甘い恋なんて知らない(幸薄い女性と自ら望んで縛に付く男)2
まだまだ続きます。漸くヒーロー登場
それから―――。
私はお婆さんの紹介の元、天子様が住まうという宮城の奥宮に当たる後宮、その中でも特に位の高い四夫人の一人、芳貴妃様の生家に雇われた芳貴妃様付きの侍女として魔窟とも形容される後宮で日々勤めに励んでいる。
お婆さんに教えて貰った通り、この世界はカリアルファと呼ばれる世界で、私とお婆さんが住むこの国には、天子様が治める帝国なのだという。やはり私の予想通り、この国は私が知る中国にとてもよく似た政治機構と文明、文化を持った大陸の国家らしいのだ。
当然、その後宮という場所にも多くの女性達が美と寵を争って華やかな戦いが繰り広げられる場所でもある。それは現代に生きていた私にとって、あまりにも現実からかけ離れた世界でもあった。
この後宮には大まかに分けて二種類の女性達が居る。それは侍女と呼ばれる使用人の女性達と、宮女或いは官女と呼ばれる女性達である。
前者は、天子様の夫人様方、この国では四夫人のそれぞれの生家から選抜されて送り込まれた女性達であり、後者は国が厳しい選抜試験の末に官職を得た女性達である。
その違いを端的に言えば、帰属している場所が違うという所か。
侍女はそれぞれの貴妃様の生家から俸給を貰い、基本的に国の持ち物である後宮の雑事には携われない為、貴妃様の御用命で動くことが業務である。
宮女は国に俸給を貰い、後宮の雑事に携わり、時には貴妃様に国或いは天子様からの御渡りや用命を伝えるのが業務である。
故に、侍女と宮女との意識の差は大きく、両者の間にある溝はあまりにも深い。
「雪梅、芳貴妃様がお呼びですよ」
「ありがとう、菊蘭。直ぐに行くわ」
同僚からの呼び掛けに手を振って答え、しずしずと回廊を進む。
後宮に入って三か月が過ぎた。それは同時に、私が芳貴妃様付きの侍女として上がって三か月が過ぎたという事でもある。
私と菊蘭は、芳貴妃様の生家に雇われた芳貴妃様付きの侍女である。
幾つもの難関試験を突破して宮城に上がった宮女とは比べるべくも無く、侍女の地位は低い。
なにしろ後宮で幅を利かせているのは宮女達なのだ。当たり前である。宮女は国によって雇われた官女でもあるのだから。
宮女の気位は天を見上げる程に高い。先にも言ったように、宮女は厳しい選抜試験を乗り越えて官職を勝ち得たエリート中のエリートたる女性達なのだから。女性達の生家も必然的に貴妃様方に次いで高い女性も居る位である。
こういった背景を持っている為か、宮女は侍女達を自然に見下しており、侍女はその宮女の見下しになんと性格の悪い頭でっかちの女かと罵るのだ。
無論、侍女と宮女の中でも仲の良い女性達は居るし、逆に、宮女になれず侍女として後宮に上がった為に宮女に対して大変なコンプレックスを抱えて萎縮する侍女も居る。けれどもそれはあまり一般的でないのは事実である。
「芳貴妃様、お召しによりただ今罷り越しました」
深く、深く叩頭する私に、美しい美貌を持つ芳貴妃様の声が落ちる。
芳貴妃様が好む甘い香の香りとゆったりと団扇を振る侍女達の笑みが今は毒々しく感じた。
「雪梅、お父様への書状を出しておきなさい」
「畏まりました」
「ああそれと、あの醜女の動向もそれとなく探っておきなさい。ああ、別に報告する必要は無いわ。全てお父様にお伝えして」
「畏まりました」
芳貴妃様が醜女と形容する、四夫人の中でも実質第二位に位置している貴妃様付きの侍女に接触するべく私は静かに部屋を出た。
芳貴妃様を含めた四夫人は同じ地位に居る天子様の妃であるけれど、生家の権勢や財力、天子様の御渡りの回数によって暗黙の内に後宮での地位が確定されている。芳貴妃様は、この四夫人の中で第三位に位置しているが、生家の財力のみで言えば四夫人の中でも飛び抜けて豊かな財力を有している。
その財力は、この後宮のみで言えば最も魅力的なものであり、力強い道具ともなり得る。
例えばそれは官を買収する事で天子様のお渡りを有利にすることも、数多の侍女を抱え込み権勢をアピールすることにも繋がるのだ。
当然そうなれば、仕える主を裏切ってでも甘い蜜を吸わんと力を貸す者も増えてくる。
後宮が世界の縮図であるとはよくぞ言ったものだ。
ここでは人の純粋な心を持っていても、直ぐに汚され、人の欲望と権力に振り回され、渦中へ飛び込んでいくことでしか生きていくことは出来ないのだから。
騙すのは当然だ。騙されるのは、騙される人間が悪いのだと言われる世界である。
それは例え主を同じくする侍女同士であっても、敵になり得るという事でもある。
心を許せる人間は少ないに限る。ここでは裏切りなど日常茶飯事なのだから。
侍女とは、言わば貴妃様の生家から雇われた斥候の役割も兼ねている。勿論、すべての侍女がそうである訳ではない。だが、お婆さんから紹介を受けた私にはそういった役割も仕事の範疇であるのだ。
面倒だと、思う。ここでは女性達の思惑以外にも、彼女達の生家やそれに纏わる派閥争いが複雑に絡み合って魔窟と化しているのだ。
貴妃様達は皆、天子様の寵愛を得んが為に己の美貌を磨き、全身を飾り立てて天子様のお渡りを今か今かと待ち続けている。そうして、お渡りの回数が多い貴妃様こそ、この後宮の中でも暗黙の頂点に立つのだ。なんと、なんと虚しい事か。
この広い国の中で、極小さな後宮という世界で朽ち果てなければならない彼女達は、いっそ哀れな程である。それは私が、侍女というある程度の自由意思を得ている人間だからこそ、そう思うのかもしれない。
彼女達への憐れみは、彼女達にとっては噴飯ものだろう。けれども、それでも彼女達の未来を想わずには居られない。あんなにも美しく綺麗で、高等教育を受け、恵まれた家に育った彼女達は、生涯この後宮という世界で争い、足を引っ張り合いながら牽制し、生きるしかない。
ふと、お婆さんとの会話を思い出す。それは私に後宮へ上がらないかとお婆さんが切り出した時のことだ。同時に思い出すのは、お婆さんの娘だという、美しくも悲しい女性の事。
*
『ほう、吾子に会ったかい。あの子は顔に大きな火傷痕があるじゃろう? ああ、麻理絵はまだ見ておらなんだか。吾子の顔が隠れていたじゃろう? 吾子の右側は火傷によって爛れてしまっているのさ』
お婆さんはそう言って、低く嗤った。
『それでも吾子の美貌は天女にも勝る物だろう? 昔はそりゃあ玉のように美しかった。当然だろうね、吾の顔を引き継いでいるのじゃから。じゃから、だろね。嫉妬した女共が吾子の顔半分を焼いたのさ。…時期? さて、もう五年も前の話になるが』
『何と不憫な…』
『不憫、不憫かえ? 吾にしてみればよくぞ邸に戻って来たものと思うぞ。命あるだけ物種じゃからのう』
『そう、なんでしょうか。あんなにもお綺麗な方であれば、その絶望も計り知れないものだったんじゃないかと思うんですけど』
『お前さんが吾子に同情するか。それは持たざる物の傲慢さよの』
持たざる物の傲慢さ、それはとても強い皮肉に聞こえた。
あひゃひゃと笑うお婆さんは些か真剣な眼差しで私を見た。
『お前さん、行き場が無いと言っておったろう。宮城に上がるつもりはないかえ?』
『きゅうじょう…?』
『そう。天子様がお住みになる宮城じゃて。吾子も昔はそこへ勤めておったのよ』
『えっ、あの方は宮女だったのですか?!』
『そうさ。天下の天子様の覚えお目出度い宮女の一人。栄華を極める筈だった女の成れの果てが吾子よ』
『私でそれが務まるのですか? というより、私には身分が合わないと思うんですけど』
『吾が身分を用意するから問題はないぞえ。それと、正確には宮女ではなく、貴妃様付き専属侍女という扱いになるのじゃからある程度の自由は保証しようとも』
どうする、聞いてくるお婆さんの言葉に、食い扶持を稼げるならばその方が良いと深く考える事なく承諾した。その日の晩、お婆さんの娘だという、右側に大火傷を負い、長く艶やかな髪で美しい美貌の半分を覆い隠した女性が静かに私に言った。
『そなたがどのような人間なぞどうでもよろしい。けれど、母をあまり信用しない事です。警告はしました』
『お待ちを! どうしてそれを私に…?』
『そなたの事を心配しての事ではありません。ただそなたが行く場所は魔窟。それを甚だ忘れ得ぬよう心に刻む事です』
本当に、信用しきっていた私は何と哀れな事か。お婆さんはあの腹黒い腹の中で笑っていたのだろうなと思うと、どうにもやりきれない思いになるけれど、それでもお婆さんが私を世話してくれたのは間違いない事実だ。だから私はまだ、お婆さんを少しだけ信頼していた。けれどもそれがとんでもない間違いであったと知るのは、それから数か月後の事である。
*
芳貴妃様のご用命で後宮の回廊を歩いていた私は、いつの間にか見知らぬ場所に入り込んでいた。この後宮は複雑な作りをしており、慣れた侍女でさえも迷ってしまう場所である。
「何処なの、ここは」
侍女らしからぬ素の言葉が出てきて、思わず私は口元を覆った。そうして、私は帰る道すら分からぬままに突き進む。
その先で出会ったのは、ひっそりと隠されるようにして牢に捕らわれた精悍なる男性だった。
「お前、誰だ?」
広い檜舞台でゆるりと立つその男性ははっきりとした声でそう問い掛けた。
この後宮で男性を見たのはこれが初めての事だけれど、宦官などではなく、もっと別の地位に居る男性だと一目で分かった。
彼の纏う空気が、服装が、彼を貴人たらしめている。
雰囲気はまさしく優美で怠惰な獣。鋭い爪を隠した肉食獣を思わせる彼の立ち姿は、それだけで一つの絵になりそうだ。
叩頭もせずじっと視線を交わす私をどう思ったのか、男性が半身を向けた。
あっと声を上げなかったのは奇跡に近い。男性の手首には鉄の手枷が填められ、足首は見えないが、丸い鉄球のようなものを引き摺っていた。
囚人。
その言葉が脳裏を過る。けれどもそれはただの囚人ではなく、雅な香りを纏う貴人の囚人である。美しい絹で織られたのであろう衣服は長く、注視していなければ手首を覗く事は出来ない。しかし、両手首を繋ぐじゃらりと垂れた鎖を見れば、彼が囚人であるという事実は明らかに分かるというもの。
こちらに興味等無いと言わんばかりの男性の視線は酷く冷たく鋭い。その視線が私の目を射抜いた。
体が一瞬ふるりと震える。それは生理的な悪寒だった。
「何処から入ってきたかは知らぬが、死にたくなくば早々に立ち去れ」
一言一言がまるで氷の刃で出来ているようだった。
それだけ言うと、私の視線すらも既に興味は無いとばかりに、ずるりと重い鉄球を引き摺って男性は去っていった。
それが私と、あの悲しき男性との出会いだった。
*
あの出会いから既に三日が経過した。
その間に分かったのは、彼が真実囚人であるという事と、後宮の一角に隔離された王家の人間であるという事だけだ。
それ以上の事は皆、固く口を閉ざしているのか、小さな噂話であっても耳にすることは難しかった。どうやら彼の話をすること自体、タブーであるとされているようなのだ。それはある意味、異様な事でもある。それ程までに彼はこの後宮に住まう女性達から忌み嫌われ、恐れられている存在なのだ。
彼は、どういう人なのだろうか。
名前は? 年齢は? 王族の一人とはいえ、どんな位置に居る人なのだろうか?
疑問は次から次へと湧いてくる。
どうしてそこまで彼が気になるのだろうか、と自分で問うてみても私自身よくは分かっては居ないのだ。
ただ知りたい。それだけが私を突き動かしているように思える。
「天子様のお渡りは、昨日も絽夫人だったそうよ」
「まあ…では今日も荒れるわね。気を引き締めておかないと」
「ええ、本当に。今日は何事も無いと良いんだけどねぇ」
密やかに囁かれる同僚達の下世話な噂話に耳を傾けながら、私は黙々と芳貴妃様の衣装を丁寧に片づけていく。
こうして手を動かしていれば、何処か私が上の空で仕事をしていても、誰も気づく事は無いのだ。
絽夫人というのは、芳貴妃様と同じ四夫人の一人で、実質的にはこれまで第四位と目されて来た貴妃様である。大人しい絽夫人は透明感のある美女で、侍女の数も少なく、生家も権力とは無縁の家であった筈だ。四夫人となったのも、単に国が絽夫人の生家である、この国でも王家に次いで古い家系を有しているために、生家に隠された歴史書なり、その古い血を確保しておきたかった為などの理由から召し上げられたのだと後宮では専らの噂である。
絽夫人自身は、然程権力にも興味が無く、派閥争いも、寵を競って己を磨き上げるのにもあまり興味が無いらしく、大抵自身に宛がわれた部屋で静かに書を嗜む姿が目撃されている物静かな方だ。
天子様が絽夫人を幾夜も訪れるのは、恐らくはそういう穏やかな気風に癒されたいという願望があるからではないだろうか。
そうは思うけれど、私の主たる芳貴妃様の荒れっぷりは今日も凄まじかった。美しい爪を噛み、お気に入りの扇も壊された芳貴妃様は、侍女達に八つ当たりしつつ更に己を磨き上げる為に、早々に湯に浸かる事を選択なさったようだ。
湯の支度を整えて、湯殿で芳貴妃様の機嫌を取りつつ丁寧に体を洗う為に多くの侍女が湯殿へ向かう中、私は一人芳貴妃様の部屋で湯殿から上がられた後の用意を進めた。
「あら、今日も雪梅が居残り?」
「紅花様、はい。皆さん湯殿に向かわれましたから、私はこちらの雑事をとご指示頂きましたので」
「…芳貴妃様は相変わらずよね。気にしては駄目よ」
「ええ、分かっています」
紅花様は芳貴妃様付きの侍女の中でも最古参の侍女である。
芳貴妃様は見目麗しい侍女を好んで侍らせているが、凡そ十人並みの容姿である私は殆ど毎日雑事ばかりを言い付けられている。それを悔しいと思う事も、みじめだと思う事は無い。寧ろ私自身は黙々と一人で仕事が出来る環境というものは貴重だから、いっそ有難い程である。
けれどもやはりこの世界の、それも後宮で過ごす日々が長い紅花様にとっては、それは屈辱的な事なのだろう。憐れむ必要は無い、と言いたいけれど、それは負け惜しみとしか受け取られない言葉なのだ。だから私は本当に心からの笑みを浮かべて頷いた。




