02話『パラノイア』-3
「じゃあリースちゃんは接客。そっちのは洗い物を。もう割るんじゃないぞ」
さすがオーナーだけあって開店前の準備時間だけで僕の無能さが分かったらしく接客側には配置してはくれなかった。
とりあえず割ってしまった皿とグラス。まあ、一気に済ませようとアンバランスなまま持って配置しようとした僕が悪いんだけど、その弁償代はバイト代から引かれるそうだ。
このままじゃただ働きと変わらない。
先輩はこのオーナーの決定に文句も言わず自分の割り当てに向かう。
さっきまでうーくんうーくんと謎のラブラブぶりを発揮していた割にはドライだ。これが経営者というものか。
ただ一つ分かったのが着実に僕は処刑台に向かっているということだ。オーナーは僕が失敗するたびにあの椅子に目をやっている。
「洗い場は安心するな……」
動きにくいベストとカッターシャツ。バイトのために新調したスラックスから出る尻尾は孤独な洗い場を喜んでいる気持ちが表れてゆらゆら揺れているのが見なくても分かる。
帽子の上からつけ耳。元の耳は帽子に抑えつけられて音が聞こえにくい。
そして、洗い場はカウンター沿いだ。シンクの前に立つと目の前にはあの椅子が見えた。
「ちょうどいい配置ね」
先輩がカウンターから顔を覗かせる。
魔女と希望した先輩はレースで飾った黒い三角帽子にフード付きの黒いローブ。スカートも長めだったはず。他の長期従業員の女性たちの露出多めの格好と比べるとかなり地味に見える。
「どう? ミステリアス美女みたいな感じじゃない?」
「はあ」
まあ、異色ではある。
「うーくんはつけ耳より本物の方がイケてるわね」
「え?」
僕が反応を返す直前に先輩は持ち場に戻ってしまった。
誰も聞いてないようなところでも演技を崩さない彼女はすごいなと純粋に感心する。
「あれ?」
でも、今の、むしろ聞かれてた方がまずいだろ。本物って、耳が本物だとかまずい。
まあ誰も本気にはしないだろうけど。
それが大学に入ってから痛い程突き付けられた現実だ。
最初に女性が皿を持ってきた。ソースで汚れた皿をナフキンで拭い、洗いやすいようにして僕に渡してくれる。
「リースちゃんが見ているわよ。頑張ってね、うーくん」
「ありがとうございます。えっと……」
「バルバラ・ファーナーよ。名字呼びなんて寂しいことはやめてね」
肩までの茶色の髪をリボンで飾っているバルバラさんは、他の人に呼ばれて駆けて行ってしまう。
「皿、早く!」
「グラスの口紅が落ちてないぞ!」
「はいいーー、すみませんーーーー!」
洗い場楽かも、なんて一瞬でも甘く見ていた数時間前の自分に噛みついてやりたい。
僕は手袋に入る泡や水を気にしてもいられず怒鳴り声を聞きながら必死で洗っていく。
一つ洗う前に二つ汚れものが積まれ、もう泣きそうになっていた。
「だいたい接客に十人くらいいるのに、新人の僕だけで洗い場とか無理に決まってる」
「その前の洗い場の担当は事故に遭ったそうよ」
目の前に汚れた皿を置きながら先輩は静かに言った。
「ひき逃げですって」
「椅子の呪いですか」
「さあ、分からないわ」
そのまま去ろうとして先輩は立ち止まる。
「慌てすぎは禁物よ。速度も大事だけど、綺麗な食器をお客様に提供したいという気持ちを持って仕事に向かいなさい。目的は別とはいえ、仕事にも真摯に向かうこと。そして、少しは力を抜きなさい」
微かな声で言うと先輩は振り返って微笑む。
「うーくん、頑張って! クリスマスに可愛いプレゼントお願いしたいのたぁっくさんあるの!」
大げさに手を振って先輩は戻っていった。
彼女の持ち場からは先輩や他の人の談笑が聞こえる。
気が付いたら店内もずいぶん静かになっていた。
「洗い場は全て終わらせてからじゃないと上がれないからな。とろとろしてる分はただ働きと思え」
オーナーが僕の後ろで半分怒鳴った声を出す。
「ろくに仕事もできないくせに女とバイトとはいい根性してるよな」
両手に抱えた皿を僕の横に置いたかなり体格のいい男性従業員も僕を嘲笑した。彼は厨房の担当だ。
「はい、すみません」
もうため息しか出ない。
「何やってるのよ。作戦会議ができないじゃない」
閉店作業が終わったのか暗い店内に先輩が立っている。
「横にずれて」
「え?」
「早く」
先輩に言われた通り横にずれると、先輩が素手をシンクに入れた。
「いつまでたっても終わらなかったら何の意味もないわね」
何時間もここで洗っている僕より手早く、そして綺麗に先輩は洗い物をしていく。僕も手を動かし続けた。
「誰も座らなかったわ。さすがに噂は浸透しているわね」
「そうですね」
小声なのにカチャンと皿を置く音よりも聞こえやすい声で先輩は続ける。
「あの椅子を手に入れたのは二か月前。その間に座らされたバイトは六人。酔って暴れた客で座らされたのが三人。その全てが通り魔ないしひき逃げにあっているそうよ。生死は不明だわ。ただ、そんなに同じところの関係者で死者が出たのなら記事になっているでしょうから、私の考えでは死者が出ていないか、少なくとも関連性を感じられないくらいの人数だと考えているわ」
「残っている人たちは仕事ができる人たちなんですね」
「そうね。すこしでも自分に自信のない人は座らされる前に給料はいらないと言って辞めていったそうよ。売り上げに対しての人件費はそうとう抑えられたようね」
「リースちゃん、そこで洗っていても給料は出さないよー」
僕に言うのとは段違いに甘い声のオーナーが先輩に声をかける。
「だってぇ、うーくんと一緒に帰りたいんですぅー」
先輩も表情は変えずに声だけツートーンくらい高くして返事した。
「あと二日しかないけれど、座る人は期待できない。確実に次に座らされるのは貴方ね」
そうですね。
声には出さないけど深く頷くしかなかった。
「明日は少し遅刻してちょうだい」
「分かりました……」
仕事ができないというだけでなく、時間にだらしないというダメ属性までつけろっていうんだな。
「やけに素直ね」
「もう、何でも言う通りにしますよ」
「そう。それだったら話は早いわ。いつもそうやって素直に従ってくれたらいいのに」
「今回だけです」
これっきりだ。
これが終わったら今度こそ先輩を見たら速攻で逃げよう。
僕の生命の安全とレポートの成績と卒業のために、絶対だ。