幸福の記憶
私の記憶は香澄に管理されています。
「椿、おいで」
香澄は毎朝私に服を着せ、私の髪を梳かし、私に食事を与えてくれます。歯磨きは一緒にします。それを終えてから仕事にでます。
「いってらっしゃい」
私が言うと、ぎゅっと抱きしめてくれます。私はそれが嬉しいので、香澄が出かける時には必ず言うことにしています。
「いってくるよ、椿。いい子で待ってるんだよ」
「うん」
手を振って見送ると、香澄も手を振って出て行きます。閉じた玄関には用がないので、私はリビングに移動します。私が移動するたび、正確に言えば歩くたび、足下でジャラジャラと音がします。足枷がついているので、その鎖が揺れて擦れる音です。
私はその鎖が届く範囲でしか動けません。この家を出る事なんてありません。別に出ようとも思いません。そもそも香澄も許してくれません。私の世界はこの家だけです。
まぁつまり、私は香澄の愛玩動物なのです。
ご主人サマである彼の名前は桜井香澄。女みたいな名前ですが間違いなく男です。ついでに言うなら、なかなか格好いい……いえ、格好いいというか綺麗な人です。もしも髪が長かったら綺麗なおねえさんと思われるかもしれない、そんな中性的な綺麗さです。
私がこの世で一番好きな人です。
「ただいま、椿」
香澄の声で眼を覚ます。どうやら寝てしまったようです。
「うわ、お帰り、香澄」
飛び起きるのと同時に頭を小突かれました。結構痛いです。
「寝るなら寝室のベッドで。リビングの、しかも床でなんか寝ない」
「ごめんなさい」
叱られてしゅんとしていると、香澄が頭を撫でてくれました。私は香澄の手が好きなのでとても嬉しいです。と言うより、香澄が好きなので何をされても嬉しいのです。
「椿の為だよ。風邪ひいちゃうだろ」
「……うん」
香澄はそんな事を言うけど、多分私は風邪をひきません。だってこの部屋はいつも暖かい温度で保たれているから。エアコン大活躍。今は冬だけど、ずっとこの部屋にいる私は、多分寒さなんて感じないまま冬を終えるのでしょう。
「じゃあご飯にしようか」
「うん!」
ご飯を作るのも香澄です。私は本当にただの愛玩動物で、家事は何にもやらないのです。と言うより、やらせてもらえないのです。ただの愛玩動物ですから。
香澄はとても優しい。ついでに頭も良くてエリートでお金も持ってて……。きっと女の人に大モテなのでしょう。私は外での香澄を知らないので、たまにとても不安になります。けれど香澄は「椿が一番だよ」と言ってくれるのです。香澄に微笑まれるたび、頭を撫でられるたび、抱きしめられるたび、私の中の不安は溶けて消えてしまいます。きっと私は香澄の愛を一身に受けているのでしょう。はっきり言って、幸せです。
「あ、椿、テレビをつけて。明日の天気が気になる」
ご飯の仕度をしながら香澄が言います。私は嫌がることなくそれに従いテレビをつけると、ちょうどニュース番組が終わりかけるところでした。多分この次が天気のコーナーでしょう。
『では、最後にお知らせです』
アナウンサーが喋ります。あまり感情のこもらない声で、淡々と。
『三ヶ月前に起きました女優の檜山あやめさん一家殺害及び長女拉致事件ですが、その檜山あやめさんの長女、檜山椿さんの行方が依然として掴めておりません。それに関して、親類の方からメッセージを届いています。ご覧ください』
私は立ったままそのテレビを見つめます。画面が切り替わり、やたらと着飾った中年の女の人が出てきます。テロップに、『檜山あやめさんの姉、菊川かえでさん』と出ています。
『この度、行方の知れない私の姪、檜山椿に関して、何らかの情報を持っている方へ、それなりのお金を用意する事に決めました。皆さん、どんな些細な事でも構いませんから、椿の行方に関して何か知っていましたら、こちらまでご連絡ください。どうか、どうか皆さん、少しでも手がかりをお願い致します』
不意に、私の視界が暗くなりました。香澄が片手で私の目を覆っているのです。
暗くなった世界の中で、アナウンサーの声が鮮明に聞こえてきます。
『なお、警察からもこの事件に関する情報提供を呼びかけています。目撃情報や関連する情報をお持ちの方は、すぐに警察へご連絡ください。今のところ分かっております犯人の特徴は、長身の女性、年齢は不明、犯行時には黒いパーカーを着用しており……』
「椿」
アナウンサーの声が小さくなり、かわりに香澄の声が聞こえました。
「椿、今見た事を忘れられる?」
優しい優しい香澄の声。温かい手。
「今聞いた事を忘れられる?」
背後からそっと抱きしめ、片手で私の目を隠し、耳元で囁く。何処か笑含みの声で。
「忘れられるよね」
ああ、こんなに優しくて温かい人なのに、どうして私はこんなに寒く感じるのでしょう。
最愛の人に抱きしめられているのに、どうして私はこんなに怖くて怖くて悲しくて悔しくて気持ち悪くて怖くて涙が出るのでしょう。
「…………うん」
答えたら喉と胸が一回シクリと痛んで、けれどすぐに良くなりました。全部元通りです。
全部全部、見た事も聞いた事も、痛んだ喉と胸の事も、全部忘れて。
手が外されて明るくなった視界に、いつものお天気コーナーが飛び込んできました。音ももう元通りです。私はゆっくりと香澄を仰ぎ見ると、香澄は私を覗きこむようにしてにっこりと微笑んでいました。
「椿はいい子だね」
そう言って涙を拭いながら抱きしめてくれるから、私は嬉しくなって、お返しとばかりに香澄に抱きつくのです。二人で笑いあうとくすぐったい気持ちになって、とても幸せになります。それにしても、何で私は泣いていたんでしょうか。不思議です。
「さ、ご飯にしようか。今日は鳥の唐揚げだよ。椿好きだろう?」
「うん、大好き!」
別に鳥の唐揚げじゃなくても、香澄の料理はとても美味しいので大好きです。
私の生活は香澄の手の中にあります。私の心は香澄に向けられています。そして私の記憶は香澄が管理しています。
香澄が忘れろと言えば何でも忘れます。此処に来る前の事は全部忘れました。「椿が覚えていいのは僕との生活だけだよ」と言うから、それ以外の事は覚えないようにしました。
だから私の記憶は香澄で一杯です。香澄との楽しい生活だけです。むしろ、香澄だけと言ってもいいくらいです。それで私は満足しています。
私はとても幸せです。きっと、これからも。




