穴から出た熊、嬉しそうに飛車を振れば
「王手!」
店内に威勢のいい声が響く。
ここは将棋のできる喫茶店、今風に言うなら将棋カフェというやつだ。
俺は平日は若手サラリーマンだが、休日はこの喫茶店で将棋を指す日々を送っている。
自分で言うのもなんだが、棋力は相当なものでこの喫茶店に敵はいない。
それでも俺のつまらない日常で、ここは唯一気の休まる場所だ。
しかし今、その俺の王様が王手をされていた。
俺の玉形は穴熊、その穴熊が王手される時はかなりまずいところまできているということだ。
相手はこの喫茶店の若い一人娘、二十歳前の看板娘だ。
俺がこの喫茶店に通う理由も彼女がいるからだ。
好きだとかではないと思う。ただ、彼女がいるから通っている。
もう3年も、毎週日曜は彼女と3局ほど将棋を指している。
基本的にはいつも俺の3勝、負けても1敗のみ。
将棋を指さない時間には勉強を見てあげたり、適当に雑談したり。
大学レベルで専攻の違う勉強を見てもわからないことだらけなのに、それでも勉強を教えている。教えていると言うより、最近はただ見ているだけだ。
きっかけは、なんだっただろうか。覚えていない程前の話だ。
彼女が勝ち越した時は何でも言うことを聞くと約束しているが、俺は一度も負け越したことはない。
そして今まで俺が負けたのはいつも勝敗の決した3局目だ。
しかし今日は既に一度負けている。
今日初めて負け越しに王手がかかっているのだ。
一局目は穴熊が穴から引きずり出されて負けた。
そしてこの2局目は窮地に立たされていると言っていいだろう。
軽く深呼吸して自分を落ち着かせ、冷静に自玉で相手の駒を取る。
女の子は俺の玉が穴から出てきたのを見てにやりと笑い、飛車を投入してきた。
俺は冷静に金駒を投入し、穴を埋める。
それを見た女の子は少し難しい表情をしながら、角を投入する。
俺は冷静に歩を打ち、小瓶を埋める。
穴熊は一度外に出てしまうと弱いが、それでも攻め方が難しいのだ。
女の子が苦心して責めているうちに、あれよあれよとこちらの玉が固くなっていく。
いつの間にかこちらの玉はまた穴の中に引っ込んでしまった。
女の子は落胆の表情は見せず、強気に攻めてくる。
しかしここまで来たらもうダメだ。攻めきれない時に攻めてしまうと無理に大駒を切っていくしかない。
こちらい早い攻めがない以上、彼女はもっとゆっくり攻めていいのだ。
結局、攻め手が見つからずに駒損だけが激しくなってしまった。
ここまで来ると女の子も落胆の表情を見せる。
彼女の手元の攻め駒は、いつの間にか金銀一枚ずつだけになっていた。
「負けました……」
小さく礼をする女の子は、以前よりかなり強くなったと思う。
俺は途中で自分の負け筋が見えていた。
女の子が気付かなかっただけだ。
そしてこの展開は、多くの将棋打ちが体験してきた物だと言っていい。
穴熊は固い。
嫌らしいくらいに固い。
強いからと多用する人間は多いが、大嫌いな人も多い。
大抵の場合、それは穴熊を攻めきれずにフラストレーションを溜めたことのある人間だと思う。
強者の穴熊相手に冷静に攻め切れる人間は将棋が本当に強いと思う。
そして今日ついに、俺の穴熊は穴から引きずり出されてしまった。
すぐに穴の中に引っ込んでいったが、それは俺の負けに近かったと言うことだ。
俺は穴熊が嫌いだ。
理由は先ほど述べた通りだ。
嫌いだが、この女の子相手には多用している。
理由は、強いから。
その強い穴熊で、一勝一敗だ。
穴熊で負けたのが悔しいから2局目は穴熊で勝った。ギリギリでだ。
しかし俺の穴熊は攻略されつつある。
次もう一度同じように穴熊をすると確実に負ける。
それは気分の悪い物ではなく、むしろ成長を間近に感じられて気持ちのいいものだった。
「まだあと一回、勝ったらついに私の勝ち越しです!」
「そう簡単にはな」
一度はしのいだが、二度目はどうか。
「お願いします!」
「よろしく」
3局目が始まる。
穴熊では勝てない。
そう悟った俺は、少し時間を掛けていつもと違う構想を練る。
その俺の二手目の歩の動きを見て、女の子は驚愕したような風情だった。
「え?」
「好きなのは、こっち」
負けられない時はいつも穴熊を使う。
ただ、本当はいつも指したいのは振り飛車だった。
好きなプロ棋士は当然システムで有名なF先生だ。
俺の振り飛車は大胆に攻めて一気に相手を詰ましてしまうような将棋だ。
攻めっ気しかないから、負けも多い。
ただ、本当にやってて楽しい。
穴熊から引っ張り出された俺に使える戦法は、本来の身一つ。
ありのままの自分の戦法だけだった。
俺を穴熊から引っ張り出してくれた彼女には、素直に感謝している。
俺の日常も、穴熊のようなものだった。
いつも暗い穴の中にいるように機械的に仕事をし、友達とも就職を機に離れ離れになってしまって連絡すら取らない。
その暗い穴で熊っていた俺が、ここでは素直になれる。
全部、この対面に座る明るい女の子のおかげだ。
飛車を振るときは大きく、優雅に。
意味もなく意識するのは強さには直結しないことばかり。
俺の不可思議な攻めをなんとか躱す彼女は、徐々にこちらを追い詰めていく。
俺の攻めを躱しつつ、急所を攻める固い将棋だ。
その差は、一手差。
そして終盤、ついに俺の王様に必至がかかる。
何度も先を読んでみるが、相手を負かすにはどうにもギリギリ一枚足りていない。
つまり、俺の負け。
少しだけ息を吐く。
負けた時は、素直に負けを認めなければならない。
悔しげに言おうと思う。本当はあまり悔しくなかったが、それでも。
「負けました」
「……やった……勝った!!」
俺が頭を下げたのを見て、彼女は勝鬨を上げた。
すぐに俺の目線に気付いて喜びを自粛しようとする彼女の姿に、少しの笑みがこぼれてしまう。
穴熊に加えて、自分の好きな戦法でも負けたのだ。
彼女に上をいかれたと素直に認めることができた。
次はどうなるかわからないが、いい勝負になるに違いない。
久しぶりに、将棋の勉強をやろうかなと思えたし。
笑みを抑えきれない彼女は一転、少し緊張した面持ちで俺の目を見た。
吸い込まれそうなその黒い瞳に、別の事を考えていた俺は少し呆然としてしまう。
彼女は威風堂々と緊張が混ざり合ったような表情で、約束通り俺にお願いを告げた。
勝負に負けた俺に、それを断る権利はなかった。
これからも彼女と将棋を指せるのなら、何だって。