第6部 ②
不審機の接近を告げる喧しいベルの音に、ぼくらはバネの如く駆け出し、零戦の列線に走る。駆け出しながら、ぼくは自分たちにパブロフの犬を重ねあわせる。ベルの音にせ脊髄反射し、離陸許可を求めることもそっちのけに空へと飛び上がる犬……!
熱い滑走路の隅で、エンジン始動を終えた零戦がぼくらを待っていた。去年の制式採用以来、僅か一年ほどで我等が零戦は熟成され、性能も向上している。零戦は今や全土に定数を満たし、「零戦さえあればどんな敵機とでも戦える」と息巻く搭乗員もまた数多い。
駆け寄った先。外板に皺が寄り、所々が継ぎ接ぎされた零戦……それが、ぼくがこれまで一年を共に戦った相棒だった。
「天満中尉殿は、新品には乗らないのですか?」
「おれが新品に乗ったら、みんなが付いて行けないじゃないか。だから馬力の無いやつでいい」
と、部下たちとはよく軽口を叩き合ったものだ。
一機が、急に真っ先に前へ出た。鄭二空兵の機だ。すかさず、蔡兵曹の怒声が響く。
『コラッ!……隊長より先に出る奴があるか!』
ブレーキを解き、機を前に出しながらぼくは苦笑する。
「鄭二空兵。離陸を許す、一番に飛び上がれ」
『……了解』
鄭機を追って、ぼくは零戦を加速させる。向かい風に駆ける零戦は一〇〇m手前で尾部を上げ、軽々とその機体を空に浮かび上がらせる。
他の二機は?……まるで生き物のように、ぼくの零戦の傍にピッタリとくっ付いている。みんな上手くなったなぁ……と、柄にも無い感慨に浸るのも一瞬――――
『―――こちら彰化監視所。電探より報告……海峡が騒がしい。ちょっくらひとっ走りして見て来てくれないか?』
「こちら対敵班、了解した」
『―――誘導する……高度二〇〇〇まで上昇後、針路2―8―3……』
誘導に従って飛ぶこと二〇分余り……ぼくらは四〇〇〇mまで高度を上げ、この日三度目の層雲に入った。
その先に広がっていた光景――――
「…………!?」
『中尉……あいつら何やってるんですか?』
聞かれたところで、ぼくには答える術が無い。
雲を抜けた先では、空戦が繰り広げられていた。
機種は……メッサーシュミット? 液冷エンジンらしき尖った機種に、翼端が丸っこい主翼をした、初めて見るスマートな機体である。上昇と宙返りを繰り返すその主翼には、紛う事なき晴天白日旗……! 陽光を反射した主翼の煌きとその先鋭的な機影が妙にマッチして、ぼくを少なからぬ感銘に浸らせる。
それらが、自国の領空域から日本のそれに近い空域で空戦を繰り広げている。何故そんなことをする必要がある? 森の中を散策している最中、妖精が戯れているのを見つけたような気分に誘われる。
「―――対敵班より彰化へ……国府軍の戦闘機が互いに空戦をやっている。同士討ちだ……」
『―――こちら監視所。了解した。引き続き領空域から監視を続行せよ』
「……了解」
空戦の全貌が見えてきたとき、ぼくらはその異常さに愕然とする。多数機のメッサーシュミットが、たった一機のメッサーを追い回し、射撃を加えているのだ。主翼から白い煙を曳いて吐き出される弾幕。加速時に機種排気口から噴き出る黒煙が空の青をどす黒く汚し、久しぶりに空を戦場の装いに染めていく。
一方で、懸命に味方(?)の射弾を回避するメッサーシュミットには、ぼくは何故か見覚えがある様な気がしていた。機体そのものではなく、その動きに対してだ。あたかも、その人が誰かはすぐには判らずとも、馬の乗り方や楽器の弾き方に個性を見るような、そんな感覚である。
「…………!」
ぼくがそれを確信したのは、多勢のメッサーと孤独な空戦を繰り広げる一機に、黄色く染められた機首を見たときだった……あいつだ!
本土防空戦の際、ぼくとグレートヒェンを敗北の淵に叩き込んだあのホークの機首も黄色かった。ぼくは、抑えがたい感動の予感に胸をバクつかせる。
お前……未だ飛んでいたのか?……そこに敵意などない。音信不通になっていた親友にバッタリと出会ったのと似た驚きと嬉しさに、ぼくは身を任せていたのだった。
そいつは、懸命にぼくらの方へとその黄色い機首を向けては敵機に背後に付かれ、回避を繰り返していた。それでも、こちらを指向することをそいつは止めなかった。
……雷のような直感が、ぼくに無線機のダイヤルを捻らせた。
『……こちら……亡命……亡命を……要請……亡命!……』
英語?……ときおり北京語も混じっているように感じられた。それを聞いた瞬間。監視所を呼び出しているぼくがいた。
「……対敵班より報告! 一機は亡命を希望する模様。越境を援護するは可なりや?」
『―――彰化より対敵へ……哨戒飛行以外の領空突破は認められない。現空域に留まり、監視を続行せよ』
さらに言えば、「停戦中」にあるぼくらには、威嚇と正当防衛以外の武器使用も認められていない。歯噛みしつつも、ぼくは必死で向こう側の遣り取りに眼を凝らす。
旋回を繰り返す度に下がる高度。落ちる速度……上昇力と加速力の面でいい印象を受けるものの、同じ性能の機体、そして圧倒的な戦力差ではやはり逃れることも適わない。
どうしたんだ……早くこっちに来い……!
酸素マスクに反響する息継ぎの音がテンポを増し、その大きさもまた増す。スロットルを全開にし、操縦桿を捻って向こうに飛び込みたい衝動を抑えるだけで精一杯だった。
やがて敵編隊は黄色い機首の前上方に占位し、二機ずつの編隊で交互に攻撃と離脱を繰り返し始めた。劣位にあって次第に敏捷さを失いながらも、黄色い機首は必死で反撃している。ダメ元で放った一連射が敵編隊の一機に白煙を噴かせた直後、敵編隊の包囲網の一角が崩れた。
ぼくは反射的に叫んだ。
「……0―7―2! 下方に逃げろ!」
その直後。黄色い機首は背面に転じ、混乱する編隊を大胆にも真正面から突破した。機首から噴出す黒煙は、エンジンが明らかに加速中にあることを示していた。追っ手の下手糞な射撃を掻い潜り、翼端から水蒸気を鮮やかに曳きながらメッサーはロールに入り、やがて空に引かれた見えない国境を急降下で突破した。
今だ……!
ぼくは零戦をターンに入れ、そこから逃げる一機と追う八機の真ん中に割り込むように逆落としに突っ込んだ。一機を追い、敵編隊もまた降下し領空を越えていた。それが偶発的な成り行きか、それとも意図的なものかはぼくにはもうどうでもよかった。
全速で降下を続ける零戦……眼前には、エメラルドブルーに染まる海峡。
「…………!?」
敵機の速力に、ぼくは内心で舌を巻く。降下の姿勢でこちらは加速が付いている筈なのに、一向に距離が縮まらない。速度計は、三〇〇ノット/時を優に越えている。これ以上加速すれば加速に耐え切れず零戦は空の一点に自ずから砕け散る……!
『…………中尉殿!』
と柴田空曹長の声。
『―――上昇を! これ以上は……!』
わかっている……わかっている……だが、もう止められない。
ふと……眼を向けた側方……主翼の外板に不気味な皺が寄っていた。このままでは敵機を捕捉する以前に、重力の見えざる豪腕によって華奢な零戦は握り潰されてしまう。
すごい速度だ!……ぼくは驚愕する。こちらの体験している限界速度に対してではなく、眼前を平然と飛ぶ敵の速度に。
そのとき、ぼくの眼前で敵編隊が一斉に散開した。後上方から突っ込む形になったぼくらの存在に気付き、驚いたのだ。重力の桎梏から解かれたぼくも上昇、圧し掛かってくる重力に耐えながらも、ぼくの眼は上昇するメッサーの尾部を捉えている。
上昇力はほぼ互角?……否、こちらがやや勝る!
上昇の遅れたメッサー二機が、ぼくの背後から迫って来る。上昇の姿勢で背後に付かれるのは余りいい気分がしない。上昇という、傍目からは躍動感溢れる動作は、その実飛行機からあらゆる自由を制限する……敵弾を回避するべく急旋回を打つ自由。敵を振り払うべく加速する自由。背後から急追する敵に反撃する自由……戦闘機乗りにとって、実戦での死はあらゆる自由を奪われた時、そして孤独に陥った時に訪れる……!
上昇の姿勢を続け、速度の落ちた零戦を、カボチャのように大きな光弾の束が、放物線を描きながら主翼越しに追い抜いていく。
ぼくは、撃たれている?
『……中尉、援護します!』
蔡兵曹の声……ぼくは孤独ではなかった。背面からロール、さらに垂直旋回を繰り返し、速度を抑えながら敵の追尾を振り切る。背後を振り向いた先。先程の二機は蔡兵曹と鄭二空兵の二人と、上方で軍鶏のように格闘戦を繰り広げている。
「……柴田?……無事か?」
『―――こちら柴田。大丈夫です』
「よし、前の奴らを追うぞ」
『……了解!』
上方では二機対二機の空中戦。その下方では二機が六機を追尾している。その六機は、一斉に宙返りし、ぼくらも続けて宙返り……その頂点で、距離がかなり詰ったが、そこで撃ってもまず当たらない。
……そして再び降下に転じたとき、眼に見えて距離は開きだす。
速い!……その加速力もさることながら、敵のアシは速い。水平でも三三〇ノット/時は出ている?
敵は逃げを打ったのか?……否、違う。敵は再び一斉に上昇。ぼくらの上方に占位しようとする。敵編隊があの「裏切り者」からぼくらに獲物を変えたのはこの時点で明白だった。
敵編隊を追って上昇しかけたとき、ぼくは叫んだ。
「柴田空曹長っ……捻り込むぞ!」
『……リョーカイ!』
「捻り込む」とは、宙返りの途中でラダーを加減することによって敵より小さい半径で宙返りを終え、敵の追尾をかわす技だ。応用すれば、そのまま形勢の逆転も可能ではないが、操作を誤れば失速に陥る際どい「曲芸」でもある。
いち早く宙返りを終えた敵編隊は、さながら一群の狼となって宙返りの頂点に達しかけるぼくの背後に迫って来る。逃げ遅れたが最後、あの緑色の獣どもはぼくらの零戦をその獰猛な牙を以て喰い千切るだろう。
左上昇に転じる零戦の操縦席。ぼくは背中で敵機の接近を感じる。加速の付いた敵機は、みるみる加速し、ぼくを照準器に捉えかけていることだろう。
そして敵機は撃ってきた。ぼくの眼前に、吹雪のような機銃弾が投げつけられるように飛び出し、ぼくの眼前を追い越して行っては消えていく。それらは一つとして同じ軌道を描く物は無く、それが返って危機にあってもぼくを見惚れさせる。
機体に軽い衝撃……大丈夫、操縦に問題はない――――そして、宙返りの頂点。
ぼくは右フットバーに触れる足に力を篭めた。
機体を左横滑りさせ、減速するためだ。左横滑りの状態のまま機体は頂点に達し、そのまま宙返りを終えた直後に左に踏み換え、勢いを付けながら左に滑り落ちる零戦……形勢は逆転した……!
機を水平に戻したとき、ぼくは操縦席の左下方に、いままでぼくらを追尾していた六機を見ていた。宙返りの頂点で獲物を見失いながらも、直進を続けるメッサーシュミットの一群。距離を詰め、ぼくは最後尾の一機に一連射を浴びせた。
たちまちキャノピーと方向舵が吹き飛び、そいつは独楽のようにクルクル回りながら下へと突っ込んでいく。
さらに一機が柴田空曹長の攻撃で墜ちた。右主翼の外板が捲れ上がり、バランスを崩して左主翼を下に墜落していくメッサーシュミット。
もう一機!……とぼくが眦を決した頃には、すでに残余の四機は駿足を生かし攻撃範囲外へ逃れている。
そして敵機は機影となり、やがては小さな黒点となって雲の森へ消えて行った。
「全機空戦止め、空戦止め……集合!」
旋回しながら、ぼくは列機が揃うのを待つ。時間が経つにつれて、荒い息が次第に静まっていくのが判る……傍を飛ぶ柴田空曹長も無事なようだ……ただ、方向舵を敵機の攻撃で少し齧られてはいたが。
「対敵班より監視所へ。亡命機の進入は確認したか?」
『――――確認していない』
「…………?」
周囲の空に、ぼくは眼を凝らす。例の亡命機と思しき機影はすでにいない。
高度六〇〇〇に達したところで、何時の間にか台湾東部の海岸線を操縦席から眺めて飛んでいるぼくらがいる。ややあって、上空で激闘を繰り広げていた蔡兵曹たち二機が合流してきた。
「…………」
唖然として、ぼくは機体を寄せてくる蔡兵曹の機に見入った。胴体から尾翼にいたる広範囲を酷く撃たれている。そんな状態で無事にここまで飛んで来れたこと自体ぼくには信じられないものではあったが、むしろ被弾が集中しなかったが故に、墜落を免れたのかもしれない。
同じく穴だらけの風防に覆われた操縦席から、蔡兵曹はニタニタ笑みを浮べている。豪胆な男である。
鄭空兵は?……彼の機もまた損傷を受け、右主翼の端をバッサリと切り落とされている。そのまま飛んでいれば自然と右に傾いてしまうので、その度に機体を修正するのはご愛嬌か……それ以外は大した外傷もなく、操縦席ではただ申し訳無さそうに頭を抱えている鄭空兵の姿が見える。
ひょっとして……敵機と衝突した?……ならば、恥ずかしそうな顔をするのは納得できる。何故なら、戦闘機乗りの間で空中衝突は、これ以上掻けない恥ということになっているから……
ぼくはそうは思わない。敵機はこちらよりもずっと性能がよかった。ただ、ぼくらの技量のみが、寡勢を以て敵に打ち勝つことを可能にした。だが、ぼくらの受けた損害も少なくは無かった。平家物語の冒頭にある、盛者必衰の理をぼくは思う。零戦といえど、古来より続くこの法則よりは逃れられなさそうだ。
……再び、ぼくは部下に眼を遣る。
心配はしないし、皆を責めるつもりもない。ただ胸を占めるのは四機一緒に主翼を並べて還れるという安堵だけ。
「帰投する……!」
追求してきた列機に速度を合わせようと、スロットルを絞ったそのとき――――
不意に、眼前が明るくなった。
ボンッ……!
エンジンが、破裂した……一瞬空白になった頭の中で、ぼくはそう感じた。
次に襲ってきたのは体中に圧し掛かる衝撃だった。爆風に飛行眼鏡が割れ、酸素マスクが?ぎ取られた。強烈なオイルの匂い、そして金属の焼ける強烈な匂いが嗅覚に飛び込み、それを最後に、酸素の薄い高空の中でぼくの感覚の一切が消えた。
――――意識を取り戻したときには、ぼくは唸り声を上げて降下する零戦の中にいた。
容赦なく吹き込む黒煙の中、死ぬ思いで眼を凝らした先に、あるはずの計器盤は無かった。さらに言えば前にあったはずの風防も消え去り、猛烈な風圧が直にぼくの顔面を圧迫している。
――――あ……あのときか?……白みかけた意識の中で、ぼくは捻り込みを決めたときの様子を思い返す。あの時受けた数発の弾は、知らず知らずの内にぼくの零戦の重要な何処かを傷つけ、時を置いてさっきのぼくの操作は、連鎖的に破滅の引き金を引くに至ったのだ。
おれ、運が悪いな……場を弁えず、ぼくはそんなことを考えた。
機体が左に傾くのを感じる。錐揉みの予兆?……そう直感したときには操縦桿を握り直していた。操縦系は?……よかった。手応えがある。飛べる!
半分近くが吹き飛んだカウリングからは、火達磨になったシリンダーが二、三基ほど顔を覗かせていた。弱弱しいが、エンジンはそれでも鼓動を響かせている。エンジン回転計は?……探るように視線を落とし、その先にあるべき回転計がすっぽり抜けているのに気付いた途端。ぼくは不意に湧き起こる笑いを堪えるの必死だった。
バカ……笑うところじゃないだろ。
生きる望みがあると知るや、ぼくは早速回復の動作に取り掛かる。加速が付いて重い操縦桿を両腕に力を篭めて腹まで引き、機体を水平に戻した。次に揚力を稼ぐために、フラップを少し下げた。なるべく不燃ガスを出さないよう、スロットルレバー、混合気比レバー開度は最大に、胴体内タンクへの延焼を防ぐため、燃料コックを翼内タンクに切り替える。あとは適当な場所を見つけ、脱出するだけ……
脱出するための全てを為した後で、潮の匂いを感じる自分に気付く……ということは、機は海の上。それも相当低い高度を飛んでいる? 今なお纏わりつく黒煙のせいで周りはさっぱり見えず。それが機を捨てる決意を鈍らせるのだった。
そのまましばらく飛び、潮の匂いが消えたとき、ぼくは機を捨てようと、心から思った。
……バンドに延びた手が愛機と自分とを結びつける最後の絆を解いていく。一つ、また一つとアタッチメントを解くにつれ、ぼくに機を飛び出す決意が漲ってくる。
ままよ……!
天を仰ぎ、祝福の言葉と共にぼくは操縦席を蹴り、空に飛び出した。
眼下には、サトウキビ畑が一面の碧を広げていた。
外に飛び出した瞬間。ぼくは余りに低い高度に愕然とする。眼下のサトウキビ畑の、一本一本の葉の付き様が数えられるぐらいに地上は真下に迫り、ぼくを恐慌の淵へと叩き込むのだ。
これでは、不時着を決意したほうがよっぽどマシだった……!
……その恐慌の最中、一面のサトウキビ畑のど真ん中で煙を上げている「何か」に気付き、ぼくは眼を見開いた。「何か」とは、つい先刻にぼくが見失い、探し求めていたメッサーシュミット……! その黄色い機首は撥ね上がった泥濘に醜く汚れ、プロペラは無残なまでにひん曲がっていた……そこまで、ぼくには見えた。
新たな驚愕も一瞬の間―――襟首を豪腕で掴み上げられるような衝撃と共に、急に落下速度が和らぐのを感じる。落下傘が開いたのだ。
……だが、残された高度はもう無きに等しかった。
ドスン……!
背中に烈しい衝撃を感じると同時に、背骨の奥で、何かがガラスのように砕けるのが判った。その直後に来たのは、抗い難い痺れと目眩。全身を震わす電流にも似た感覚が外から中までを駆け巡り、ぼくは歯を食い縛ってそれに耐えた。
だが、痛みと痺れに耐え切れず、声にならない叫び声が喉の奥から飛び出してくる。
それらが嵐のように過ぎ去った後……静寂が、ぼくの全てとなった。
口の中に血の味を感じる。やがて血の味は、喉奥に溜まる不快な量感となってぼくの喉元から込み上げてくる。身体に力が入らない。ただ、風のそよぐ音。サトウキビの震える音のみが聞こえる……静寂と共に訪れたそれらに、サトウキビ畑の真ん中に身を任せながら、ぼくは漫然と空へ眼をやるだけだった
気が付いたときには、南方の烈日が天空の高みからぼくを覗きこんでいた。雲を裂き、空の青を黄色く染めた光が、ぼくの眼を烈しく灼くのだった。
サトウキビを踏む音が、こちらに近付いてくる。誰かが近付く足音……やがてそれは、ぼくの直ぐ傍で止まった。
ガチャガチャ擦れ合う装具の響きが、足音の主がメッサーの操縦士であることをぼくに悟らせた。足音はやがて、太陽を背にした人影となってぼくを覗きこんだ。
飛行帽と黄色い救命衣ははっきりと見えたものの、肝心の顔はといえば、丁度影になっていて判らなかった。太陽を背にした小柄な体躯を、ぼくは意外に思う。
その小柄な体躯が、ぼくに視線を注いだまま、腰を落とした。そのとき、ぼくは初めて相手の顔を見た。
「…………」
その端正な顔立ちに、ぼくは思わず息を呑む。あの素晴らしい技量の持主が、これほどの美少年だったとは……
……否、そうではなかった。
仄かに紅い唇と、長く濃い睫毛。そして相手を慈しむような円らな瞳に、ぼくは男性的ならぬ何かを思った。
ぼくには、何かが判ったような気がした。判ったというより、それは確信だった。
ただそれは……そのまま受け容れろと言われても、抵抗を感じずにはいられぬ確信。
操縦士は、無言のまま飛行帽を脱いだ。次の瞬間、豊かな、長い黒髪が蜜のような芳香を以てぼくの眼前に広がった。
「君は……」
彼女は、ただ黙ってぼくの顔を覗き込むだけだった。愁いを秘めた唇が、微かに歪んだ。
「……逃げろって言ってくれたのは、あなたね?」
ぼくは頷いた。彼女は女神のように笑った……あたかも、空の一点から舞い降りた女神。
「お陰で助かったわ。ありがとう」
「君が……撃墜王?」
「……あなたとは、前にも何処かで会った様な気がする」
「多分……会っただろうな」
女神様はぼくの傍に腰を下ろした。白くたおやかな手がぼくの頬に触れ、いとも容易く煤に染まった。
「触っちゃ駄目だ」
その直後に、ぼくは自分の言葉に後悔する。女神様の瞳から、じんわりと溢れ出すものに気付いたから……
白皙の頬を流れる滴が、ぼくの頬に落ちた。彼女には判っていたはずだ。彼女を窮地から救い、ここに逃がす代償として、ぼくが何を失おうとしているのかを。
……だから、彼女は泣いた。そして、声を詰らせた。
「御免なさい……」
「君……いい腕だね」
ぼくの微笑に、彼女は小さく頷いた。そしてまた笑った。一陣の風が周囲をザワザワと揺らし、女神様の豊かな黒髪をかき上げた。唇から覗く白い歯、口元に浮かぶ笑窪が可愛らしく、それでいて神々しい。
神よ……ぼくは幸福感の内に泣いています。
神よ……あなたは、私から翼を奪う替わりに、グレートヒェンをお遣わしになったのですね?
神よ……あなたの悪戯をぼくは心より嘆く。だが今は、彼女とこうして出会えたことを純粋に歓ぼう。
……ぼくの戦いは、終わった。
吹き抜ける地上の風に身を任せ、「ファウスト」の最後の一節をぼくは思う。
―――総て移ろい行くものは
悠久なるものの色にすぎず
かつて満たされざりしもの
今ここに満たされたり―――
躯からもがれた翼を、ぼくはしばし忘れた。
――――――「蒼空の防人」終――――――




