第2部 ②
――――時は、昭和一三年五月初旬。
沖縄は八重山列島の、石垣島飛行場にぼくらはいた。
先月の末から南方の空を覆っていた鉛色の梅雨雲は何処かへ消え、久しぶりで現れた晴れ間は、梅雨に倦みかけた人々の一抹の安息をもたらすかに思われた。しかし太陽は、意地悪にも下界の人間にそれを堪能することを許さないかのように熱い光を注いでいる。
基地の外れの木陰の下はちょっとした楽園だ。影の覆う範囲だけは冷たい空気が溜まり、涼を求める者なら誰でも拒まずに受け入れてくれる。
愛情豊かなる自然と精霊は
汝らに翼を授けたり
我が軽き足取を追い行かば
薔薇咲く丘へ導かん
涼風に揺られ、何気なく「ファウスト」の一説を声にならない声で反芻しながら、ハンモックに横たわるぼく。やがてぼくはまどろみから覚め、遠方へと目を細める。
突き刺すような陽光に揺らぐ地上の先、光を吸った刀剣のようにぎらつく九六式艦上戦闘機一号二型の列線。その中に、ぼくの「グレートヒェン」もいた。
石垣島に進出して既に一週間を、ぼくらは本来ならば畑違いとも言える船団護衛任務で費やしていた。
翼下に三〇kgの対潜爆弾二発を吊るして基地を発進、八重山列島、宮古列島近海を航行する護送船団と上空で合流、対潜哨戒を行うのだ。
一見地味なこの任務の重要さに軍令部が気付くのに多大な犠牲を要したが、時間的には認識そのものには半年も掛からなかった。日露戦争時の装甲巡洋艦を改造した海防艦を、申し訳程度に船団の護衛につけていた当初と比べ、南西諸島で活動する護衛戦隊の陣容は急速に拡大、充実の一途を辿っていたのだ。
裏を返せば、それぐらい敵潜の跳梁跋扈はこの海域では烈しかった。現在では新型の攻撃型主力艦の建造以上に駆潜艇や護衛艦の建造が優先され、さらには戦時徴用の輸送船の内一部が急造の対潜舟艇や水上機母艦に改造され、空や海から船団の直援任務に就いている。
それでも、戦力は足りない。そこで南西諸島から台湾方面にかけての地形習熟も兼ねて、ぼくら新参の戦闘機隊にもお鉢が回ってきたというわけである。
「本土防空戦」勃発以前から、朝鮮半島方面に対する防衛は陸軍。台湾及び南西諸島の防衛は海軍の担当となっていた。これは当然の帰結であろう。島嶼部が主戦域となる南西方面で作戦行動を行う上で、洋上飛行に優れた海軍航空隊の投入は欠かせない。
本来の戦闘任務ではない一方で、基地や船団との高度な連携を要する作戦であるため、九六艦戦には対潜爆弾の他新たな装備が追加された。それは機上無線器だ。ただ従来型の送受話式の無線機では感度が悪く使い物にならないため、確実な送受信ができる旧来のモールス信号を多用することとなった。
船団護衛任務は、朝、昼、夕と三交替に分けて行われる。対潜哨戒が厳重になった結果、朝、昼はどうと言うこともなくなったが、敵潜の襲撃は大抵視界が悪くなる夕に集中する。敵潜に狙われているという恐怖のあまり、海原に映えた夕日の光を雷跡と誤認した例も数多かった。
その日、ぼくらは昼の組だった。正午にならない内に、器具と手弁当を持って機上の人となる。警戒に間隙を作らないための処置だった。ぼくらが到着した時点で、朝の組は引き上げて行くというわけだった。
石垣島を脱し、南東に一〇分も飛べば、眼下には既にミズスマシのような航跡が幾つも延びていた。
先頭を行く隊長機に目を凝らす……今ごろ、精妙とはいえない無骨な手付きで、彼は無電のキーを叩いているはずだ。
『セハケ……セハケ……』(船団発見、船団発見)
盗み聞きした無電は、そう言っていた。折り返し、基地からの返信が聞こえて来る。
『リョ……リョ……』(了解、了解)
手間の掛かる無電で、短時間で報告しなければならないのだから、自ずと略語を多用するようになった。確かに、これなら無電に明るくない者でも覚えやすい。
やがて、基地からの帰投命令を受取ったのか、さっきまで船団上空を旋回していた朝の組が一斉に主翼を翻し、帰投を始めた。
入れ替わるように、編隊は一斉に降下を開始する。周囲には九六艦戦の他に、船団に随伴する特設水上機母艦から発進した三座式の九四式水上偵察機の姿もあった。その翼下にも、黒光りする対潜爆弾。
当初、前線に水上偵察機部隊を展開させるための移動基地的な役割を負わされていた特設水上機母艦は、今では輸送船団に随伴する護衛空母的な役割を課せられていた。
具体的には、特設水上機母艦はその担当する航路間を往復し、駆潜艇と連携して船団の護衛任務を空からサポートするのが任務だった。その種の任務は、元が経済性に優れ、少しの改造で水上機を運用できる大中の輸送船には打ってつけだった。
――――そして、水上機部隊はこうした海軍の、ひいては国民の期待に実績を以て応えた。
この戦役間に日本海軍が撃沈した中国軍潜水艦四七隻の内実に二〇隻が、これら特設水上機母艦から発進した水上偵察機によるものだったのである。後に戦争の最盛期には、日本海軍はこれら大中小の輸送船を改造し、一〇~二〇機程度の水上機を運用できる能力を持たせた特設水上機母艦を合わせて三〇隻以上も保有することとなる。
通商航路を守るというその任務の重要さに比べ、船団の周囲を飛び回りながらの船団護衛は至って単調な任務だ。低空を飛び、周囲の海面に目を凝らしていればいい。そこに船団に忍び寄る巨大な影を見出したとき、それは鯨か?……そうでなかったならば、ぼくらの求める「もの」だ。
弁当の稲荷寿司をお茶で流し込みながら、ぼくはぎらつく海原に目を凝らす。それはもう毎日の日課のようなものだ。もっと横着なやつには、機上で煙草をふかす者もいた。
地上では悪夢のようにぼくらを苛む太陽も、高度千メートルの、ひんやりとした空気の流れる蒼い空間ではその暖かさが心地良い。何度も同じ場所を飛び、任務になれるに従って生まれた余裕はぼくから緊張を奪い、代わりに眠気をもたらしてしまう。
何度目かわからない生欠伸の後、涙眼で視線を転じた遥か先――――
「…………?」
輪陣形を組み、真っ直ぐに北東へ進む船団の、さらに南東に浮かぶ影が、ぼくから眠気を一気に奪った。
潜水艦……?
ぼくは機首を転じた。
手はすでに、爆弾投下レバーに延びていた。
機首を下げ、加速の付いた九六艦戦は、たちまち影の上方に到達した。
暖降下……レバーを握る手に力が篭るのを感じる。
石垣島でみっちり教え込まれた爆撃の手順が頭を過ぎる……だが、反芻する余裕などぼくにはもう無かった。
照準鏡の中には、すでに真っ黒い影が明確な鰹節の形をもって、ぼくの目の前に迫っていた。
レバーを引いた。
ガコン……という軽い衝撃。爆弾が翼下を離れた証だった。
操縦桿を引いた。
上昇と同時に、二本の水柱が海面から吹き上がるのを、ぼくは後ろ目で見た。
上昇したまま見下ろした先ではエメラルド色の海面を背景に、大きな、真白い斑紋が二つ浮かび上がっている。
黒い影は、とっくに消えていた。掻き消えるように……
「…………」
狐にでも抓まれたような目で、おそらくあのときぼくは爆弾が着弾した先を見たのであろう。風防を開け、バンドを解き、機から落ちるかと思われるくらいに操縦席から身を乗り出し、ぼくは爆弾を落とした先に目を凝らしたのだった。
――――それからは何事も無く、定時の二時間が過ぎた。このときも、無電が任務の終了を報せてくれる。
『ショオ……ショオ……カエ……カエ……』(哨戒終わり、哨戒終わり、帰れ、帰れ)
隊長機が打ち返す。
『リョ……リョ……』(了解、了解)
振り向けば、上空ではすでに交替の組が旋回し、ぼくらが帰還するのを待っている。
帰還したぼくを、隊長の質問攻めが待っていた。用件は、勿論潜水艦の件だ。
「潜水艦は一隻か?」
「どの辺りで見た?」
「攻撃はどの高度から、どの方向から、どういう角度で掛けたか?」
「撃沈を確認したか?」
一番目、二番目、三番目には何とか答えられたが、四番目となると、どうとも言い難い。投弾下直後には、潜水艦と思しき影は拭い取ったかのように消え去っていたのだ。潜水艦を撃沈したときに必ず海面に上がってくるという重油も、ゴミも一片たりとも見ていない。
結果、隊長は戦闘詳報にこう書き残した。
『――――五月○日。正午の出撃。出撃機数 六機。戦果 潜水艦一隻撃沈不確実』
その夕方、第三直の隊も潜水艦一隻不確実撃沈を報告した。結論として、鯨か何かの群れを潜水艦と誤認したのではないかということになったが、恐らくそれが真相だろう。
――――それがぼくの、対潜作戦における最後の出撃となった。
昭和一三年の六月に入り、ぼくらは台湾本島への進出を命ぜられた。
台湾方面における戦機は、刻々と熟していた。
一連の戦争勃発以前より中華民国は、「同胞」たる中国系住民が人口の多数を占めていることを理由に、台湾の併合と領有を宣言。国際社会に対しても台湾領有の正当性を大きく喧伝していた。これに対しドイツ、そしてアメリカが支持を発表。これまでの軍事援助もあいまって、これら両二国の対中戦をめぐる日本との関係は一層険悪なものとなっていた。
そして「本土防空戦」が始まった翌年の昭和一三年三月一二日。沖縄を発進した八試特偵が、金門島周辺及び対岸の厦門において、集結を開始した大規模な地上軍と上陸用舟艇の存在を察知する。
それは、来るべき台湾攻防戦の始まりであった。
日頃は賑やかな台北の街はひっそりと静まり返り、一部では邦人の疎開も始まっている。大陸側の西岸部には縦深陣が設営され、一部の砂浜では障害物や機雷の設置すら行われていた。
ただ前線とは言っても、嬉しいことがぼくにはあった。内地では滅多にお目にかかれないものが、ここ台湾には豊富にあったのである。砂糖や、バナナなんかはまさにそうだった。
台湾に着いた日。案内された市場の一角で山々と詰まれたバナナの房にぼくは目を見張った。生まれてこの方、バナナなんか五本の指に満たないほどしか食べたことの無かったぼくには、それは黄金の山のように見えたのである。内地からやって来た皆もまた、同じだった。しかも値段も内地のそれより遥かに安かった。それがまた、ぼくらを驚かせた。
胸焼けする位に甘いバナナを堪能した後、基地の連中にも食べさせてやろうとたんまり買い込んで持っていくと、意外な反応が返ってくる。
「貴様馬鹿か? バナナなんてここには腐るほどあるんだ。貴様の行為は鹿児島でサツマイモをお土産に持っていくのと同じだぞ」
なるほど、よく考えてみれば確かにそうだ。ぼく自身最初はもの珍しかったバナナも、何度も見ては食べている内に、やがては見るのもイヤになった。
同じように、ぼくら搭乗員には食事や配給のある度に「航空増加食」と称して金平糖や黒砂糖の詰った袋が配られる。何もぼくら搭乗員の身体を思って配給してくれるわけではなく、敵潜の跋扈により南西方面の通商路が機能不全に陥り、現地に於ける供給があまりに過多となったため、こうでもしないと生産分を捌ききれないのだ。搭乗員や将兵の中には、配給されたこれら糖類を溜め込み、内地にいる親族へ持って行こうと考える者もいた。
砂糖といえば、蔡一空兵の実家は台湾の台東でも大きなサトウキビ農家で、蔡一空兵に勧められるまま、ぼくと柴田兵曹はあまりに大きな彼の実家で歓待してもらったことがある。
広大な実家から少し離れた、土蔵の二階に設けられた彼の部屋。その窓辺から一面に広がる黍畑に、ぼくと柴田兵曹は目を見張ったものだ。その遥か遠くに広がる背景には、台湾山脈に連なる山の一角が稜々と広がっている。
「あの畑は、全部君の家の土地なのか?」
「いえいえ、あの山までが自分の家の土地です」
そんな遣り取りがあって数刻の後、ぼくらは蔡一空兵の父上に引き合わされた。
「うちの息子が大変お世話になっておるしょうで……いやはや、何の持て成しも出来ましぇんがせめて今晩だけは……ごゆるりとなさってくだしゃい」
明治時代。台湾征伐の折、台湾に上陸した政府軍の道案内を買って出た功績で叙勲された経験もあるという蔡君の父上は、抑揚のアヤしい日本語でぼくと柴田兵曹を迎えた。
父上が現地語で声を上げるや否や、蔡君の兄嫁や姉妹 (何と蔡君は一五人兄弟だった……!)、そして使用人たちが手に手に大皿のゴチソウを抱えて続々と入ってくる。
「……これでも呑んで、景気を付けてくだしゃい」
と出されたのは、アルコール度数四〇パーセントの紹興酒で、さらには「自家製」と言って、瓶の中に得たいの知れない生き物を詰め、それを老酒に浸したものまで出てくる。恐る恐る飲んでみると、これがまた途轍もなくキツイ。
蔡君の父上は元来大騒ぎするのが大好きな性分だったらしく、ぼくら以上に飲み且つ食っては、大声で地方に伝わるというイヤらしい内容の謡を詠み、一口飲むのがやっとのぼくらに、やたらと酒を勧めてくる。当の蔡君すら、あまりの恥ずかしさに丸顔を真っ赤にして俯いていたものだ。
その夜……散々に酔い潰れたぼくらは、千鳥足で転がり込んだ蔡君の部屋で川の字になり、泥のように眠った。
三人同時に目を覚ましたときには、すでに日は高くなっていた。
今度は、「飯を一緒に食おう」ということで呼び出されてみると、ふと視線を転じた中庭には、紹興酒の樽が山々と積まれている。それを指差し、蔡君の父上は陽気な声を上げたものだ。
「あんたたち、これ帰るまでに全部呑みなさい」
さすがのぼくらも、これには真っ青になった。
「参ったナァ、これじゃあ敵機と戦う前に殺されてしまうぞ」
「どうします?」
「しょうがないですよ、さっさと帰りましょう。基地へ」
と、蔡君も苦笑するしかない。
蔡君の母上に事情を話すと、母上は文字通り裏口からぼくらを逃してくれた。家を出る間際、蔡君の母上は蔡君とぼくらに粽の包みを持たせてくれた。昨夜の経緯から事あるを予感していたのだろう。だがそれ以上に、息子を思う母の気持ちにぼくらは心を打たれたのであった。
これも今となっては、戦乱の中に咲いた一輪の花のような微笑ましい挿話のひとつである。
ぼくらが台湾に第一歩を踏み出した頃、基隆、高雄といった南北の主要港には、続々と徴用され、海軍陸戦隊員を満載した輸送船が内地から敵潜の捕捉を掻い潜り集結を始めていた。
台湾防衛のためか?……と考えては見たものの、どうも違う。
「防戦だけじゃない。大陸に反攻する準備をしているのさ」
と、誰もが言った。
台中、台北、嘉義といった主要飛行場にも海軍機が続々と集結し、その陣容には、新たな作戦の始まりを予感させるものがあった。
我々九六艦戦隊の他、本土の基地航空隊や艦隊より派遣された艦戦や艦爆、そして艦攻隊。そして水偵隊までもが展開を始めている。
「あの艦爆は、『赤城』の飛行隊ですね」
「『龍驤』の飛行隊まで来てるのか……」
居並ぶ艦上機を前にして、そんな会話が飛行場の界隈では繰り広げられている。
一部は損傷の修理中であるものの、空母は出せないわけではない。出したくとも、戦域が台湾方面と朝鮮半島方面に限定されている現在、これらの艦の出撃するべき海など無いのである。たとえ出したとしても、南西方面を遊弋する敵潜水艦の、格好の的になるだけだ。
乗るべき空母が当分動けない現在。空路から進出し、陸上部隊として作戦に参加するしか彼らには術が無いのであった。
その一方で、台湾の空もまた、去年の九州上空と同じく戦場となっていた。
ぼくらが到着するのとほぼ期を同じくして、大陸の福建は泉州、福州に増設された飛行場群からは、連日のように中国軍の爆撃機が飛来し、迎撃する我が方の戦闘機隊と、これまた連日のように空戦を繰り広げていたのだ。
大陸から台湾まで、その距離は台湾海峡を挟み一〇〇kmもない。その短距離を突いて爆撃機が飛来し、台北や基隆、そして高雄といった軍事上の主要拠点に爆弾を落としていく。
ぼくらもまた、迎撃に駆り出された。
ウウウウウゥゥゥゥゥーーーーーーーーーーー!
――――台湾に進出して二週間目。その日も、ぼくらの部隊の展開する台中飛行場に空襲警報が響き渡る。
それから後の勢いが凄まじい。皆航空装具を引っ掴み、将棋を指す手、飯を食う手も止めて一目散に九六艦戦の列線へと駆け寄っていく。まさにその様は運動会で定番の徒競争だった。敵機の飛来距離が短いために、即応に素早い動作が求められるということもあるが、搭乗員の数に比して機体の充足数が少ないため、こういうときは機体の取り合いになってしまうのだ。
当然、「グレートヒェン」もぼく以外の誰かに乗られてしまう可能性があるわけで、当然、ぼくにとっては面白い話ではない。
そこで、ぼくは一計を案じた。
それは簡単なことだ。機体の主翼下で敵機が来るまで粘っていればいいのである。翼下に茣蓙を持ち込み、敵機が来るまでずうっと座り込むという日々が何日も続いた。外は文字通りの炎天下ではあったが、主翼の陰に隠れているお陰で下は随分と冷たい。ぼくと同じことを考えていた搭乗員もまた何人かいて、機体の下に陣取り敵機を待っている。熟練の搭乗員よりも、血気に逸る若い搭乗員の方が数が多かった。食事も、地上員に頼んでここまで取り寄せてもらうという徹底振りである。
整備員もまた必死である。「敵機……!」の声が掛かるや否や、脱兎の如き勢いで担当の機材に飛びつき、秒単位の素早さで機を始動させなければならないからだ。操縦席に腰を沈めスタータースウィッチを押す者。外から二人掛りで転把を回し、プロペラを回転させる者……三人の息が合っていないと。エンジンは上手く掛からないどころか、エンジンそのものを傷めてしまうこととなる。
従って基地の片隅では、暇さえあれば予備機に取り付き、始動訓練をしている整備員の姿がよく見られた。大事なときに折角精魂込めて整備した機を空に上げられないのは、確かに痛恨の極みであろう。
――――慌しく上昇……編隊を組む間も無く艦戦隊は一路高雄上空を目指す。
『―――――敵機は澎湖諸島上空。南東へ飛行中』
主な作戦空域が台湾本島または近海であり、沿岸部の通信施設が充実していることもあって、地上から報告は頗る明瞭に聞こえてくる。当時、軍の通信には従来の基地のものの他、NHK台湾放送局の送信アンテナまで利用されていた。
『―――――敵機はJu―52/3m六機。B―10四機と認む―――』
おいでなすった!……眦を決して向けた機首の先には、台湾南西の海岸線。
敵爆撃機の主力はドイツ製のJu―52/3m輸送機を改造した爆撃機と、アメリカ製のマーチンB―10で、特に後者は武装も充実し頑丈な機体であり、迎撃側にもしばしば手を焼かせた。
澎湖諸島の半ばに差し掛かったところで、ぼくは遥か前方に黒点の連なりを見た。
スロットルは既に全開。
これ以上加速が出来ようはずもなく、歯噛みしながら追いかけること一〇分……ぼくらは梯団を組む編隊の最後方に差し掛かった。編隊の先頭は既に台南近辺にいるかもしれない。場合によっては、同じく迎撃に上がった台南の艦戦隊と空戦を繰り広げているのかもしれない。敵機の察知を、海岸からの見張りと役に立たない聴音器に頼っている現状では、台湾海峡上空などの優位な地点での迎撃は望むべくも無い。
敵側にも苦労があるとすれば、Ju―52より三割がた優速なB―10が、低速のJu―52に速度を合わせねばならないことだ。双発のB―10より、機首にもエンジンを搭載した三発のユンカースの方が多少出力に余裕がありそうだが、あまりに無骨すぎる箱状の胴体が、機体の空気抵抗を強めているのかもしれなかった。
そのような速度の相違はまた、ぼくらの付け込む余地でもあった。
さらに距離を詰めると、照準鏡に、Ju―52の角ばった後姿がきっちりと納まった。
ぼくは左手で握った機銃発射レバーを握り直す。手袋をした手の中に、じんわりと汗が滲むのを感じた。後は目測と直感で距離を測り、射撃に適した距離まで迫るだけ―――――
まだ遠い……まだまだ遠い……遠いかな?……いやもう少し……今だ!
反射的に引いた引き鉄!……伸びた射弾がユンカースの胴体に吸い込まれ、各所に火花を走らせた。被弾したJu―52は主翼を傾け、胴体下に抱えていた爆弾をポロポロと落とし始めた。ぼくら三機は入れ替わり立ち代りに敵編隊に攻撃をかけてユンカース一機を撃墜し、他の機にも射弾を打ち込んだ。
ぼくら以外にも、あらゆる方向から追い縋った九六艦戦がユンカースの後方から攻撃をかけては煙を吐かせ、被弾したユンカースは少しずつ高度を落としていく。執拗な追撃の末に、敵編隊がもはや編隊としての体を為さなくなった頃、ぼくらに帰投命令が出た。
その時眼下の海に、大の字に寝そべったかのように浮かぶ一機のユンカースを認め、ぼくは自然と目を細めた。沈み行く機体から這い出した乗員の姿には、敵でありながらも一抹の哀愁と同情を禁じえないぼくがいた。
ただ一機洋上に放り出され、何の助けも期待できずに水面を漂うであろう人々……それはまかり間違えば自分の最期の姿であったのかもしれなかった。
この日。ぼくらの追尾を逃れたB―10の部隊もまた、台南から発進した隊の迎撃を受け、迎撃隊は二機の撃墜を報告した。
だが、迎撃隊にも一機の未帰還が出た。その九六艦戦はエンジンに被弾し洋上に不時着水し、そのまま行方不明になってしまったのだ。不時着水した機からは搭乗員のA二空曹が操縦席から這い出し、上空を舞う友軍機に必死でマフラーを振っていたという……そしてそれが、台南の隊がA兵曹を見た最後だった。
昼間爆撃ではその戦果に比して損害があまりに多いことを悟ったのか、程無くして国府空軍は夜間爆撃に戦術を変更した。具体的には、夜空に紛れて単機または少数機で台湾本島に侵入し、基地 (と思われる場所)に爆弾を投下していくのだ。
夜空に紛れて寝込みを襲うというニュアンスだから、少数機であることは当然都合がいいわけだが、その実際の背景には、ドイツ、アメリカ、ソ連人など、欧米出身の「お雇い操縦士」しか本格的な夜間飛行技術を有している者が当時の国府空軍にはいなかったためと思われる。
機体の性能が重視されない状況であるため、爆撃機の動員機数に反比例してその種類は増えた。従来のJu―52やB―10はもちろん、アメリカ製のB―4や、イギリス製のハンドレーペイジ‐ヘイフォードといった旧型の複葉爆撃機までヨタヨタと飛んできては爆弾を落としていくのだ。
「俺ら、舐められてるな」
「それにしても連中……何処でどうやって飛行機を調達してくるのやら……」
追われるように宿舎を避けたぼくらは、替わりの寝床となった防空壕の中で語り合ったものだ……爆弾の着弾音とも、味方の高射砲の轟音とも区別しかねる微かな響きを、その躯全てで感じながら。
当然夜間であるからその命中精度は悪く、投下された爆弾は大抵目標となりうる重要地点からアサッテの位置に着弾してしまう。だが、何時、何処に着弾するかわからないという不確実の恐怖が、ぼくらを不眠症にも似た状態に陥れた。事実、作戦機の列線や弾薬、燃料の集積場所に「たまたま」爆弾が命中し、被害が出ることもあったのだ。
時に、各隊の先任搭乗員クラスで夜間邀撃隊を組織し迎撃に上がったこともあったが、敵機はおろか自機の位置すら確認しづらい夜間では大した戦果を上げられるはずも無く、直ぐに沙汰止みとなった。
やがて、誰もが言うようになった。
「元から断たないとだめだろう。こっちから打って出るべきだ」
半ばゲリラにも似た、突発的な夜襲を完全に防ぐ方法は一つしかないことに士官から下士官兵に至るまで皆はとっくに気付いていたし、内地から台湾全域に跨って集結する航空戦力から、それが実際に行動に移されるであろう日が近付いていることを皆は確信していた。
やがて七月に入ると、ぼくらの隊は一切の外出を禁じられ、飛行場での待機を命ぜられる。その頃、基隆や高雄に集結していた輸送船団は、秘密の内に一斉に出港準備に入っていたのだ……その目指す処は、台湾海峡を挟んだ金門島。
「反攻の時」は、まさに身近なところまで忍び寄っていた。




