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ストーカーに本棚のエロ本見られた腐女子だけどなにか質問ある?

作者: 都神
掲載日:2013/11/09

「手間ぁかけさせやがって」

 扉の向う側から声がしてリリアンはぱちくりと二度まばたきをした。背中で縛られた腕が痛い。

「そこから動くんじゃあねぇぞ」

 ドゴンッ、と大きい音がしてすぐ横を大きな固まりが通り過ぎる。バタン、とガシャン、の混じり合ったような轟音がリリアンの鼓膜にダメージを与えた。床に破壊された扉が一枚落ちている。そのあとすぐリリアンの目の前にあった扉もバリバリと音をたてて引き剥がされ視界から消えた。またバタン、とガシャン、の混じり合った轟音がして扉だったものが前方に倒れる。

 リリアンの目の前に扉を引き倒したであろう腕がぬっと伸びてきて体が強引に引き寄せられた。暖かい壁にポフンとぶつかりトクントクンと一定の音が聞こえてくる。心臓の音だ。

 彼女がふと首を動かすと頭上に見知った顔があった。黒く長い睫に覆われた切れ長のコバルトグリーンが前方を睨み付けている。


 隆弘だ。


 リリアンの肩を抱く隆弘の腕に力が入り、彼の心臓の音がよりいっそう近くで聞こえる。ブチリと音がして火の付いたタバコが床に落ち、隆弘がツバを吐いた。口の中に残ったタバコの残骸を吐き出したのだろう。

「ふざけやがって」

 彼は腕にリリアンを抱いたまま大きく右足を振り回した。

 ドガッ、と腹に響く低い音がして何かが床に倒れ込む。先ほど自分に乱暴しようとした男だと気づいたリリアンはけれど強い力で抱きとめられているせいでその様子を見ることが出来ない。

 隆弘の低い声がした。

「――覚悟しやがれ」

 声と、喉を使った振動と、心臓の音が、聞こえてくる。血液の流れる音さえも聞こえてきそうで、そのほうが安心できると思えて、リリアンは隆弘の腕の力に従うフリをして彼の胸に顔を押しつけた。


 ◇


 黒服を着たゴツい男に学生証を見せて入場料として3ポンドを払うとナイトクラブ『オーバーチュア』に入れる。荷物を預けるためには1アイテムにつき1ポンド払う必要があるので荷物は少なめが必須条件だ。できればコートも羽織らないほうがいい。リリアンは必要最低限のものが入ったポシェットを肩にかけ直してまずはカウンターに向かう。

 途中彼女連れの男がリリアンの姿を見て口笛を吹き連れの女に肘で小突かれていた。強めの攻撃だったらしく男が微かに仰け反る。

 リリアンの金髪は薄暗いナイトクラブの中でもキラキラと光り金糸で作りあげた装飾のようだ。大粒のエメラルドをはめ込んだような目は長い睫に覆われておりそれ自体が贅沢な宝飾品を思わせる。透き通るように白い肌はところどころ赤みがさしていて、すらりと長い手足にふくよかな胸を持つ姿はその手の趣味を持った人間が愛好する球体関節人形を思わせた。セクサロイド的な、人が欲望のまま描いた『美しい女』をそのまま体現させたような容姿をしている。肩をむき出しにした黒のミニドレスが体のラインを強調し、恵まれた容姿と相まって性的職業を連想させた。

 実際彼女の職業を勘違いした数人の男がリリアンに声をかけ、彼女はそれを笑顔で躱しながらカウンターまで歩いて行く。バーボンを一杯とスライスチーズを注文したリリアンはまた仕事を頼もうとする男たちの誘いを笑顔で断り、今度は数人の男女が集まるテーブルまでまっすぐ歩いて行った。集まった内の1人、赤みがかった金髪の女性がリリアンに気付き片手をあげて合図を送る。

「リリー! こっちこっち!」

 友人の声を聞いた途端、男の誘いを断るため穏やかな笑みを浮かべていたリリアンがにっと歯を見せて笑った。

「わーってるよ! せかすなせかすな!」

 薄暗いダンスホールを色とりどりのライトがグルグルまわっている。酒とタバコと化粧と食べ物のニオイが混じり合い人の熱気に満ちた空間はお世辞にも過ごしやすいとは言えないが、人の気分を高揚させた。大音量で流れているアップテンポなダンス・ポップも原因の一つかもしれない。

 理性も平衡感覚も狂いそうな中テーブルに辿り着いたリリアンを友人たちは笑って出迎えた。先ほど声を上げた女性――エリンがビールを片手に持ったままリリアンを肘で軽くつつく。

「遅刻よ! なにしてたの?」

「夏に買ったホモ本読んでたの」

 途端エリンの表情が呆れたものに変った。

「聞かなきゃ良かった」

 反対隣にいた黒髪の男、ハリーは芝居がかった様子で肩を竦める。

「わかりきった答えだろ」

 金髪の眠そうな表情をしたフランス人、ドナが腕時計を見ながら首を傾げた。

「あと誰が来てない?」

 楽しそうにニコニコ笑っている赤髪のイタリア人男、エヴァンドロがドナの肩に寄りかかりながらやはり笑って答える。

「隆弘がきてないけど、さきにやっててくれっていってたよ!」

 ビールを小さなテーブルに置き、ポシェットの中を漁り始めたリリアンがエヴァンドロを見る。

「それはなんだエヴァ、ホモなの?」

「うーん、違うなー! 俺は女の子のほうが好きだなー!」

 エヴァンドロに寄りかかられたままのドナが呆れた様に目を細めた。

「これだから腐女子は」

 リリアンがポシェットから15g入りの胡椒を取りだしスライスチーズにかけ始める。チーズの表面が真っ黒になったところで黒髪の黒人女性――アリエルがリリアンの手を掴んだ。

「絶対体に悪いからそれ以上はやめときなよ」

 リリアンが口を尖らせてアリエルを見る。

「止めないでー! 味が薄いと死んじゃう病気なのー!」

「治せ。あんたそれでも医学専攻か」

「やーだーぁ! ストレスになりますぅー!」

 エリンがポン、とアリエルの肩を叩いた。

「まあまあ、それより乾杯しようか」

 全員が飲み物を持ち上げ、ハリーが口を開く。

「じゃあこのメンバーのプリリズム突破を祝して」

 リリアンが自分のジョッキを軽く振った。

「私は夏コミの新刊完売を祝したいぜ」

 アリエルが呆れた様にため息をつく。

「試験が終った翌日私とエリンにトーン張りさせたのよこいつ。休暇はギリギリまで日本で遊んでたみたいだし。これで成績優秀者(スコラー)なんだから嫌になるわよね」

 彼らは全員オックスフォード大学の学生だ。去年受けた進級試験(プリリズム)の結果が出たので、オックスフォードに戻ってきたのを機にこうして祝賀会を開いている。全員無事進級できた彼らの顔には始終笑顔が浮かんでいた。

 ハリーが眉をしかめる。

「乾杯の音頭くらいまともに取らせてくれ、リリー」

 愛称で呼ばれたリリアンが声をあげて笑い、まったく反省していない様子で

「さーせーん」

 と言った。

 その間にエヴァンドロがジョッキを持ったままカウンターを見る。ただでさえ騒がしい店内でさらに騒がしい一角があった。女性ばかりが集まる場所に視線をやると彼は笑顔でジョッキを持つ手を掲げる。

「よぉー! 我らがミスターロメオー!」

 女性ばかりの人だかりから頭二つ分ほど飛び出た男が歩いてきた。右手にビールのジョッキを持ち不機嫌そうに眉をひそめている。

「その呼び方やめろ」

 男は腕に絡みつく女の腕を振り払い低い声で吐き捨てた。195cmあるらしい体躯は見事な逆三角形を描き服の上からでも鍛え上げられていることがよくわかる。彫りの深い顔立ちと太い眉もあいまって非常に男くさい体格だが切れ長の瞳を覆う睫毛は非常に長い。生まれつきなのか薄く色づいた唇とともに見る人間へ中性的な印象を与えた。見事な黒髪と深い緑に囲まれた湖のようなコバルトグリーンの瞳が彼を東洋と西洋の血が混じったハーフだと教えてくれる。古代ギリシアの彫刻がそのまま動きだしたような男だ。

 整った顔立ちの男がエヴァンドロを不機嫌そうに睨む。睨まれた当人は笑ったまま肩を竦めただけだった。

 名を西野隆弘というこの男は名前と印象の通り日本人とイギリス人のハーフで、父親は日本の複合企業社長、母親はイギリス人貴族の娘という今時漫画でも出てこないような典型的御曹司である。

 恵まれた体躯と容姿、ついでに非常に恵まれた家庭環境のため色男(ロメオ)というあだ名がつくほど女性にモテるが本人は至ってストイック。むしろ言い寄る女性を鬱陶しいと一蹴するほどだった。そのため彼はあだ名で呼ばれることを酷く嫌う。言い寄る女性たちを振り払ってテーブルへ歩いてきた隆弘は眉をひそめてビールジョッキをテーブルに置いた。

「まだ指定図書一冊も読み終わってねぇんだよ。手間ぁかけさせやがって」

 彼の言葉にハリーが苦笑する。

「それ昨日言われたばっかりのやつだろ。むしろ一冊でも読み終わってたら正気を疑うね」

 言われた隆弘がニヤリと笑った。不機嫌そうな表情で吐き捨てたものの彼とて人付き合いが嫌いなわけではないのだ。

 エリンが男2人のやりとりを見て笑い、ジョッキを掲げる。

「じゃあ、成績優秀者(スコラー)が2人とも揃ったことだし、今度こそ乾杯しましょう!」

 全員がジョッキを手に持ち、狭いテーブルを挟んでお互いの目を見た。ハリーがワザとらしく咳払いをしたあと、先ほど言ったのとまったく同じ言葉を言う。

「じゃあこのメンバーのプリリズム突破を祝して、乾杯(チアーズ)!」

 ガシャン、とガラス同士のぶつかる音がしてビールの飛沫が飛び散った。全員がジョッキに口をつけ喉を潤すと再び談笑が始まる。気が向いたら数人踊りに行きもするが、休暇が終り友人同士久しぶりにゆっくり話せるとあって大体が互いの近況報告に費やされた。

 隆弘がポケットからタバコを取りだし口にくわえる。彼がタバコに火を付けている間にエヴァンドロがクイ、と彼の袖を引っ張った。

「なあ、あれミック・カーシュじゃねえの。セント・キャッツに住んでる」

「あ?」

 タバコの煙を吐き出した隆弘がエヴァンドロの視線を追う。リリアンもタバコを取りだし、同じようにエヴァンドロの視線を追った。ダンスフロワのすみに自分たち同様テーブルに集まっている集団がいる。尤も踊っていない連中はほとんど同じようにテーブルを囲んでいるから別段珍しいわけでもない。

 横で話を聞いていたエリンがヒョコリと顔を覗かせる。

「講師に気に入られてる人でしょ? ミュージシャン志望だっけ。『ハウス』の卒業生なのになんでキャッツなんだろうねぇ」

 『ハウス』とはオックスフォード大学のカレッジであるクライストチャーチの呼び名だ。オックスフォードには他にもたくさんのカレッジがあり、リリアンたちはオリオルカレッジに所属している。学寮でもあり学舎でもあるカレッジには教師も生徒同様に所属し、大体の学科は教師の所属するカレッジで授業を受ける。セント・キャッツもカレッジのひとつである。ハウスとオリオルは年代物の建物でどちらも煉瓦造りの中世を思わせる外見をしていた。オックスフォードの建物は大半が中世時代のまま取り残されたような見かけをしていて観光の要にもなっている。一方セント・キャッツは1962年にデンマークのユダヤ人建築家が設計した建物で近未来的な装いをしていた。つくられた当初は賛否が分かれたものの現在はそれ相応の評価を得ている。そんな外見だからなのかたまたまなのかリリアンたちはセント・キャッツに『変人が多い』という印象を持っていた。

 隆弘がテーブルに視線を向けたまま、さも興味がないと言いたげな声を出す。

「ルセックの野郎『芸術家の卵』が大層お好きみてぇだからな。スペンサーマニアだし、自分もスペンサーみたいな奴のパトロンになりてぇんじゃあねぇのか」

 ルセックはセント・キャッツに所属する英国文学の講師だ。

 ビールを飲んでいたドナが呆れたようにため息をつく。

「隆弘、君さっきスペンサーファン全員を敵に回したぞ」

「フン、別にスペンサー自体をバカにしたわけじゃあねぇさ」

 隆弘がまたタバコを咥える。

 彼が視線を向けたテーブルでは金髪に編み込みをいれた青い目の男が仲間たちと笑いあっていた。その中に小太りで気の弱そうな男がいる。決して背が低いわけではないのだが背中を丸めているため本来より小さく見えた。

 ダンスフロワの中央から帰ってきたハリーがリリアンたちの視線に気づき同じ方向を見る。

「あー、ミック・カーシュと『ハウス』のジャッキー・ボーモントじゃないか。ボーモント議員のご子息様があんなガラの悪い奴らと絡んでていいのかね」

 タバコをくわえたままの隆弘が目を細めた。

「……まあ、いよいよヤバくなったら逃げるなり叫ぶなりするんじゃあねぇのか?」

「そんなんできるタマかなぁ」

 ハリーが首を傾げたのでタバコを咥えたリリアンもつられて首を傾げる。隆弘は相変わらずミックとジャッキーに視線を向けておりタバコの灰が長くなっていた。もうすこしで自然に落ちそうだ。リリアンももう一度ミックとジャッキーを見る。ジャッキーのほうはずいぶん顔が赤いようだ。そのわりに汗はかいていない。暗くてよく見えないが会話をしていても相手に目線がいっていないような気がする。

 すこし様子がおかしいんじゃないのか

 タバコの灰を灰皿に落してリリアンがジャッキーの様子をよく見ようとした時、横に立っていた隆弘が叫んだ。

「おい! ジャッキーっ!」

 小太りの男がグラリと傾きそのまま仰向きに倒れる。頭を打ちそうになるところを駆け寄る隆弘が受け止めた。先ほどまで男と会話をしていたミックは茫然と目の前の出来事を眺めているだけだ。隆弘がジャッキーをダンスフロワの隅に寝かせたと同時にリリアンが駆け寄った。

「隆弘! そいつ意識戻らねぇのか!」

 タバコを咥えたままの隆弘がジャッキーを煙から守るように一歩離れ、駆け寄ってきたリリアンに向かって携帯灰皿を差し出してきた。リリアンは咥えていたタバコをその中に落す。

 意識を失っているジャッキーの肌は多少赤く、触ってみると熱かった。やはり汗はかいておらず高体温症が疑われる。

 今まで騒がしかったフロワから人のざわめきが消え音楽だけがかかっていた。不安そうにジャッキーの様子をみる野次馬の中からエリンが近づいてくるのを確認し、リリアンは彼女に視線をあわせる。

「エリン、救急車呼んできてくれ!」

 駆け寄ってきたエリンはコクリと頷く。

「わかったわ! あとはどうすればいい?」

「保冷剤かなんか持ってきてくれ! あるだけ! タオルかなんかまいてな! あと水! できれば霧吹きみたいなのに入れて!」

「わかった! アリエル、ちょっと来て!」

 エリンがアリエルの腕を掴み、人混みを掻き分けてカウンターへと向かった。彼女たちがカウンターへ行っている間にリリアンはジャッキーの衣服をできるだけ緩める。まずネクタイを外し、シャツのボタンを第三まで外す。ベルトも取り払ってズボンのボタンを外しチャックをあけた。胸元も随分と赤らんでいるようだ。意識がないのでここで水分補給してやることができない。気管に入る可能性がある。

 しばらくするとアリエルがタオルにくるんだ保冷剤と霧吹きに入れた水を持ってかけてきた。

「霧吹き観葉植物にかける用みたいだけど大丈夫!?」

 保冷剤を受け取ったリリアンはまずひとつを首の前頚部へとあてがい、霧吹きを受け取った。

「ああ、あっただけ上出来だよ、サンキュー」

 友人に礼を言ったリリアンは残りの保冷剤をジャッキーの脇の下と足の付け根へあてがい大静脈から体を冷やす。霧吹きで細かい水滴を体につけ表面からもできるだけ熱を取った。

 これで応急処置はできるだけやったので救急車を待つだけだ。このまま意識が戻らないようなら水分補給は点滴でやってもらうしかない。

 このジャッキーという男が夜のダンスフロワで高体温症になった理由は大体察しが付いている。いくら熱気に溢れているとはいえ、ナイトクラブで自然に過ごしていて高体温症になることなどありえない。となれば体温コントロール機能が障害を起したのだ。テーブルの上を確認すると色とりどりの錠剤がジッパーのついたビニール袋に入って放置されたままだった。いくつかの錠剤が袋からでたままになっている。自主的か無理やりかは解らないがジャッキーはこれを服用したのだろう。

 リリアンが周囲を見渡し、いたはずのミックと彼の友人たちが見あたらないことに気づいた。リリアンの横に立っていたはずの隆弘が人混みの向う側にいるのがかろうじて目に入る。背が高いので非常に目立った。

「おい」

 隆弘が入り口に立ちふさがるようにして誰かに声をかけている。リリアンが立ち上がって様子をみると金髪の編み込みが見えた。ミックと友人達がいつのまにか人混みを掻き分けて避難していたらしい。隆弘が声をかけなければそのまま逃げられていただろう。

「ダチがあんなことになってるってぇのに、てめぇらそのままトンズラする気か?」

 タバコを咥えた隆弘が男たちを睨む。道をふさがれたミックたちは焦ったように目配せしあい隆弘を避けるようにして少しずつ距離を取った。そのままじわじわと彼を避けたまま出入り口へ行こうとする。

「い、いやぁ、きゅ、救急車がさ……来たら、すぐ、誘導できるようにさ……」

 男たちの言葉を聞いて隆弘がハッ、と鼻で笑って見せた。

「そうかい。だが俺のダチがもう行ってるぜ。安心してジャッキーの傍にいてやりな……そのうち、警察もくるだろうぜ」

 ピクリとミックの肩が揺れる。なにやら張り詰めた雰囲気が流れているようだ。ミックたちは再び目配せをしあいもう一度隆弘のほうを睨み付ける。

 そして、駆け出した。

 隆弘を押しのけてでも逃げるつもりのようだ。数人の男に突進される形になった隆弘が咥えたタバコにグッと歯を立てた。ブチリと音がして火の付いたタバコが床に落ちる。彼はポケットからティッシュをとりだして口元を拭うと、右足を振り回して突進してきた男たちの足をすくうように蹴り飛ばした。バタン、と大きな音を立ててミックが倒れる。彼が痛みに呻いている間に隆弘の足が彼の腹に乗った。

「手間ぁかけさせやがって」

 グッ、と足に力を込められたミックが咳き込むように呻く。そのまま腹を踏みつけられたミックはぐったりと脱力して動かなくなった。男が気絶したことを確認し、隆弘は近くにいた友人2人に視線をやる。

「エヴァ、ドナ、他の奴らも大人しくさせとけ」

 言われたエヴァンドロとドナがバタバタとかけてきて呻いている足下の男たちを蹴り飛ばした。

 エヴァンドロがへらへらと笑い、もう1人蹴り飛ばす。

「わーってるわーってるよぉ!」

 横でドナが自分の上着をねじり上げて呻く男の腕を縛り上げた。

「服がシワになるよ。これどうすんの」

 エヴァンドロがへらへら笑いながら言う。

「もうどうにでもなぁれ!」

 ドナが眉をひそめて吐き捨てた。

「エヴァウザい」

「わぁお!」

 入り口からハリーが顔を出し、パタパタと手を振る。

「救急車きたぞ! 警察も!」

 隆弘が噛みちぎってしまったタバコの変わりを取りだし火を付ける。それを一口楽しんでから彼はニヤリと人の悪い笑みを浮かべて見せた。

「おう。じゃあ引き渡すか。病人も、悪人もな」



「チーズとアボカドのサンドイッチちょーだい! あとローストビーフのやつもいっこ!」

 カバードマーケットにあるサンドイッチ・カンパニーで昼食を取ることにしたリリアンは買ったサンドイッチを持って店の横に置かれたテラス席へ腰を下ろした。市場自体に屋根がついているので厳密にいうとテラス席ではないが、店内ではないし人通りがあるのでテラス席と同じ雰囲気がある。

 ハイストリートを小さな路地に入っていくとそこがオックスフォードのカバードマーケットだ。タイルが敷かれ屋根の取り付けられた屋内市場はハイストリートとマーケットストリートを繋ぐ4つの道とそれを繋ぐ3つの路地で構成されている。落ち着いた色の赤や緑、白亜の外壁は屋内であることもあってどれも綺麗だ。限られた場所に密集しているので店舗は小さい。ここに足を踏み入れるとドールハウスの中へ迷い込んだような気がするのでリリアンはカバードマーケットがお気に入りだった。観光客はだいたいクイーンストリートかコーンマーケットストリートで買い物をするのでカバードマーケットは比較的穏やかに過ごせる。

 リリアンがバッグからいつも持ち歩いている胡椒を取りだしサンドイッチにかけていると、横の席に腰を下ろした中年の男女が一瞬化け物をみるかのような目つきで彼女を見てきた。一見さんはだいたい同じような反応なので気にしない。サンドイッチの表面にまんべんなく胡椒がかかったところでリリアンはアボカドとチーズのサンドイッチをひとくち食べた。相変わらず美味い。

「リ、リリアン・マクニール、さん?」

 表面が胡椒で黒くなったローストビーフのサンドイッチを半分消費したあたりで声をかけられ、リリアンはゆるりと顔をあげた。横に小太りで気の弱そうな男が立っている。リリアンが男に目線を会わせようとすると男のほうがサッと顔を逸らした。見覚えのある顔だ。

 ローストビーフのサンドイッチをテーブルに置いてリリアンが首を傾げる。

「あー、ジャッキー・ボーモントさん?」

 すると男の顔にパッと笑みが浮かんだ。

「あ、ああ! そうだよ! 覚えててくれたんだね!」

「そりゃまぁ、さっきまで警察で昨日のこと聞かれてたからな」

 リリアンが自分の前にある席を指差して

「座ったら?」

 と言うと、ジャッキーが短く礼を言い椅子に腰を下ろした。

 縮こまるように手を膝の上に置いたジャッキーが目線を泳がせながら口を開く。

「き、昨日は、助けてくれてあ、ありがとう。ご、ごめんね。大変だっただろ? 応急処置してくれたのに、じ、事情聴取、まであって」

 リリアンはとりあえず食べかけのサンドイッチを手にとり少し食べた。パンと肉を飲み込んだあとジャッキーの目を見て笑うとまた目を逸らされる。

「事情聴取は形式的なもんだったし、応急処置はできることやっただけだからな。それよりあんたが無事でよかったよ。入院はしなくていいのか?」

 ジャッキーがMDMAを飲んだのは確実だが、この分だと自主的ではないと判断されたようだ。確かに目線を逸らしたりどもったりするだけでヤク中という雰囲気はない。

 ジャッキーが一瞬だけリリアンを見て勢いよく頷く。

「う、うん! ぼ、僕は、ミックたちに、無理やり、連れられて……ミ、ミックたちも警察でそう言ったから、ぼ、僕は、治療だけ受けて、す、すぐ帰っていいって」

「そっか」

 リリアンがサンドイッチを食べ終えて手を拭くため紙ナプキンに手を伸ばすと、その手をジャッキーに握られた。

「そ、それも君が助けてくれたおかげだよ! ミ、ミックたちが逃げてたら僕が逮捕されてたかもしれない……あ、ありがとう!」

 手が汚いままだなぁ、と思いながらリリアンは無理やり笑顔を浮かべ身を乗り出すジャッキーから少し距離を取る。

「いや、あいつら捕まえたのは隆弘たちだし」

「き、君のお陰だよ! ありがとう!」

 どうやら彼にリリアンの話を聞く気はあまりないようだ。

「リ、リリアンは優しいし、髪の色も綺麗な金色で、ほ、本当に、太陽みたいな人だ! あ、ありがとう!」

「え、や、礼を言われるようなことじゃねぇよ」

 リリアンはさっきから胡椒がついたままの手を気にしていたがジャッキーが手を離す様子はない。

「それにそんなこと初めて言われたぜ」

 浅く広い友好関係を気づいてきたリリアンは『根無し草』やら『たんぽぽのわたげ』と言われたことはあったが、『太陽みたい』などと歯の浮くようなセリフを言われたことはついぞない。言うような人間とのつき合いは極力さけてきた。

「ぜ、ぜひお礼がしたいんだ! 君には感謝してるから……あの、こ、こんど、食事でもどうかな!? れ、連絡したいから、メ、メ、メールアドレスを、お、教えてくれる!?」

 夜の町を歩けば商売女だと勘違いされるリリアンはこの手の雰囲気に敏感だ。ある種の目的意識をもってこちらに近づいてくる相手。そういう人間が発する独特のにおいをかぎ分けなければのちのち厄介なことになる。

 早い話がめんどくさそうな相手の誘いは早めに断れということだ。

「いや、礼を言われるほどのことじゃねぇからさ、気にするなよ。本当、あたりまえのことだからさ」

「でっ、でも、それじゃあ、ぼ、僕の気が、すまないんだよ!」

 うわめんどくせぇ。

 気が弱そうなのでちょっと押せば引くかと思っていたのになかなかしぶとい。お礼という大義名分があるからかどうにもリリアンのメールアドレスに御執心のようだった。そして向うに大義名分があるためこちらもすげなく断るのは抵抗がある。

 リリアンはとりあえず今この場を切り抜ける材料がないかと周囲を見回した。上手い事友人でも歩いていてくれれば話を合わせてこの場から立ち去れる。

「本当に気にしないでくれよ。お礼とかそんなつもりでやったわけじゃねぇんだ。逆に悪いよ、あれだけでそんなかしこまって言われるとさ」

 言葉を選びハッキリと拒絶の意志を告げながらリリアンはまばらな人の流れに頭二つ分ほど飛び出た人影を見つけた。タバコを吸っているようで煙を吐き出しながら歩いてくる。我が意を得たりとばかりに顔を輝かせたリリアンは椅子に座ったままその人影を呼び止める。

「おーい隆弘ぉー!」

 西野隆弘。昨晩一緒に飲んでいた仲間の1人だ。おそらく彼も事情聴取かなにかだったのだろう。リリアンよりもミックたちに関わっていたから少し長引いたのかもしれない。

 声をかけられた隆弘が立ち止まりリリアンを見た。タバコを咥えた彼に片手をあげて挨拶しリリアンが椅子から立ち上がる。

 ジャッキーの手を振りほどいた彼女は彼の目の前に片手を上げて苦笑とウインクを送った。

「悪いな、待ち合わせなんだ。話はまたあとでな」

 ジャッキーの反応は見ずにバッグをつかみ隆弘の傍へ駆け寄ると彼の右腕に腕をからめる。

「ごめんなぁ隆弘! さっそく買い物いこうぜ!」

 無論いつもはこんなことをしないので最初こそ驚かれたようだったが、ジャッキーとリリアンを交互に見た隆弘は何か言おうとした口を閉じ、リリアンの腕を振りほどくことはしなかった。

 リリアンの体が少し震えていたことに気づいたのかも知れない。

 タバコの煙を吐き出した隆弘が一緒にため息と言葉も吐き出した。

「手間ぁかけさせやがって」

 リリアンがジャッキーに軽く手を振って歩き始める。隆弘もそれに従ってくれる。

 隆弘の腕につかまるようにして歩くリリアンが彼を見上げた。

「ごめんなぁ、デート中だったぁ?」

 おどけて尋ねてみると、隆弘は呆れたようにリリアンを見る。

「そんなわけねぇだろ」

「でも隆弘モテるからさぁ、ハリーとかと」

 リリアンのつかまっていた腕がそのまま彼女を小突いた。

「男じゃねぇか」

 リリアンは相変わらずヘラヘラと笑っている。しばらく歩いて路地を曲がると彼女は隆弘の手を離した。解放された腕を使ってタバコを携帯灰皿に入れた隆弘はひとつため息をついてリリアンを見る。

「てめぇ手間かけさせた礼に『ベンズ・クッキー』奢れよ」

「えー! お前甘い物やたら食うってドナが言ってたぞ! どんだけ食うつもりなの!? 貧乏学生なんだから手加減してよ!」

「そのあとペンケース買いに行くから付き合え」

「人の話聞けよー! どこに買いにいくんだよ!」

「向かいの道に雑貨屋あっただろ。ネコのやつがいい」

「うわぁ」

 リリアンがわざとらしく低い声を出すと隆弘が彼女の頭を軽く叩く。

「買い物いくっつったのてめぇだろ。付き合えコラ」

 こうしてリリアンは拒否権もなく195cmの巨漢にズルズルと引きずられていったのだった。



 彼らが買い物から帰る頃には午後4時を過ぎており、10月ともなるとあたりは少し暗くなっていた。

 プリリズムを終えて無事進級した彼らはカレッジから出て町の南側にある借家を借りている。オックスフォードの学生は1年と3年時にはカレッジで暮らし2年になるとカレッジを出て借家を借りるのが普通だ。2年時にカレッジへ留まるのにはよほどの理由がなければ認められない。学生用に良心的な家賃が設定されているしその家賃も大抵が友人と分担して払う。リリアンはアリエルとエリンとルームシェアをしており、隆弘はハリー、エヴァンドロ、ドナと同じ家を借りていた。借家がたまたま隣あっていたため1年時よりも交流が盛んだ。

 家の前についたのでリリアンは隆弘に手を振った。

「じゃあ今日はサンキューな!」

 隆弘も『ベンズ・クッキー』の袋をこれ見よがしに振って挨拶を返す。

「こっちこそ、ありがとよ」

 彼の言葉にリリアンは口を尖らせたがまたすぐ笑って手を振り玄関へ向う。隆弘は家に入る前に一服するつもりのようだ。木造フェンスにもたれ掛かりタバコに火を付けている。

 家の鍵を取り出そうとバッグに手を突っ込んだリリアンはいつもの場所に鍵がないことに気がついて眉をひそめた。周囲を探ったり他の場所を見たりしてもあたりが暗いためよく探せない。試しに玄関のドアをあけてみると鍵はかかっていなかったのでエリンかアリエルが帰宅しているのだろう。明るい場所であたらめて鍵を探そうと家に入った。

「ただいま~」

 誰かいるならすぐに返事が返ってくるはずなのになにもない。代わりにバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきて顔を真っ青にしたアリエルがリリアンの肩をガシッと掴んだ。

「ごっ、ごめんリリー、私、今帰ってきたばっかりでっ! 鍵があいてて……み、見に行った時には、あ、あなたの部屋が!」

 まったく要領を得ない彼女の言葉に苦笑したリリアンはまず友人を落ち着かせようとアリエルの肩を軽く叩く。

「うん、まあ、なんだ。落着け。クールにいこうぜ。OK?」

「これで落着けるわけないでしょ!」

「ええー……逆ギレー……」

 リリアンが困った様に眉尻を下げる。アリエルは彼女の言葉を無視して腕を引っ張り階段へ引きずっていく。

「いいから! ちょっと来て!」

 アリエルが案内したのは二階にあるリリアンの部屋だ。ドアが開いているが別に鍵はかかっていないし不自然ではない。そういえば朝出る時閉めなかったかもしれない。リリアンは稀にドアを開けっ放しにしてその度掃除の邪魔だとエリンに怒られていた。

 アリエルに腕を引っ張られる状態でリリアンが首を傾げた。

「え、なに。とうとうアリエルまで私のドアを掃除の邪魔って言うようになったの?」

 アリエルが怒鳴る。

「ばか! あなたの部屋が荒らされてるの!」

「あらいやだ」

 引きずられていった先には私物やゴミの散らばった自室が広がっていた。服や下着も散らばっている。撮影に失敗したのかやたら画面の薄暗いポラノイド写真が十数枚となんだかよくわからない黒い糸くずが目に止まった。

 しかしそれよりも本棚にあった本が床に散らばっているほうが問題だ。今年の夏に日本から持ってきた戦利品もいくつか被害にあっている。クローゼットやチェストも乱雑に開け放たれていた。

 部屋の惨状を目の当たりにしたリリアンはぐるりと一旦部屋を見回したあと頭を掻く。

「あ……、あー……これは……アカンやつやな……」

 横にいるアリエルが怒鳴る。

「あったりまえでしょっ!」

 リリアンは声を上げて苦笑するに止めた。

「あ、はは……はぁ……」

 が、その笑い声もすぐため息のようなものに変ってしまう。この状況で片付けをするべきか警察に電話するべきか迷っている自分は現状が受け入れられていない。リリアン自身にも理解できた。

 現状が受け入れられていないのはさっきから怒っているアリエルも同じようで、意味もなく床に散らばった写真を手にとっていた。なにが映っているのか気になったらしい。

 リリアンはヘタに弄らないほうがいいんじゃないかなぁと思ったが言う前に携帯が鳴ったのでバッグを漁る。

 やはりお互いにどこか冷静ではないと思う。

 声優の歌う某カードゲームアニメのエンディングを周囲にまき散らす携帯電話はメールの着信を知らせていた。電話の場合は同じ人間が歌う津軽海峡冬景色なので曲を聴けば解る。

 特に何も考えず新着メールを開封したリリアンは内容を見て硬直した。


『今日の買い物は楽しかった? どうせなら僕を誘ってくれればよかったのに。それとも僕を嫉妬させたくてワザとやってるのかな……そんなことしなくても僕は君を充分愛してるから大丈夫だよ』


 メールアドレスには見覚えがない。知人以外に教えた覚えはないのにどこから流出したのだろう。

 彼女がメールを読み終わらないうちに携帯はまた新着メールを知らせる。


『部屋を見て驚いたかもしれないけど、それは罰だよ。浮気はダメなことなんだから、少し反省しなきゃ』


『君のことを一番愛してるのは僕だよ。君はわかってるはずだ』


 メールはまだ続いていたがリリアンは耐えきれず携帯をバッグにつっこんだ。吐き気がする。目眩もだ。気色が悪い。

 眉をひそめて写真を凝視していたアリエルが悲鳴をあげる。

「きゃあっ!」

 虫でもついていたかのように彼女は写真を取り落とした。メールの内容をすぐに忘れたいリリアンがアリエルに尋ねる。

「どうした?」

 アリエルは汚物を見るように写真を見ている。意味もなく手を服にこすりつけながら消え入りそうな声で言った。

「あ、あれ……み、みないほうが、いいわ」

 意味もなく手を拭き続けるアリエルに尋常でないものを感じ取ったリリアンはがっくりと肩を落して呟く。

「なにが映ってたんだよ……」

 答えたくないのかアリエルが口ごもった。現状でそこまで気味悪がられる写真を見たくなかったリリアンは代わりに散らばった黒い糸くずをまじまじと見つめる。ひとつひとつは短く、裁縫用の糸にしては妙に太い。光沢と縮れがあるのも気になる。しゃがんでよく観察し、手にとって見てみようと思ったところでひとつの可能性に思い至りリリアンはふと手を止めた。同じタイミングでアリエルがリリアンの肩を掴む。

「リ、リリアン、や、やめたほうがいいわ……やめて……」

 この言い分から糸くずはリリアンの察するものであっているようだ。気持ちが悪い。観察していないアリエルが糸くずの正体を察したということは写真の内容も推して知るべしといったところか。気味が悪い。

 糸くずの観察をやめて立ち上がったリリアンの背後に帰宅したらしいエリンが近寄ってきた。

「ただいまー。一階に誰もいないんだもん……ふたりともなにしてるの?」

 不思議そうに首を傾げるエリンのほうを振り向き、アリエルが弱々しい声で事情を説明する。

「リリーの部屋……荒らされてて……私が帰ってきた時には、もう……玄関の鍵、あいてて……」

 リリアンが帰宅したときよりは少し落ち着いたらしい。いくらか解りやすい説明を聞いてエリンが部屋を覗きこむ。

「……とりあえず気持ち悪いかもしれないけど、部屋はこのままにして、警察に電話しよう」

 今まで半ば自失状態だったアリエルとリリアンは頷くことしかできなかった。


 ◇


 警察が現場に到着したのはそれから20分後だ。被害者であるリリアンは警察の立ち会いのもと盗難されたものがないか確認することになった。三人来た警察官の一人が床に散らばった薄い本を見て怪訝そうな顔をしたが一見さんは大概同じなのでリリアンは気にしない。写真はやはりというか男性器の接写だったらしく、糸くずも陰毛で間違いないらしい。証拠品として応酬されていくそれらを横目にリリアンは下着の収納されたチェストを開ける。

 今朝しまったはずの黒い下着が上下セットで無くなっていた。黒い下着の後ろにあったはずの青い下着も上下セットで無くなっている。

 それが今後どんな用途に使われるのかは想像に難くない。

 吐き気がする。

 とうとう耐えきれなくなったリリアンは横にいたアリエルを押しのけるようにしてバスルームへ駆け込んだ。

「うっ、げぇえ……えっ……!!」

 ドアを乱暴に開け放ちトイレへ吐瀉物をぶちまける。

 ビチャビチャと汚い水音がする。芳香剤と酸味の強いタンパク質の臭いが混じり合ってさらに吐き気を誘発した。

 トマトとチーズをスポーツドリンクで無理やり胃に流し込んだような不快な味が口の中に広がり、便器に昼間食べたアボカドらしき細かい黄緑色が浮いている。赤っぽい細切れはローストビーフだろうか。胃酸で焼けた喉は中途半端に溶けてぐちゃぐちゃに混じり合ったものが逆流したせいもあり、切り裂いてかきむしりたいほどの違和感と痛みがある。

 喉が渇いて口の中がベタベタしていた。口をすすいで水を飲みたい。

――気持ち悪い。気持ち悪い気持ちわるいきもちわるいきもちワルイキモチワルイ!!

 なぜこんな仕打ちを受けなければ行けないのか。なぜこんな思いをしなければいけないのか。知らない誰かの悪意が体に纏わり付くようだ。知らない誰かの欲望に首を絞められているようだ。

 不快感を拭いたくて何度か嘔吐いているリリアンの背中に、なにかが軽く触れてきた。途端彼女の体は自分でも意外なほど跳ね上がる。

「……っ!!」

 もうこれ以上恐ろしい思いはしたくない。

 睨みつけるような目線でもってリリアンが後ろを振り向くと立っていたのはアリエルだった。

「リ、リリアン、大丈夫……?」

 不安そうなアリエルを睨みつけてしまったリリアンは罪悪感で彼女から目をそらす。しばらく戸惑ったように立ち尽くしていたアリエルだったが、リリアンがまた嘔吐いた時にゆっくり膝を床についた。便器を抱え込むようにして嘔吐しはじめたリリアンの背中にやはりゆっくりと触れ、やわらかくさすり始める。

 彼女はもはや空になった胃袋からそれでも胃液を吐き出しているリリアンにゆっくりと、言い聞かせるように呟いた。

「大丈夫よ。私もエリンもついてるから」

 リリアンが嗚咽を漏らしながら何度も頷く。吐き気のせいではない涙が頬を伝い、先ほどあれだけ脅えてしまった手がとても温かくて、それだけで気持ちが楽になったような気がした。吐き気がゆっくりと収まっていく。

 少しづつ呼吸を整えたリリアンはアリエルをそっと振り返り、笑った。

「……ありがと……」

 アリエルも笑顔を返してくれる。なのでリリアンは極力いつも通りの笑顔になるよう心がけ、わざとふざけたような声をだした。

「……エロ本、警察とストーカーに見られた……」

「ばか!」

 軽く背中を叩かれたリリアンが水道の水で口をすすぎフラフラと部屋に戻る。

 部屋ではエリンが警察に事情を説明していた。 警察は大体の捜査を終えたらしい。

「調査は終りました。まあ、またなにかあったら通報してください」

 やけにアッサリとした対応で帰り支度を始める警察にアリエルが眉をひそめる。エリンも同様の感想を抱いたようで険しい顔つきをしていた。水滴のついた口元をぬぐったリリアンに一人の警察官が言う。

「昨日はクスリで今日はストーカーか。君も大変だね」

 まったく人ごとのような、むしろ半ば敵意さえ感じられる言葉にリリアンは苦笑だけを返しておいた。

 三人の警察官が去ったあと、エリンが腰に手を当てて少しだけ声を荒げる。

「なにあれ! やる気なさそうなだけならまだしも被害者に向ってあんな言い方!」

 アリエルも同様の感想を抱いたようでこちらは腕を組み低い声を出した。

「やる気無いってだけで問題でしょ! 昨日の事件、エクスタシー飲まされたのがボーモント議員のご子息だからそっちで忙しいのよ! 捜査したくないんだわ! やんなっちゃう!」

 怒る友人たちに苦笑を浮かべたリリアンはまだ多少散らかっている部屋の片付けに取りかかる。

「まあ、実際今日の午前中事情聴取行ったばっかりだしなぁ」

 アリエルとエリンもまだプリプリと怒りながら片付けを開始した。

 しばらくして、新しいゴミ袋を持ってきたエリンが申し訳なさそうな顔で言う。

「あのね、一応、フタの開いてる飲み物とかも処分しちゃったほうがいいと思うの。冷蔵庫の中も掃除しちゃおう」

 理由を想像したアリエルとリリアンは一瞬血の気が引いた。しかしそう言われるともう飲みかけのペットボトルなどは口をつける気になれず、リリアンとアリエルが部屋を片付け、エリンが冷蔵庫を掃除することになる。

 インターホンが鳴ったのはエリンが冷蔵庫に向った直後のことだ。

 現状が現状なだけに三人の表情が強ばったが、直後聞こえてきた聞き覚えのある声に一同ほっと胸をなで下ろす。

「おーい! さっき警察きてたみたいだけど、なんかあったのか?」

 隣の借家に住んでいるハリーの声だった。

 エリンが急いで一階に下りていき玄関の扉を開けると案の定ハリーが立っている。リリアンとエリンは階段を半分だけ下りて不安そうに様子を見ていた。

 ハリーが三人の顔を見て心配そうに首を傾げる。

「なにがあったんだ?」

 彼の質問にはエリンが答えた。

「リリーの部屋が荒らされちゃって、警察呼んだの。鍵を盗まれたらしくて」

「おっ、おいおい、それ大変じゃないか! 鍵付け替えて貰わないと!」

「さっき電話したわ。あと30分くらいで到着するって」

「それならよかった……リリアンは大丈夫か?」

 ハリーと目があったリリアンは笑って手を振って見せた。リリアンの様子を見てため息をついたハリーがエリンに尋ねる。

「お邪魔していいかな? よければ僕らも手伝うよ」

 エリンがニコリと笑ってハリーを家の中へ促した。

「ありがとう。助かるわ」

「困った時はお互い様だろ。他の奴らも呼ぶよ」

 どうやらエヴァンドロやドナも家の外に居たらしくハリーの後に続いて家に来た。最後に隆弘が入ってきて玄関を閉める。ハリーとドナは冷蔵庫の中身をゴミ袋に入れ始め、隆弘とエヴァンドロがリリアンの部屋に入ってきた。

 散らばった本をまとめて本棚にいれていたアリエルがエヴァンドロを手招きする。

 リリアンは隆弘に掃除機を渡し、自分は散らかった私物を拾い始めた。

 掃除機の音が響く中、リリアンが床に落ちた毛布を拾い、たたむ。

「なんか私が部屋見た時にさ、知らないメルアドからメール来たんだよ。気持ち悪い奴。友だちにしかメルアド教えてないのに、どっから漏れたんだろ」

 アリエルが呆れた様にため息をついた。

「前提条件から友だちを疑ってないのが貴方の良いところだわリリアン。ところでそれ警察に話したの?」

「話した話した。ケータイも見せた。捨てアドだったからあんま意味ないけどな。あと友だちはさぁ、ほぼ女ばっかしなんだよ。あとはハリーたちくらいでさ。さすがにエヴァやらドナやらがこんなことするとは思えねぇよ私も」

 本を五冊ほどまとめて手に持っているエヴァンドロが笑った。

「んー、確かにねー! こんな面倒なことするくらいなら真正面から口説くよね!」

 今度は服をハンガーに掛け直してリリアンが笑う。

「酔わせてホテルに連れ込んでるって言わないお前が好きだぜエヴァ」

「え、気を使って言わなかった俺の本音がどうして解ったの!」

 アリエルがエヴァンドロの頭を軽く叩いた。

 掃除機をかけていた隆弘がパソコンに近づき電源を確認している。掃除機の音が止まった。リリアンたちが何事かと隆弘を見ると、彼は落ち着き払った様子でリリアンを見る。

「てめぇ、帰ってきてからパソコンつけたか」

 彼の質問にリリアンは首を振る。

「いや、それどころじゃなかったし」

「出掛ける前に電源落してなかったっていうのは」

「今日はパソコン使ってねぇよ。っていうかなに、ついてんの? やだじゃあいつからついてんだよぉ!」

 電気代! と呟くリリアンを横目にアリエルとエヴァンドロは眉をしかめる。

 アリエルがパソコンを覗きこむ。

「ちょっとそれ、部屋荒らしたやつがつけたってことじゃないの」

 エヴァンドロは呆れた様にリリアンを見た。

「っていうかなんでこの状況下で自分が電源落し忘れた可能性を真っ先に思い浮かべるの? ばかなの?」

 リリアンはしゅんと肩を落す。

「エヴァが珍しく辛辣すぎる」

 非難されたエヴァンドロがプイ、とリリアンから目を逸らした。

「自業自得だよ」

 隆弘はパソコンのスリープを解除し、通常のデスクトップが表示されているのを確認するとまたリリアンに尋ねる。

「お前、これパスワードついてねぇのか」

 私物ひろいを再開したリリアンが首を傾げた。

「えーだってほぼ私しか使わねぇし、持ち歩くわけじゃないからよくね」

 隆弘が露骨に顔をしかめる。

「バカかてめぇ。今時観光客の日本人でももう少し危機管理能力があるぜ」

 リリアンは大げさに泣くまねをして見せた。

「たっ、隆弘も辛辣でござる! いつものことでござる!」

 隆弘は相変わらず不機嫌そうな顔をしてリリアンを睨みつけた。

「パソコンのアドレス帳に自分の携帯のアドレス登録してあるんじゃあねぇのか」

「あ、うん。たまに使うから」

「馬鹿野郎」

「ひどいでござる」

 本を片付け終ったエヴァンドロがソファに座り、困った様な顔をする。

「あーどう考えてもそれが原因だね」

 掃除機かけを再開した隆弘が仏頂面で言い放つ。

「メルアド変更してパソコンにロックかけろ。鍵はどうやってバッグに入れてた」

「サイドポケットにいれてた。チャックついてるとこ」

「チャックがついてなかったらぶん殴ってた所だぜ。今度からベルでもつけとけ」

「そうするー」

 しばらくして業者が到着し鍵の取り替えが完了した。ハリーが連絡した大家はまた騒ぎがあれば出ていってもらうと言ったそうだ。

 電話が終ったあと全員にその旨を伝えたハリーは苦笑して肩を竦める。

「まっ、よくある町と学生(タウン&ガウン)の確執ってやつさ。今すぐ追い出されないんだから気にすることじゃない」

 町と学生(タウン&ガウン)の確執はもともと大学側があらゆる特権を持ち権力を強めていったことに由来する。オックスフォード大学というものができて700年は優に過ぎようというのに、この対立は未だひょんなことで頭をもたげるのが現状だ。

 学生が暮らしやすいよう格安の家賃を設定しているのも大学側からの要請である。家賃が高かった場合学生は裁判を起こせて、その場合ほぼ100%学生側の主張が認められる現状を面白くないと思う大家も多い。

 話を聞いたリリアンが困った様に笑い頭を掻いた。

「あー……まあ確かに、またあるかもしれねぇよな。うん」

 言って、彼女はいそいそと荷物を纏め始める。見とがめたアリエルが低い声を出す。

「リリー……なにしてるの?」

「今回は誰もいない時に荒らされたけど、今後私らの誰かが変態に遭遇しないともかぎらないし、今度は窓ガラス割ってでも侵入するかもしれない。そうなってここ追い出されるのは私だけじゃないだろ」

 エリンもリリアンの言い分を聞いて眉をひそめる。

「つまり、なにが言いたいのよ」

 リリアンが顔をあげ、ヘラリと笑う。

「カレッジに戻るよ。たしか空き部屋あったと思うしさ、ダメだったら今日はホテルに泊まるし」

 彼女の言葉を聞いたアリエルがとうとう声を荒げた。

「今からいくの? もう暗いのに! 危ないじゃない!」

 リリアンは相変わらず笑みを浮かべている。

「さすがに友だち巻き込むのは遠慮してぇよ」

「そういうことじゃないわよ!」

 ドナが言い争いを見てオロオロとしている。エヴァンドロは困った様に苦笑し、隆弘は無言でやりとりを見ていた。ハリーが不機嫌そうな顔で頭を掻いたあとリリアンを睨みつける。

「あのさぁ、ここにいる全員君が一人でカレッジに帰るなんて許すわけないだろ?」

 乱暴な口調で反論されたリリアンは不満そうに口を尖らせた。

「でもさ、キモいメール来たの私が家に帰った直後だぜ。タイミング良すぎだよ。どっかで見てたのかもしんねぇし、まだ見てるかもしんねぇじゃん。まだ見てたらさ、今日また来るかもしんねぇじゃん。鍵つけかえたけど、窓ガラス割られて入られでもしたらさ。危ない目にあうの、私だけじゃねぇかもしれねぇよ」

「もしかして眠い? まだ見てるかもしれないってことは君が1人で出歩いてたら格好の餌食ってことじゃないか」

「むぅ」

「ここに居るのが不安だってんならカレッジにでもなんでも行けばいいけどさ。一人では行かせないよ。こっちの後味が悪すぎる。行くなら僕らのうちの誰かが送っていく」

「え、いいよ。悪いよ」

 隆弘はリリアンを凝視し口を開いたが結局すぐに閉ざした。

 ハリーが盛大にため息をつき天井を仰ぐ。彼は心底呆れた様な声色で言葉を紡いだ。

「危ないって言ってるんだよ。1人でフラフラ出歩くなんて馬鹿のすることだ。疲れてるなら素直に今すぐ自分の部屋で寝たら? 友だちを巻き込みたくないっていうなら心配もかけないで欲しいね」

 吐き捨てるような言葉を聞いてリリアンがしゅんと肩を落す。女が黙り込んだのを確認した隆弘はリリアンの腕と彼女のまとめた荷物を掴んだ。

 アリエルが声をあげる。

「まっ、まって隆弘! カレッジに行っちゃうの?」

「いや。今から行ってもしょうがねぇだろ。だがこいつの言った通り女だけでいさせるってのも不安だからな。問題ねぇなら俺らの家で寝かせるぜ。こっちにも誰か一人泊まれば安心だろ。エヴァ、てめぇ泊まっても大丈夫か?」

 名前を呼ばれたエヴァが軽く手を振った。口元には笑みが浮かんでいる。

「大丈夫だよ~。じゃあリリアン、悪いけど今日は部屋借りるよ~。大丈夫。床で寝るからね~」

 隆弘に腕を掴まれたままのリリアンは状況がよくわかっていないようで、エヴァと隆弘を交互に見比べ必死に首を横に振る。

「え、え、いいよ、悪いって。危ないし」

「あ?」

 隆弘が咥えていたタバコに歯を立てた。ブチリと音がして火の付いたタバコがフローリングに落ちる。ポケットからティッシュを取り出した隆弘はグッと口元を拭いながらも目線はリリアンから外さない。彼女はビクリと肩を振わせ咄嗟に隆弘から逃げようとするも、服を掴む男の力が思いの外強く逃亡は失敗に終ってしまった。

 隆弘が低い声で唸る。

「これ以上ガキみてぇに駄々こねるんじゃあねぇ。誰もてめぇの眠たい意見なんざ許すわけねぇだろクソアマ」

 睨みつけられて再度肩を振わせたリリアンはこれ以上拒否しても無駄だと判断した。エヴァがこちらに泊まるというならアリエルとエリンも安全だろう。エヴァンドロにヒラヒラと手を振った。

「エヴァ! ごめん、泊まり頼むわ! 私のベッド使っていいぜ~!」

 エヴァンドロもリリアンに手を振り替えす。

「頼まれたよ! じゃあベッド使わせてもらうよ~! リリアンもベッド使ってね~」

 そのままリリアンが外に連れ出され玄関が閉まった。それまで引きずられるようにしていたリリアンが自分で歩き始め、隆弘の横に並ぶ。

「なんか悪いな。迷惑かけてばっかで」

 新しくタバコをとりだし火を付けた隆弘はリリアンからふいと目を逸らし、言う。

「一人で動かれるほうがよっぽど迷惑だぜクソアマ」

 彼の言葉にリリアンは

「ぶっきらぼうだなお前」

 と言って笑う。

 隆弘は目線を会わせないまま少し穏やかな口調で

「うるせぇ。手間ぁかけさせやがって」

 と呟いたのだった。


 ◇


 隆弘たちの借家で泊まることになったリリアンは二階にあるエヴァンドロの部屋に案内された。シックな色使いの落ち着いた部屋で大きな本棚とクローゼットが真っ先に目に入る。机はよく整理されていたが、ペン立てには色とりどりのペンがこれでもかと詰め込まれていた。部屋まで荷物を持ってきてくれた隆弘が床にバッグを置き、無言でカーテンを閉める。

「準備できたらシャワー浴びちまえ。左隣の部屋がそうだぜ」

「おう、ありがとー」

 リリアンがヒラヒラと手を振ってみせると隆弘は

「あがったら言えよ」

 と言い残して部屋から出て行った。

 リリアンは5秒ほど天井を見つめて茫然としていたが隆弘に言われたとおり荷物の中から着替えを取りだしバスルームへ向う。

 言われた通り右隣の部屋に入るとトイレと浴槽が一緒になったオーソドックスなタイプだった。浴槽の上にシャワーがついている。恐らく後付けだろう。隆弘あたりが強く要望したのかもしれない。床に置かれた入浴剤を発見して手にとると自分達と同じタイプのものだった。安くてオーソドックスなので大抵の人間はこれを使っているだろう。服を脱いで着替えと一緒に放り投げてバスタブに入浴剤を入れてお湯を張った。もくもくと泡が沸いてきたのを確認し、浴槽に座ると泡で体を擦った。足をスポンジで擦っている最中視線を感じて後ろを振り向く。ドアにはロックをかけてあるので当然誰かいるということはない。

 思った以上に脅えている自分にリリアンは思わず苦笑した。

「……ばっかでぇー」

 震える体をスポンジで無理やり押さえつけ、次に髪を洗ってしまう。

 彼女が着替えてシャワーから出てきた時丁度ハリーが小さな手提げ袋を持って階段を下りていく所だった。ドナがハリーを見送るようにエヴァンドロの部屋の扉にもたれ掛かっていた。いつ帰ってきたかもわからなかったリリアンは少しだけ驚く。彼女がシャワーを浴びている間に帰ってきたのだろう。

「どうしたん?」

 リリアンが尋ねると、ハリーはああ、と声を上げた。

「エヴァの着替え持ってってやるんだよ。一時でも女2人にするのは不安だし」

「悪いな、迷惑かけて」

 ハリーは笑顔で首を振る。

「殊勝なリリーとか気味が悪いからやめてくれ」

 頭にハンドタオルをかぶったリリアンが口を尖らせた。

「お前が暴漢にヤられろ」

 彼女の低い声にハリーは笑い声で答えエヴァンドロに着替えを届けに行ってしまう。リリアンと共に彼を見送ったドナがニコリと笑った。

「リリアン、シャワー浴びたんなら隆弘呼びに行こうよ。面白いから」

 まだ少し濡れている頭をガシガシとふきながらリリアンは首を傾げる。

「隆弘が? おもしれぇの?」

 ドナがニヤニヤと笑ったままリリアンを手招きした。

「まあ来なよ。エヴァの部屋の隣が隆弘だから」

 言われるがまま彼についていったリリアンは無遠慮に部屋のドアを開けたドナの後ろから隆弘の部屋を覗く。

「隆弘、リリアンがシャワー出たから次どうぞ」

 ソファに座って本を読んでいた隆弘が目線をドナに向けた。

「おう」

 パタン、と軽い音を立てて本を閉じた隆弘が立ち上がる。その間にリリアンは部屋の中を二度見では飽きたらず三度ほど見直した。

 まず隆弘の座っていたソファにはたてごとあざらしやビーグル犬のクッションが置いてある。ソファの下にはネコの顔を模したカーペットが敷いてあり、カーペットの手前に靴が置いてあるので部屋の大部分は靴を脱いで過ごすのだろう。ソファの横にカピバラのデフォルメキャラクターがモチーフのミニテーブルが置いてあった。上に置かれたマグカップはネコが描かれ、取っ手が尻尾になっている。ベッドにはウサギの抱き枕と羊のぬいぐるみが置いてあった。羊のぬいぐるみは位置的におそらく枕だ。掛け布団はクマのデフォルメキャラクターがでかでかと印刷されている。カーテンはネコ柄で本棚のブックエンドはキリンだ。主人が195cmの厳つい男であるのに対して部屋がイヤガラセの域に達しそうなほど可愛らしい。

 さらにカーテンタッセルが手の長いサルのぬいぐるみであることに気づいたリリアンは思わず口をぽかんと開けてしまった。

「うわぁ……」

 彼女の驚いた顔に気付き、ドナがニヤニヤ笑いを更に深める。

「あんまりにも本人と部屋が違いすぎて驚いただろ」

 知人2人の言わんとしていることがわかったらしい隆弘は口をへの字に曲げて2人からフイと視線を逸らした。

「うるせぇ」

 頬が少し赤く声もいつもより小さめなので照れているようだ。

 何時も強気な姿しか見ていないのでリリアンもドナ同様ニヤついた笑みを浮かべてしまう。

「そういえば今日買ったペンケースも可愛かったもんなぁ! しっぽついててさ!」

 リリアンの横でドナが嬉しそうに言葉を繋ぐ。

「甘いもの好きだし。人は見かけによらないな」

「かっわいいなぁ~隆弘! 実は受け?」

「いやぁ、ギャップ萌えの攻めだと思う」

 とうとう隆弘が口をへの字に曲げたまま立ち上がり歩いてくる。そのままリリアンとドナは彼に頭を軽く小突かれた。

「うるせぇぞ。ドナ、てめぇは今日食事当番なんだからとっととメシ作れよ」

 やはり拗ねているような口調だ。頭を押さえたドナとリリアンは笑顔のままバスルームに向う隆弘を見送る。ニヤニヤと笑ったままのドナがリリアンに向き直った。

「じゃあ、言われた通りご飯つくっちゃおうかな!」 

 ドナがキッチンに立っている間、リリアンは帰宅したハリーと一階のダイニングルームでポーカーに興じていた。多少リリアンに分が悪い。

 キッチンで料理をしているドナが時計を確認する。

「そろそろ隆弘あがるだろ」

 彼が言った通りシャワーから戻った隆弘が階段を下りてきた。彼の服装がクマのデフォルメキャラクターを模したきぐるみパジャマだったのでリリアンは部屋の時と同様、思わず3度見した。

 椅子にどっかりと腰を下ろす様子はいつも通り多少尊大な印象を与えるのだが、いかんせん服装が服装なのでギャップが凄まじい。

 手札の間から隆弘を盗み見たリリアンがニヤニヤと笑った。

「……そのかわいいパジャマよくお前のサイズがあったね」

 不機嫌そうな顔でタバコを咥えた隆弘はテーブルに置いてあったジッポを弄ぶ。

「ハリーが裾直したんだよ」

 リリアンがワザとらしく驚いて見せた。

「お前の嫁マメだなおい」

 ハリーが手札を二枚すて、山札から新しく二枚を引く。

「やめてくれ。僕はもっとかわいらしくて自分より背の低い女の子が好きだ」

 隆弘が不機嫌な顔のまま煙を吐き出す。

「いいからてめぇら飯くってとっとと寝ちまえ」

 リリアンとハリーが笑う。ドナも笑った。

 食事の時に隆弘の使う食器もやはり可愛らしい動物のモチーフだったのでリリアンは一瞬真剣に写真を撮ろうとおもったが、隆弘に睨まれたので諦めたのだった。


 ◇


 エヴァンドロの部屋を借りて就寝したリリアンは夢を見た。荒らされた部屋に誰かが立っている。顔のよく見えないその誰かがリリアンに気付き乱暴に腕を掴む。振りほどこうとしても逃げられず、人の形からぶわりと広がったその影が自分を飲み込む。

――いやだ、気持ち悪い。気色悪い。気味が悪い。離して、触らないで、近寄らないで!

 真夏に放置した飲み水のような温度がぬるりと足に触れた気がした。生暖かい不快な感触に飲み込まれて、意識が遠のいていく。

――さわらないで!!

 自分の悲鳴で目が覚めた。

「……は、」

 心臓が激しく脈打っている。寝汗で全身がぐっしょりと濡れていて酷く不快だった。天井を見つめたまま深呼吸して、暑かったので布団をはねのける。

 もう一度シャワーを浴びようかと思って起き上がり、そこから動く気になれず座ったまま視線をさまよわせた。

 腕を掴まれた感触が残っているような気がする。あの影に飲み込まれたあとはどうなるのだろう。現実に腕を掴まれる日が来るような気がする。飲み込まれる日が来るような気がする。その時自分はどうするのだろう。

――またあんな思いをするのは、嫌だ。

 手が震えていたのに気がついて腕を押さえる。コンコン、とノックの音がして体が硬直した。

「おい、大丈夫か。さっき悲鳴みてぇな声がしたぞ」

 男の声がする。さっき見たばかりの夢を思い出して思わずドアから距離を取った。ベッドに昇り直して背中が壁にぶつかるギリギリまで後退する。

 声は返事がないのを不審に思ったのかしびれを切らしてドアを開けた。暗い部屋に男が入ってくる。リリアンは夢を思い出した。黒い影に飲み込まれてしまう夢だ。腕を掴まれる夢だ。

「おい」

 低い声が聞こえる。誰かが自分のテリトリーに入ってくる。リリアンの喉が意志とは無関係に動いた。ヒュゥ、と妙な音が鳴って音が絞り出される。

「あ、あぁああああぁああああぁああ!!!!」

 ドアから入ってきた男が声に驚いて動きを止める。闇に慣れたリリアンの目が捉えたのはクマのきぐるみパジャマを着た隆弘だった。

 彼はリリアンの悲鳴に心底驚いたようで、ドアを半開きにしたままリリアンの顔をまじまじと見つめる。

「……おい、大丈夫か?」

 問われたリリアンは上手く動かない喉と口元を無理やり動かし笑みを浮かべた。

「は……はは、いや、夢見が……わるくてさ」

 体の震えが止まらない。隆弘もそれに気がついたらしい。なにか言おうとして結局言葉が見つからなかったらしい。口を閉ざした隆弘が部屋を出て行き、しばらくしてまた戻ってくる。その時にはだいぶ呼吸も落ち着いてきたので隆弘が部屋に入ってきてもリリアンの喉から悲鳴は出なかった。

 隆弘は部屋に入ってすぐ足を止めると、ペットボトルに入った水をリリアンに投げて寄越す。

 リリアンが呆けた表情で隆弘を見ると、彼はフイと視線を逸らした。

「そんなビビるんじゃねぇ。別にとって食いやしねぇよ」

 低い声だったが、いつもより幾分か優しい声色だ。腰に手をあてて立つ姿はひどくさまになっている。服がきぐるみパジャマなのでその一点で全てが台無しにだが。

「手間ぁかけさせやがって」

 幾分か優しい声色のまま呟いて、隆弘が部屋から出て行く。

 貰った水をすこしだけ飲んだリリアンはまたベッドも潜り込んだ。

 今度はきっと朝まで眠れそうだ。


 ◇


 オックスフォードにある図書館は当然だがどこも静かだ。ラドクリフサイエンス図書館も例外ではなく、真冬の朝を思わせる張り詰めた空気が満ちていた。1861年に建築された建物は外見こそ煉瓦造りでオックスフォードの町並みに相応しい中世の趣を残していたが閲覧室は白い壁に照明が直接埋め込まれた清潔で近代的なデザインだ。図書検索のためにパソコンが設置され、キーボードを叩く音やページを捲る音だけが微かに響いている。息をひそめた人々の気配が時間までもを止めてしまったようだ。手もとの本とノートに集中してしまえば時間などあっという間に過ぎていく。図書館とはそういう場所だ。リリアンも個別指導(チュートリアル)で教師に指定された本を三冊ほど積み上げ机にかじりついていた。今日中にすべて目を通しておきたい。今持っているのが最後の一冊だった。

 彼女の動きは素早く、パラリパラリと3秒に1回のスピードで紙の音を響かせている。速読だ。これで本の内容を頭に叩き込み、家に帰って必要な情報をノートに整理しながら論文を書く。本はいつでも争奪戦だ。同じ専攻ならだいたい同じタイミングで同じ本を借りるのでリリアンは読書にあまり時間をかけたくなかった。順番待ちをしている人間にせっつかれるのも嫌だし前の人間が読み終わるのを待っているのも嫌だからなるべく早く本を確保して早く読み終える。

 彼女が指定図書三冊をすべて読み終えた頃には窓の外は闇に包まれていた。時計を確認するとすでに16時をまわっている。夏の日照時間が長い代わりに、冬の日没が恐ろしく早いのだ。

 リリアンは指定図書を慌てて元の場所に戻し閲覧室を後にした。

 カレッジに戻る許可がまだ出ないのでリリアンが戻るのはエリンとアリエルと一緒に借りた借家だ。許可が出て手続きが終るまで3日ほどかかると言っていたので、実際にカレッジに戻れるようになるのは一週間くらい先だろう。それまで隆弘たちも外を気にかけるようにすると言ってくれた。

 図書館を出ると10月には珍しく濃い霧が立ちこめていてリリアンは眉をひそめる。朝から少し肌寒かったからだろう。じっとりとのしかかる冷たい空気は多分に水気を含んでいるので服が少しずつ濡れていく。

 自転車を前にして少しだけ考えたリリアンは、この霧なら徒歩に切り替えなくてもいいだろうという決断を出した。なにせ歩いて帰宅すれば20分はかかる。すでに周囲が暗くなっているのにわざわざ帰宅時間を遅らせるつもりはなかった。

 二つついている自転車の鍵を外しライトと反射板を確認して道路に出る。外灯がぼんやりと霧の中を照らしている。空中に浮かんだ水滴が風にのって動いていた。中世で時間を止めたようなオックスフォードの町並みは霧に包まれるとホラー映画の趣がある。

 街路樹と紅葉したツタの絡みつく煉瓦造りの町並みはいつ切り裂きジャックが出てきてもおかしくはないだろう。いっそ吸血鬼も一緒に出てきそうだ。

 そこで連続殺人犯と吸血鬼の男同士の恋愛に思考をシフトチェンジしたリリアンは霧に包まれた夜の町で殺し合う男性2人がどうやって恋仲になるかまでを10秒で考え、性交渉の際にどちらが女役でどちらが男役かで少し悩んだ。結果切り裂きジャックに男役の軍配があがり、吸血鬼が女役に決定する。その間20秒。

 シャワシャワと車輪が回る。すでにリリアンの脳内は殺人鬼と吸血鬼の性交渉に突入していた。霧を照らす街頭の下を通り抜け、脳内妄想が2R目に突入したところで背後に視線を感じて振り返る。霧で周囲がよく見えないが誰もいないようだった。気を取り直して前を向き、また自転車をこぎ始める。脳内妄想がどこまで行ったか思い出そうとしてまた人の気配を感じたリリアンはこっそり背後を振り返った。やはり誰もいない。

 車輪の音が自分のものとあともう一つ聞こえてくる気がした。

 少し自転車のスピードを速めたが、背後の気配と車輪の音が消える事はない。

 霧のせいで服が濡れ、足にまとわりつくズボンが動きを遅くしている気がした。体力の消耗が激しい。追いつかれる。

 もう彼女に後ろを振り返る勇気はなく、ただ全力で自転車をこぎ続けた。

 思い出すのは昨日見た夢のこと。

――いやだ、恐ろしい、おぞましい、気味が悪い、気色が悪い、気持ちが悪い!!

 人型に凝固した闇がリリアンを捉え、飲み込み、消える。生暖かい不快な感触と遠のく意識。

――もう捕まりたくない! もうあんな思いはしたくない!

 恐ろしい空想が背後に迫ってきているような気がする。悲鳴の形に開いた口からは、荒い息しか出てこなかった。


 ◇


 隆弘たちが住んでいる借家のフロントガーデンは常緑樹が所せまし枝を伸ばし、サルビアやコスモスが緑の中に彩りを加えている。日が出ている時は絵本の表紙にでもなりそうな美しい風景になり道行く人を楽しませるのだが、日が沈み霧もでてきたとなると雰囲気は一変してしまう。霧で湿った空気の中、例えばゴールデンモップの傍らに白いワンピースの女でも立っていれば10人中9人が幽霊だと確信するだろう。

 ツタの絡みついたウッドフェンスにもたれ掛かった隆弘は携帯電話を取り出すと電話帳を開かず直接電話番号を打ち込んだ。コール音が3度鳴っても相手は出ない。留守番電話にはならないので辛抱強く待ち続けていると10度目のコールが途中で途切れる。

 繋がったようだ。

 いつもより少しだけ深く息を吸い込んだ隆弘がたっぷり1秒の間をあけて口を開いた。

「よう、ジャッキー」

 電話口から少し驚いたような声がする。

『……隆弘?』

「ああ。久しぶりだな」

『……話すのは、一年ぶりくらいになるのかな』

「そうだな」

『なんのよう?』

 電話の相手が早く会話を終らせたがっているのは態度でわかる。隆弘は言おうと思っていた様々なことを省略して本題に入ることを決めた。

 解っていたことだ。相手が自分と話したくないことなど。

「リリアンが昨日、ストーカー被害にあった。鍵が盗まれたそうでな。昼間にお前、リリアンと話してただろう。話している最中か、あるいは見かけた直後、妙な人間がリリアンに近づくのを見なかったか」

 内容が内容なだけに言葉を選んだつもりだったが、ジャッキーは黙り込む。相手の反応を待っている隆弘にやがて向う側から不機嫌そうな声が返ってきた。

『……もしかして君は、僕を疑ってるの?』

「そういうわけじゃない」

『嘘だよ! 君だってあの場にいただろ! 僕はただリリアンと話していただけだ! 純粋に助けてくれたリリアンにお礼がしたかっただけだよ!』

 隆弘が喋ろうと口を開きかけて結局やめる。思いついた言葉のどれを言って良いのかもわからないし、どうやったら相手を傷つけないかもわからない。今のジャッキーには隆弘が何を言っても逆効果だろう。

 隆弘が黙っていると、電話の向うの声はさらに語気を荒くする。

『君はいつもそうだ! 自分が正しいことをしてるって疑わないで傲慢に人を傷つけるんだよ! 冷たくて強引で傲慢だ!』

 やはり言葉が見つからない隆弘は、今度も口を開けたはいいものの二秒後には結局閉じた。それから考え込むように目を閉じ、長い沈黙のあとあくまで冷静に言葉を吐き出す。

「……そんなつもりはねぇ。悪かった。リリアンが困っているから、なにか気づいたら教えてくれ」

 電話の向うでジャッキーが息を吸い込む。言葉を選ぶ隆弘と違って、ずいぶんと憤っているようだった。

『君を頼らなくても気づいたら直接彼女に言うよ!』

 ブツリと電子音がして通話が途切れる。向こうから切られたと悟った隆弘は携帯電話をポケットに突っ込んだ。ため息をつき、携帯電話の代わりにフィリップモリスを取り出す。タバコを2本引き出して口にくわえると、反対側のポケットに入れていたジッポで火を付けた。去年の誕生日叔父に貰った蒔絵入りのものだ。桜と虎が描かれている。

 2本分のニコチンを深く吸い込み煙を吐き出した隆弘は深くため息をついた。空を見上げるも霧でよく見えない。もっとも年中曇り空が多いこの国のことだ。霧などなくても星は見えない。意味もなく外に出ていても濡れるだけだ。手早くタバコを吸い終えて家に戻ろうと決めた隆弘の視界に自転車のライトが飛び込んでくる。シャワシャワと廻る車輪の音から察するに随分と急いでいるようだ。近づいてくる自転車をよく見ようと目を細め、彼は思わず声を上げた。

「そんな急いでどこ行くんだクソアマ。便所か?」

 キキィッ、と自転車が耳障りな音を立てて急停止する。先ほどまで焦った様子でペダルを漕いでいたリリアンが隆弘を見た。肩で息をしている。脅えたような目をしたリリアンが呼吸を整えるに従ってヘラリと笑う。隆弘には無理をしているように見えた。

「は、はは、便所とかいうなばーか。おしっこもれる」

「てめぇのほうが下品じゃねぇか。自分で言っといてなんだがな。本当はなにがあった」

 隆弘がタバコを2本くわえたまま睨みつけるようにリリアンを見る。彼女は浮かべていた笑みをひきつらせると自転車をひきながら隆弘の近くに歩み寄る。

「や、誰かにつけられてる気がしてさ」

 隆弘はタバコ2本を口から離し、リリアンが走ってきた方向を見た。

「今もか」

 リリアンがゆるやかに首を振る。

「や、今はもう大丈夫」

「そうか。無事で何よりだ」

 隆弘がタバコをくわえ直す。リリアンから自転車を奪い取った彼は

「あんまり意味はねぇが、送ってく。今日は俺とアリエルの部屋を交換することになってるしな」

 と言ってリリアンに歩くよう促した。

 短いやりとりの間で幾分か余裕を取り戻したリリアンはホッと短く息をつく。

 脅えていたのが嘘のような笑顔で隆弘に話し掛けてきた。

「ところでお前さ、なんでタバコ2本も吸ってんの?」

 自転車をひく隆弘はチラとリリアンを見やった。

「ああ、さっきちょっとな」

「もしかして機嫌悪いとタバコの本数増える系? そんな増え方初めて見たぜ。体に悪そー!」

 隆弘がスネたように顔を逸らす。

「てめぇの胡椒よりマシだぜ。あれ蓮の種みてぇじゃねぇか」

「私蓮コラ結構好きなんだよね。1回受けが蓮コラみたいになる病気のままセクロスするホモ本描いたら引かれたわ」

「おいなんだそりゃ」

「何人かには目覚めたっていわれたけど」

「俺にわかる言語で喋ってくれ」

「私のストレス発散法はホモ漫画描くことだよって話」

「馬鹿じゃねぇのか」

 隆弘がリリアンの頭を軽く叩く。ふざけた調子で

「いてぇ!」

 と叫んだリリアンの元に、家のほうからアリエルが駆け寄ってきた。

「リリー! ごめんなさい! 気をつけてたんだけど……!! 警察にも、さっき連絡したから……!!」

 今まで笑っていたリリアンと隆弘の表情がサッと引きつる。一旦自転車を家の前に置いて中に入ると玄関前の階段に泥まみれの足跡がついている。リビングのドアが開け放たれ、ダイニングのバックヤードに面する窓が割られていた。部屋にガラスの破片が散らばっている。またリリアンの部屋が目的だろうか。

 荒らされたダイニングを見て舌打ちした隆弘がくわえていたタバコ2本を噛みちぎりティッシュで口を拭う。

「クッソタレが! 手間ぁかけさせやがってっ!」

 タバコの火を踏みつぶして消した隆弘はポケットから携帯電話を取りだした。

「ハリーか。隣に来て女三人そっちにつれてってくれ。またやられた。警察は呼んだらしいから来たら呼ぶ。どうせまた10分くらいかかるだろ。警察くるまで女3人こんな場所にいさせたら危ねぇからな」

 電話越しにハリーの了承が聞こえる。隆弘は通話を終えるとポケットに携帯電話をつっこむと床に落したタバコの吸い殻を携帯灰皿に捨てた。

「聞いたとおりだ。今ハリーが来る。警察が来たら呼ぶからてめぇらそれまで隣行ってろ」

 エリンがリリアンの肩を抱き、宥めるように撫でている。

「わかったわ。隆弘は?」

「一応ここにいるぜ。警察がきたら隣にいてもわかるとは思うが、無人ってのも抵抗があるだろ。男なら防犯にもなるだろうよ」

 アリエルが頷く。

「……そうね」

 リリアンの鞄から場違いなほど明るい曲が流れてきた。日本語のわかる隆弘だけが歌詞を聞いて眉をひそめる。

「なんだそのふざけた曲」

 真っ青な顔のままリリアンがわざとらしく口をとがらせる。

「メールの着信だよ」

 返答を聞いて隆弘はますます顔を歪めた。このタイミングでくるメールなど嫌な予感しかしない。一応メールアドレスは変えさせたが、不法侵入を平然とやってのける相手に子供だましのような手段がどこまで通じるのかわからないのだ。

 リリアンが焦点の合わない目でメールを開く。

 メールの文面を追うごとに彼女の真っ青な顔がさらに蒼白になっていく。目の焦点があったかと思うと、エメラルドグリーンの瞳がサッと恐怖に染まる。

 大きく開かれたリリアンの口から悲鳴が飛び出した。

「ひっ!」

 彼女は爆弾を手にとってしまったかのように慌てて携帯電話を取り落とす。ガシャンと大きい音がした。幸い壊れてはいないようだ。携帯を取り落としたリリアンはそのままトイレへ駆け込み、アリエルが後を追うように駆け出した。

「リリアン! 大丈夫!?」

 トイレから嗚咽が聞こえてくる。リリアンのことはアリエルにまかせ、隆弘は床に落ちた携帯電話を拾い上げた。メール画面が開いたままになっている。

 無断で見るのは多少抵抗があったが、あれほど顔色を変えるのだから昨日と同様ストーカーからのメールだろう。まだ明るい携帯電話の画面に目を落した隆弘は眉をひそめたまま画面をスクロールしていった。


『また他の男に媚び売りやがって尻軽女(スラッグ)が調子にのるなよ絶対犯してやるやらせろやらえろやらせろやらせろやらせろやらせろやらせろやらせろ』


 随分と酷い内容だ。あまりの不快さにメールを削除したい衝動にかられる。

 リリアンは昨日も部屋の被害状況を確認している時に吐き気を催したらしいし今回は特にショックが大きいだろう。

 トイレから聞こえる嗚咽と水音が暫くして悲鳴に変った。

「うわぁああああっ!」

 リリアンの声だ。さすがにただ事ではないと思った隆弘がドアを開けたままのトイレに駆け寄る。

「どうしたっ!」

 アリエルだけがゆるゆると隆弘に顔を向けた。リリアンはトイレの汚物入れを凝視したまま硬直している。顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。冷や汗もかいているようだ。隆弘もつられて汚物入れを見るが、そんなに脅える要員がどこにあるのかわからない。

 首を傾げる隆弘を見かねたのか、アリエルが消え入りそうな声を出す。

「……ゴミ袋が、なくなってるの……中身が、盗まれてるのよ……」

 アリエルの言葉に隆弘は一瞬、ゴミなんか盗ってどうするんだと心底不思議に思った。そしてすぐに女性用トイレの汚物入れに【なにがはいっているか】を思い出し眉をひそめる。

 部外者で男の隆弘でさえ気色悪いと思うのだ。当事者である女たちの気持ちは計り知れない。隆弘は脅えるリリアンに声をかけようとしてやめた。言うべき言葉が見つからない。

 メールの内容もこの窃盗も、非常に気色が悪かった。

 事の重大さに反して警察が到着するのには10分あまりの時間を要し、人数も2人というありさまだった。やはり先日の麻薬事件に力を入れているのだろう。やる気のなさが目に見えるようだ。

 隣の家に避難していた女3人がハリーたちに連れられて来ると、警官の1人がリリアンに対して淡々と事情を聞いていく。

「先日も被害にあってるね。部屋の状況は確認した?」

「友人が先に帰宅して、被害にあったと教えてくれたので、まだです」

「そう。じゃあ被害状況確認したいからちょっと一緒に来てもらえる? あ、足跡踏まないようにしてね」

 リリアンが警官のあとについて階段を上っていった。心配そうに階段に近づいたハリーが眉をひそめる。階段の時点ですでに異臭が立ちこめていた。生臭い、腐ったイカのような臭いだ。

 警官に促されたので隆弘たちも階段を上る。

 眉をひそめるリリアンに警官は淡々と言った。

「壁や床の汚れは採取して検査するからね。まあ、前科があればわかるでしょう。こういうのは犯人の特定が難しいから時間をかけて捜査することになると思うよ」

 リリアンの部屋の扉や壁に白と黄色が混ざったような汚れが付着している。異臭は汚れから漂っていた。また彼女の下着が何着か盗まれているかもしれない。リリアンと警察を遠巻きに見ながら隆弘は新しいタバコを取りだし火を付けた。

 リリアンが口元を押さえ、背中を丸める。また吐き気だろうか。眉をひそめてひどく苦しそうな顔をしている。いつもヘラヘラ笑っている姿とは似ても似つかない。

 ガタガタと震えるリリアンに警官が無遠慮な言葉を投げつけた。

「トイレにも入られたんだっけね。一応指紋とっておこうか。まあ君美人だし誰かにこういうことされてもおかしくないかもね。心当たりないの? 元恋人とか」

 警官の表情は気だるげで、言葉を投げつけられたリリアンは口元から手をはなしなんとかしゃべろうとするが、表情と同様声帯も凍り付いてしまったようで声が出ていない。パクパクとなんどか開閉を繰り返すだけだ。

 アリエルやエリンはもちろん、ハリーや隆弘も眉をひそめる。

 かまわず警官は続けた。

「元恋人とかだったらすぐわかるんだけどねぇ。今の彼氏さんは誰? 元カレの話とか聞いたことないの? 今の彼氏と付き合うのに別れたとか、そういうので恨まれてるんじゃないの?」

 警官が隆弘、ハリー、ドナ、エヴァンドロを順番に見る。

 ブチリと隆弘の耳元で音がした。気がつけば新しく火を付けたばかりのタバコを噛み切っていたので口に残った残骸をツバごと床に吐き捨てる。怒りにまかせて大股で警官へ歩み寄り胸ぐらを掴むと、気怠そうな顔目掛けて思い切り拳を振り抜いてやった。

 ドゴッ、と鈍い音がして拳に痛みが残る。吹っ飛んだ警官が床に背中を打ち付け微かに呻いた。

 ハリーが叫ぶ。

「たっ、隆弘! なにやってんだお前!」

 だが隆弘は友人の悲鳴を無視してさらに警官に歩み寄り、胸ぐらを掴む。

「ふざけんなよてめぇこのクソポリ公が! こんな脅えてる奴の前でよくそんなことが言えるな! その腐った根性たたき直してやるぜ!」

 隆弘が大きく振り上げた腕をハリーが掴んだ。

「わぁあああ! やめろ隆弘! ドナ! エヴァ! 手伝ってくれ!」

 ハリーがしがみついたことで動きの鈍った隆弘にドナとエヴァンドロが飛びつく。

「ゼルダの新作やるまで死ねないのに!」

「こんなことなら先週の据え膳カッコつけずに食っとくんだった!」

 怒りにまかせて3人を少し引きずった隆弘は、肩で息をしたまま警官を殴る寸前で停止する。なんとか2度殴られることを回避した警官は最初こそ隆弘に脅えていたようだったが、すぐさま顔に怒りを滲ませて声を荒げた。

「なっ、なんだお前はいきなり! 公務執行妨害だぞ! こっちは仕事してるってのに突然非常識にもほどがある! 学生だからって調子にのるなよ! 留置所で頭を冷やして貰うからな!」

 エリンが小さく

「非常識なのはあんたじゃない」

 と呟いたが、それはドナのわざとらしい

「あ~ああ~」

 という声にかき消された。

 警官2人がかりで連行されることになった隆弘は床に落ちた吸い殻を携帯灰皿に入れ、吐き捨てたツバをティッシュで拭う。

 それから手錠をかけられ家の外へ出た。リリアンが真っ青な顔色のまま追いかけてくる。

「隆弘っ!」

 リリアンに声をかけられたので隆弘が立ち止まった。横の警官は乱暴に彼の背中を押したが、そのくらいでふらつくようなやわな体はしていない。

 肩で息をするリリアンは今にも泣きそうな顔をしていた。いつもヘラヘラと笑ってふざけている姿とは似ても似つかない。

「隆弘っ! ごめんな! 迷惑かけて、そのうえこんな……!!」

 彼女が途中で言葉に詰まったので、隆弘は首を横に振った。

「気にするな」

 さらに言葉を続けようと口を開いた隆弘は、脳裏に浮かんだ言葉数個を吟味して結局表に出すのをやめることにした。口を閉じた瞬間また警官に背中を押される。未だ泣き出しそうなリリアンの目をまっすぐに見て

「また明日」

 と告げて、彼はパトカーに乗り込んだ。


 ◇


「タカヒロ・ニシノだ。よろしくな」

 窓から木漏れ日が差し込んでいる。9月1日からウィンチェスター・カレッジに入学した隆弘は寮の同室になった少年に手を差し出した。少年はオロオロと視線をさまよわせたあと隆弘の手をとって握手をする。

「タカヒロ? に、日本人なの?」

「いや。ハーフだ。母親がイギリス人」

「そ、そうなんだ……ぼ、僕、ジャッキー・ボーモント。同じ部屋になったから、これから、よ、よろしくね」

 6年前の話になる。思ったことを率直にいうタイプだった隆弘はこの頃から体格もよくリーダー格と目されることが多々あった。ジャッキーは引っ込み自案な性格で、一週間もすれば隆弘の後ろをジャッキーがついて歩くという図式ができあがっていた。

 小太りで動きの遅いジャッキーがからかわれるのはいつものことで、そのたび彼は隆弘の後ろに隠れていたが、隆弘もそれを苦とは思わなかった。

 周りもからかわれたジャッキーが隆弘の後ろに隠れるまでを一連の流れとして認識していたように思う。

 そういう役回りだった。よくある話だ。名門私立だろうと公立だろうと子供の考えに大した違いはない。一週間もすれば学校内でそれぞれの立場が固まり脱却は難しくなる。

 事件が起こったのは2年の夏だったと思う。

 ジャッキーが近所の少女に言い寄り、しまいには『気持ち悪い』とこっぴどくフラれてしまった。言い寄り方が粘着質で時間がある時には意中の少女をつけまわしていたのでこれには今まで冗談半分でからかっていた連中も本気で驚いたと言う。

 意中の少女にフラれたあげく周囲からの対応まで変ってしまったジャッキーはやがて授業に出たくないとごねるようになった。

 最初こそ体力も身長もジャッキーより上だった隆弘が無理やり授業へ引きずっていったのだが、半年くらい経ってとうとうジャッキーが体調を崩す。

 ベッドに寝たままのジャッキーに言われた言葉が、隆弘は今でも印象に残っていた。


「君の強さが、なによりも重荷だ」


 無理やり授業に参加させていたことが、ジャッキーにとっては重荷だったらしい。体調を崩したのも心労からだと言われたし、隆弘がよかれとおもってしていたことは結局すべて裏目にでていたというわけだ。

「……悪かった」

 謝罪に言葉は返ってこなかった。

 結局その後もジャッキーの体力は回復せず、自宅療養することになる。

 ジャッキーが居なくなった部屋を見て、隆弘はこれ以上彼を気にかけるのはやめたほうがいいと思った。

 自分の行動が裏目にでるのは初めての経験で、ショックだったのかもしれない。

 自分の不用意な行動や発言がまた彼を傷つけるのが恐かった。

 正しいと思ってしたことだったのだ。今でもなにが悪かったのかわからない。


 ならば、いっそなにもしないほうが傷つけなくてすむではないか。


 ジャッキーと隆弘が再会したのはオックスフォードに入学した時のことだ。家庭教師の教育で試験に合格したジャッキーのほうから隆弘に話し掛けてきた。

 ウィンチェスターでは隆弘の後ろをついて歩いていたジャッキーがその時ばかりは恨めしげな目をしていたのを覚えている。

「学校を離れた途端忘れ去られたみたいになにもなくて、寂しかったよ。君はそうじゃないかもしれないけど、僕には君以外友だちがいなかったから」

 カレッジが違うのでその後あまり交流はなかったが、まれに敵意のような恨みのようなものを感じる時はあった。

 それが悪意なく傷つけてしまったせいだとしたら隆弘はまだ受け入れられただろう。すまなかったと謝罪し、甘んじて悪意も敵意も受け止めた。

 だがジャッキーの言い分は違う。関わらなかったことが原因なのだ。

 自分なりに精一杯関わった結果、隆弘はジャッキーを追い詰めた。本人にも重荷だと言われた。だから距離を取ったのだ。

――じゃあどうすりゃよかったんだ。

 このことを考えると結局いつも同じ疑問に行きつく。近づくのも重荷で放っておくのも嫌だというのなら、どうするのが最善だったのだろうか。

 隆弘自身、太陽のように優しくなりたいとは思う。少なくとも授業に無理やり引っ張っていったのも彼なりの優しさだった。他の方法を考えたとしても、結局最後の目的は一緒だろう。

 ゆっくり待ってやればよかったのだろうか。いつか踏み出さなければいけない一歩を彼が自分で踏み出せるようになるまで。

 見守ってやればよかったのだろうか。彼が自分の殻からでてくるまで。

 だが思いつく全てのことが裏目にでてしまったら、今度はどうすればいいのだろう。

 ジャッキーに糾弾されて以降、隆弘は他人との距離感がわからなくなった。悩んでいたり苦しんでいる人間になにか言おうとするたび、重荷だと言われた瞬間が脳裏にチラついて上手く言葉を紡げない。

 自分の言葉が全て他人を傷つける刃に思えて仕方がない時がある。

 自分の行動が全て他人を傷つける刃に思えて仕方がない時がある。

 それでもリリアンの推奨した顔や、エリンたちの心配する顔を見て放っておけるはずもない。

 結局首を突っ込んで、このザマだ。

 もうグダグダ考えるのも面倒になってきた。ここまで関わったのだから最後までやり通すべきだろう。それで重荷だといわれたら、その時また考えればいい。


――「ぶっきらぼうだなお前」


 そういえばリリアンを無理やり家に引きずっていった時、そんなことを言われた気がする。とても嬉しそうな、優しい声で。

 

 それが答えのような気がした。


 ◇


「隆弘。とうとう警官を殴ったそうだな」

 鉄格子の向う側から声をかけられた隆弘がゆっくりと目を開け声のほうを見る。くたびれた様子の警官が1人立っていた。

 高い位置にある窓から日の光が差し込んでいるのでもう朝なのだろう。いつのまにか眠っていたようだ。

 隆弘は寝転んだまま吐き捨てる。

「おっさんか。あんたの部下が悪ぃんだぜ」

 隆弘の軽口を男は軽く受け流すと、鉄格子に手をかけよりかかるような体勢になった。

「で、なんで殴ったんだ?」

「俺が殴った奴に聞いてねぇのか?」

「加害者と被害者両方に話を聞くのが筋だからな」

「クソマジメだな相変わらず」

「お前は相変わらず口より先に手がでるようだな」

 警官が苦い顔をする。隆弘は喉の奥でククッ、と笑い男から目を逸らした。

 名前をアーマンというこの警官は去年隆弘が喧嘩騒ぎを起した時世話になった人物だ。堅物だが話はきちんと聞いてくれる。警官が全員こういう人間ならよかったのだが、そう上手い話はそうそうない。

「ダチがストーカーされててよ。被害者は女なんだが、あの野郎相手は元恋人じゃねぇかとか今の恋人と付き合うためにフッたんじゃねぇかとか言いたい放題言いやがって、頭に来たから殴ってやったんだよ」

 アーマンがかすかに眉をひそめる。

「……それは、酷いな。注意しておく」

「そうしてくれ。ストーカーに関しては2回通報したから資料はあると思うぜ。被害者がずいぶんまいってるようだから不良警官よりもこっちを先に解決してくれると助かる。1人怪しい奴がいるんだ。五年前近所の女しつこく口説いてフラれてやがる。オーバーチュアで被害者のリリアン・マクニールに助けられてるんだが、翌日メールアドレスをしつこく聞いて来たらしい。話を聞いてみてくれ」

「ジャッキー・ボーモントか……わかった。早期解決に努めよう」

「エクスタシーの事件で忙しいだろうに、悪いな」

「なに、忙しいからといって事件を選り好みしていては警察失格だ」

 隆弘が片手をあげて感謝を表現するとアーマンも笑って片手をあげた。直後に鉄格子の鍵を開け、隆弘に外へ出るよう促す。

「だが頭に血が上ったからといってすぐに手を出すのはやめておけ。お前はただでさえ人よりガタイが良いんだから、危険だろう。これは前にも言ったと思うが」

「ああ、ああ、悪かったよおっさん。気をつけるぜ」

「本当にわかってるのか?」

「もちろんだぜ。で、俺はもう帰っていいのか?」

 わかっていなさそうな隆弘を前に、アーマンがため息をつく。

「なんならもう一晩入って本格的に反省してもらってもかまわんぞ」

「冗談だろ。もう充分反省したぜ」

「そうは見えないな」

 なおも続く小言に隆弘が肩を竦める。

「本当に反省したんだぜ。あんたの小言は長いからな。出来れば聞きたくねぇ」

「ふん。ならこれからはせいぜい大人しく暮らせよ」

「おう。ぶちこまれないように気をつけるぜ」

「ぜひそうしろ」

 隆弘が警察署の前でひらひらと手を振ると、アーマンも手を振り替えしてくれた。こういう良い人間もいるのに2回も不良物件を引き当てるあたりリリアンの運の悪さは折り紙つきだなと思う。警察署が見えなくなったあたりでポケットからタバコをとりだし火を付ける。朝霧の中をフラフラと散歩しがてら10分かけて家へ戻ると、玄関の前にリリアンが立っていた。

 金色の髪が霧のせいですこし湿っている。まさか居るとは思っていなかった隆弘は思わずタバコを落としそうになり、緩慢な動きでニコチンを手に持った。

 人の気配に気づいたのかリリアンがふっと顔をあげ、隆弘を見る。いつも笑っているはずの顔が今は泣きそうに歪んでいた。

「隆弘!」

 彼女は慌ただしく隆弘にかけよると、申し訳なさそうにぐっと眉尻をさげて俯いた。

「迷惑かけてごめんな。こんなことになって、本当にごめん」

「別に俺が留置所にブチこまれたのはてめぇのせいじゃあねぇだろ」

 隆弘としては至極真っ当な意見のつもりだったが、それでもリリアンの表情は晴れない。

「だって、部屋が荒らされてて警察呼んだから、あんなことになったんじゃねぇか……」

 タバコをくわえ直した隆弘はガシガシと乱暴に頭を掻いた。

「てめぇは全部自分が悪者なら納得すんのか?」

 リリアンが驚いたような顔で首を横に振る。

「そっ、そんなんじゃねぇけど!」

 そんな顔をしてほしかったわけではない。

 罪悪感に苛まれて欲しくて警官を殴ったわけではない。ただ隆弘自身が気に入らなかったから殴っただけだ。

 沈んだ顔色のリリアンを見て口を開いた隆弘はいつものクセで一旦口を閉じ、キュッと真一文字に結んでから再び口を開いた。

 俯いているリリアンの胸ぐらを掴み、引き寄せる。当然ながらリリアンはひどく驚いた顔をした。同時にとても脅えているようだ。女の体が震え出す。部屋を荒らされた時と同じ反応だ。自分もあれの犯人と同じ扱いなのはひどく不満だったが、きっとリリアンは隆弘ではなく、なにか別のものが恐くて周囲のすべてにそれを投影しているのだろう。

 だからそれを隠すように、いつもヘラヘラと笑っているのかもしれない。

「俺もふくめて、てめぇの周りは好きでてめぇの心配してんだこっちは変な風に遠慮されるほうがよっぽど迷惑だぜ。これがてめぇにとって迷惑だってんならハッキリそう言え」

 リリアンは目を見開いて隆弘を凝視している。体はまだ震えていた。隆弘も負けじと彼女の目を見据え、尋ねる。

「俺たちがてめぇの心配するのは、迷惑か?」

 低く唸るような声が出た。これでは脅しをかけているようだ。リリアンはポカンと口を開けてマヌケ面を晒している。茫然とした表情のまま彼女はゆっくりと首を振った。

「迷惑、じゃ、ない……」

「だったら言うセリフがちげぇだろ」

 リリアンの顔から驚いたような脅えたような表情が抜け落ち、代わりにはにかんだような笑みを浮かべた。

 彼女の体の震えが止まったのを確認し、隆弘はそっと服を掴んでいた手を離す。

 あらためて隆弘に向き直ったリリアンがニッコリと笑った。

「心配してくれてありがとう、隆弘!」

「おう。気にすんな」

 隆弘がタバコの煙と一緒に返事を吐き出すと、リリアンはなにがそんなに嬉しいのか

「へへへー」

 と妙な笑い声を出した。

 隆弘は口の端を持ち上げ、笑う。

「さっきまでビビってやがったくせに、随分切り替えが早ぇじゃねぇか」

「うん。心配してくれるってわかったから、恐くなくなった」

「じゃあ今まで俺がてめぇの心配してねぇと思ってたんだな?」

 隆弘が笑ったまま言うと、リリアンがわざとらしく口を尖らせる。

「そーじゃねぇよぉー言葉のあやだよぉー!」

 いつものリリアン・マクニールがそこにいた。これはたぶん空元気ではないだろうと隆弘は思う。

 タバコの煙を吐き出した隆弘は、なにが面白いのか煙の行方を凝視するリリアンに尋ねた。

「……なあ、なにがそんなに恐ぇんだ」

 リリアンがチラリと隆弘を見る。それからすこし目を伏せて、静かに人差し指を唇へ押し当てた。

「まだ秘密」

 今度は隆弘が目を伏せてタバコをくわえなおし、大きく息を吸い込む。それから煙を吐き出した。

「悪い。妙なことを聞いた」

 リリアンが静かに首を横に振る。

「心配してくれてるから、嫌じゃねぇよ」

 ありがとう。と小さく付け足したリリアンは、またパッと明るい笑顔に戻って隆弘の肩を叩く。思いの外力が強かったので彼の体が少し揺れた。

「今日私食事当番なんだけどさ! サンドイッチ作ったからお前も食べる?」

 口をへの字にまげてリリアンを見た隆弘はそのあとすぐに笑って彼女を肘でつつく。

「俺の食う分には胡椒かけんじゃねぇぞ」

 リリアンが不満そうに口を尖らせた。

「えー美味いよー」

「そう思ってんのはてめぇだけだぜ」

 リリアンが肘でつついてきた。

「あとさ隆弘さ、今日の10時からの講義出んだろ? 一緒にいこーぜー!」

 隆弘がリリアンの肘をつかんで逆につつき返す。

「ああ。お前チャリ後ろ乗ってくか?」

 脇腹をつつかれたリリアンはひとしきりケタケタと笑ったあと、隆弘の拘束を抜けだしてぴょこぴょこと飛び跳ねた。

「やったー! 帰りにクレープおごってあげるね!」

「っつーか2ケツが目的だったんじゃねぇかてめぇ」

 数秒後心配して外の様子を見に来たアリエルに盛大なため息をつかれ、ハリーたちに散々笑われたあと結局7人の大人数で朝食を取ることになったのだった。


 ◇


「やべぇ! ノート忘れた!」

 生物学の講義の後、イグザミネーション・スクールズを出たリリアンがバッグに手を突っ込んで声を上げた。彼女の隣を歩いていた隆弘はタバコをくわえて視線だけをリリアンに向ける。

「取りにいくのか? 一緒にいってやろうか」

「いいよすぐだし! あぁー折角良いホモネタメモっといたのに!」

「てめぇは授業中になにしてんだよ」

 隆弘の呆れた言葉も見事に流し、リリアンは自分の持っていたバッグを彼に押しつける。

「ちょっと待ってろよー!」

 言うが早いか建物の中に戻っていったリリアンを見送り、隆弘はため息をついてタバコの煙を吐き出した。リリアンを1人でいかせるのは物騒ではないかとも思ったが、忘れ物を取りに行くくらいでついていくのは過保護な気もした。アリエルやエリンなら自然についていくだろうが、隆弘にはどうにも気恥ずかしい気がする。

 不意にリリアンの携帯電話から着信音が響く。

 『津軽海峡冬景色』は隆弘も聞いた事があったが、知っている歌手のものではなかった。男性の歌声だ。

 メールは違う曲だったのでおそらく電話だろう。エリンかアリエルあたりだったら自分が出ても問題あるまいと判断し、隆弘は多少の抵抗を覚えつつバッグから携帯電話を取り出す。

 表示された番号は知人のものではなかった。

 ただ末尾が警察のものだったので、考える間もなく慌てて電話に出る。

「リリアン・マクニールの携帯電話だが?」

 事件になにか進展があったのだろうか。電話の向う側からは聞き覚えのある声が聞こえてきた。

『なんだ。隆弘か。リリアン・マクニールはどうした?』

 警察官のアーマンだ。本当に捜査に本腰を入れてくれているらしい。

「おっさんか。あいつなら忘れ物取りに言ってるぜ」

『じゃあ近くにいるんだな。何よりだ』

 アーマンの口調がどこか焦っているようだったので隆弘が眉をひそめる。

「なにかあったのか」

『ジャッキー・ボーモントに事情聴取を行おうとしたが、自宅に見あたらないんだ。電話をしても繋がらない。ただ、借家の自室から女性用ナプキンの入ったゴミ袋が発見された。お前、リリアン・マクニールの近くにいるなら1人で出歩かないようよく言っておいてくれ。こちらも早急にジャッキー・ボーモントを捜索する。今、おまえらの家に警官を2人向わせているところだ』

「わかった。悪いなおっさん」

『おい隆弘、間違っても妙なマネはするんじゃないぞ』

 最後の方の言葉はよく聞き取れなかった。

 ジャッキーの自室からゴミ袋が見つかったと言われたあたりで携帯電話を握りしめたままスクールズに走り始めたからだ。講義はサウス・スクールで行われたからリリアンはそこにいるだろう。

 こんなことなら無理にでも一緒についていけばよかった。

 隆弘の後を追うようにタバコの煙が少しだけ残っていたが、風に吹かれてすぐに消えてしまった。


 ◇


「あー、あったあったぁ」

 サウス・スクールの自分が使っていた座席まで来たリリアンは机に放置されていたノートを発見し一息ついた。講義と趣味両方のメモがとってあるノートは彼女にとって非常に重要なアイテムだ。今回まとまった連続殺人鬼と吸血鬼の話は近々形にしようと心に決めている。とりあえず連続殺人鬼が女装姿のまま吸血鬼にまたがるシーンは絶対に入れようと決心し、リリアンはノートを抱え込んだ。

 隆弘が待っているから早くいかないと。

 誰かが一緒に行動してくれるだけで随分と心強い。ニコニコと笑うリリアンが小走りで廊下に出ると、横に人影が立っていた。

 見覚えはあるが、隆弘ではない。知り合いだったら挨拶くらいしようと視線をむけたリリアンの頭に強い衝撃が走り、彼女はそのまま意識を失ってしまった。


 ◇


 姉のジュリアン・マクニールが20の誕生日を迎え、記念に友人たちとキャンプに行くと言い出した時、リリアンは10歳だった。

 10も年の離れた姉やその友人はとても大人に見えて、リリアンの目にはとてもカッコ良く映った。自分のわからない問題を優しく教えてくれるのも憧れる要員の一つだったように思う。

「リリアンも一緒にいきましょう?」

 だから誘われた時は素直に嬉しかったし、こんな大人の輪に入れる自分がひどく誇らしかった。

 まさか、あんなに恐ろしい思いをするなんて思わなかったのだ。

 姉の友人だという男の車に乗って、友人家の別荘があるという森へ行く。途中まではよかったのだが、森のコテージについてから周囲の態度が一変した。

「おいジュリアン! こいつ好きにしていいんだよな!?」

「あんまり乱暴はしないでね。私の可愛い妹なんだから」

「はっ、可愛い妹をこんな目にあわせるんだからお前も大概イカれてるぜ!」

 車を運転していた男に押さえつけられ、圧迫された手首が痛い。自分より圧倒的に体の大きな大人たちに押さえつけられている恐怖でリリアンは泣き叫いた。

「お姉ちゃん! 痛いよ! 恐い! やめてよぉ!」

 リリアンが身を捩って恐怖と傷みから逃れようとすると、覆い被さっていた男が眉をひそめる。バシン、と大きな音がして頬が熱くなった。殴られたと知って涙と悲鳴が止まる。

 本当に恐ろしいと身体機能のすべてがマヒしてしまうのだと、この時リリアンは初めて知った。

「っるせぇんだよ! 黙れ!」

 怒鳴られて体がビクリと震える。リリアンの脅えた表情に満足げな笑みを浮かべた男は、しかし次の瞬間ジュリアンに思い切り蹴り飛ばされ、ソファに頭を打ち付けていた。

「あんまり乱暴はしないでっていったでしょ。私の可愛いリリーの顔に傷でもついて後がのこったらあんたケツ掘られる以外のことじゃイケなくしてやるわよ?」

 リリアンは、姉が助けてくれたのだと思った。頼りになる姉だから、きっと自分をこの状況から救ってくれるのだと思った。

 だが頭から血を流した男が姉の手の甲に口づけした瞬間、リリアンは自分の認識が間違っていたことを知る。

「ヒッ、ヒヒヒッ……そうしてくれよぉ、たまんねぇなお前。そういうとこサイッコーだぜ」

 舐めるような口づけだった。リリアンは見てはいけないものを見たような気がして目を逸らす。助けを求めるように見た姉の顔は、泣きそうな――けれども嬉しそうな、不思議な表情だった。

 それが『恍惚』というのだとリリアンは随分後になってから知ることになる。

 いつもはカッコイイと思う、真っ赤なルージュをひいた姉の唇が、この時ばかりは不気味に思えた。

「さあ、一緒に楽しみましょう? 私の可愛いリリー」

 男に足首を掴まれる。放置した飲み水のように生暖かい、ぬるりとした感触にリリアンは悲鳴をあげた。

「やだっ! はなして! はなして! やだっ、お姉ちゃんっ!」

 助けを求めてもジュリアンは笑うだけだ。赤いルージュの口元が歪む。

 男の手がずるずると這い上がってきて、リリアンはまた泣き出した。

「やだ! やだよぉ! はなして!」

「逃げられねぇぞぉ、これから仲間もくるしよぉ、楽しもうじゃねぇか。ジュリアンの妹なんだから素質あるぜぇ? たぶんなぁ」

 男が不気味に笑いながらリリアンの腹を舐めあげる。ヘソのあたりが濡れて寒い。手の動きも舌の動きも、全身を虫が這い回っているようで怖気がたった。

 生ぬるい、ねっとりと絡みつくような他人の温度が不快だ。

「やだ! はなして! やだ!」

――気持ち悪い。気色悪い。気味が悪い。離して、触らないで、近寄らないで!

 手を伸ばして助けを求めても、ジュリアンはやはり笑って見ているだけだった。

 意識が遠のいていく。


「やだぁあああああああああああああぁあああああ!」


 その日のことはとうとう親には言えなかった。なんと言っていいかわからなかったし、姉は両親に信頼されているから、もし自分の言い分が信じて貰えなかったらとおもうと恐かったのだ。

 その代わりにリリアンは11歳になったと同時にウェストミンスタースクールへ入学し、自宅から通える距離であるにも関わらず寮へ逃げ込んだ。休日の帰省をなるべく減らし、どうしても帰らなければいけない時は親と片時も離れないよう細心の注意を払った。

 リリアンが14歳になる頃には姉は仕事でちょくちょくアメリカへいっていたから、それ以降は彼女に脅えることはなくのびのびと暮らしている。

 

 ただこの事件以降、リリアンは人と触れあうことが極端に恐ろしくなってしまった。ウェストミンスターで最初の1年間は誰とも接触せず、暗い子だと言われていたくらいだ。

 対人関係については時間をかけてすこしずつ改善していったが、今でも女性が登場する性交渉シーンは全年齢対象の映画ですらマトモに直視できない。

 男性同士なら大丈夫だと気がついたのはいつのころだったか。少しだけ自分がマトモになれたようで嬉しくて、ずいぶんとその世界にのめり込んだ。

 勘違いされがちだが、リリアンは今でも――男女の性交渉は苦手だ。

 苦手というより、それを示唆する表現を見ただけで吐き気を催す。

 だからリリアンは今回の欲望をまるごとぶつけてくるようなストーカー事件が恐かった。

 気持ちが悪いと思う。気色が悪いと思う。気味が悪いと思う。

 とにかくリリアンはもう二度とあんな思いをするのは嫌だったし、友人であるエリンやアリエルが同じような思いをするのは、それ以上に嫌だったのだ。


 ◇


 リリアンが目を覚ますと、真っ先に目に飛び込んできたのは薄暗い天井だった。頭がひどく痛む。起き上がろうとして、体のバランスが取れないことに気がついた。

 どうやら手を縛られているようだ。

 無理やり起き上がろうと体を動かしているリリアンに声がかかる。

「リ、リリアン、目が、さめた?」

 声のするほうを見ると、薄暗い中にジャッキーが立っていた。息づかいが随分と荒い。どう考えても嫌な予感しかしなかった。リリアンが無理やり体を引きずって距離をとると、ジャッキーが一歩前に出る。

 彼は荒い息づかいのまま、じりじりとリリアンに近づいてきた。

「たっ、隆弘なんかと楽しそうにするから、こんなことしなくちゃいけなくなったんだよ。だっ、大丈夫だよ、き、君だって、こういうのが好きなんだろ? 本がたくさんあったよ。こ、これからは、僕が相手をしてあげるからね。ま、まずは、浮気したことを反省してもらわないと」

 ちょっとなにをいっているのかわかりませんね。

 リリアンは喉まで言葉が出かかったが、相手を刺激するだけだと思って飲み込んだ。

 ジャッキーの目がギラギラと異様に輝いている。あの森のコテージで見た男の目とよく似ていた。

――気持ち悪い。気色悪い。気味が悪い。

 どれだけ必死に逃げてもリリアンが体を引きずる速度よりジャッキーが歩いてくる速度のほうが当然早い。

 無理やり体を引きずって逃げるにも限界があった。ジャッキー同様、リリアンの呼吸も緊張と恐怖で荒くなる。

 それをどう勘違いしたのか、ジャッキーがニヤリと笑った。

「ふ、ふふふ、だ、大丈夫だよ。き、きっと楽しいよ」

 とうとう足もとにまで近づかれ、リリアンの喉がひきつった声を出す。

「ひっ……」

 ジャッキーは笑顔のままだ。笑ったままリリアンの足もとにしゃがみ込み足を掴む。

 生ぬるい、真夏の飲み水の温度がねっとりと絡みついた。

 恐怖で体がひきつる。思い出すのは虫が体全体を這い回るようなあの感触だ。

――気持ち悪い!! 気色悪い!! 気味が悪い!!

 ジャッキーの顔がぐっと近づく。覆い被さるようにされて生暖かい息が頬にかかる。

 思い出すのは森のコテージ。赤いルージュ。這い回る虫。生ぬるい体温。痛い。恐い。辛い。気持ち悪い。触らないで。近寄らないで。気色が悪い。

 ぶよぶよした手がリリアンの服に手をかける。今まで凍り付いていた喉がたまらず悲鳴をあげた。

「いやだぁああああああああああぁあああああああああっ!」

 拘束されていない足だけでバタバタと暴れ、ジャッキーが体勢を崩した隙を狙って腹部を蹴りつける。

「ぐぇっ!」

 蛙のつぶれたような声がしてジャッキーがリリアンから離れた。彼女は自由にならない体を無理やり動かしうつ伏せになると、芋虫のように無様に体をひきずって扉まで逃げていく。当然鍵がかかっているが、そこまで考えが及ばなかった。ただ逃げたい一心だ。

 もう二度とあんな思いはしたくない。

 恐怖のせいで口からは意味のない悲鳴が漏れていた。10歳の時は固まったままだった体のすべてが、今は逃げたいという願望だけで動かせるすべての機能を無意識にフル稼働させている。

「あぁあああぁああっ! あっ、あぁああぁっ! うぅぅううっ!! うぅっ!! ぐぅぅぅ!! うぅ!! うああああぁあああぁあっ!!」

 声を絞り出せばなんとかなるとでも言うようにリリアンは一心不乱に意味を成さない声を吐き出す。誰かが来てくれるかもしれないとか、相手が驚いて動きを止めるかもしれないとか、そんなことは一切考えていなかった。とにかく逃げるしかない。体の全てを使って逃げるしかない。体を必死に動かしていたら自然に声も出ていた。それだけだった。

 腹を蹴られたジャッキーがゆらりと立ち上がる。振り向いている余裕などリリアンにはなかった。ただ男の怒ったような声が聞こえてくる。

「こっ、この尻軽女(スラッグ)がぁああああああああああ!! ふざけるなよぉおおおぉおおちょっと優しくしてやればつけあがりやがってぇえええええ!! だまって足ひらいとけばいいんだよお前なんかぁあああ!!」

 ジャッキーがかけよってきて、リリアンの髪を掴む。ブチブチと髪の抜ける音がしてただでさえ痛い頭に激痛が走った。

「いやぁああああっ! やだぁあああぁああっ! うぅうぅぅっ! うぅぅぅ!! あぁああぁあああ!! あああああああああぁああっ!!」

 動かせない腕の代わりに足だけで思い切り暴れ、そのせいでまた髪がブチブチと抜ける。ジャッキーを振り切って這いずったリリアンの肩がガツンとなにかにぶつかった。扉だ。鍵がかかっていてあかない。そもそも拘束された両手では鍵がかかっていなくてもドアを開けるのに時間がかかる。

 その間につかまるだろう。

 肩で息をするリリアンは絶対に開かない扉をみてボロボロと涙をこぼした。口でドアノブを掴もうとするがうまくできない。

「うぅうぅぅっ、うぅぅぅぅっ!!」

 ガチガチと奥歯が何回か噛み合って、結局ドアノブを掴めずバランスを崩したところで近づいてくるジャッキーが目に入った。

「あぁあぁあっ、あああああぁああ……!!」

 声は意味を成さない。もはや自分が何を考えているのかもわからず、ただ目の前の壁が自分を絶望させる存在であるということだけを認識して嗚咽を零した。


――そこで、彼女はガチャリ、とドアノブの廻る音を聞く。


「手間ぁかけさせやがって」

 扉の向う側から声がしてリリアンはぱちくりと二度まばたきをした。背中で縛られた腕が痛い。

「そこから動くんじゃあねぇぞ」

 ドゴンッ、と大きい音がしてすぐ横を大きな固まりが通り過ぎる。バタン、とガシャン、の混じり合ったような轟音がリリアンの鼓膜にダメージを与えた。床に破壊された扉が一枚落ちている。そのあとすぐリリアンの目の前にあった扉もバリバリと音をたてて引き剥がされ視界から消えた。またバタン、とガシャン、の混じり合った轟音がして扉だったものが前方に倒れる。

 リリアンの目の前に扉を引き倒したであろう腕がぬっと伸びてきて体が強引に引き寄せられた。暖かい壁にポフンとぶつかりトクントクンと一定の音が聞こえてくる。心臓の音だ。

 彼女がふと首を動かすと頭上に見知った顔があった。黒く長い睫に覆われた切れ長のコバルトグリーンが前方を睨み付けている。


 隆弘だ。


 リリアンの肩を抱く隆弘の腕に力が入り、彼の心臓の音がよりいっそう近くで聞こえる。ブチリと音がして火の付いたタバコが床に落ち、隆弘がツバを吐いた。口の中に残ったタバコの残骸を吐き出したのだろう。

「ふざけやがって」

 彼は腕にリリアンを抱いたまま大きく右足を振り回した。

 ドガッ、と腹に響く低い音がして何かが床に倒れ込む。先ほど自分に乱暴しようとした男だと気づいたリリアンはけれど強い力で抱きとめられているせいでその様子を見ることが出来ない。

 隆弘の低い声がした。

「――覚悟しやがれ」

 声と、喉を使った振動と、心臓の音が、聞こえてくる。血液の流れる音さえも聞こえてきそうで、そのほうが安心できると思えて、リリアンは隆弘の腕の力に従うフリをして彼の胸に顔を押しつけた。

 蹴り飛ばされた男が起き上がり、小さく呻く。

「やっ、やっぱり君は僕のことを疑ってたんだ! ひどいよっ!」

 リリアンを抱き留めている隆弘が低い声で吐き捨てた。

「疑うもなにもてめぇがやってたんじゃねぇか」

 ゲホゲホとジャッキーが咳き込む。ゼェゼェと荒い呼吸音を響かせてなおも彼は叫いた。

「君はいつでもいろんな方法で僕を傷つけるんだ! 友だちだとおもってたのにっ!」

 男が隆弘に掴みかかる。リリアンを右手だけで抱き留めた隆弘が、左手でジャッキーを殴り飛ばした。バキンと大きな音がして男がまた床に倒れる。

 床に倒れたジャッキーを見下ろし、隆弘が怒鳴った。

 低い声がビリビリと空気を震わせた。

「被害者面すればなんでも許されると思ってんじゃねぇぞ! 自分だけが可愛そうだとか思ってるから自分のことしか考えられねぇんだ! 好きな女がこんなに悲鳴あげてんのになんとも思わねぇのかてめぇは!」

 ジャッキーからの返事はない。どうやら気絶したようだ。小さく舌打ちした隆弘がリリアンに話し掛けてくる。

「もう大丈夫だぜ」

「あ、あぁ……」

 殴られたせいか、リリアンの頭はひどく朦朧としていた。叫びすぎたせいかもしれない。彼女は鈍った頭で隆弘の腕がとても温かいのはなぜだろうと考える。ジャッキーに触れられた時は気持ちが悪くて恐ろしくて仕方がなかったのに、隆弘の腕はとても安心する。

「不思議……だなぁ……」

 緊急コールを終えた隆弘がひどく心配そうな顔でリリアンを見た。大方恐怖で意識が錯乱しているのかもしれないと思っているのだろう。

 実際そうなのかもしれないあたりが情けない。

 隆弘の顔をみてクスクスと笑ったあと、リリアンはすぐに安心の理由を見つけた。

「ああ、心配……してくれるからか……」

「おい、なんの話だ」

 意識が遠のいていく。隆弘の声をどこか遠くに聞きながら、リリアンは呟いた。


「お前の手、あったかいな……ひだまり、みたいだ」


 すでに自分の声も上手く聞き取れない。言いたいことをどこまで言えたのかもわからずにリリアンの意識はブツリとブラックアウトした。


 ◇


「あ、アリエルか? 今退院したよーエリンもいる?」

 スクールズで気絶したリリアンはその後大事をとって一晩入院することになった。身体検査は異常なし。借家の大家には入居を拒否されてしまったため、これから荷物を引き取ってエリンとアリエルとは離れてカレッジに戻る予定だ。

 ただ事情が事情であるためカレッジが大家とリリアンたちの間に入り交渉してくれたためアリエルとエリンは今まで通りの負担額で入居を許可された。家賃が1人分安くなったわけだ。

「あ、エリンやっほー! 私の荷物さー……うん? 隆弘が?」

 リリアンが電話をしたまま顔をあげる。病院の門の前に男が立っていた。

 195cmの長身で、非常に男くさいがどこか中性的な顔立ちをした男。

「……隆弘」

「よう」

 驚くリリアンに彼は軽く片手をあげて挨拶する。ちかくに止めてあった自転車の荷台を指差し、ジェスチャーでリリアンに乗れと言ってきた。

 リリアンは大人しく荷台に腰を下ろす。

「迎えにきてくれたのかよーサンキュー隆弘」

「フン、手間ぁかけさせやがって。これから荷物取りに行って、このままカレッジいくぞ」

「隆弘も?」

「ああ。てめぇが心細いだろうからってカレッジが1年間半額で部屋使わせてくれるとさ。うちの借家も他の連中の家賃負担額は変らねぇ」

「まじで!? もうけー」

 オックスフォードの町並みは相変わらず中世で時間が止まっているようだ。10月の少しだけ冷たい風を頬に受けながら、町並みとは反対にリリアンの時間は10歳のあの時から少しだけ動き出していた。

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