心
「本当に悪いんだけど、ごめん。別れよう」
世界が動いた。
世界から私が切り離された。
十二月の寒空の下、スマホのディスプレイには、かつての愛しい彼と撮った写真が映っている。
画面の中の二人はどれほど楽しげなことだろう。
彼との写真の下には彼の名前が表示されている。
唐突に聞こえてくる震えた声。
「もしもし?」
「…もしもし、美月?ごめんね」
なにもおかしくない。この後何が起こるかなんて知らずに私はただ愛しい彼の声に胸を踊らせていた。
「美月、言いにくいんだけどさ」
「急にどうしたの?」
「ごめん、本当にごめん」
「だから、どうしたの?」
「本当に悪いんだけど、ごめん。別れよう」
世界が裏切った。私を切り離した。
世の中にこれほどの屈辱はあるのだろうか。
信じた人に裏切られた。自分の存在をありとあらゆるものに否定されたような気がした。
「どうして?」
ちがう、理由が聞きたいわけではない。
うまく言葉を発音することができない。苦しい。苦い。
つらい。
吐き気がある。
動悸がする。
脈打つ音が聞こえる。
体の中の器官すべてが拒否をしている。
いやだ、これ以上私を傷つけないで、と。
「女の子に告白されたんだ。その人のことが気になってる。
でも、美月が悪いわけじゃないんだよ。全部俺が悪いんだ。ごめん」
自分が理由を聞いたのに理由なんて聞いてどうするんだという気持ちと、理由を聞いてショックを受ける気持ち。
きっと、どんな理由であってもショックを受けていたはずだ。
そして、謝罪なんてしても意味はないんでしょという気持ち。
いろんな感情が混ざり合って、ひしめきあって、押し合って、私は目眩を起こしそうになる。
言いたい言葉はたくさんあるのに表現することができない。
まるで、表現方法は泣くことしか知らないみたいに、涙が溢れてくる。
泣こうとして泣いたことは数え切れないくらいある。
意図して「この場面で泣きたいな」と泣いてきた。
まるで演技派女優の気分だった。
しかし、このときは違った。泣きたいなんて思わなかった。泣きたくなんてなかった。
それでも自分の意志とは関係なく涙が溢れてきた。
そういえば大学の教授が言っていた。
「私もこれだけ生きていれば失恋を経験したことがあります。
失恋するとその時から自分にとって世界が変わって見えるんですね。
分かりやすく言えば恋愛してる時の世界がカラフルに色づいているとすると
失恋したらモノクロの世界になってしまうんですよね。それはもうほんと一瞬ですよ。
あれ? ここはどこなんだ? って思いました」
ああ、明日からモノクロの世界になるのか。
そんなふうに考える余裕があった。矛盾してる。
つらくて息苦しくて体の器官がひとつなくなったかのような感覚がしてるのに
どこかに冷めた自分が潜んでいる。
あなたは誰?
長い長い眠りから冷めた。
昨日寒空の中電話がかかってきたことは覚えている。
そこからどうやって帰ったんだっけ?
枕元には大量の酒の缶が散らばっている。
部屋も荒れている。足の踏み場がない。ひどい。
ここは本当に自分の部屋なんだろうか?
ぐるっと見渡してみると確かに私の部屋だった。
そこで慌ててスマホの画面をタップする。青い光が眩しくて私は目を細めた。
その直後私の目に飛び込んできた文字。
彼との通話を示した履歴だった。
昨日のことは嘘じゃない。
本当はそんなこと分かっていた。
それでも僅かな可能性にかけたかったのだ。
人間は都合のいい生き物だ。
自分にとってよくないことは嘘であれと願い、自分にとってよいこととなると僅かな可能性にすら縋りたくなる。
私も所詮ただの人間だった。
「今日の天気は晴れです。風が心地よく吹くので洗濯にはもってこいですね」
やっとの思いでベッドから抜けだした私は一人ぼっちであることにたまらなく不快感を感じ、意味もなくテレビをつけ、天気予報を眺めている、フリをしている。
一人暮らしなのだから、フリをしているなどと表現するのはおかしいのかもしれない。
しかし、確かに眺めているフリをしていた。
普段はテレビなんて滅多に見やしない。ましてや朝のニュースなんて数えるほどしか見なかったのに。
画面の中の綺麗な女が洗濯日和と告げていることにすらイライラした。
世界は私を笑っているのかとすら思う。
もう冬なのに、カーテンをあけると綺麗な空が広がっていた。
普通の人間ならここで「空が私を応援してくれてるわ!頑張らなきゃ!」とでも思うのだろうか。
私が捻くれているだけなのだろうか。
とにかく私はどうすればいいのだろうか。
十二月二十三日。
彼から別れの電話が来てから二日が過ぎた。
世の中の人間はこの日を「イブイブの日」と呼んで騒ぎ立てているのだろう。
二日前までの私なら笑って過ごしていたと思う。
そして彼と過ごすクリスマスイブに向けて、いまかいまかと浮足立って過ごしていた。
断言できる。それほど楽しみにしていた。
別れの電話の後の私の様子はまさしく抜け殻そのものだった。
大学を初めて休んだ。休むことに躊躇はなかった。行きたくても行けなかったに近い。
つけっぱなしのテレビからは朝のニュース、昼のニュース、ドラマの再放送、つまらないバラエティ、見たこともないドラマが流れていた。
私は、暗い部屋で何も食べずにスマホを握りしめていた。
たまに、メールがきたらすぐに確認して迷惑メールだと知ると読まずに削除し、ちょっと泣いた。
もう泣けなかった。そう思うほど、大量の涙が頬をつたいやがて消えた。
私は考えていた。どうしてこうなっているのかを。
彼の言葉を頭の中で繰り返した。私は一時の感情で怒り狂っていたことも思い出した。
「…全部俺が悪いんだ、ごめん」
「意味わかんないんだけど。じゃあ、クリスマス会う約束してたのはどうなるん? もちろん来るよね?」
「ごめん」
「は?謝って欲しいわけじゃないんやけど」
「ほんとに全部俺が悪いんだ」
「当たり前やろが。お前が悪いんじゃ。
てか、結婚するって言ったやん。やから、エッチしたんやん。
なんなんそれ、嘘つき、死ねばいいのに」
思い出して頭が痛くなった。怒ると関西弁がでてしまう。
私は、間違いなく怒っていた。
人間はこわい。
怒りに任せて思ってもいないことが平気で口から溢れだす。
私は自分で自分がこわいと思った。結婚したいほど大好きな彼に、一番そんなこと言ってはいけない彼に、最低なことを言ってしまった。自分が嫌いになった。幻滅した。しかし、慌てて、「あんなこと言わせた彼が悪いんだ、しょうがないことだ」と思い込んだ。
今なら言える。
本当は「死ねばいいのに」なんて思ってはいないということを。
でも彼はきっとそんなことは分かっているはずだ。
私は、本当にびっくりしていたんだ。
彼が私を裏切るなんてことを考えたことがなかったから。
彼を私の体の一部と同じように考えていたことに気付いた。
だから、あんなにも身を引き裂かれるような気持ちになったのだ。例えるなら細胞が分裂する感じ。例えると少し違う気もする。
思い出したら彼に謝らねばと瞬時に感じた。
時刻は二十二時。
電話するには少し遅い時間かもしれないと思ったがそんなの関係なかった。
私は、汚い。謝らねばと感じたのは事実だが、それは口実で、本当は声が聞きたかったのだ。
愛しい彼の声を。
プルルルル、プルルルル、プルルルル・・・
彼は電話に出ない。五コールして出なかったら切ろう、やっぱり、十コールして出なかったら切ろう、あと五コール!
引き伸ばし、引き伸ばしての二十コール目。
本当に切ろうとしたその時に、
「…もしもし」
少し、やつれているような、か細い声が聞こえた。
「え、あ、その、久しぶり。」
まさか、出てくれると思わなかったので、変な声が出た。目頭には涙が浮かぶ。
「どうしたの?」
今までと変わらない優しい声。まるで二日前のことは嘘なのではないかと思うほど綺麗な低い声だった。
「あのさ、『死ねばいいのに』って言ったことを謝りたくて・・・」
「気にしてないよ、俺が美月の立場でもそう言ってたと思うわ」
わけが分からなかった。頭が混乱した。ひどくむかついた。
すべて合っているようでまた違うような、そんな感覚がした。
次の言葉が出てこなかった。
「話はそれだけ?なら切るよ」
「ま、待って!」
ここで切られてはダメだと直感的に思った。でも話すことは何もない。
心臓の音がリアルに響く。息が上がっている。
だめだだめだ、縋ってはいけない。分かっていたのに。
「ねえ、明日はクリスマスイブだよね、賢くん来てくれるんでしょ?
なんなら、私が行ってもいいよ。
あ、そういえばさ、賢くんに誕生日プレゼントも買ってあるんだよね。
合鍵もあげようと思ってたんだよね。
明日はさ何時にっ」
「もうやめてくれ! ごめん、今は会えない。
俺がこんなにひどいことしちゃったから、正直美月に会うことがすごくこわいんだ。
なにかされそうだし。とりあえず距離を置きたいんだ。
自分勝手でごめん、じゃあ、また連絡するから」
私は、もう一度振られたのだ。
そのうえ、大好きな人に「殺人鬼」扱いまでされてしまった。
縋ってはいけないと分かっていたのに、縋ってしまった。
心理学を勉強していたって、何の役にも立たなかった。
電話に出てくれたことで、普通に会話できると分かってしまったから、私は調子に乗ってしまった。
時刻は二十二時十分。たった十分。私のプライドが崩れ落ち跡形も消えてなくなった。
驚いたことに、私は別れの電話も信じていなかったのだ。僅かな可能性にかけていたのだ。
それが見事に打ち砕かれた。
私はもう本当に限界だった。
頼りたかった。一人で抱え込むのは無理だった。
大学の友人二人と私でつくったグループLINEに書き込んだ。
「重要な報告があります」
「彼氏に振られました」
「以上です」
すぐに既読がつき、返信もあったが、見る余裕がなかった。
私は、そのまま死んだように眠った。
何もしなくても朝はやってくる。
つけっぱなしのテレビから漏れる声がうるさい。
ひときわうるさいのはたぶん、今日が十二月二十四日だからなのだろう。
クリスマスイブ、聖なる夜、恋人たちの日。恋人たちの中に私たちはいない。
起きていると考えるのは、彼のことばかり。自分でも嫌になるほどそのことしか考えることができなかった。
今日も何もしたくはない。
しかし、今日は大学にどうしても行かねばならなかった。
クリスマスイブなど関係なしにうちの大学は授業日である。
行ったって集中できるはずはなかったが必修の講義と大好きな講義がある日だったから行かねばと思った。
重い腰を上げる。なんとか家を出た。
「おはよう」
昨日メッセージを送った大学の友人の一人である愛に声をかけられた。
愛は私と同じ心理学部に所属する一回生であり私の同級生だ。彼女は主に教育心理学を専攻している。
彼女と仲良くなったのは必修の語学で同じクラスであったことがきっかけである。
今日がその語学の授業日だったので、会うのは当たり前であった。
彼女の優しげな瞳に見つめられて、私は教室の中であるのに思わず、涙を流してしまった。
「ちょっと、どうしたん? 昨日メッセージ見たけど、返信ないから心配してたんよ。
あとで話聞くから授業頑張って受けよ」
そう言われて、コクンと頷き、愛と離れて席についた。
語学の授業は相変わらず簡単だったが、私は、教授が話していることがまったく理解できなかった。
私の中にちっとも入ってはこなかった。
時間はあっという間に流れ、教授がおしまいを告げた。
おのおのが、昼食を食べるために教室を出てクリスマスイブの話で盛り上がっていた。
私は、それを尻目に追いやりながら、愛の元へ向かった。
愛の隣には優衣がいた。優衣もまた、メッセージを送った、友人だ。彼女も心理学部に属していて教育心理学を専攻している。
私は、二人に別れの電話が突然やってきたこと、昨日も電話で話したが正式に振られたこと、クリスマスイブに会う約束をしていたことなどを途切れ途切れに話した。溜め込んでいたものを吐き捨てるように。
二人は、そんな私のむちゃくちゃな話を何も言わずに聞いてくれた。愛は、
「美月、つらかったね。話してくれてありがとね」
私は号泣した。優衣は
「クリスマスプレゼントあげる」
と、言って、チョコケーキをくれた。
二人とも少し泣いていた。三人で泣きながらチョコケーキを食べた。
チョコケーキは苦くて甘くてしょっぱかったが今までで一番おいしかった。
大好きな講義を受けたが、その講義の内容がぐさりと突き刺さった。
教授のことを少し嫌いになった。
「失恋をしただけで学校に行かなくなったりする人の心理がまさしくこれですね、ハハッ。」
まさに私のことだった。耳が痛い。そしてタイムリーだった。一緒に講義を受けていた愛に気にするなと言われ、家に帰った。
部屋をあけると待っているのは、現実。
一人の空間。
孤独。
たまらなく寂しくなった。
帰り道に見たイルミネーションの光。家から大学までに三つもあった。
その光は私を挑発しているように思えた。早く帰りたいと思い自転車を速く速くと進ませて帰ってきたのに、この部屋にいることが害悪だと感じた。
とにかく今は一分一秒でもここにいたくない。
あてもなくサイフとスマホを掴んで飛び出した。
飛び出したのは間違いだった。すぐに気付いた。
私は忘れていた。今日がクリスマスイブであること。
カップルが散らばっている。私に見せつけるようにイチャイチャしているようだ。
全身の血液が沸騰し逆流し、私はまるで息ができなかった。立っているのがやっとだった。私は、部屋に帰った。
私の居場所はどこにもなかったのだと悟った。
クリスマス前に振られた女。
字面だけ見るとこっけいに違いない。他人は憐れむだろう。「可哀相に」と。
私は、「可哀相な女」だった。「可哀相な女」であり、「嫉妬する女」であり、「痛い女」であり、そして「醜い女」であった。
それが許されると思っていた。私は傷ついているのだから可哀想であり続けることが許させるんだと思っていた。
クリスマスイブにはさすがにテレビをつけることができなかった。
馬鹿な私でもそれが理解できた。先ほどの幸せオーラの恐怖に震える。
私が「死ねばいいのに」なんて言わなかったら?
縋ってなんていなかったら?
もっと優しくしていたら?
今更考えても意味のない、もう終わったことをグルグルと考える。
しんどかった。
答えのないものに無理やり答えを当てはめようとしている。
それは無駄なものだった。
これは運命なのか? それなら最初から彼のことを好きになんてなりたくなかった。
処女をあげたりなんてしなかった。こんなのいいカモじゃないか。私は騙されたのか。私は捨てられたのか。
言いようのない怒りで過呼吸ぎみになる。
落ち着くことができない。
怒りは湧き出る、あんな奴最低の屑だとも思う、死ねばいいのにと言ったこともあながち間違いなんかじゃないと思う。
それでも、私は、彼のことが嫌いになれなかった。
むしろ好きだった。大好き、愛してる。
この気持ちは永久に変わらないと思った。
「メリークリスマス」
彼に送ったメール。
「メリークリスマス」
彼からのメール。
クリスマスなんて全然めでたくない。
むしろ過去最悪なクリスマスだった。
それでもメールを送る口実であることは間違いなかった。
たった九文字のメールが返ってきたことに喜んでいる私は馬鹿だった。
彼が他の女の子を気になっている事実は全く変わらないというのに。
クリスマスである今日から二週間の冬休み期間が始まる。
一人の空間に耐えることができなかった私は、地元に逃げるように帰った。
元々帰る予定なんてなかったのに、母親は私の好きなものをつくって待っていてくれた。
私が帰ってきた理由も聞くことはなかった。
それとは対照的に
「なんで帰ってきたんや。なんでなんで」
と、しつこく聞いてくる弟を適当にあしらい、部屋に引きこもった。
地元に帰っても何も変わらなかった。結局私の中に潜む悪魔は消えてはくれなかった。
私は恐ろしいことを考えていた。
(あいつだけ幸せになるなんて許さない、殺してやる)
それはひどく屈折した愛情だった。
愛情と憎しみは紙一重である、と聞いたことがある。私は本当に彼を愛していた。
行き場のない憎しみを母親に告げた。
「ほんまに、あいつむかつくから殺してもいい?」
母親はただ冷たく
「あんたの人生やから好きにすれば?」
と、答えた。
なにそれ、と思った。この親は娘が殺人を犯しても構わないと簡単に言ってのけた。
力が抜けた。
母親をこわいと思った。
次の日の私は、前日の屈折した私をひどく後悔した。
失恋というのは人の感情を絶えず変えるのだろうか。
前日の私はもはや私ではない。まったくの別人だ。
今度は自分自身を憎むようになってしまった。
あんなに大好きな人を殺したいなんて思うなんて私は最低な人間なんではないか。自己嫌悪にもがき、苦しんだ。
人を憎むくらいなら、私が死んだほうがマシだ、と、考えた。
そう思うと、早かった。
地元に帰り、することもないため、昼過ぎに起きだした私は、もぬけの殻になっている家を飛び出した。
「私を探さないで」と書き置きを置いて。
私は彷徨った。ただ呆然と歩き回っていた。
地元である兵庫県は県民以外からは都会であると思われているのだろう。
実際はそんなことなかった。
特に私の住む所はそうだった。兵庫県で都会である場所なんて限られている。
一部だけを見て「都会」と認識され、実際は「都会」じゃないじゃないか、なんて失望される、私の故郷が可哀想だと思った。
まるで私と同じね、と、思った。
大学の友人たちは、明るく冗談ばかり言っている私を好いている。
それは愛も優衣も同じなはず。私が落ち込んでいる姿なんて見たくないはずだ。
きっと、私が失恋したってすぐ立ち直るのだろうと思っているはずだ。
私は、分かっていた。この底なし沼のような感情は簡単には消えないことに。
歩き回ってどれくらいが経ったのだろうか。クリスマスの余韻にひたる間もなく、地元は静まり返っていた。
目の前には踏切が見えた。
当てもなく歩き回っていたはずなのに、足は自然とこの場所へ向かっていた。それがなぜかひどくおかしかった。
「カンカンカンカン・・・」
踏切が音を立てる。この音は天国へのカウントダウンのように思えた。
踏切を数十メートル前に、私は道端にうずくまってしまった。頭を抱え込んだ。
「こわい、助けて、助けて、助けて、嫌だ、嫌だ、嫌だ。」
こんな田舎で誰に向って発したわけでもない、かすれた声が虚しく響く。
誰もいない。あるのは孤独感だけ。
結局私は死ぬこともできない臆病者だ。
生きる屍。
生きることも死ぬこともできない。
彼にも、この世にも未練があるということなのか。
来る時も通った道なのに、そこはなにか違う道に思えた。
もうここに用はない。私は死ねなかった、死に損なったのだから。トボトボと帰路につく。
「あれ?美月じゃん、帰ってきてたんかよ、連絡くらいしてくれてもいいじゃん」
バイト終わりらしく自転車に乗った華歩に会った。
華歩と私とは幼稚園の頃からの幼なじみであり、現在は地元の美容専門学校に通っている。
彼女は私を『親友』だと形容しているが私はそうは思っていない
。しかし、私の数少ない地元の友人であり、仲が良かったのも事実である。
もちろん、私だって彼女に連絡したかった。だが、会えない理由があった。
「あ、そういえばさ、これから彼氏の家に行くんだよね、じゃあ帰るわ、いつまでおるんや? 連絡してや」
彼女は私の言葉などまるで興味のない風で颯爽と去って行った。
今の私には眩しすぎる。胸が痛い。幸せそうな人を見ると吐き気がする。
彼女はいつもそうだった。
私とは正反対で明るい彼女に私はいつも嫉妬していた。
大学でこそ、明るく振舞っているが、私の根本はものすごく暗い、根暗、地味、ネガティブ。私は負のオーラからできている。
彼女は私の憧れだった。
いつも人気者でクラスの中心でクラスどころか学年の中心だったと言っても過言ではない。
そんな彼女が、失恋した時、私のようになっていただろうか。
そんなことはなかった。
私がそれを知っているのは彼女を支えていたのが私だったからだ。
彼女は過去を気にしない人間で常に前を向いていた。
そして、恋愛至上主義者だった。
彼女は魅力的で常に男の人にモテていた。男に困ることはない人間だった。
私はそんな彼女が落ち込んでいるときに、慰めるフリをして、ザマミロと叫んでいたのかもしれない。
私は最低だ。
彼女も自分と同じ人間だと再確認して安心した。「そんな男やめなよ。」と、何度言ったことだろう。
彼女は私の考えてることなんて知らずに私の言葉を信じていた。
私は彼女に嫉妬していた。自分の弱みを見せることができなかった。
これが彼女に連絡しなかった理由だ。
彼女が消えていった方向に向かって歩き出す。
ほら、やっぱり彼女は私の前を歩く人だ。
家に帰る。時刻は、十六時三十分近く。
家を飛び出してから三時間ほどしか経っていない。
弟は友達の家に行ったのか家にいなかった。
母親もまだ仕事から帰ってきてないようだ。
父親の姿は帰省してからまだ一度も見ていないが、この時間帯はいつも仕事でいない。
私はこの三時間で生死を彷徨い、華歩に会ってしまい、自己嫌悪をこじらせていた。
気分は最悪だった。自分はひどい人間だ、振られて当然だ、と、思った。
死ななかったことを後悔した。私は足掻いたって死ねない。
所詮その程度しか傷ついてないのか、そんなことない。彼の裏切りに言葉で表せないほど傷ついている。
死んだって構わない。殺してくれ。
「私を探さないで」
汚い字で書きなぐってある一枚の紙をブリブリに破りそして投げた。
ハラハラと舞う紙は美しく見えた。
私の心はこの紙と同じでボロボロだ。
やがて母が帰ってきた。私がリビングにいることに一瞬動揺を見せたがすぐに夕飯の準備を始めた。
私はそそくさと自室へ帰った。自室に戻りベッドに寝転がりスマホをいじる。
ブルーライトに照らされた私の顔は不気味だったにちがいない。
「失恋 復讐 方法」で検索をかける。こんなことを昨日寝る前もやっていた。私はまた意味のないことをしている。
「あなたが幸せになることが最大の復讐です」
綺麗事が並ぶ。幸せになることができたらこんなサイトを見ることなんてしていないのに。
「うるさい、うるさい、うるさい!!! 綺麗事ばっか並べてんじゃねーよ!!!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。最近声を発してなかったのに気付いた。
スマホを壁に投げた。モノにあたった。
「どうしたのよー?」
母親の声が階下から聞こえる。
聞こえないフリを装った。やがて母親は諦めたのかパタパタとスリッパの音を立てて戻っていったようだった。
もう何も考えたくない。布団にうずくまっていたら気付いたら眠っていた。
夢を見た。
夢の中では愛しい彼が微笑んでいる。私は彼の元へ走って行こうとした。
しかし、隣には女がいた。私は絶対に敵わない、華歩のようなかわいい女だった。
彼はその女と手を繋いで行ってしまう。私はその場に座り込んでしまい、大声で泣いている。
「行かないで、私を一人にしないで」
彼が振り返ることはなかった。
そこで起きた。朝だった。枕は濡れていた。
私は十二時間以上眠っていた。昨夜は夕飯を食べ損ねていたが、お腹は空いていなかった
。しかし、喉が乾いていた。カラカラだった。
水を飲むためキッチンへ向かうと、弟から
「お前昨日うるさかったんやけど、泣くなや、鬱陶しいなあ」
と言われた。私は夢の中だけでなく実際に泣いていたみたいだった。
十二月二十七日。
私にとって忘れられない日である。彼の誕生日。
この日のためのデートプランを何度妄想したことだろう。
それは私が地元に帰っているのでもう叶うことは無い。
彼はクリスマス前であり誕生日前であるこんな時期にどうして私を切り捨てたのか。
そこまでして私にダメージを与えたいのか。
とても残酷な人だ。
一年前の今日。高校三年生だった私は彼に
「誕生日おめでとう。来年は直接おめでとうって言いたいです」とメールを送っていた。
直接おめでとうを言う。そんな簡単なことも成し遂げることができなかった。
過去の私に申し訳ない気がした。会うことを拒否されているのだから。
猛烈な吐き気が襲う。吐くものなんてなにもないのに。
その晩、同じように自室へこもっていると、母親に呼び出しをされる。
私は何事かと思い、のそのそと這い出した。
「どうしてご飯を食べないの」
「ごめん、食べたくないんや」
「あんたなあ、ちょっとおかしいで、なんかあったんか」
「お母さんも知っとるやん、振られて落ち込んでるんや、もうほっといてよ。
私にひどいこと言わないで。意地悪しないで。優しくしてよ!」
母親にやつあたりしてしまった。醜い。ひどい。最低だ。母親は何も言わず寝室へ入っていった。
私はリビングに取り残され、カチッカチッと時計の秒針の音が静かな部屋に響いていた。
家族の誰とも話さないまま、部屋に引きこもり続けた。気付いたら世間は大晦日を迎えていた。
私は焦った。
このまま新しい年を迎えていいのか。いても立ってもいられなくなった私は彼にメールを送った。
「このまま年を越すのが嫌だから、少し話せない?」
数時間後
「夜の十時くらいならいいよ」
と、返ってきた。
そして十時になる。電話がかかってきた。
「もしもし、久しぶりだね、元気だった?」
「ああ、うん、元気だよ、美月は?」
大丈夫、私は普通に話せてるし、絶対に泣いたりしない。
「そういえばさ、誕生日おめでとう。ほんとは直接言いたかったんだけどなあ。」
「告白された子ってどんな人なん?嘘つくのほんとにやめてほしいんやけどさ、もうその人と付き合ってるん?」
「まあ、そんな感じ」
頭がフラフラした。唇を噛みしめる。
私が信じていた電話口のこの人間は別れてからたった一週間で新しい女と付き合う、そんな人間だった。
私は失望した。
悔しかった。
聞いたことを後悔した。怒りがこみ上げてまたひどい言葉を言ってしまいそうになったが必死で抑える。
「そ、そうなんだ。キスはしたの?それ以上は?」
聞きたくないのに言葉が口から滑り出す。
「キスはしたよ、それ以上はしてない。これはほんと」
それはとても無味な回答だった。私はもうなにが本当でなにが嘘なのかがよく分からなくなっていた。
それ以上にどうしてこいつはそんなに淡々と言えるのだろうか、よく分からなくなっていた。
「そんな簡単に裏切るなら適当なこと言わないで。
どうせ結婚するなんて嘘やったんやな、嘘つき。私のこと弄んで楽しかったんか」
正直よく覚えていない。
とにかくもう自分をコントロールすることができなかった。
彼は私の恨みつらみを受け止め何も文句を言わずに最後に
「そろそろお風呂入るから切るわ、また連絡する」
彼は優しい人だ。
本当は連絡する気なんてないのに「また連絡する」なんて優しい嘘をつく。
弟にうるさいと言われるかも?そんなこと知ったこっちゃない。構わず声を上げて泣いた。慟哭した。
隣の弟の部屋からは舌打ちが聞こえた。構うものか。
新しい年。ハッピーニューイヤー。
スッキリしたかったから電話をしたのに昨日の電話は私をもっと傷めつけた。
私より可愛い女。私より年上の女。私より彼と距離が近い女。
比較すると私は大したことのない人間のように思えた。
女に対する新しい情報を得たことで憎しみは女の方向へも向かっていった。
憎しみで新年を迎えておいてこの先いいことなんてあるはずがないと思った。
そもそも私にとっての「いいこと」ってなんなんだろう?
私は今、彼が女と別れ私の元へ戻ってくることを願っている。
それと同時に彼が死ぬほどの不幸にあえばいい、むしろ死ねばいいのにと思っている。
私の中のふたつの浅ましい感情に優越をつけることなんてできなかった。
私のことを好きじゃない彼なんて死ねばいい、私のものにならないならいっそのこと、この手で殺してやりたい。
それを、理性が止める。近くに住んでいたら確実に殺してた。
考えることをやめた。どっちみち叶うはずがないのだから。
正月とか、めでたいとか、私には関係なかった。
私の状況を何も知らない友人たちから「明けましておめでとう、今年もよろしく」と、メッセージがきていた。
私はすべて無視した。「おめでとう」なんて言われたくなかった
。殺意しか沸かなかった。彼らは何も悪くないし、私の身勝手な被害妄想だ。
たくさん見た失恋サイトの中には
「時間が解決してくれる」と書いてあった。もう一週間も経っているのに、何も解決はしてくれない。
むしろ悪化している。
彼との対話のひとつひとつを鮮明に思い出し、自分の行動にダメだしをすることで一日が過ぎていた。
自分の悪かった部分を見つけようとしたがひとつも見つからなかった。
私は彼にとって最高の彼女だった。そして私は彼にとって最高の彼女である自分自身が好きだった。
彼のためならなんだってできると思った。
「結婚するなら処女がいい」と言った彼の願いを叶えようとした。
彼が好きなことは私も好きになるように努力をした。彼が髪の長い人が好きだと言うと髪を伸ばした。
私は彼のための人間だった。
彼がいない私はもう私ではない、とさえ言えるほど、私は彼に依存していた。
涙が流れた。
泣いたって彼も処女も返ってこない。殺すことができないのなら、いっそのこと死んだと思い込もうか。
そんなことできない。メールをすると普通に返ってくることは分かっていたから。昔を懐かしみ、昔は良かったと嘆いたって状況は何も変わることはないことも分かっていた。
それでも私にはそれ以外することが何もなかった。
テスト勉強のための教材もレポートをやるために持ち帰った資料も、今の私にとってはゴミ同然だった。
大学に行く意味もわからなくなった。
新年早々、こんなふうに考えていたらあっという間に冬休みは終わり、私は渋々京都の下宿先に戻った。
結局地元の友人たちには会うことはなかった。華歩にすら連絡はしなかった。
私は京都の街が好きだった。地元よりも交通の便が発達していて、便利だし、漠然とした憧れを幼い時から抱いていたからだ。
しかし、今はつらすぎる。この街には彼との思い出があるから。
彼と初めて行ったパチンコ。私は面白さが分からずにうるさいから早く出ようよと急かした。
何度も行ったゲームセンター。
お金がないくせに私のためにユーフォーキャッチャーでぬいぐるみをとってくれた。
ぬいぐるみなんて別に欲しくないのに私のために頑張ってくれていることがとてもうれしかった。
お金を私のためばかり使う彼に怒ったこともあった。
「美月が喜んでくれると思ったのに」と拗ねていた彼。
彼が院試合格するように毎日通った北野天満宮。
お守りを買ってあげたりもした。院試当日になって私がケータイを落とし壊したので縁起が悪いと号泣した場所。
二人でお参りした清水寺。
「賢くんとずっと一緒にいれますようにってお願いするわ」
「じゃあ、俺もそうしよ」
疑うことを知らずに無邪気だった私。
何回も別れを惜しんだ京都駅。
帰らないで、と引き留める私と帰っていく背中。
数分後着信があり、どうしたの、と聞くと、
「やっぱり、帰って来ちゃった、明日休むわ」
なんて言って、戻ってきたこともあった。
かつての愛の巣だった私の部屋でさえ、今では憎い。
彼に誕生日プレゼントにもらった靴。ぬいぐるみの数々。
もうガラクタにすぎない。処理することもできない。
美しかった思い出たちが一斉に牙を剝いて私に突き刺さる。痛い、もうやめてよ、と、逃げ出そうとしてもどこに行けばいいのか分からない。
私はここで闘い続けるしかないのだ。
大学が始まって二日経っても私は泣いてばかりだった。
当然大学には行っていない。まず、起きることができなかった。現実を見たくなかったのだ。
夢の中で自分の都合の良い世界で生きていたかった。
そんな時、インターホンが鳴った。面倒に思いながらも確認すると愛だった。
一緒に受けていた講義に私がいないことに気付き、来てくれたのだ。
「ちゃんとご飯食べとるか?」
「食べてないよ」
「そうだと思ってつくってきたよ」
タッパーに詰められたおかずと手紙を置いて愛はサークルがあるからと帰っていった。
「美月から連絡が来た時、なんとかしなきゃって思ったの。それで料理をつくってみた。
無理して大学に来なくていい。でも、忘れないで。私も優衣も美月のことが大好きなんだよ。私は美月の親友だから。」
手紙を読みながら、食欲なんてないのに愛がつくってきたおかずを食べた。
私の嫌いな煮物だった。それでも食べた。いつもとは違う涙が流れた。
私は自分には友達なんていらないと思っていた。
大学にまったく友達がいないわけではなかったが、そんなに重要だと考えていなかった。
そう思わせたのは、やっぱり彼の存在があったからだ。彼がいればそれ以外は本当にどうでもよかった。
絶対的に裏切らない存在。私は彼を信じていた。
それなのに愛は私を「親友」と表現している。友達なんていらないと思っていたのは、私は自分がうまく人間関係をつくることができる器用な人間じゃないことを知っていたからだ。
自ら友達をつくる努力をしなかった。しかし、それは単に私が壁をつくっていただけだったのではないか。
私は彼を失ったひきかえに友情の存在に気付かされた。
「お前は男を信じすぎている。お前の見る目がなかったと思って諦めろ。他にすることがあるだろ。」
愛が家に来た次の日、直哉が言った。
私の所属しているサークルの社会学部の一回生だ。
私が彼からの別れの電話を受けた時、たまたま会った直哉とサークルの先輩と食事をしていたから、電話を切って店に入って泣き崩れた私を彼は知っている。そんな彼に半ば説教ともとれるようなことを私はまた、その店でご飯を食べながら聞いていた。私は彼が「お前」と言うのに不快感を覚えながら彼の話を聞いていた。言い方はきついけど、私のことを慰めているらしい。しかし、私はこの男が私のことをよくも知らないくせに偉そうなことを言ってくるので腹がたち、来たことを後悔した。第一、私は振られたばかりなのに、他の男と二人きりでご飯を食べている。飽きれた。自分自身に。同じ一回生ではあるが、彼は年上である。年上だからってなによ、と、心の中で呟いた。どう考えても振られてすぐの女に言う言葉ではないだろう。サークルの先輩にオススメされた、評判の高いから揚げもまずいと感じる。せっかくの食事が台無しだ。彼の言葉は確かに私の傷をグリグリとえぐる。苦しい、痛い、助けて。
一番辛かったのは、直哉が彼のことを「ろくでもない男」認定していることだ。
それこそ、何も知らないくせに、と言いたくなる。私は彼のことを「最低な人間」と思っているが、他人に言われると悲しくなる。
私はまだ自分自身と彼を切り離せていない。
「いい加減にして! そんな話聞きたくない! わざわざ呼び出して説教がしたかったの? それならもう帰る。」
耐え切れなくなった私は立ち上がって叫んだ。直哉は驚いた顔を見せた。
「違うんだ、俺もそういう経験あったから、お前に俺と同じようになってほしくなくて…」
それから彼は自分の過去の恋愛を語りだした。
それは私にとって興味のない話だった。
まとめると、彼女にひどい言葉を言って自分勝手なことばかりしていると振られてしまったが、諦めきれなかった直哉はストーカー化してしまった、という話だった。直哉は私にストーカーになってほしくないと言っていた。
ご飯を食べながら、少し優しくなった直哉の話を聞いて、私はこんなふうに立ち直ることができるのかと考えた。
食べ終わり、一人ずつ会計を済まし、家まで送ってもらい寝た。久しぶりに外に出たから疲れたのかすぐに眠ることができた。
大学のレポート試験期間が始まった。
大学は私の事情なんて知らずに現実を叩きつけてくる。
私は大学に行かざるを得ない状況になっていた。失恋したので行かなかったら単位を落としてしまいました、なんてことは親には言えない。冬休み期間に何もできなかった私に課題が容赦なく襲いかかる。忙しくしている間だけは彼のことを忘れることができた。それは私にとってよいことであると共にどこか寂しかった。苦しい、つらい、忘れたいと強く願っていたはずなのに、忘れてしまったらあの私が苦しんだ日々はなかったことになってしまうんじゃないか、周りの人が忘れて失恋が風化してしまったら、あの時の私がかわいそうじゃないか、忘れさえいなければ彼は戻ってくるんじゃないか。そう信じていたから。
レポートが終わると次は試験があった。
事前に勉強しなければいけないことなんてほとんどなかったが、語学の勉強はしなければサッパリだったので黙々と続けた。
勉強中、彼を思い出すとノートの文字が滲んだ。泣きながら勉強した。
語学の試験の二日前になって、同じ語学を選択している直哉から
「一緒に勉強しよう、とりあえずご飯食べない?」と、連絡が来た。
そこで、大学の図書室で勉強していた私は大学の近くのマクドナルドに移動して、直哉に会った。
「久しぶりだね、なんか元気そうじゃん。やっぱ俺が言ったとおりじゃん、他のことやってれば大丈夫になるってさ」
この男は人の心を読めないことにおいて天才的だな、と、思った。
私は決して立ち直ったわけではないし、開口一番に言う言葉ではないはずだ。
またしても来たことを後悔し、二度とこの男の誘いには乗らないと思った。
断ることができない自分がたまらなく憎い。
直哉の一言を無視し、さっさと勉強を始めた。
直哉もその後話しかけてくることはなかった。私はどうして直哉が誘ってきたのか、少し考えてやめた。
そして日付が変わったのを確認すると、
「そろそろ帰ったほうがいいんじゃないの」と、私が声をかけた。
「ああ、そうしよう」「送るよ」と、直哉が、答えた。
「あ、いいよ、私買い物あるし。」
「こんな時間に?何買うの?」
「お酒買おうかなって」
「そうなん?俺も飲もっかな。」「美月の家で飲もうで」
そんな流れで直哉が家に来ることになった。
部屋は自分の心の状態を表すと聞いたことがある。私の部屋は大荒れのままだった。
さすがにまずいと思い、コンビニに直哉を待たせ大急ぎで片付けた
。片付けを始めてすぐに、この部屋には彼の想い出が多すぎると再び実感した。
結局あまり綺麗にならなかったが、彼でもない人にどう思われようとどうでもいいかという考えに至り、私は直哉を迎えた。
お酒を飲み、深夜のアニメを見て、感想をお互いに話していたら私はとても眠くなった。意識が遠のいていった。
首筋に違和感が走る。眠い目をこする。
ゆっくりと目をあけると、直哉が首にキスをしていた。
いつの間にかベッドに移動して眠っていた私に覆いかぶさっている。襲われているのだと理解した。
「ンッ」声が漏れた。
「起きた?」
直哉の声がする。私は目をつぶったまま抵抗しようとした。
「だから、言ったじゃん、男のこと信用しすぎちゃダメでしょ?
それとも、わざとこういう展開にしようとしてた? 期待してたの?」
直哉が小さく呟いた。私は抵抗をやめた。
直哉はそのまま服の中に手をいれてきて、器用に下着をとり、私の胸に触れた。
直哉の大きくて冷たい手で敏感な部分を触られ、私の体はビクビクと動いた。
「本当は欲求不満だったん?美月エロいなあ」
直哉が耳元で話してくる。そのことにも反応し私の体はうごめいた。
息が上がる。苦しい。体温が上がる。
上半身の服を脱がされ、直哉に胸を舐められた。
その姿を私は彼に重ねる。
彼が私の胸を舐めながら、「美月気持ちいい?美月可愛いよ、大好き。」と言ってくれるのが大好きだった。
かつての彼が浮かんでは消え、残ったのは性欲に負けた男だけだった。
胸に飽きた直哉は次は下半身を脱がした。私はもうどうでもよかった。
私の体は完璧に男を受け入れる準備ができていた。
「すっげー濡れてるやん。もう入れていいよね」
私は無言で起き上がり、彼が置いていったコンドームを渡した。
直哉はなぜあるのかと理由を聞くこともなくつけて、私の中に挿入した。
彼と何度も重ねた体。彼に捧げた処女。
彼以外と行為を行うことはないと思っていたのに、こんなにも簡単に私は他の男に行為を許している。
彼も他の女と体を重ねているのだろうか。そう思うと吐き気が襲う。
彼のイく瞬間の顔が可愛かったな、とか、彼はこの体位が好きだったな、とか。
私は直哉と体を重ねているのに直哉をまったく見ていなかった。
やがて果てた直哉はそのまま横になり、私と背中合わせにして眠ってしまった。
私はしばらくボーッとして、直哉が寝たのを確認すると、そっとベッドを抜け出し、散らばった服を掻き集め、脱衣場に逃げ込んだ。
何度も何度も体を洗った。どんなに洗い流しても自分が汚いと感じた。やがて諦めてコタツに入り眠った。
朝起きると直哉はいなかった。試験があったのだろう。別に構わなかった。
直哉を責めるつもりも誰かに言うつもりもなかった。全部自分が撒いた種であると分かっていたから。
ゴミ箱に捨ててある使用済みコンドームを見て夢じゃなかったんだと分かった。
今日は私は試験がなかったので、そのまま家で語学の勉強を行った。
その次の日は語学の試験日だったが、直哉に会うことはなく、試験勉強のおかげもあって、そこそこの出来で試験を終えた。
「テストできた?俺はまあまあかな。あと、この前はごめん。本当に悪いと思ってる。もう二度としないから許して」
直哉からメッセージがきていた。
「テストまあまあできたよ。気にしてないからいいよ」
と返した。実際気にしていなかった。
こうなることも予想できなかった自分が悪かったのだ。
直哉の言葉通り、こうなることを期待していたのかもしれない。
どちらにせよ、もう直哉とは普通の友達にはなれないなと感じた。
私は結局また信じた男に裏切られた、ただそれだけなのだから。
彼の裏切りに比べたら、直哉の行為なんて可愛い物だとすら思う。私の感覚は完全に狂っていた。
直哉と体を重ねてしまったことで、忙しさにかまけて忘れかけていた彼への気持ちを再燃焼させることになってしまった。
彼との行為を思い出して、私は暇さえあれば、自分で自分を慰めることをしていた。
そこからおかしくなるのは早かった。
試験がすべて終わり、私は美容院に行った。
長く伸ばしていたロングの黒髪をボブカットにしてもらい、髪を出来る限り明るくしてくださいと頼んだ。
髪は金色に近くなった。
そして、私は派手な服を着て河原町でナンパ待ちをするようになった。
チャラくてアホそうなホスト風の男にたくさん声をかけられた。
毎晩毎晩ラブホテルにチェックインし、お酒を大量に飲み、行為に及んだ。
行為の最中だけは大好きな彼に会えると錯覚していた
。私はどんどんどんどん汚くなっていった。経験人数と彼への恋慕の気持ちだけが増えていった。
しかし、私はそれが楽しいと思っていたし、そうしていると自分が救われるような気がしていた。
いつの間にか自分がおかしいことにも気付かなくなっていった。
直哉に汚されて彼以外の男を知った私が何人とセックスしようともう関係ないと思った。
そんな時に同じゼミの慎一に出会った。
河原町は京都で一番栄えている場所で、うちの学生もよく行く場所だ。
知り合いに会っても不思議ではなかった。慎一は心理学部の認知心理学専攻の学生が所属しているゼミで私が唯一話せる人だった。
そして、とても優しく、成績が良い。
女子からも人気があるようだ。
ゼミの女子たちのノリについていけず、早々と女子グループから撤退し、ひとりぼっちだった私に話しかけてくれたのが慎一だった。
「もしかして、美月?」
私の見た目がガラリと変わっていたので、おそるおそる話しかけてきた。
「慎ちゃん!久しぶりだね。」
「なにしてたん?」
「ちょっとね、慎ちゃんは?」
「俺はね、資格の勉強するために参考書買いに来てた。
今はその帰り。これから飯でも行こうと思うんやけど、一緒にどう?」
「いいね、何食べる?」
今日もどこの誰か知らない人と寝る予定だったが、急遽変更して慎一とご飯を食べることにした。
慎一はこの近くに一人暮らししているので、河原町付近の美味しいお店をよく知っていた。
二人でぶらぶらと歩き回り、慎一オススメの焼き鳥屋さんに入った。
「そういえば、ずいぶんと見た目が変わったね。イメチェンでもしたの?」
「まあ、そんなところかな」
「美月には似合わないよ」
慎一は怒ったような、困ったような、よく分からない顔をして言った。
それは、焼鳥を食べて、ほどよく酔っ払っていた時だった。
「なによお、私だって好きでこんな風にしてるわけじゃないんだからあ」
私は酔っ払って呂律が回らないながらも、そう答えた。
「こうするしかないんだからあ、もうやだ、帰る」
フラフラと立ち上がった。酔っ払いながらも、慎一に見透かされてるような気がして、帰らなければいけないと思った。
自分がやってきたことが否定されているような気がしてこわかった
慎一は優しい人間だから、私の話をきっと親身に聞いて、慰めてくれるだろう。
そんなことは容易に想像できた。そんな慎一に甘えてしまうかもしれない、それがこわかった。
後ろで慎一が「ちょっと待って」と言う声が聞こえた。
私は構わずにバス乗り場に向かい、急いで乗り込み、数十分間バスに揺られて、久しぶりに自宅のベッドの上で深い眠りに落ちた。
次の日もその次の日も私は河原町に出向き、ワンナイト・ラブを繰り返していた。
お金を要求しない私は都合いい女に成り下がっていた。
たまに優しさを見せたがる男が私の身の上話を聞きたがっていたが、私は自分自身の情報を必要最低限しか話さなかった。
代わりに、男の話をニコニコしながら聞いてやると、男はみな、得意げになった。
自分の会社の話や、過去の恋愛でどれだけモテたかの武勇伝。
同じような話しかしない男たちをいつしか、私は馬鹿にするようになっていた。
彼も私が馬鹿にしている男たちと同じで自慢話ばかりしているのだろうか。虚しさに包まれる。
その日は、河原町のタワーレコードにいた。運命的な出会いをした。
以前に愛と優衣の三人でカラオケに行った時に、愛がback numberの「花束」を歌った。
「僕らは何回だって 何十回だって 君と抱き合って手を繋いでキスをして
思い出す度にニヤけてしまうような想い出を君と作るのさ そりゃケンカもするだろうけど」
愛の美しい綺麗な声で歌われたこの曲を聴いて、私は一瞬で好きになった。
その頃は彼と一か月に二回ほどしか会えていなかったが、彼の院試が終わり、
来年からはもっと会う時間が増えることが分かっていて、これから始まる新しい二人の生活に期待に胸を躍らせていた。
この曲のように、自分たちは幸せになれると信じていた。
この曲だけでなく、back numberに興味を持っていた私はアルバムを借りることにした。
今となっては大好きだった「花束」は、彼を思い出す道具に過ぎない。
振られてから一度も聞くことが出来なくなっていた。アルバムを探し、借りた。
家に帰り、パソコンを立ち上げ、曲をウォークマンに取り込んだ。
何かに憑りつかれたかのように曲を再生する。その中の「幸せ」という曲を聴いたとき、嗚咽をもらして号泣した。
とまらなかった。
「本当はもう分かってたの あなたがどんなにその人が好きなのかも」
「最初からあなたの幸せしか願っていないから それがたとえ私じゃないとしても ちゃんと最後は」
「こんなに好きになる前に どこかで手は打てなかったのかな
私が選んで望んで恋したんだから 叶わなくても気持ちが伝えられなくても こんな気持ちになれた事を大切にしたい 本当だよ」
ああ、私だ。
私がいる。
曲をしっかり聴くと主人公の女の子と私の状況は似ても似つかない。
それでも、自分と重ねずにはいられなかった。
分かってた。私を振るくらい、彼は告白してくれた女の子に心惹かれてしまっていたんだ。
彼のためならなんだってできると思うくらい、彼の幸せを願っていた。
彼が院試で合格するために、毎日お参りを続けてきたじゃないか。
騙された、裏切られた、と、嘆いたけど、彼を好きになることを選んだのは、ほかでもない私自身。
彼はどこかの宗教の教祖様ではない。私は洗脳もされていない。
私が彼を選び、望んで恋をした。一年半の月日をすべて否定して無駄だったと思うのも嫌だった。大切にしたい。
曲のリピートを繰り返し、静かに泣き続けた。
「幸せ」に出会ってから、私は心を入れ替えようとした。
しかし、それはなかなかに難しいことだった。
私は自分の想像以上に心を病んでいた。
毎日眠りから覚めると彼を探すようになった。
私の中の時間はクリスマス前で止まったままだった。一人暮らしは独り暮らしで、病んでいる私は耐えきることができなかった。
発狂を続けていた。
私はやっぱり「幸せ」の主人公にはなれなかった。
前向きに彼の新しい恋愛を受け入れることが出来ない。
私が彼の「過去」の女になっていることを認められなかった。
発狂の合間に正気に戻ると、慌てて、外に逃げた。
行く場所は決まって河原町のラウンドワンの前。
ここに立っていると、男に声をかけられることを連日の経験から学んでいたからだった。うつろな目で立っていた。
「ねえ、お姉さん」「今暇なん?」
どこかの大学生に声をかけられた。
「ええ、私、暇なの。お兄さん、かっこいいね」
かっこいいなんて思ってもいない。私も彼と同じで嘘つきだ。
分かりやすいお世辞に安っぽい笑みを浮かべた大学生と共にラブホ街に消えた。
大学生は彼と体型や雰囲気が似ていた。彼と体を重ねていると、私は彼と大学生を交錯してしまった。
「賢くん、賢くん、賢くん・・・」
大学生が腰を振りながら、困ったような顔をする。
「俺、賢って名前じゃないよ。誰と間違ってるん」
やばい、と、思った。
しかし、性欲を満たすために、私を利用している人間は、私の話なんて興味がないようだった。
それ以上何か言ってくることはなかった。
目が覚めると、大学生はいなかった。
あの後、大学生は三回イった。さすがに、何ラウンドもヤった次の日には腰が痛い。
腰の痛さにもだえて帰る準備をしようとした。服を着て、化粧をする。
備え付けてある机の上にはなにもなかった。
今まで寝てきた男たちは、ホテル代とわずかな手切れ金程度を残していたが、大学生にはそんな金すら払う余裕がなかったようだった。
しょうがないか。鞄の中を確認する。ない、ない、ない。
サイフを盗まれていたことに気付いた。彼に似た大学生に。
取り返そうと思った。連絡先が分からなかった。
大学生の名前すら知らない。
助けてほしいと思った。真っ先に思いついたのは彼だった。
困った時に連絡して助けを仰いでいたのは彼だった。
どうしよう。愛に連絡するか? 愛にはこんな姿見られたら幻滅されてしまう。
だめだ、だめだ。優衣は? 無理だ。直哉? また馬鹿にされてしまう。
ああ、そうか、これは罰だ。私が憎しみを捨てなかったから。「死ねばいいのに」と言ってしまったから。
神様は私を許してはくれなかったんだ。
呆然とした。
崩れ落ちた。
涙は出なかった。
それから数分、罪でも罰でも、私はこの場所から出なければいけなかった。
フロントに電話をして、サイフを忘れてきたので人を呼ぶことにした、と伝えた。
フロントの老婆には、男に置いていかれた哀れな女だと思われているんだろう。
その通りだった。人を呼ぶ、と、言ったところで、私には呼べる人がいなかった。
スマホを握りしめて途方に暮れる。そんな時に、電話がかかってきた。
慎一だった。
「もしもし?」
「あのさ、美月・・・」
「お願い、私を助けて」「今、○○ホテルの二○一号室にいるの。
サイフを盗まれて、外に出れないの」
慎一が驚いて息をのむ音が聞こえた。
「分かった」と、一言だけ告げて、慎一は部屋にやってきた。
慎一の家は、そう遠くなかったようで数十分待つとノックの音が聞こえた。
「ごめん」
「いいよ、とりあえずここから出よう」
階段を降りる間は、二人は無言だった。
私は慎一の隣にいることすら許されないほどの情けない人間だ。
彼をそっと盗み見ると、あの、怒ったような、悲しいような顔をしていた。
慎一のこの顔は癖なのかもしれない。フロントでお金を支払ってもらい、そのまま外へ出た。
私は慎一の後ろをついて回った。
「慎一」
「なに?」
「本当にごめん、お金はちゃんと返すから」
私と慎一との間には三メートルほどの距離が空いていた。
慎一は振り返って怖い顔で私に近づいてきた。殴られる、と、思った。ぎゅっと目をつぶる。
次の瞬間、私はあたたかいものに包まれていた。
慎一に抱きしめられていた。私の首に慎一の涙が吸い込まれていた。
それはやがて消えた。慎一は泣いていた。
「美月、あの話、覚えてる?」
「あの話って?」
「花火の時の話」
それは、夏休みも中盤に差し掛かった時だった。
私たち認知心理学専攻の学生はゼミのみんなで鴨川付近で花火をしたことがあった。
私はその頃にはもう孤立していたので行く気なんてまったくなかったけど、私以外全員が参加するということだったので仕方なく参加した。
行ってみると、すごく楽しかった。
普段は話したりしない人たちとも話すことが出来た。
盛り上がりが最高潮に達した時に、もっと花火がしたいと誰かが言い出したので、近くのコンビニに買いに行くことになった。
全員でじゃんけんをした。私はこのころから神に見放されていたのかもしれない。
じゃんけんに負けた。私が買いに行くことになった。女子学生の誰かが「誰か、男子一緒に行ってあげなよ」と言った。
「俺が行くよ、じゃあ、行こっか」
慎一が真っ先に名乗りを挙げた。二人で行くことになった。しばらくすると沈黙が続いた。考えてみると、彼以外の男の人と二人きりになるのが初めてだった。私は変にドギマギしていた。蛍光灯に照らされた慎一の整っている横顔は美しかった。それは、立派な男の顔だった。それに、私よりもずっと背が高い。
沈黙を破ったのは、慎一だった。
「美月、俺の昔話聞いてくれない?」
「いきなりだね、いいよ」
「じゃあ話してくね。あれはさ、俺が初めて京都に来た時のことだった。
昔話するって言ったのに、そんなに昔の話じゃないんだけどさ、そう、受験の時。
京都駅からバスに乗り継いで試験会場に向かったんだけど、俺さ、京都駅にサイフ置いてきちゃったみたい。
それで、バス代金払えなかった。その時はまじで終わったって思った。
そもそも俺は寝坊しちゃって、一緒に行くはずだった高校の友達は先に行ってた」
「それは大変だね、慎一でもそんなミスするんだ」
「そう、俺もさ、こんなこと初めてでどうすっかなって思ったんだけど、降りる時に運転手に言えばいっかって考えてたの。
そんなことよりもさ、今日は俺の人生がかかってる日だから、そんなことに構ってられる気がしなかったんだよね。
運転手に言うと困った顔で『困りますよ』って言ったんだ。ひどいよね。こっちは、受験生なんだって。そこに女神様が現れた。
運賃を払うために俺の後ろにいた女子高生がさ、『どうぞ』って。車内はは俺に文句言う人とかいてさ、そんな中で俺を救ってくれた。
勇気のある人だよ」
「そんなことあるんだ」
「それで、俺は運転手に睨まれながら、バスを降りた。
必死に自分を落ち着けて、試験を受けた。
試験はお世辞でもよくできたとは言えなかったから、不満も残ってたんだけどさ、いいこともあった」
「いいことかあ」
「受験会場で俺のななめ前に、運賃を貸してくれたあの女子高生がいたんだ。
信じられなかった。同じ大学の受験に来てたのは分かってたんだけど、まさか同じ学部の受験してるとは思わなかったんだ。
そこから、なんとなく気になる存在になった。俺のこと単純だって笑う?」
「そんなことないよ、笑わない」
「よかった。そして、俺は晴れてこの大学に入学することができた。
よくできたとは言えなかったテストに合格することができた。
合格通知を受け取った時に思い浮かんだのは、あの彼女だった。
彼女は合格しているのだろうか。もう一度、彼女に会いたい、と、願った」
「そんなうまい話あるのかな」
慎一のような、好青年には神様だって味方するのか、と、思った。
「そう思うじゃん? 俺もそう思ってた。だから、ほんの少し、ほんの少しの淡い期待をもってた。
でもね、奇跡ってあるんだよね。俺は彼女と再会することができた。驚いたことにその人は今も目の前にいる」
「え?」
「美月なんだよ、覚えてないか」「美月が好きだった」
「好きだった?」
「さっき、俺のこと単純だって笑わないって言ってくれたよね。
やっぱり、美月は優しい人だって思った。美月に彼氏がいることは知ってる。
美月が話してくれたもんね。あの時からずっと好きだった。
美月は俺の事をみんなに優しい人って言うけど、そんなにかっこよくないよ。
俺が美月のこと好きだって、ゼミの連中はみんな知ってるんだよ? 知らないのは美月くらい。
でも、今日で終わりにするって決めたんだ。俺諦めたわけじゃないよ。彼氏なんて認めてないし」
「全然知らなかった。ごめん・・・」
「なんで謝るの?美月は変だなあ。あ、ついた」
コンビニについて、適当に見繕い来た道を戻った。不思議と気まずくなったりはしなかった。
私は慎一のことを友達として信頼していたからだ。
それ以上に、慎一がいい人だったんだろう。告白の返事をせがむこともなかった。
私は「花火の時の話」を思い出した。
告白と言っていいのか分からないけれど、自分に好意を向けてくれた初めての経験だったから、忘れることはなかった。
一字一句違うことなく鮮明に思い出せた。
「覚えてるよ」
「そっか、美月はすぐ忘れちゃうから、また忘れてるのかと思った。
サイフ盗まれたって聞いて、受験の時のこと思い出した。
美月がなんでこんなとこにいたとか知らないけどさ、全然似合わない髪型と変な服でなんかあったのまるわかりなんだよね。
そんな美月見たくないよ。もっと自分の事大切にしろよ」
「ごめん、ごめんね」
「すぐそうやって謝るよな」
「慎ちゃんにとっての女神様だったのに、こんなになっちゃってごめん」
「美月はずっと女神だよ。俺、嘘ついた。
まだ美月の事好きだわ。好きじゃなきゃこんなとこ来たりしないよ」
「嘘つきだね、大嫌い」
慎一と唇を重ねた。乾いた唇が少し痛い。私の中の彼は小さくなった。
許そう、嘘をついた彼も意固地な私も。
エピローグ
「すみません、ちょっと話聞いてもらえますか?」
幼い少女がカーテンの隙間から不安げな顔を覗かせていた。
あのキスから、私は賢を忘れようとすることをやめた。
賢は私の中にいるけど、もう私には必要のない人間だ。
たまにどうにもならない気持ちに苦しむことがあったが、そんな時にはそばで慎一が「俺がいるじゃん」と慰めてくれた。
そして、底なし沼とも思えたどす黒い感情は消えた。
感傷に浸ることはあっても、もう賢の顔すら思い出せないようになっていった。
さらっと流しているがここまでに一年はかかった。
どこかのサイトで見たように「時間が解決してくれる」のは、本当だった。少しだけ時間はかかってしまったとは思うけど。
慎一はあの後「付き合ってほしい」と、正式に告白してきたが、私は断った。
文字だけの恋人なんて意味がないと思ったし、賢を思いながら、慎一と付き合うことはできなかった。 私は二回生になり、勉強に明け暮れた。一回生では単位を落としてしまったため、必死で勉強した。それは三回生、四回生と続いた。
その後大学院に進みスクールカウンセラーの資格をとり、現在京都市内の中学校に勤めている。
私の経験は周りの人から見たら「失恋で荒れた」と、一言で片づけられてしまうかもしれない。他人から見たらよくある話でも、本人にとってはどんなに些細なことでも一大事だ。生死を彷徨った。自暴自棄になった。こんな私だからできる仕事、それがこの仕事だと思っている。
女子中学生の話を聞いて、
「そんなことがあったんだね」と言った。
「そうなの、疲れちゃった」「でも、先生に話したら、すっきりした。やっぱり高松先生が言ってた通り先生は話しやすいね」
高松先生とは、慎一のことである。この中学校の国語教師になっていた。慎一は学部を卒業し、今ではこの学校の人気者だ。
ありがとうございました、と、女子中学生が扉を閉めて出ていった。
時計はもうすぐ定時を迎える。私の仕事も今日は終わりだ。
「これから会える?」慎一にメッセージを送る。
「もちろん」と、返ってきた。
これから私は重大なことを伝える、伝えなきゃ、と、深く息を吸い込んだ。