アカシャグマ
寂れた工場の手前に自動販売機が設置されており、一人の青年がそこに立っていた。彼は缶コーヒーを片手に、見るともなしに道向こうの景色を眺めているようだ。
いかにも大学生と言った見てくれで、冴えないが、同時にどこにでもいそうな感じである。両耳を塞ぐ安物らしきイヤホンからは、かすかにギターロックのサウンドが漏れていた。
すると、緩やかにカーブした坂道を、一人の腰の曲がった老人が下って来る。気難しそうな表情をしており、周囲からは「頑固親父」と評されていそうだ。
午後の散歩の最中なのか、彼はかつかつと杖を突いて歩き、やがて青年の前に差しかかった。
すると立ち止まり、度のキツそうな眼鏡をかけ直しながら、彼に声をかけた。
「あんた、見かけん顔じゃなぁ」
青年は話しかけられていることに気付き、慌てて左耳のイヤホンを外す。
「え? なんですか?」
「見かけん顔だって、言ったんじゃ。余所から来たんじゃろ?」
「はあ、そうです。F市から来ました」
「ほお、そんな所から。親戚でも住んどるんかいのう」
「あ、いえ、そうじゃなくて……バイトで来てるんです。仲多さんって言う人に、山仕事の手伝いで雇われまして」
「仲多ぁ? ああ、知っとるよ。昔っから有名な家じゃからな。
しかし、山仕事の手伝いとは妙じゃのぅ」
老人は坂道の先を睨み付けながら、半ば独白のように言った。この道の先に、仲多とやらの家があるのかも知れない。
顔中にいっそう皺を刻んだ彼は、それからまた青年の方を向き、
「あんた、こんな所で油売ってていいんか?」
「あ、別にサボってる訳じゃないですよ? なんか、まだ仕事がないようで、こっちから指示するまで好きに過ごしてもらって構わない、って言われてるんです。……だから、この村に来てもう三日目なんですけど、暇で暇で」
「ふうん」
老人は今一度、じろりと彼の顔を見つめる。眼鏡の奥のピンボールみたいに小さな目が、ますます胡散臭いと言いたげだった。
それから、今度は独白するように口をもごもごと動かす。
「仲多の山って言ったら、小坊主山じゃろうな。はて、竹刈りでも手伝わすつもりなんか……」
呟きながら、彼はまた道の先、今度は先ほどよりも遠くの方を眺めた。青年も、吊られた様子でそちらに視線を向ける。老人の目線の向かう先には、山があった。竹や杉の木なんかが生えているらしく、トゲトゲとしたシルエットで空を切り取っている。
「今の時期だと、クマが出るんじゃがのう」
老人が零した一言に、彼はぎょっとしたようにそちらを見返す。
「え⁉︎ 熊出るんですか⁉︎」
「まあ、最近はあまりないがな。……ただ、別の場所では増えとるじゃろう? そう言うにゅーすをよう聞くわい。熊が人里まで下りて来て人を襲うたとか、子供が通学してる所へ猪が突っ込んで来たとか。……環境の変化やら山の開拓やらで、食べ物がなくなったせいかのう」
「はあ」
「この村も片田舎とは言え、ここ何年かでだいぶ自然が減ってしまったんじゃ。……まあ、人間が生きる上で必要なことじゃから、仕方がないとも言えるがのう。……そう言う意味で言えば、獣が人を襲って喰うのも、似たような物かの」
「はあ」と、青年はもう一度生返事をした。老人の話がかなり脱線、と言うか全く別の話題へと変わってしまったことに、戸惑っているのだろう。
老人は口を噤み、しばし遠くの山──小坊主山と言ったか──を眺めていた。
かと思うと、サンダルを突っかけた足元に目を落とし、
「なんにせよ、気を付けた方がいい。クマは恐いんじゃ……」
「……そ、そうですね。用心します」
青年の言葉に、頑固そうな老人は一つ頷く。
すると、世間話にはもう満足したのか、何も言わずにまた歩き始めてしまった。
枯れ枝を思わせるその後ろ姿を見送りながら、彼は外していたイヤホンを耳に戻した。
※
それから数日経った、ある晩のこと。青年は、年季の入った軽トラックの助手席に乗り込み、シートベルトをしっかりと着けた。
サイドブレーキを挟んで隣りの席には、頭のてっぺんが薄くなった四、五十代の男が座り、キーを回している。
彼こそが、青年の雇い主──現在の仲多家の家長なのだろう。
鈍いエンジン音を響かせ、軽トラックは庭に設えられた車庫を出発した。仲多邸を出てからは、延々と続く一本道をひた進む。
青年は少しもしないうちに、落ち着かなさそうに口を開いた。
「あ、あの、山仕事って、こんな夜にやる物なんですか?」
もっともな疑問だろう。
これに対し、ステアリングを握った仲多は、妙にくぐもった聞き取り辛い声で答えた。それは、いかにも胡散臭い人間が、堂々と戯言をまかり通そうとする時の口調に似ていた。
「……ああ。昼間はできないことだから」
「はあ。それって、いったいどんな」
「今にわかるから。心配しなくても、そんなに難しいことではないよ。ちょっと……そう、力仕事ではあるかな」
「力仕事……」
青年の呟き声を、仲多は拾わなかった。そして、もう一切の説明には答えないとばかりに、血色の悪い唇を、固く閉ざしてしまう。これ以上、仕事については教えてもらえないだろう。
青年もそう察したのか、そこから先は何も言わなかった。黙り込んで、フロントガラスの向こうに続く夜道を、ぼんやりと眺めている。
やがて、軽トラックは速度を落とし、ある民家の傍で停車した。直接山へ向かうものと思っていたらしく、青年は少し驚いた風であった。
「あの、ここって」
「まずはこの家から荷物を運ぶんだ。さあ、さっさと降りて。あと、さっき渡した軍手も嵌めておいてね」
彼は雇い主の言葉に従い、車外へと降り立ってから、軍手を両手に嵌めた。
それから仲多は車に鍵もかけずに、青年を率いて民家を訪ねる。インターホンを押すと、少しも彼らを待たせずに、一人の主婦が戸を開けた。どこか疲れ切った顔をしており、後ろで纏めた髪が少し乱れている。
「こんばんは。例の物を受け取りに参りました」
「……お待ちしておりました。ご用意はできておりますので、上ってください」
覇気の感じられない声で言い、彼女は二人を招き入れた。
青年は仲多に倣い、「お邪魔します」と言って靴を脱ぐ。
彼らが案内されたのは、一階の奥の和室だった。室内は薄暗く、畳の敷き詰められた真ん中に、何か大きな袋か横たわっている。真っ白い横長の袋で、まるで人間大の大きさになった蚕の幼虫のようだった。
「アレですね。ご協力ありがとうございます。では、これを。ほんの気持ちばかりですが」
仲多が懐から取り出した茶封筒を、女は拝むようにしながら受け取った。謝礼を渡しているのだろうか。その様子を、青年は不思議そうに見つめている。
すると、すぐさま雇い主から指示が飛んだ。
「じゃあ、一緒にそれをトラックまで運んでもらうから。そっちの方に回って端を持ってくれる?」
仲多に言われたとおり、青年は袋の右側に回りこみ、下の方に手をかけた。思いの外重たかったのか、一瞬驚いたような顔をする。
が、雇い主はそんな反応には気付かない様子で、
「ちゃんと持ったね。じゃ、行くよ。せーのっ」
袋を持ち上げた二人は、仲多の方を前にして、廊下を歩いて行く。先回りしていた主婦に戸を開けてもらいながら外へ出ると、彼らは丁寧な手付きで、それをトラックの荷台に乗せた。
仲多は二、三言主婦と会話を交わすと、さっさと愛車に乗り込む。彼はせっかちな動作でエンジンをかけ、袋を積んだトラックを発車させた。
青年は無言のまま何事か思案している様子だったが、ふとサイドミラーの中を覗き込んだ。そこには見送りに出て来たらしい主婦の姿が、映り込んでいる。薄暗がりの中に立った彼女は、瞬き一つせずに、青白い死人のような顔を向けていた。
そのことが恐ろしくなったのか、青年は慌ててミラーから視線を逸らす。
しばらく走った後、軽トラックは農道を上り始めた。元より外灯は疎らであったが、それが農道ともなると完全になくなる。月の明かりによって辛うじて暗闇を免れているような道を、ハイビームで照らしながら進んで行った。
やがて山頂付近まで来たところで、仲多は愛車を停めた。
「ここからは歩いて行くから。またアレを運んでもらうよ」
シートベルトを外しながら、仲多は言った。青年は「はい」とも答えられぬまま、車外へ出る。そして、荷台の側へ立ったところで、あることに気付いたらしい。
先に荷台の上に上がっていた仲多が、肩から黒い筒状の鞄をかけているのだ。
「あの……」
彼は何事か尋ねようとしたが、雇い主はわざとそれを黙殺するみたいに、テキパキと荷台の後ろのアオリを開く。
そして引きずるようにしながら、例の白い袋の片方を、青年のいる側へ向けた。
「ほら、これ下ろすからそっち持って」
「あ、はい」
結局質問をできぬまま、彼は袋を抱える。すると、その瞬間、青年は「うっ」と短く声を上げた。見ると、袋の表面が窪んでおり、その引っ込んだ部分に彼の右手の親指が触れてしまったようである。
青年は青ざめた顔で荷台の上を見上げ、
「……あ、あの、これって何なんですか?」
「は? 何って?」
「いや、この僕たちが運んで来た袋って、何が入ってるのかと……」
言いながら、彼は相手の様子を窺うような、気弱な視線を送った。
対して、荷台の上の雇い主は手を止め、しばし無言で彼を見下ろしている。どこまでも黒く濁った、深淵のような瞳で。
その一種得体の知れない雰囲気に気圧されてしまったのか、若者は凍り付いていた。どうにか誤魔化そうと口を開けたらしいが、結局声が出て来ない。
そうしているうちに、やがて仲多は視線を外し、
「君はそんなこと気にしなくていいんだよ。俺の言うとおりにするのが、君の仕事なんだから」
まさしく有無を言わせぬ声だった。
青年は消え入りそうな声で「はい」と言い、掴む場所を変えて荷物を持ち直す。納得がいかない様子であったが、それと同時に安堵しているらしかった。もっと何か恐ろしいことを言われるのではないかと、本能的な部分で怯えていたのだろう。
袋の半分ほどを外に出してから仲多は荷台から飛び降り、自分も反対側を掴んだ。それから、先ほど同様雇い主を先頭にして、暗い山道を進んで行く。
そうして十分ほど歩いたところで、彼らは峠らしき場所へと差しかかった。
「よし、ここにしよう。ゆっくり下に下ろすよ」
相手の動作に合わせ、青年はこれまた慎重に袋を下ろす。民家から運ばれて来た大荷物は、農道のど真ん中に横たえられる形となった。
こんなことをして何の意味があるのだろうか。青年は、不思議そうに袋を見下ろしている。
すると、その様子を観察していたらしい仲多は、出し抜けにこんなことを言い出した。
「開けてみなよ」
「え?」
「さっき、これが何なのか聞いただろ? だから、特別に開けさせてあげるって言ってんの」
「はあ、でも……」
「開けないの?」
「えっと……」
二つの黒い深淵は、暗に拒否できないことを物語っていた。
青年は「そ、それじゃあ」と、流されるままに袋のファスナーに手をかける。仲多の立っている方にあったスライダーを摘み、自分がいた方へと引き下ろした。袋のファスナーが開き、中にある物の一部が露わとなる。
瞬間、彼は悲鳴を上げかけた。
「かけた」と言うのは、すぐに軍手をした手で口を塞がれたからだ。
「声出すんじゃねえよ。気付かれるだろ。たくっ、これだから『ゆとり』は……」
忌々しげな口調で言ってから、仲多は手を離した。青年は少しむせてから、涙目になって、再び袋の中を覗き込む。
そこにあったのは、人の両足だった。靴も何も履いていない足が、爪の生えている方を上にしてしまわれているのだ。
「こ、こ、これ……人」
「どうした? 最後まで開けてみろよ」
冷酷な声を聞き、青年は振り返る。男は表情のない顔で、彼を見下ろしていた。仲多は、すつかり得体の知れない存在となってしまった。まるで、人の形をした入れ物の中に目一杯の暗闇を詰め込んでできているかのようだ……。
青年は、ほとんどべそをかきそうになりながら、スライダーを一番下まで下げる。
両脚に続いて両膝、太腿、股座、下腹、胸板、首、顔──あっと言う間に、一人の人間の全身が現れた。
袋の中には、裸の男が眠っていたのだ。
男の年齢は三十代くらいで、黒々とした髪をきちっと撫で付けていた。また、その肌は異様なまでに青白く、半開きとなっている──先ほど青年の指が沈んだのはここだろう──唇も、紫に変色している。
そして、固く閉ざされた両の瞼は、おそらく二度と開かない。そう思われるほど、男は安らかな顔をしていた。
「……こ、この人っ……死んでるんですか?」
「当たり前だろ。じゃなきゃ、こんな風にすっぽんぽんで眠ってられるわけないじゃん。……それは、さっき寄った家の亭主だよ。けど、つい二日前にポックリ死んじまった。──だから、俺が買い取ったんだ」
「買い、取った……?」
「どうして?」「何故?」と続ける代わりに、彼は相手の顔を見上げた。
しかし答えはなく、人の形をしたそれは、いつの間にか峠道の先に目を投じている。
「……そろそろか。──じゃあ、それはそこに置いといて、隠れようか」
「……隠れる?どうして」
「いいから、言われたとおりにしろよ。殺すぞ」
幼稚な脅し文句ではあったが、いい大人が真顔で口にするとなると恐ろしい。事実、青年を従わせるのには、これ以上ないほど効果的だった。
彼は血の気の引いた顔で、仲多について行く。二人は道から外れ、茶畑のある斜面へと降り立った。土の上に腰下ろした仲多は、肩にかけていた筒状の鞄を開け、中からある物を取り出す。すぐ隣でそれを見ていた青年は、また声を上げそうになってどうにか堪えたようだった。
彼の鞄の中身は、なんと猟銃だった。仲多は青年の反応などお構いなしに、慣れた手付きで弾丸を装填する。
「黙って隠れてろよ。余計ことなんてしなくていいからな」
横柄な言い方で釘を刺しながら、男は手を動かした。
やがて準備を終えたのか、彼は斜面に沿って寝そべるような体勢になりつつ、猟銃を構える。仄暗い銃口の向かう先には、先ほど放置した死体が転がっていた。
青年も身を伏せつつ、仲多が見ている場所に目を向ける。いったいこれから何が行われると言うのか。
そうやって息を殺して待っていると、やがて夜空に浮かんだ月を、分厚い雲が隠した。そして、光が遮られいっそう暗くなった道の先に、その何かは現れた。
──それは、一見して猿のような形をしていた。しかしながら、体は毛に覆われていないらしく、猿よりも断然大きかった。平均的な成人男性ほどの大きさだろうか。四つ脚をついて、犬のように路面の匂いを嗅ぎながら、少しずつ死体の方へ近付いて来ている。耳は頭の上でピンと立っており、後頭部から背中にかけてのみ、馬のたてがみのような毛が生えているらしかった。
謎の生き物の出現に、青年は喫驚した様子で目を見開いていた。額に汗粒を浮かべながら、自らの口許を軍手を嵌めた手で覆い隠す。そうでもしなければ、ちょっとの拍子に悲鳴を上げかねないのだろう。
彼らの視線の先で、不気味な生物ははたと立ち止まった。そして、コンクリートにひっ付けていた顔を勢いよく持ち上げる。何かに気付いた様子だった。まさか、潜んでいる二人の人間の存在を、感知したのだろうか……。
そのタイミングで、月を覆っていた雲が流れ始め、徐々に青白い光が注ぐようになる。
必然的に、月光はその奇妙な動物の姿を浮かび上がらせた。
──そいつは、骨ばった体に灰色の皮膚を貼りつかせており、裂けた口の隙間から、犬みたいにダラリと長い舌を垂らしていた。二つの小さな眼は黄色く光り、そのガラス玉の中に、地面に横たわる袋が映り込む。
瞬間、妙に甲高い不快な声で吠えたかと思うと、その生き物は地面を蹴り付けた。
今度こそ、青年は叫びそうになったらしいが、咄嗟に自らの手を噛んでどうにかこれを堪える。
その間にも、獣は袋に飛びかかっており、その中にある物に喰らい付いていた。骨を砕き肉を咀嚼する音だけが、しんと静まり返った夜道に響く。
ムシャムシャグシャグシャムシャムシャグシャグシャ──生き物は夢中になって、死肉を貪っていた。
すっかり怯えきってしまったらしい青年の隣で、仲多は猟銃を構える。引き金に指をかけた彼は、架空のスコープを覗き込むように、目を細めた。
そして、次の瞬間──
パンッと、大きな炸裂音が、月夜のしじまをぶち抜いた。
弾丸は生き物の側頭部に命中したらしく、たった一発で灰色の体がよろめく。
しかし狩人は攻撃の手を緩めず、すぐさま次弾を装填し、もう一発。今度はその細長い首を貫通したようだった。
怪生物は堪らず、わずかに呻きを漏らしたかと思うと、あえなく男の死体の傍に崩れ落ちる。
「……はぁ」
その様子を認めた仲多は、溜息を吐き出した。完全に仕留められたのか、生き物はそれ以来微動だにしない。
仲多は立ち上がり、猟銃を握ったまま、獲物が倒れている方へ歩いて行った。
少し遅れてから、青年も立ち上がる。呆然とした表情をしたまま、彼は糸で引っ張られるような足取りで歩き出した。澄み切った夜の空気の中、煙と血と腐肉の臭いを混ぜ合わせたような、激烈な臭気が漂う。
道の真ん中で立ち止まった彼は、仲多の背後から、恐る恐る路面を覗き込んだ。
「うっ⁉︎」
途端に呻き声を上げた彼は慌てて顔を背け、かと思うとその場にしゃがみ込んだ。そして、堪えきれないとばかりに嘔吐してしまう。
げえげえと苦しそうに夕飯を吐き出す音に、仲多は振り返った。彼は表情のない顔で、青年を見下ろす。
それから、わざとらしく舌打ちをして、
「吐いてんじゃねえよ、これくらいで。本当に『ゆとり』だな。……まあ、いいや。それより、今度はこの二つを運んでもらうから」
雇い主は言いながら、猟銃の先で二体の死骸をそれぞれ指し示した。無論、「死骸」と言うのは側頭部と首を撃ち抜かれた奇妙な生き物と、体を食い荒らされた裸の男である。この怪生物は綺麗に肉と臓器だけを食ったと見え、食い破られた腹は肋骨が剥き出しだった。辺りには臓物や肉の欠片が飛び散っており、月の光に晒されて、てらてらと輝いている。
青年は膝を着いたまま振り返り、仲多の姿を見上げた。怯えた瞳が、恐怖と驚愕で揺れていた。
「……は、運ぶ? 運ぶんですか?」
「ああ。ここに置いとくわけにはいかないだろ。……どうした? まさか『嫌だ』なんて言わないよな?」
どこまでも黒く暗い黒眼が、青年を見つめる。
彼はすぐには答えられないらしい。声も出せぬまま、泣き出しそうな顔で相手を見上げるばかりだった。
やがて、仲多は片頬に笑みを浮かべる。
「できるよな? だって、仕事なんだから」
雲が流れ、青白い月が再び顔を隠した。
※
翌日の午後。バス停に設けられた錆だらけのベンチの上に、青年は腰かけていた。無論バスを待っているのだろうが、次の便まではだいぶ余裕があるらしい。
この日も彼は安物のイヤホンで耳を塞ぎ、遠くに見える山──彼が「仕事」をした場所だ──を眺めている。
するとそこへ、一人の老人が通りがかった。彼は何日か前に工場の近くで青年に声をかけた人物である。
青年もその存在に気付き、イヤホンを片方外して「こんにちは」と、疲れ切った声で挨拶をした。
「ん? ──ああ、あんたこの間の」
老人は杖と足を止める。
それから、今回も立ち話をする運びとなった。
「これから帰るところかのう」
「そうです」
「ふむ。仲多の山仕事とやらも、終わったようじゃな……」
老人は呟き、例の小坊主山に目をやった。
それに吊られたのか、青年も再び同じ場所を眺める。そして、思い出したかのようにこう尋ねた。
「あの、仲多さんの家は『有名』だって仰ってましたよね? それって、どう言う意味で……」
「ああ? そんなもん決まっとるやろ。──クマ退治じゃ」
「……クマ退治?」
「うむ。昔っからあの家はそう言う生業をしとったからのう。今でもう十代目くらいじゃったか」
「はあ」
「村には必要な仕事じゃ。なにせ、クマは怖いからのう……」
最後にそう言うと、老人は散歩を再開した。杖を突きながら去って行く姿をしばし見送ってから、青年は俯く。
そして、体の前に回していたボディバッグのファスナーを開け、中身を漁り始めた。中に入っているのは、財布とカバーのかかった文庫本と携帯電話、それから一枚の茶封筒──
彼は携帯電話を取り出して、画面を点ける。どうやら時間を確認したかったようだ。
表示されている時刻は「14:05」。加えて、ここが「圏外」であることがわかる。
手にした物をボディバッグに戻し、ファスナーを閉めた彼は、息を吐き出しながらうな垂れた。
(……真面目に就活しよう)
次のバスは、まだしばらく先らしい。