異郷---2
森を踏み分け、道なき道を行く。
先頭を行くのは、大剣を掲げた瑞希だ。
獣道の類すら見つからず、大剣で背の高い下生えを押しのけてゆくしかないためである。
その次に続くのは織姫。
散歩するような調子で、テクテクと瑞希の後ろについて行く。
最後が一真で、宣言通り、周りにあるもの一つ一つに注意を向け、できる限り多くの情報を得ようと試みていた。
鬱蒼と茂っているように感じられた木々は、意外にも密度が高くなく、所々から木漏れ日が差し込むために、思いの外明るい。
虫なども飛んではいるが、瑞希も織姫も気にしない方らしく、全く問題になっていなかった。
周囲の自然物を見ながら、一真は思わず落胆の表情をさらす。
見たこともないような動植物しか、視界に入らないからだ。
それの意味するところは、今現在歩いているこの場所が、少なくとも日頃自分に馴染みのある場所ではないということ。同時に、食べられるものを集めるという目的も、達成が困難であることだった。
……そのように思われたのだが。
「あれぇ?」
唐突に、織姫が声を上げる。
その視線を辿ると、そこには一叢の野草。
「これ野いちごだね。小さいけど、そこそこ美味しいよ?」
つい先程まで見たこともない植物だらけだったのに、一叢だけ、ぽつねんと小さな赤い実をつけた野草――土手などで見た覚えのある野いちごが生えている。
「……今までこういうものあったー?」
「ううん~。知らない草木ばっかりだった。日本じゃなさそうだなぁなんて思ってたくらいで、いきなり知ってる植物が出てきてビックリしちゃった」
そう思って周囲を見回すと、少し進んだ辺りなど、見覚えのある葉や木が群生しているのが見える。
唐突に違う世界に飛び出したのかと思うほど、周囲の植物が姿を入れ替えていた。
「……とりあえずその野いちご? を摘んでいこっか」
「わーい! これ甘いんだよ~」
ニコニコ顔でそちらに走ってゆく織姫。丁寧に、野いちごを摘み取ってゆく。その後ろで、年長組二人は顔を見合わせていた。
「……どう思う?」
「……さぁ?」
「……やっぱり日本じゃないのかなー、ここ。その可能性は考えないようにしてたのに」
「山に行き慣れてそうな彼女の様子を見るに、先程までと今とでは、若干、森の様子が異なるようですね」
「その違いはなんなんだろう?」
「さて……」
一真が思考の海に沈み込む、その寸前。
「見て見て~! 結構たくさん採れた!!」
織姫が、スカートを受け皿のようにして、野いちごを集めてきた。それを見て歓声を上げる瑞希。
「わ! たくさん採れたねー!! それどうしよっか」
「このまま持ってくよ?」
「動きづらくない?」
「守ってくれるでしょ?」
無邪気な顔で、小首を傾げながらそんなことを言う。
瑞希は、織姫の可愛らしさに心の中だけで身悶えしながら、表面上はきりっとして首を縦に振った。
「それじゃ、こちらは私が持ちます」
両手がふさがる織姫の代わりに、一真が彼女の銃を拾い上げる。そのまま肩に担ぐ。
「ありがと~! ちょうどそれ、どうしようか迷ってたんだ」
笑顔でお礼を言う織姫に対し、一真は若干の自嘲を滲ませながら口を開く。
「礼を言われるようなことなんか、一つもしていません。今のところ私はなんの役にも立っていないので……。少しは仕事しないと」
卑屈さを感じさせるその反応に、二人は顔を見合わせてため息をつく。
「そんなことないのに」
「そうだよ。一真が居なかったら、今頃あたしたち遭難してるよねー」
「ね~! ……だからね、かずま。一緒にいてくれてありがとう」
一真はその言葉に、眼鏡の奥の眉がピクリと動く。ピンピンと跳ねている髪の毛に手を差し込み、ガリガリと頭を掻いた。
「何を言っているのやら。時間も限られているんですから、早く行きましょう」
そう言うと、丈も小さくなった下生えを踏み分け、見慣れた植物が姿を現した方へ向けて、一真は足を踏み出した。
二人は顔を見合わせると、クスリと微笑み合い、一真の背中へ向けて、歩き出そうとした。
その瞬間。
「一真避けてぇっ!?」
「かずまぁぁぁ!!」
二人の悲鳴が重なる。
後ろを振り向こうとした一真は、目前に迫る奇妙な生物に目を見開いた。
四頭身の、小学生ほどの小さな体躯。
緑色の体表。
顔の半分を占めそうな大きな瞳に、眉間に生えた親指ほどの大きさの角。
その手には、体長とほぼ変わらない大きさの棍棒が握られ、まさに今、一真に向けて振り下ろされている。
現実世界には居るはずのない、小鬼。
日常と非日常が、完全にすり替わった瞬間だった。
両手で棍棒を持ち、振り下ろす小鬼。
遠心力を使って一真の頭をかち割ろうとしているらしい。
コマ送りのように、景色が流れてゆく。
勢いの乗った棍棒は、一真の頭をめがけ、刻一刻と近づいてくる。
歪んだ小鬼の顔、ブレる棍棒。
視界の中で、その棍棒が段々と大きくなってゆく。
向こうでは、先程知り合った二人の少女らが悲鳴を上げていた。
しかしその声も、ゆっくりと動く世界では妙に間延びして、どこか遠くの出来事のように感じられて。
今動いているのは、自分の思考と目の前の棍棒のみ。体は、少しも動かない。
これからどうなるのか。
このままの流れで物事が進んだら?
自分は死ぬことになるだろう。
この棍棒に頭を割られて!
……それでいいのか
ふと、様々な光景が視界を流れる。
荒れた教室
怒り狂う級友
教室中から寄せられる、無数の冷たい視線
それらを覆い隠すほどに、巨大な二組の視線
嫉妬の籠もった顔
自分を疎む顔
咎もない自分を責め立てる、荒んだ家庭
酒瓶の転がった、布団も敷きっぱなしの畳部屋
何にもない、家
寝転んで眺めた空
柔らかな下生え
闇を感じ取りあえて笑う、聡い少女
不安を押し隠し、明るく振る舞う彼女
…………いやだ!!
燃え盛る理不尽への怒り。
いつでも渦中へ引き込まれる。なぜ私なんだ。他の誰でもいいだろう。オレを争いに巻き込むんじゃねぇ。
しかし。
あんなキツい思い、縁がなく生きられるのであれば、それに越したことはない。
こんな思いを他人にさせるくらいなら、オレがこの状況に甘んじているほうがいいだろう。
相反する二つの感情が、いつも一真の中で渦を巻いていた。
しかし。
彼女らが一真を必要としているのであれば。
この現状で、自分が居る意味が、少しでもあるのであれば。
主観としても客観としても、いつものように流れに任せるわけにはいかない。
このまま死することを、是とするわけにはいかない!
周囲の景色が、一気に色彩を取り戻す。同時に、棍棒が加速を始めた。体が動くようになる。
しかし、海の中でもがくかのように、重い。
縦に振り下ろされるなら、横から逸らせば当たらない。
……しかし体が重くて間に合わない。
逸らせない。
刻々と近づいてくる棍棒。顔を横に逸らしても、鎖骨を砕かれる。
思考の末、一真は銃を横に放りながら後ろへ倒れ込んだ。
時間が足りないならば、作るしかない。
後ろへ倒れ込めば棍棒に当たる瞬間を遅らせることができる。
しかし、やはり体は、思うようには動かなかった。
空中で咄嗟に動けるほど運動神経が良いわけではない。
棍棒の軌道上に腕を割り込ませる程度のことしかできない。
空中で棍棒が腕にぶつかる。手を横に動かす。
……遅い。
棍棒に押し込まれ、背中が地面にぶつかる。勢いも殺し損ね、かなりのダメージが腕――ひいては骨に襲いかかる。
しかし、殺されなかった。
「ガハッッ!!」
忘れていた呼吸が戻る。
それだけで今はこちらの勝利。
次の一瞬も、理不尽との死合いの最中だ。気を抜けば、一気に押し込まれる。
すぐさま棍棒に注意を戻す。
先程は体が思うように動かなかったため、今度は体を動かすことに意識の配分を多くする。
筋肉一本一本を意識して、日頃なら無意識下で整えられる、繊細なパワーバランスを自覚する。
鬼は棍棒を振りかぶり、もう一度振り下ろそうとしている。
腕を割り込ませ、棍棒に触る前から手を横に振る。
……早過ぎた!!
触れる前に腕は棍棒を通り過ぎてしまう。慌てて腕を戻す。
なんとか間に合い、棍棒を逸らすことに成功した。
鬼はまたも棍棒を振りかぶる。
先程の二回で、だいたいタイミングは掴んだ。次は外さない。
腕の筋肉一本一本を意識し直し、じっとタイミングを待つ。
振り下ろされる棍棒。
不思議な感覚が体を走った。熱のごときものが腕に籠もり、体が軽くなる。
思った通りのタイミングで、思った通りに体が動く。
刹那の喜悦。
棍棒は先程から同じ動きを繰り返しているはずなのに、今は先程よりも、棍棒の動きを遅く感じる。
棍棒の軌道を逸らした後に、もう一つ挙動を挟めるほど、余裕がある。
鬼の胸を、掌でトンと突く。
小鬼は、上半身すべてを使って棍棒を振り回していたからか、はたまた体格に恵まれないためか、面白いように簡単に吹き飛んでいった。
途端に体が軽くなる。
いつの間にか、小鬼に馬乗りになられていたらしい。
立ち上がった。
同じタイミングで、小鬼も立ち上がる。
その顔は、思い通りにならない苛立ちと、不意を突かれた腹立たしさで、紫色に染まっていて。
棍棒を取り落としたらしい。鬼はやけくそとばかりに突っ込んできた。
いつの間にか腕の熱は消えている。
先程の感覚を思い出し、全身の筋肉を意識して重力に抗う。
その瞬間。
体を動かす感覚がガラリと豹変する。
目眩が起こり、意識がぐるぐると回転する。ともすれば倒れてしまいそうだ。
先程の腕の件があるので、慣れればもっと動けるに違いない。がしかし、今この状況でこの体感は致命的だ。
鬼が顔面に向けて飛びかかってくる。
先程のように、横へいなそうとするものの、胸から下の部分が動きの邪魔をして、体が思うように動いてくれない。タイミングを外してしまう。
近づいてくる醜悪な顔。
完全に行き過ぎた腕。
もう、間に合わない。
焦ったその瞬間。
ザンッッッッッ!!
空中の小鬼が、横から飛んできた光の塊に吹き飛ばされた。
そのまま大樹の幹に叩き付けられ、地面に転がる。
攻撃が飛んできた方を見ると、大剣を振り抜き、まるで夜叉のようにそのまなじりをつり上げている瑞希の姿。
吼える。
「一真から、離れろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
彼女の感情に呼応するかのように、体から発せられるナニカ。
一真には、それが熱気に感じられた。
彼女の大剣はそれに反応し、陽炎が立つほど勢いよく燃え盛っている。不思議なことは、それが天には昇らず、地へと流れ落ちてゆくことか。
後ろで、何かが動いた。
慌ててそちらへ視線をやる。
吹き飛ばされた小鬼が、肩を押さえながら立ち上がっていた。
「アウ、アウ、アガァァァァ……」
フラフラと揺れながら瑞希を睨み付ける。
一方瑞希も、小鬼を許す気はないらしかった。
お互い殺す気で向かい合っている。
一真は咄嗟に、瑞希の方へ駆けた。
体が重く、非常にもどかしい。
小鬼より若干早く瑞希の元へたどり着いた一真。
しかし瑞希には、小鬼しか見えていない。
瞳の焦点が合っていない。
僅かな逡巡。
しかし一真は、万感の思いを込めて、瑞希に飛びついた。
「ありがとう、瑞希さん。もういいよ」
その声と感触に、瑞希の動きが止まる。
その瞳は、しっかりと一真を捉えていて。
「二人ともぉ!」
しかし状況は心情を待ってくれない。
「ゴブリンが飛びかかってきてるっ!!」
織姫の悲鳴。瑞希はハッとして剣を握る手に力を込める。
しかし。
「知ってます」
それを遮る、一真の一声。
見れば一真は、既に瑞希の大剣の柄を逆手に握っていた。
そしてそのまま振り向く。
必然、剣は瑞希の手を離れ、一真によってとある軌道上へと導かれる。
その軌道とは、小鬼の体が通るライン。
一真のタイミングは完璧で、小鬼は吸い込まれるように刃先へと突っ込んでゆき、自分の勢いでその首を飛ばすことになった。
地面に叩き付けられると、そのまま転がってゆく小鬼の骸。
……と。
パァァァァァ
死体はそのまま塵となり、風に吹かれて散ってしまった。
後に残ったのは、小鬼の角と同じ形をした紫色の結晶。
あまりにも唐突な幕切れに半信半疑な気持ちと、戦闘後に特有な徒労感を抱え込み、呆然とそれを眺めるしかない瑞希。
やるべきことはやった、といった様子の一真。
そこへ、織姫が飛び込んでいく。
「二人ともぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
織姫の勢いに押され、三人揃って地面に転がった。
「よかった、よかったよぉぉ……」
しゃくり上げながらも、必死に二人を抱き締める織姫。
まるで二人の存在を確かめているかのように。
二人の方も、疲労と安堵により、動けないでいる。
三人で抱き合ったまま、しばらくそうしていた。
やがて三人とも落ち着いてくる。
織姫を中心にして、三人で川の字になって転がる。
見上げれば、きらきらと輝く木漏れ日。
耳をすませば、さらさらという葉擦れの音。
先程まで命のかかったやり取りが行われていたなどと、信じられないほど平和で、綺麗な世界。
しかし命を奪ったことは紛れもない現実で、どことも知らない場所で寝ているのが真実で。
「ねぇ」
織姫が言う。
「日本じゃなかったね、ここ」
「……そうだねー」
応える瑞希。
「どうしよっかー」
「どうもしないよ」
こともなげにそう言うと、両脇にある二人の腕に、織姫は自分の腕を絡める。
「三人で力を合わせて、一緒に生きていくだけ。……イヤ?」
「まさか」
「……かずまは?」
「是非……、一緒にいさせてくれますか」
「固いなぁ、もう」
クスクスと笑う織姫。それを聞いていた瑞希も、堪えきれずに吹き出した。
「三人で、ずーっと一緒だよ」
「うん」
「……ええ」
三人はそのまま、しばらくそこに寝転がって過ごした。