02話『パラノイア』-5
今日のバイトは一昨日と違う意味で散々だった。
皿洗いの仕事は早くなったけど、酔った客に耳を引っ張られたし尻尾も引っ張られた。耳は取れただけだけど、尻尾はちぎれるかと思った。
でも一応なんとか終了し、オーナーに挨拶に行く。
最初は嫌な人間に思えたオーナーはやけに親切だった。先輩が椅子に座ったからだろうか。
「明日給料を取りにおいで」
そう言ってくれる。
僕は椅子に座らされなかったことを少し安堵した。といっても偽物なんだったら関係ないけど。
従業員の出勤簿に記帳して昨日借りていたノートを返す。
「おい」
声をかけられて振り向くと、昨日休んでいた厨房の人がにらみつけている。
体格のせいで威圧感に押しつぶされそうだ。
「あ、お世話に……」
「気に入らないんだよな、お前」
僕の帽子を掴みいきなりカウンターの前に連れて行かれる。帽子が脱げないように持つので精一杯だった。
「何やってるんだ?」
オーナーが立ち上がる。先輩の姿はもちろんない。
「こいつ女連れで働くなんて仕事舐めてるし、なにをちょろちょろ動き回ってるのか、従業員出勤名簿も持ち出してましたよ。処刑するべきじゃないですか?」
「いや、短期間だし、昨日も今日もよくやってくれたとは思うが。ノートも昨日の騒動があったから、安全なところに持って行ってくれただけじゃないか」
オーナーはそう言ってくれるが、怒りが収まらない様子で遠巻きに見ている女性従業員たちに声をかけた。
その中には不安な顔を向けるバルバラさんもいる。
「こいつが椅子に座るのに賛成な奴は?」
誰も答えない。
「じゃあ、こいつの代わりに椅子に座る奴は?」
誰も答えない。
薄暗い閉店後の店内はいつか見た映画の生贄のシーンのように思えた。
「さて、もう一度問おう」
コイツが、イスに、座るのに、サンセイな奴、は?
ゆっくりと告げられる言葉に、オーナーは下を向き、他の女性たちは小さく手を上げた。
ああ、そうか。
辞めた人達はこれがあったから辞めたのか。
こういった処刑ごっこに耐えられなかったんだ。
「座れよ」
示される先にはあの椅子。
何もないのは分かってる。分かってるけれど、この空気に呑まれそうになる。
偽物のはずの椅子が昏く手招きしているようだ。
「何が気に入らなかったのか分かりませんが、お断りします」
その瞬間強く胸を押され、よろめいた。
「女連れ、無能、気弱、何? どこか気に入る場所があるとでも?」
そう言ったと同時にさらに押された僕は椅子に倒れこむように座ってしまう。
「三時間」
にやりと笑ったその相手は、時間を告げた。
「呪いはいつも三時間以内にかかるらしい。お前も三時間以内に通り魔かひき逃げか。楽しみだなぁ?」
その歓喜交じりの声に僕はすっかり怯えてしまったのか尻尾に全く力が入っていない。
ただ荷物を抱えて逃げ出すしかなかった。
「どうだった?」
「こわ、かった、です」
半泣きになっている僕を店から少し離れたところにいる先輩が迎えてくれた。
思わずしがみついて泣きそうになったが、そこは我慢できた。
「三時間の命だって言われました。僕もう嫌です」
情けないのは承知だ。でも先輩と恋人でもないし、仕事なんて最初からできないって言ってた。なのに働かされた挙句最後にこれだ。
「厨房の男ね?」
「そうです……。きっとあの人が僕のこと轢き殺しに来るんです。椅子が偽物なのにあんなに自信持ってるんですからきっとあの人が犯人なんです」
耳もすっかり寝てしまって、絶望しかなかった。
「体格が良いわ」
「だから力業で……」
「そうね」
何がそうね、なんだ。
全く他人事のようだ。
もう、生き残ったら絶対に先輩には一切付き合わない。
そう決心した時に後ろから物音がした。
僕と先輩がいるのは路地だ。車は入れない。
「通り魔パターン……!」
悲鳴のような音が僕の口から漏れる。
ただ、そうあっても何故か僕は先輩と物音の間に立っていた。手も自然と横に伸びる。
「オオカミくん?」
「いいんです。もう僕のことはほっといてください。ただ、気まぐれで行動したことで一人のオオカミを最期に騎士にしたと思ってくれればいいです」
「何言ってるのオオカミくん……」
先輩は寂しそうな声を出す。
もしかして、最後に僕を憐れんでくれているのかも知れない。
「騎士は女王陛下が授与する栄典よ。なんの功績もない貴方が叙任されるはずないじゃない」
「あー、はいはい。すみませんでした! 大きいこと言いました!!」
とにかく逃げてください!
という前に先輩は前に進み出た。
「バルバラ・ファーナー。どうしてこんなことをするのかしら?」
バルバラ・ファーナー?
優しい従業員の女の子の名前じゃないか。
僕が顔を上げると物音の方から黒の布に身を包んだ女性が現れた。
「リースちゃん、なにその賢そうな言葉遣い。おバカな恋愛女じゃなかったの?」
「ええ、あいにく様。この子は、だぁいすきなうーくん、は・あ・と。じゃなくて私の飼い犬だから。その私の犬に何か用かしら?」
犬!
もう狼じゃない!
「まあ、正直最後まで貴女かあの厨房の男か決定打がなかったの。だって同じ条件ですもの」
先輩は紙の束を持ち宙に投げる。