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第3部 ③


 半島東岸の浦項から大邱、そして南岸の泗川までを結ぶ線から南東が、戦争開始以来ぼくらの先達が血と汗を以て奪取し、今に至るまで守ってきた制空圏だった。逆に言えば、そのラインから一歩でも北西に出れば、敵空軍の防戦に晒されることを意味する。


 少なくとも、昭和一四年の三月いっぱいまではそうだった。その時期までを、ぼくらは半島の制空圏を比較的自由に飛び回り、あちこちを掃射して回ったのだ。


 「斬り込み」の戦果は台湾の時とは違い、実のところ冒した危険と、浪費した銃弾と燃料とに比して妥当とは言えなかった。低空で地平を舐めるように飛び、それで仕留めた目標と言えば、こじんまりとした建物や車ぐらいだ。


 飛行場を襲撃し、時たま思い出したように上がってくる対空砲火(その様は、敵が十分な対空網を構築できていない、と言うより構築する意思も能力もないようにぼくらには思われた)を掻い潜って数少ない飛行機を撃破することもあったが、それは野球の試合でホームランを打つぐらい稀なことである。


 古谷中尉は優秀な指揮官であり、頼れる兄貴分であった。号令や指示一つで変幻自在に姿を変え、あるときには雁木状に、またあるときは単縦陣になって目標へ突っ込む編隊。敵を倒し、空の支配権を奪うという、ただその一つの目的のために考案され、錬成された飛行機の連なりの目となり、脳となって、彼は編隊を最善の方向へと導き、ぼくらは編隊という有機体を構成する細胞の一つとなって戦ったのだ。


 一方で半島北部では、活発化する敵機の活動の様子が続々と偵察機からもたらされて来る。


 無尽蔵の労働力と、アメリカやソ連製の建設機材を以て、短期間の内に続々と建設される北部の飛行場群。建設初日にはほんの測量現場に過ぎなかった場所が、三日後には広大な矩形の空間を形成し、更に三日後には整地されたその傍に、進出を終えた爆撃機群が列線を形成している。と言った具合である。


 この頃になると、偵察活動そのものも敵機の妨害に遭い、困難になったことはおろか犠牲も続出するようになった。敵機は半島北部の重要拠点の上空に一個中隊分の戦闘機を警戒待機させ、進入してくる偵察機に備えるようになったのだ。それはつまり、敵空軍が常時空中に戦闘機を上げておけるだけの数的余裕を確保できるようになったこと、地上との連携の下、効果的な迎撃体勢を敷けるまでにその練度を高めていることを意味していた。


 敵側にとっては、明らかに「戦機熟す!」の機運が高まっていたのに違いない――――後は、命令を下すだけだ。制空権の奪回と、九州北部に点在する日本軍飛行場への徹底した攻勢の命令を。


 彼らは、明らかにその機を伺い、見定めていた。


 対してぼくらは、彼らの周到な企みに対し、上から下に至るまで鈍感だった。

 むしろ大本営は、半島における敵空軍の情勢を守勢に転じたものと判断し、反攻に打って出る機会の到来と本気で信じていた。


 ――――そして昭和一四年四月初旬。ぼくらは、「鷲の日 (イーグル‐デー)」を迎えた。






 四月一五日――――四月に入って間もないその日。


 空はすっかり晴れ上がり、心地良い風が宿舎には吹き込んでいた。


 予定では、その日の午前中は出撃は無いはずだった。久しぶりでの休養の一時。元気の有り余っている者は、嘗ては校庭だった運動場に出てキャッチボールやバレーボールに精を出したり、そうでない者は、


 「何時ぐっすり眠れるかわかんねえんだ。皆寝ろ!」


 という中尉の有難い言葉に甘えて、久しぶりでの朝寝を満喫している。


 ぼくもまた、宿舎でだらしなく寝そべり、校庭でバレーボールを楽しむ連中の様子を空ろな目で眺めていた。未だ抜けきれぬ眠気を弄びながら……


 蔡君は赴任して一週間目で、隊のバレーボールチームの名セッターとして頭角を現している。彼の掛け声でボールがコートを舞い、彼のレシーブに皆が惜しみない敬意を注ぐ。それが、ぼくには微笑ましい。


 飛行場でも、延長訓練を終えたばかりの少年航空兵たちと額をつき合わせて航空図に経路を書き込んでいる蔡君の姿が目立つようになっていた。彼がいるところには、同年代の若者たちが決まって集っていたものだ。このまま行けば、彼はさぞかしいい先任搭乗員になれるだろう。否、なるに違いない。


 ぼくは半身を起こした。校門に入ってくる三輪トラックの荷台に、キャベツや茄子、そして大根やカボチャなど、目にも鮮やかな野菜類が満載されているのを目にしたからだ。ここ数日を「サツマイモ入り」の麦飯やらジャガイモ「だけ」の肉じゃがやら、さらには絶望的に不味い粉末の味噌汁やらで過ごしてきたぼくらには、それが宝の山に見えたとしてもごく当然のことであったのかもしれない。


 トラックの周りには、すでに気の早い連中が集まって騒いでいる。今日の昼あたりは、久しぶりで美味しいものが食べられそうだ……そんなことを考えながら、再び横になったとき―――――


 寝そべるぼくらの前に、慌しい足取でやってきた伝令が大声で叫んだ。


 「全員、装具を着用し飛行場へ急行!」


 いままで自堕落に寝そべっていたのが嘘のように、その場の皆は立ち上がり、飛行装具を引っつかんで校庭に集合。その後に校庭で遊んでいた連中も続いた。


 怪訝な表情を隠さず、皆は顔を見合わせた。


 「何があったんだ?」


 「さあ……」


 事情を知らされる暇も与えないかのように、砂埃を上げながら慌しく校庭に入ってきたトラックに便乗を命ぜられ、最後に校長室を流用した指揮官室から、難しい顔をした古谷中尉が乗り込んできた。


 「どうかしたのですか? 中尉殿」


 「どうもこうもねえよ……敵の攻勢が始まりやがった」


 それを聞くだけでぼくにはもう十分だった。猛スピードで飛行場に駆け込んだトラックが停止するや否や、トラックから飛び降りた搭乗員は黒田先任の号令一下、急かされる様にピストへ駆け込み、中尉とぼくはその足で指揮所まで向かった。


 指揮所――――壁に掛けられた地形図には、半島上空の情勢が刻々と明記されている。

 その半島の南東部―――つまりぼくらの制空圏―――の上に貼られた、敵機の出現を示す機影は、圏内を埋め尽くすかと思われるほどの勢いで増えている。指揮所要員が佐世保の防空司令部と通話し、地図要員に手信号を送る度にその数はさらに増え、やがては半島をはみ出して対馬海峡の西水道に達した。「大変なことが起こっている」ということぐらい、小学生にもわかる。


 備え付けの無線機は、前線と他の指揮所との遣り取りをどんどん拾い、ぼくらの耳に聞かせてくれる。


 『――――釜山上空。空戦中――――』


 『――――巨済上空。空戦中――――』


 『――――こちら第二中隊……増援はどうなっている? これ以上持ち堪えられない!……』


 『……どういうことだ? ホークがそこら辺にいっぱいいるぞ……!』


 『……こちら三番機……被弾……離脱する……』


 『……芦屋より二中隊出した。頑張れ……もう少しで到着する……』


 「…………!?」


 ぼくと中尉が顔を見合わせた直後、指揮所の電話がけたたましく鳴り響いた。すかさず電話に出た中尉の顔が、彫像のそれのように固まるのを、ぼくははっきりと見た。


 「ハッ……わかりました。すぐに行きます」


 ぼくは窓辺へ駆け出し、口笛で飛行場に待機する先任整備員の島村一整曹を呼び、手信号で「始動」の合図を送った。電話を置くと、中尉はぼくに厳かに言い放った。


 「司令部からだ……天満、ご指名だぞ」


 中隊は全力で出動。予定の「斬り込み」が一転、制空任務に就くべく機上の人となり、北西へと針路をとる。


 博多湾上空に達したとき、雲間を縫って眼前に飛び込んできた他の編隊の多さに、ぼくは思わず目を見張る。おそらく芦屋や雁ノ巣から上がってきた隊であろう。数えてみれば、二〇~三〇機はいる……! 


 それぐらいの数の戦闘機が九州に展開していることぐらい薄々とわかってはいたが、実際に目の当たりにすると不思議な興奮が沸いてくるものだ。


 だが、地図や戦況報告を見聞きした限りでは、敵はそれ以上いる? 


 壱岐からも上がってきた九六艦戦を交え、対馬南部に達する頃には、こちらの編隊はすでに五〇機ほどにまで膨れ上がっていた。


 ――――そして、対馬の西水道上空。


 陽光を反射し、虚しく上昇下降、そして旋回を繰り返す銀翼。それを遠巻きに囲む黒点の連なり。それはまさに、これまで楽園同様だった制空圏を追われ、防戦に転じたわが方を象徴する光景だった。黒点の数はみるみる増え、銀翼を煌かせ今なお抵抗を続ける味方を覆い尽くさんとしているかのようであった。


 『全機増槽落とせ。突入、突入せよ……!』


 命令一下、編隊は突進する。ぼくらの目的はもはや敵機を墜とすことではなく、取り残された味方を救うことにある。


 銀色の単翼と緑色の複翼が交差し、その連なりは空に沸いた巨大な渦となってぼくを呑み込んだ。このような乱戦下では、敵の得意な一撃離脱も用を為さない。


 一方で、長距離を飛んできたぼくらは燃料の心配をしながら戦いの中に身を委ねねばならぬ。対馬に下りれるという利点があるにはあるが、やはり真っ直ぐに家に帰りたいのが人情なのだ。


 敵機の追従をかわすための三旋回目で、ぼくはのっそりと前に出てきた機影を捉えた。尖った機種、丸みを帯びた主翼は、紛れも無いイタリア製のフィアットCR32だ。


 全速で距離を詰め、鼻先少し先の空間を狙って射弾を撃ち込む。

 エンジンから黒煙が上がるのを視認する。

 速度が落ち、主翼を振り始めたのは失速寸前という証か?……上翼を狙って放ったもう一連射は操縦席付近を捉え、CRは糸の切れた人形のようにだらしなく直立し、尾部から錐揉みに転じて落ちていく。


 『少尉! 後方敵機!』


 蔡君の声で、機体を反転降下に入れる。声に反応していちいち後背を振り向いていては命が幾つあっても足りない。


 「蔡兵曹頼む……!」


 呻くように言いながら振り向いた先……ホークが一機。こちらと同じく降下に転じ、距離を詰めている。ホークの降下加速はいい。下手をすればこちらに勝るかもしれない。


 急上昇に転じ、縦の旋回に持ち込む。引き起こしが間に合わなかったのか、いきなりニュッとぼくの前に出るホークの緑の機体。その背後には蔡君の九六艦戦がピッタリと食いついている……つくづく、無線機の有難さと連携の威力を痛感させられる一コマである。


 「蔡……そいつを墜とせ!」


 『リョウカァーイ!』


 蔡君が放った一連射がホークの尾部を捉えた瞬間。大きな破片がホークから飛び散った。白煙を吐き出したホークはそのまま半面に転じ、真下の雲へと突っ込んでいく。止めを刺そうと、それをさらに追う蔡君……!


 「蔡!……追うな。本官が確認した!」


 撃墜と認められるには、本人の報告の他に、第三者の証言が必要となる。ぼくの言葉は、血気に逸る彼を深追いさせないための方便のようなものだ。


 銀翼を連ね、ぼくらは未だその勢いを衰えさせない空戦の環の外縁を飛んだ。環から毀れ出たやつを仕留めてやろうという、不純な目論みもあった。


 だが、そういう考えは、戦場にあっては直ぐに打ち消される種類のものだ。


 『――――天満少尉。何処に居やがる。さっさと戻れ!』


 という古谷中尉の怒声と共に、浅はかな打算は脆くも打ち砕かれ、ぼくらは再び乱戦の中に引き戻される。垂直旋回の姿勢からCR32の四機編隊の上方に占位するや、編隊は一斉に散開。そこを上方から突っ込んできた中尉の小隊が襲い掛かる。


 中尉の放った二連射がCR32一機を捉え、錐揉みに陥った機は機首を下にして視界から消えていく。


 『天満……そのまま真っ直ぐ飛べ。後背よりホーク三機』


 やれやれ……追われてばかりだな。苦笑とともに背後を振り向こうとするや、再び怒声が飛ぶ。


 『首を傾けるな。蛇行するぞ!』


 蛇行すれば、速度が落ちる。そこを敵機に距離を詰められる。


 『こちら黒田……一機撃墜。後二機……上昇した』


 『天満上がれ! 上のホークを追うんだ』


 言われるまでも無い。急上昇に転じた先……待ち構えていたように光の剣を網膜に突き立てる太陽に、愚痴の一つでも叫びたくなる。だが、ぼくは機影を一つ、確実に捉えている。


 宙返りの頂点を少し抜けた先で、照準器に機影が入った。


 敵機の上後方……不細工な尻だと思う。


 発射把柄を握った。


 急激に曲がって飛び出た光弾が、虚しく敵機の尻を掠める。旋回中はダメだ……やはり水平に戻さないと……姿勢を回復させ、逃げる敵機を再び照準に捉えたとき――――


 前方のホークの各所に火花が散り。破片が舞った。側面からの攻撃にホークは火の玉と化し、そのまま降下に転じていった。黒煙を曳きながら墜落していく敵機の航跡に、敵機を墜とし垂直旋回に転じた隊長機が翼端から曳く水蒸気が、眩しく鮮やかな軌道を青空のキャンパスに描いた。


 『天満……編隊に戻れ』


 「……もう一機は?」


 『下に逃げた。もう追う事ぁない』


 「了解」


 敵機の姿は、周囲からはあらかた消えていた。目を凝らすと、北の方で何やら蠢く黒点の連なりに気付く。恐らく、帰投に転じた敵機だろう。中尉は、列機に集合を命じた。程無くして、出撃した全機が隊長の周りでガッチリとした編隊を組む。


 無線機には、引っ切り無しに他中隊の長機らしき声が、集合と深追い禁止を呼びかけているのが入ってくる。


 周囲を飛ぶ味方機がくっついたり離れたりしては、次第に編隊らしい陣形を空に形成していく。その数は、到達したときよりかなり減っているようにぼくには見えた。


 何気に眼を向けた燃料計に、燃料があと二〇分ぶんしかないのに気付き、ぼくは愕然とする。これまで真っ直ぐ半島に行き、適当に銃撃して帰ってくるという毎日を過ごしていたから判らなかったが、空戦というものは乗り手の想像以上に燃料を使うものなのだ。


 「こちら天満機……燃料あと二〇分……」


 『俺もあと一五分だ。対馬にでも下りるしかねえなあ』


 他の機からも、続々と燃料欠乏の報告が上がってくる。それを聞いて、ぼくは不安になる……本来不時着用にしか整備されていない対馬の飛行場に、果たしてぼくらを収容する能力があるのだろうか?……と。


 燃料節約のためにスロットルを絞り、エンストに備えて早めに機内燃料タンクを切り替える。徐々に高度を下げながら差し掛かった海域に浮かぶ白い点に、ぼくは顔を強張らせる。空戦で力尽きた機が海上へ突っ込んだ痕だ。


 持参した対馬の地形図は、北と南にそれぞれ飛行場を備えていることを示していた。下りるなら南がいいと、ぼくは思った。敵地に近い場所は、どうも気が引ける。そんなことを考えながら飛ぶうち、気付いた時にはぼくは眼前に対馬北部の海岸線を見ていた。


 「隊長、どちらに下りますか?」


 隊長は少し考えるような素振りを、無線器の向こうでしたようにぼくには思えた。


 『……南まで飛べない者はいるか?』


 間を置かずして三名が名乗り出る。黒田一空曹に指揮を取るよう命じ、中尉は四機を北へ向かわせた。銀翼を翻して列から離れる四機を、ぼくらはただ呆然と見送る。


 島沿いにさらに南西に進み、小さな矩形の飛行場を眼下に見出したときには、時刻はすでに正午を回っていた。上空を一航過し、飛行場の端にびっしりと並ぶ九六艦戦の数に、ぼくは目を奪われる。


 着陸して向かった待機所では、先に降りていた搭乗員が興奮した顔で空戦の様子について話し込んでいた。


 「戦況はどうなっている? 敵はまた来襲して来るのか?」


 「敵は手強い。こちらも相当墜とされた」


 「もう、大邱までは飛べないな」


 「一〇〇機は飛んでいたぞ。あんな編隊と戦って勝てるのか?」


 ……その他、誰々が一機墜としたとか、誰さんが何処で墜落したとか、どの方向から、どんな敵機が、どれくらいの数で飛んできたか……とか、戦況の話は延々と続いていた。皆に共通していたのは、「信じられない」とか「こんなのは初めてだ」とか急激な敵の反応に対する戸惑いにも似た意見だ。


 しかし、混乱の中にあっても、事態に対する搭乗員それぞれの分析は大概において的を得たものではあった。これら搭乗員の断片的な話から浮かび上がった空戦の全容は、次の通りである。


 発端は、黎明を突いて朝方の「斬り込み」に出た三個中隊だった。


 いつものように大邱上空に達し、一個中隊が高度を下げたところを、雲間から湧き出るようにして出現した大規模な敵編隊に背後から襲われたのだ。この奇襲で、中隊長機を含め二機の九六艦戦が墜とされた。それでも当初は、そこに残りの二個中隊が救出に駆け付けて形成は逆転、敵機を撃退できるかに思われた。


 だが、時を経るにつれて敵機は数を減らすどころか続々と東部や北部から大邱上空に現れ、優位な位置から二個中隊に攻勢をかけてきたのだ。空戦に参加した搭乗員の意見では、この時出現した敵機の数は五〇~一〇〇と食い違うものの、想像を超えた数の敵機を前に我が方が圧倒されたことは事実だった。この段階で、さらに五機の味方が「制空圏」の空に散った。


 空戦域は追われる様に対馬海峡の西水道に移り、敵機の攻勢もさらに勢いを増した。そこに漸く増援のぼくらが到着し、烈しい乱戦の末に西水道で辛うじて敵機の攻勢を圧し止めたという形となり、空戦は終了した。わが方は三〇機余りの敵機を墜としたものの、この段階では合計一一機が未帰還となっていた。


 ……それが、後の航空戦史に「鷲の日 (イーグル・デー)」と銘記される一日の経緯である。




 気が付けば外では、普段見ることの無い搭乗員がいきなり次々と着陸して来たうえに、待機所狭しと集まっているのがよほど驚きだったらしく、基地員もおろか地元民ですら集ってきてこちらに目を凝らしている。


 その外では、古谷中尉と飛行場の指揮官が何やら遣り取りをしている。


 「燃料補給を頼みたい」


 という中尉の懇請に、指揮官は苦りきったような表情を浮かべるのだった。


 「燃料の備蓄が足りない。全機に給油するわけには行かない」


 と、彼は言う。


 もともと緊急時の不時着用という位置付けをなされていた対馬には、よく整地された滑走路はおろか、予備の部品や燃料の備蓄すら十分とは言えない。その飛行場側にしてみれば、ここに来て大きな空戦が起こり、いきなり基地の処理能力を越える機がこの狭い飛行場に殺到してきたというわけである。彼らが驚き、困惑するのも無理は無い。


 黙って二人の遣り取りを聞いていたぼくは、中尉の前に進み出た。


 「どうでしょう? ここはもう諦めて、二機で帰るというのは」


 「胴体に一人載せるというわけか?」


 ぼくは頷いた。納得したような、しないような表情を浮かべ、中尉は九六艦戦の列線を見詰める。


 「……そーするしかねーみてーだなぁー」


 中尉は、指揮官に向き直った。ぼくはといえば、北の飛行場にいる黒田兵曹たちと連絡を取るために電話へ走る。


 その電話が、基地に一台しかなく、その一台に北飛行場にいるであろう同僚と連絡を取ろうと多くの搭乗員が殺到していた。しばらく待っている内に、中尉と指揮官との間で話が付いたのか、「グレートヒェン」と中尉の乗機の二機には優先的に給油が始まっている。


 その給油がまた、ガソリンの入ったドラム缶をわざわざ持ってきて、ホースとポンプでせっせと給油するという、原始的な方式だった。この分だと、給油作業にもさらに時間がかかるだろう……電話を待つ行列に並びながら、ぼくはぼんやりとそんなことを考える。


 住民の人々が、炊き出しの握り飯を持って来てくれた。若い搭乗員から真っ先に握り飯に飛びつき、喉に詰らせた米飯をお茶で流し込む。


 「涙と共にパンを食べたことのない者に、青春の味はわからない」と、ゲーテは言った。


 彼ら若者にとって、今日の握り飯とは涙を流して胃に詰め込む敗北の味なのであろうか? それとも、今日を生き抜いたという生命の喜びの味なのであろうか?……今日の握り飯にありつけなかった仲間達のことを思いながら、ぼくは空を見上げたのだった。


 上空には、警戒のため発動機を轟かせ旋回する九六艦戦の四機編隊。壱岐か九州の基地から発進した部隊であろう。だが、あの九六艦戦がそれ以上に北西へ進むことは、当分……否、おそらく永遠に無いかもしれない……失われた日々への憧憬という、明日をも知れぬ老人だけの所有物ともいえる感情を、何時の間にか抱くことに何の抵抗も感じなくなっている自分に気付き、若いぼくは嘆息する。




 あの「鷲の日」――――


 敵は遂に攻勢に転じ、それを圧し止めんとする味方の努力は結局報われなかった。


 そしてさらに悪いことには、エデンの園より追われたアダムとイヴ宜しく、「制空圏」を失ったぼくらに想像を絶する試練が待ち構えていることを、当のぼくら自身はあの時点では想像すら出来ていなかった。




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