
次の瞬間。
『ジャッッッッ』
蛇の姿が掻き消えた。
ガツンッ
そして瑞希に襲いかかる、強烈な圧力。
「うがッ!!」
衝撃に備えて構えていたにもかかわらず、瑞希は他二人を巻き込んで後ろへ吹き飛ばされる。
三人まとめて、羊歯の上を転がる。
瑞希は一番最初にダメージから回復し、すぐに立ち上がってまた剣を構える。
そんな時。
「“川へ飛び込め”」
声が、響く。
「“川へ飛び込みさえすれば、逃げられる”」
三人で顔を見合わす。
それっきり声は聞こえない。
瑞希と一真のアイコンタクト。
一真が織姫の隣へと跳び、その腕を取る。
「こちらへ」
言うが早いか、織姫を引きずる勢いで川へ向けて走り出した。
「ちょ、みずきちゃんは!?」
「信じましょう。彼女の天賦の才能を」
「だけど!!」
「じゃあこう言いましょう。昨日の約束を、信じてください」
“三人で力を合わせて、一緒に生きていく”
確かに昨日、そう誓い合った。
「……勝算は?」
「さぁ? ただ……」
一瞬だけ後ろを振り返る。
「メッセージは残しておいたので、うまくこなせるかは別として、川への移動の仕方は思い付いたでしょう」
川へ向けて、跳ぶ。
バシャン!!
川のド真ん中に飛び込んで、そのまま川に身を浸けながら、二人は川下へと歩き始めた。
その頃瑞希は、適切な距離を保つようにして、蟒蛇と向かい合っていた。
あわよくば川へ向けて後ずさりながら、蟒蛇の様子を窺う。
ちょこまかと動き回る餌に、蟒蛇の方も苛ついているようだった。
赤い目を炯々と光らせ、身を縮める蟒蛇。
「来たッ!!」
待ち望んだ攻撃に、大剣を構える腕に力が籠もる。
『ジャッッッッ』
掻き消えたように見えるほど素早い飛び込みに、タイミングを合わせて乗る。
蛇の勢いに抗わず、むしろ利用しているがゆえに、先程よりも速く身体が後ろへ吹き飛ぶ。
一真の言っていたメッセージ。
“攻撃に合わせて飛ぶ。”
しっかりとそれを受け取って、瑞希は宙を舞っていた。
狙い通り、木々の間を抜けて川面へ飛ぶ。
空中で大剣を背中に当て、着水に備える。
バッシャァァァン!!
先程の一真たちよりも直水面積が大きいため、派手な水音になる。
しばらく川面を滑ると、ゆっくりとその身が水に沈んでゆく。
蟒蛇はというと、川の傍までは寄ってきたが、川に飛び込むようなことはせず、悔しそうに身を翻していった。
そこまでを確認して、瑞希は緊張の糸を緩める。
水の流れるにその身を任せ、身体から力を抜いていった。