第4部 ④
六月―――――
欧州における独仏戦はその大勢が決し、欧州の大陸軍国フランスの命運は、各地で連合国軍を撃破し勢いに乗るドイツ軍の機動攻勢の前に風前の灯となっていた。
独仏戦の帰趨が定まったのを見計らうかのように、中国も行動を起こした。総勢五万の国府軍兵士が、ドイツの承諾の下、怒涛の如き勢いで仏領インドシナへと進駐を開始したのだ。親独のヴィシー政権側に与したインドシナは、大して抵抗も見せることなく、程無くして中国の軍門に下った。
同時期、大西洋方面においてドイツ海軍潜水艦Uボートによる通商破壊作戦もまた活発化していた。日中間の戦争における戦訓から、ドイツ海軍は潜水艦の威力と将来性を確信し、戦争開始よりずっと以前から潜水艦隊の増強に着手してきた結果、欧州大戦勃発時には合計二五〇隻もの潜水艦を保有するまでになっていたのである。大西洋方面で作戦を行う上で必要と試算された三〇〇隻には未だ及ばなかったが、それでも、これらの数値は戦況の推移に伴う戦時建造計画により自然と補強されるものと目算されていた。
――――再び、極東。
六月に入ると、空母機動部隊による半島南西部の制空作戦もその所定の目標の殆どを完遂し、光州、全州といった南西部の敵主要航空拠点は度重なる空戦と零戦隊の攻勢、そして陸攻隊の猛爆撃によりその機能の大半を喪失した。作戦の終盤には艦戦のみならず艦攻や艦爆までも単機で飛来し、銃爆撃を加えられるまでに一帯の空は平穏になっていたのであった。
旧韓国の空が、日を追うごとに我が方のものとなっていくような実感を、何度か半島上空を行き来する度にぼくは感じたものだ。度重なる戦闘で著しく消耗した残余の敵航空戦力も北部に引き上げ、平壌を初めとする主要拠点で戦力の回復を図っているものと航空偵察により判断された。
気の早い新聞の中には緒戦の悲愴感も忘れ、大陸反攻への足掛かりとして半島への上陸進撃を主張しているものもあって、勇ましい文面に目を通す度にぼくらは苦笑を禁じ得なかったものだ。
六月初旬のある日。いつものように半島南西部への上空制圧飛行に取り掛かるべく、準備為った零戦の列線に向かう道すがら、ぼくは古谷中尉に言った。
「そろそろ……終りそうですね」
「いんや……まだまだだよ」
将来への懸念材料は、あるにはあった。
日本列島の北方はアリューシャン列島から日本海に入り、そのまま半島北部の主要港へ向かう船が増えている。
その船籍は、アメリカ合衆国。
偵察活動のため日本海上に展開している伊号潜水艦により、その動静は常時報告され、その少なからぬ頻度は我が方の耳目を惹いていた。
さらに、アメリカに駐在する大使館や商社員の持つ情報網から輸送船の積荷が今後の対日戦継続に必要な軍需物資であることが判明。もともと冷え込んでいた日米関係はさらに悪化した。現地人の情報網は、満州において秘密裏に米資本の工業設備が導入され、最新の工作機械により製作された兵器が続々と数を揃えていることをも報告していた。
アメリカの民主党政権は、中国を「極東における自由の砦」と呼び、正にその言葉と一九四〇年初頭に成立した―――というより、中国側の熱心なロビー活動により強引に成立させた―――「武器貸与法」を盾に自らの行為を正当化した。
「武器貸与法」とは、要するにアメリカが対象国を「自由で民主的な」国家と認めれば、自国製の武器を有償でレンドリースするという内容の、いわば「アメリカの友好国」に対する軍事援助を正当化するための法律である。
だが、この時点では「自由世界の擁護」という名目より、「将来の市場」中国への先行投資という本音が、誰の目にも露骨なまでに顕れていた……ただ、早急に法案を成立させようとする余り、モンロー主義に基づく他国への内政不干渉の原則を頑なに守ろうとする野党共和党への配慮から、「援助対象から現在欧州で戦争中の国家を外す」という「妥協」を強いられることになったが。
その「武器貸与法」に基づき、豊富な物資援助と引き換えに、このときアメリカが中国に求めた代償とは、当然の如く、大陸に於けるアメリカ資本の参入と自由な経済活動だった。それらを確固たるものとするべく、アメリカは日本に牙を剥き出したのである。
昭和一五年七月二〇日の元山空襲は、そのような情勢下で行われた。
元山攻撃の主目標は、港湾に荷揚げされるアメリカ製の戦略物資ではなく、別のところにあった。通常の港湾とは別に、港湾の南部に建設された潜水艦基地こそが、我々の攻撃目標とされたのである。
作戦そのものは、基地を破壊することで敵潜水艦隊の行動を完全に封じ、半島東部における我が海軍の作戦行動に支障を来たさないための方策として考案されたものだった。
我が方の対潜作戦能力の向上に伴い、元山を母港とする潜水艦の多くが撃沈、もしくは拿捕され、敵潜水艦の行動は目に見えて低調になっていたが、それでも、積極的な作戦行動に出る可能性はまだ残されていた。特に、活発化するアメリカの援助は、この厄介な敵を再び勢いづかせる恐れがある……だからこそ、反撃の芽は摘み取っておく必要がある。
我々が元山まで攻勢に出るという予兆は、敵もまた以前から察知していた。
その建造当初、潜水艦基地は単なる広大な埠頭の域を出なかったが、今年に入り、元山もまた我が陸攻隊の行動範囲にあることがはっきりと判明すると、敵は空からの攻撃に脆弱な港湾施設に大改造を加え始めた。海岸線をくり貫き、港湾部をダイナマイトで拡張し、天井を分厚いコンクリートで覆った潜水艦用の退避壕が元山港の潜水艦専用区画に数多く作られ、それは未だ進行中だった。
コンクリートの最大厚は四〇〇mmで、これを破壊するには通常の航空機搭載爆弾では貫通力が足りず、口径四〇サンチメートル級の砲弾をほぼ垂直の角度から撃ち下ろすことが唯一の手段とされた。だが、我が方からはすでにそれらの巨弾を撃ち出すべき戦艦は、当の潜水艦の攻撃により失われている。
従って、空から砲弾を「投下」し、退避壕を破壊することが作戦の骨子となった。そこで先ず着目されたのは撃つべき主砲を失い、大量に残された四〇サンチ砲弾の在庫だった。これらを大型爆弾として改造し、陸攻に搭載することが計画されたのである。
爆弾の試作と実際に陸攻に搭載しての試験運用も短日時の内に終了し、昭和一五年の七月、いよいよ作戦は実行される運びとなった。
当然、我々零戦隊も作戦に動員された。「陸攻隊を護衛し、進撃の途上に降り掛かるであろうあらゆる障害を排除する」という任務は、我々が従来果たしてきたものと何等変らなかったが、問題とされたのは目的地への距離だった。
九州から元山まで片道で約七〇〇km。往復では一五〇〇km近くに達する。零戦が二〇〇〇km以上の距離を無着陸で飛行できることはすでに各種試験により実証されてはいたが、単座戦闘機が往復で、これほどの距離の作戦飛行を行うことなど日本はおろか世界にも例が無かった。
その距離を、場合によっては空戦をしながら進撃することになる。
自然、我々の事前準備にも熱が入った。
出撃前夜、たった一人っきりの自室で、航空図に航路線を引きながらぼくは考える。
日本海上に展開する潜水艦から発進した小型水偵の隠密偵察により、元山周辺の状況は手に取るようにこちらに露見している。退避壕の周辺には強固な防空陣地が築かれており、天を睨む高射砲だけで、軽く五〇を超えるであろう。我々はその中を掻い潜って目標を破壊せねばならぬ。特に重い爆弾を積み、一度爆撃航程に入るや目標まで直進しなければならぬ陸攻隊には、これは深刻なまでの重荷となるであろう。
それ以前に――――当の元山を初め、西方の平壌、北方の咸興には未だ有力な敵空軍が存在し、反撃の機会を伺っている。ことによっては、我々は彼らと空戦を交えことになるかもしれぬ。
……飛行計画を数値化し、そして罫線として航空図に描き込む手を止め、ぼくはふと顔を上げた。目の前の先の、窓に映える月を眺めているうち、思わず溜息が漏れてしまう。
何時になったら……何時になったら、ぼくはこの苦役から解放されるのだろう?……軍人として、飛行機乗りとして、考えてはいけないことを、何時の間にか自然と考えているぼくがいた。休暇は先月に取ったばかりなのに、間を置かずしてぼくは目の前の任務を手早く切り上げ、再び休養することを望んでいる?
撃墜記録を上げようとか、飛行時間を延ばそうとか、そんなことはすでに今のぼくにはどうでも良くなっていた。ただ単に飛ぶだけで感動していた昔の自分が、何か別人のことのように思え、馬鹿のように見えた。
自ずと蟠るものを振り払おうと手を延ばした煙草。だが、眼前で山積みになった吸殻に気付き、止めた。何もする気も起きず、惰性に身を任せて仰向けに横たわった途端、今まで鳴りを潜めていた眠気が、急に頭を擡げてくる……
―――――気付いた時には、半身を起し、目を凝らした窓の向こうは白みかけていた。横になったまま眠りこけ、ぼくは自分でも知らぬ間に作戦当日を迎えていたことになる。しっくり来ない眠りに身を任せることほど、人の気を滅入らせるものはない。
舌打ちと共にぼくは身繕いをし、従兵が起しに来るのを待つ。
部屋に入ってきた従兵は、唖然としてぼくを見詰めた。
「天満少尉殿……起きておられましたか?」
「うん……起きた」
当日も出撃時刻は早い。外で他の搭乗員と合流し、打ち合わせのために講堂へと向かう。
「――――我が隊は離陸後、速やかに高度六〇〇〇を取り、T空域上空で陸攻隊と合流―――」
と、居並ぶ搭乗員を前に制空隊指揮官の小園少佐は言った。T空域とは、対馬周辺空域の秘匿名称だ。おそらく、対馬警戒所の電探による管制を受けられるという利点を考慮してのことだろうが、それ以前に、敵地と目と鼻の先で集合を行えるようになったということは、戦況の大きな進展と言えるのかもしれなかった。
「敵地近くの集合なんて、余りいい気がしないなあ」
「重いモン積んだ陸攻が、あまりにトロいもんだから、十分な高度を取る頃にはとっくに敵地上空ってことだろうぜ」
「……だから、ちゃんと守ってやれってことか?」
と、誰かが話している……確かに、そういう見方もあるのだろう。
「―――今より一時間前に行われた潜水艦搭載水偵による隠密偵察によれば、元山周辺の飛行場だけで、戦闘機三〇機余りが展開していることが確認されている。その多くが新鋭のP―36モホークと思われる。諸君らにとっては恐らく、これまで以上に苦しい戦いになるやも知れぬ。気を引き締めてかかるように――――」
全金属製、低翼単葉、そして引込脚装備のこのアメリカ製戦闘機の名と存在は、事前に搭乗員の間で知られていた。アメリカ本土よりやってくる船便で、この機が続々と元山に陸揚げされ、各地の敵主要拠点に配備され始めているという情報が、我々の間にも広がっていたのである。
遡ること出撃の三日前、蔡兵曹が言った言葉を、ぼくは思い出す。
「どうして、元山のアメリカ船を攻撃しないのですか? あいつらのやっていることは立派な利敵行為じゃないですか?」
柴田兵曹が嗜めるように言う。
「アメリカの船を沈めちまったら、最悪の場合アメリカと戦争しなくちゃならなくなるだろう? そんなことになったら……目も当てられん」
事実、アメリカの介在は、当の元山爆撃にも制限を与えていた。当初、元山空襲の主要目標の一つに敵の軍司令部及び港湾施設も入っていたが、そこに船舶関係者なり技術者なりアメリカの「民間人」がいて、危害を加えることによりアメリカ世論を刺激する恐れがあるという「政治的配慮」から、目標から除かれた。
同じく主要目標の潜水艦退避壕にしても、その近隣には港湾整備に従事するアメリカ人技術者用の居住区が広がっており、寸分の狂いも許されない爆撃照準が要求された。
従って、確実な照準、そして正確な投弾を期すべく、陸攻隊は高度三〇〇〇で目標上空に侵入。一度目標上空を居住区のある北西に抜け、再び針路を転換。日本海側へ爆撃航程に入るという細部に渡って制限を受け、且つ長時間を敵の対空砲火の射程内に身を晒す危険な飛行を強いられることとなった……彼らにそれを強いねばならないほど、日本の首脳部はアメリカとの全面戦争を恐れていたのである。
小園少佐は、打ち合わせの終わりをこのような言葉で締め括った。
「――――被弾し、基地への帰還が不可能と判った場合には速やかに西方海域へ退避。位置を報告後不時着水して救助を待て、現海域に展開する味方潜水艦及び防府より発進した救難飛行艇が諸君らを救助に向かう。決して早まってはならない……!」
元山港爆撃 攻撃隊編成
爆撃隊 九六式陸上攻撃機×28(内一機離陸時に各坐)
護衛戦闘機隊 零戦×30(途上、内四機がトラブルにより引き返す)
陸攻隊の発進に手間取り、ぼくら零戦隊に離陸許可が下りたのは予定時刻を大幅に過ぎた午前六時三〇分であった。夏場に差し掛かろうとしている空はすでに明るく、昇り切った太陽は柔らかくも熱い光を、離陸に取り掛かる零戦の操縦席にまで注いでいる。
重量にして凡そ一トン。巨大なメザシのような形状の細長い爆弾を丸々一本胴体の真下に抱き、飛行場を目一杯使って離陸する陸攻隊の様子を眺めている内に、ぼくらから朝方特有の気だるく、それでいて清清しい雰囲気は霧散してしまっていた。しかも離陸の際、一機が浮上できずにオーバーランし、そこで前のめりに機首から芝生に突っ込むのを眼にするに至っては、「特殊爆弾」という巨大なバラストを腹に抱いて敵地へ向かう彼らの運命に、ぼくらは暗澹たるものを禁じえなかったものだ。
発進――――六分程で玄界灘に面する海岸線に到達。
すかさず、防空司令部から管制を引き継いだ福岡監視所からの声が入ってくる。
『―――ヒイラギ(福岡の防空監視所の秘匿名称)よりカメへ。陸攻隊は見えるか?』
『―――見えない。高度を下げた方がいいか? (陸攻は)電探に映ってる?』
『―――電探より報告。陸攻は唐津北西の洋上……貴隊の八時後方を飛行中……問題ない』
『―――こちらカメ。只今より(陸攻を)視認する』
交信の後、古谷中尉機がゆっくりと左に旋回した。中隊も一斉に長機に続く。
機首を転じるとすぐに陸攻編隊を視認。陸攻編隊はぼくらの右、後下方を飛んでいた。見えないはずだ。彼らはぼくらにとっていわば死角に位置していたのだ。六〇〇〇の高度を飛ぶぼくらに対し、向こうの高度は三〇〇〇……いや二〇〇〇? その数は二七で、彼らを守る零戦隊はぼくらを入れ二六機。ぼくらは大回りに旋回し、そのまま陸攻編隊の後上方に占位した。
その陸攻隊とは別に、はるか上方……零戦隊と同高度を飛ぶ双発機の編隊を、ぼくらは視認する。
「…………?」
疑念とともに接近すると、それが陸軍の九七式重爆撃機の編隊であることに気付く。我々の陸攻よりも力強くエンジンを轟かせ、半島南部へ爆撃に向かうこの機の姿を空や地上から眼にするようになって、すでに二週間が過ぎている。
今年の五月から、陸軍航空の太刀洗飛行場には重爆や軽爆が展開を始め、我々に代わり半島南部の敵軍事拠点への対地攻撃任務を担当するようになっていた。半島南部における制空戦闘が大方終結し、各航空拠点から敵機の機影が消えた今、彼らは戦闘機の援護を受けずとも自由にそのアシの届く限り自由に半島上空を飛びまわり、銃爆撃を加えることが出来たのである。
その九七式重爆に、ぼくは機を寄せる。目を凝らすと、操縦席や銃座の窓から手を振る陸軍の搭乗員。敵地近くで味方を見出した安堵感からか、その顔には、気の抜けたような笑顔すら浮かんでいた。
彼らに手を振って応じながら、ぼくは内心で嘆息する。いい気なものだ……と。彼らはここから半島を少し飛んだ先の、直ぐ目の前の目標に爆弾を落とせば、返す翼で直ぐに還って来られるのだ。それに引き換えぼくらは……航程の片道の、未だ半分にも達しない内に、ぼくは軽い羨望を禁じえない。
朝鮮半島を北西に進むこと三時間……元山の港は零戦隊の遥か足下にあった。その間、一機の敵機とも遭遇しなかったのは偶然のなせる業か、それとも敵の作戦の一環なのかはこの時点ではわからない。
二月の京城空襲以来、国土の最深部にまで我が方の侵入を許した敵は厳重な防空警戒網の構築を始め、それは現時点でも拡張の一途を辿っていた。ぼくらにとってその情報は実際に半島上空を飛ぶまでは半信半疑だったものの、進撃の途上で顔を覗かせたその一端をぼくらは上空からはっきりと見出すことができた。
朝鮮半島西部を南北に縦断する太白山脈に沿って進撃する中、時を置いて立ち上る一条の煙にぼくが気付いたのは、半島上空にかなり入り込んだ頃だった。それをぼくは、最初は単なる山火事程度にしか見ていなかった。だが……
「…………!」
……それが、ぼくらの襲来を告げる烽火であることに気付いた時、ぼくは驚愕というより感嘆とともに、編隊から遥か下の空を漂うそれに目を見開いたものだ……そうか、こういう方法もあるのか……といった妙な感慨を抱きつつ。
ぼくは慌てて周囲を見回す。敵機の襲来の可能性が、ぼくの脳裏を牧羊犬に追われる羊の如く駆け巡り、ぼくは神経質なまでに愛機を捻り、上下左右へと目と頭を動かした。目指す元山までは、まだ途があった……結局、敵機は一機たりとも姿を見せず、進撃途上での空戦は起こらなかった。
……そして、元山上空。
陸攻隊は、高度五〇〇〇で元山上空に進入した。
『―――陸攻編隊長より全機へ、高度を三〇〇〇に維持せよ』
命令一下、一斉に機首を下げる陸攻隊。その鼻先を、花火の如く炸裂する高射砲弾が黒い絨毯を形作っていた。それは確かに花火……眩い光の代わりに鋭い破片を撒き散らす狂気の花火……一度炸裂すれば、どす黒い余韻を恐怖と共に残す余りにも汚い花火!
現高度を保っていれば一機の損害も無いものの、ただ机の上で決定された「政治的配慮」のために、現場の陸攻隊は自殺にも等しい降下を命ぜられている。確実に手を延ばしてくる死神の待つその先への突入に、彼らは何を思う?……陸攻隊の上層で零戦を旋回させるぼくはといえばやはり、それに「自殺」を連想した。
降下を続ける陸攻隊にとって、目指す潜水艦退避壕は目と鼻の先に迫っていた。数千メートルを隔てたはるか上空からもはっきりと視認できるコンクリートの要塞。コンクリートは付近の山々や岸壁を侵食し、その広大さは、お偉方がここより数千キロを隔てた安全な場所で決めた「政治的配慮」など無駄に帰してしまうくらい、どんなに下手な照準手でも命中させられるほどではないか? そのまま爆弾を投下すれば立派な緩降下爆撃ではないか?……司令部の連中なんか誰も見てはいやしないんだ。落とせばいいのに……だが、軍人として命令への絶対服従と陸攻隊の誇りが、無分別な爆撃で退避壕の近隣に広がる瀟洒な住宅地を傷つけることを許さない。
――――結局、陸攻隊は目標上空を通過した。それが合図であるかのように、高射砲弾の炸裂は一層勢いを増す。重い特殊爆弾を抱き、普段の軽快な運動性も発揮できないでいる陸攻隊にそれは容赦なく襲い掛かる。
数珠の如き炸裂の連なりは、やがて一機の陸攻を絡め取り、エンジンから発火させた。
一機の速度低下は、そのまま編隊全機の速度低下に繋がる。攻撃編隊を維持するため、または敵機の来襲に対する緊密な防御砲火を形成するため、陸攻は一番弱い機に速力を合わせねばならないのだった。だが、それが濃密な対空砲火の前には逆に格好のカモとなってしまう……!
立て続けに、二機が白煙を噴いた。
『―――こちら二番機……燃料タンクを破損。燃料漏れが止まらない……!』
『―――エンジン回転がおかしい……煙を噴いている……』
一機の陸攻が、高射砲弾の直撃にその鼻先から四散した。炎の発生と共に、嘗ては胴体や主翼だったジュラルミンの破片が陽光の下でキラキラと輝きながら舞い、ぼくの網膜を刺激した。今度は炸裂を至近に受けた一機が、急に左に傾いたかと思うと、地上へとそのまま落下していった。さらに立て続けに一機が、火達磨となり墜落していく……加速度的に増える損害!
『―――こちら……番機。搭乗員が戦死!……繰り返す、搭乗員が……』
『―――偵察員が負傷。足を飛ばされた! 離脱の許可を……!』
イヤホンを通じ漏れ聞こえてくるあまりに悲痛な声に、自分でも知らない内に無線機のスウィッチに手を延ばしているぼくがいた。仲間の断末魔の声を聞きたくないばかりに、この愚か者はスウィッチを切ろうとしていたのだ……!
不意に、静寂が編隊を包んだ。
弾幕の嵐が止んだ。
陸攻編隊は沖に出た。
だが……これで終りではなかった。未だ健常な機も、傷付いた機もがっしりと編隊を組み、そして一斉に旋回を始め、機首を再びもと来た途へと戻したのだ。
……本当の突撃は、ここから始まる。
日露戦争時の203高地に立ち向かう陸軍将兵の如く、陸攻隊は突入する。壮絶な弾幕の待つ空へと……その勇姿に、ぼくは彼らと比べ、余りに安全な位置から涙する。
そこには、彼らの勇気に対する感銘というより、余りに無責任な立場から彼らの勇戦を眺めるぼく自身に対する怒りがあった。彼らが苦界に身を置いている一方で、おれはこんなところで何をやっているんだろう?……という、無為であることへの怒りである。
空がまた、地上から喧しく鳴り響く炸裂に汚されはじめた。墜落や離脱で少なからぬ機数が欠けた陸攻隊がこれらを潜り抜けて爆撃を果たした先に、一体何機が生きて帰路を取ることができるだろうか?
『―――こちら蕎導機。只今より爆撃航程に入る』
もはや弾幕を掻い潜るというより、弾幕にぶつかっていくと言った方が正しかった。それほど弾幕は濃く、その炸裂は烈しかった。
ここでさらに一機、エンジンから黒煙を噴出し落伍する。速度低下が急だったため、編隊に追従することが出来なかったのだ。
敵の方でもその重要さが判っているのか、高射砲弾の炸裂は編隊の最先頭を行く蕎導機に集中する。それを乗り越え、蕎導機は行く。いままで無傷だったのが奇跡的な程だ。
感銘を覚えるのも一瞬。至近弾を受けた直後、火を発することも無く右主翼をもぎ取られた蕎導機に、ぼくは我が目を疑った。翼を失った飛行機など、空の上にあっては万有引力の法則に隷属的な「モノ」でしかない。
次の瞬間。蕎導機は揚力を失い、不安定な自転を繰り返しながら落下していく。その空いた穴を埋めるかのように、何事も無かったように前へ出る列機。
『―――こちら二番……本機が只今より指揮を執る』
彼らの名誉ある位置も、僅か数秒の合間でしかなかった。先頭に出た二番機は高射砲弾の直撃に胴体をへし折られ、次の瞬間には二個の互いに縺れ重なり合う火の玉となって墜落していったのだ。
『―――こちら三番……全機、本機に続いて投弾せよ』
「…………!」
前へ出た三番機の声に、ぼくの胸を熱いものが込み上げてきた。ぼくは思う。彼らこそが、真の勇者である……と。彼らこそが、真の勇者……真の勇者!
彼らこそが、真の勇者である。直進――――目標に対するにあたって、かれらはそれ以外を許されない。彼らはたった一発の爆弾やたった一本の魚雷を目標に打ち込む為に、全てにおいて直進を強いられる。胴体にぶら提げた馬鹿でかいバラストに手足を縛られようとも、対空砲火に晒されても、敵機に追われる身となっても、凡そ遭遇するであろう全ての困難に、編隊を組んでいる限り直進の範囲内で対処しなければならぬ。
『―――時計発動……もうチョい右……少ぉーし左……』
イヤホンに飛び込んでくる声を聞くや、編隊の先頭で爆撃照準器のファインダーを覗く蕎導機偵察員の姿をぼくは想像する。およそこの世に存在する艱難辛苦を超越した神の如く、彼の声は厳かにぼくの胸まで響いてきたのだった。
翻ってぼくらは!……守るべき陸攻を守れず、ただ虚しく爆撃航程に入った編隊上空の、はるか高空を旋回している。旋回を続けている内に、ぼくはここに居る意味を、ともすれば失いがちになる。
『―――よぉーそろぉー……!』
それはまさに宣告だった。旧約聖書に描かれた、背徳の街を滅ぼさんとする主たる唯一神の如き確固たる意思を、蕎導機の爆撃照準機を覗いた彼はその声に秘めたのに違いなかった。
戦場に神はいない。ただ、そこに生きる人々の、自らの属する国家を栄えさせるため、さらには仲間を生かすために発揮される超人的な行動の積み重ねが、戦場に居る者に神の存在を錯覚?……否、確信させるのだ。ぼくはそう思う。
戦場に、神はいない。
戦場が、神を創るのだ。
『―――てぇーーーーー!』
それが合図だった。蕎導機を皮切りに一斉に陸攻の胴体から解き放たれた爆弾は、放たれた弓矢の如くその先端から眼下の目標へ突進していく。技官たちの計算が正しければ、三〇〇〇mの高度から投下された爆弾はその硬い先端からコンクリートの鎧を貫き、その先で爆発する……!
投弾し、重荷から解き放たれた陸攻が、一気に浮き上がった。
着弾……やや遅れて現れた火球は、瞬時にしてコンクリートの要塞を覆った。その様子をぼくらは固唾を飲んで見守る。表面で爆発するだけでは意味が無い。人工の岩盤を貫き、遅発信管により内部から退避壕を吹き飛ばすことに作戦の意義があるからこそ、ぼくらは不安になる。
爆風が土砂を巻き上げ、土煙はあっという間に爆弾の着弾した全てを覆った。やがてそこに、細かく立ち上る水柱と霧のような水煙の充満を見出した時、ぼくは作戦の成功を確信した。
着弾とそれに伴う破壊が一段落した先に広がっていたものは、嘗ては空爆を防ぐべく建造され、強力な対空設備も持つコンクリートの要塞の廃墟であった。投下された十数発の爆弾は、退避壕と内部の港湾施設と入渠中の潜水艦の悉くを破壊し、国府海軍最大の潜水艦基地を壊滅に追いやったのである。
『―――全弾命中。帰投する……!』
損傷し、これ以上の上昇がままならない機に高度を合わせつつ、陸攻編隊は帰路に付く。その陸攻隊に追従するようにぼくらが機首を翻しかけたとき――――
『――――こちら第三中隊。敵機の接近を確認。北西方向!――――』
「…………!」
機首を廻らせるより先に、首が動いて敵機を探っていた。
層雲の彼方から沸く様に現れた黒点は、次第に数を増し、やがては単葉機の機影となって零戦隊に迫って来た。彼らの狙う物が我々ではなく、退避に移る陸攻隊にあるのは明かだ……彼らは、まさに送り狼!
『――――隊長機より全機へ、第三中隊は陸攻隊の援護。残余の隊は右旋回用意』
ぼくらは、第二中隊だった。右フットバーに掛ける足に力を入れ、長機の指示を待つ。
『……全機。右旋回!』
遅まきながら、働き場を得たということへの安堵感が、ぼくらの戦意を躍動させる。編隊はたちまち旋回を終え、敵編隊に向き直った。
積乱雲を背にした敵機は、ぼくらが知るものよりも雄雄しく見えた。複数列に横に並ぶ単葉機編隊を眼前に見出し、ぼくを少なからぬ緊張が襲う。
『―――全機へ、増槽落とせ!』
軽い衝撃と共に落ちた増槽が、残余の燃料を曳きながら足下へと落ちていく。
距離を詰めてハッキリしたことだが、案の定、敵機はぼくらよりも数は多かった。三〇……四〇……否、六〇は居る。その内半分は新鋭のP―36。あとはI―16か? いわゆる「異機種編隊」というやつだ。
敵編隊が一斉に方向を変えた。大回りにぼくらの背後を取ろうというのだ。一糸の乱れも無いその動きに、ぼくは何か得体の知れない生き物の群れにでも遭遇したかのような気がした。ぼくらは差し詰め、怪物に立ち向かうハーキュリースといったところか?
小癪な!……とばかりにぼくらも一斉に旋回を始める。陸攻隊の過酷な仕事は終わり、ここからはぼくらの緊張に満ちた闘いが始まる。
二つの編隊は互いに旋回を繰り返し、背後を取り合うのだった。単機同士の追いかけっこではなく、無線の号令一下、編隊規模で互いの部隊の背後の取り合いをやっているところに、時代と戦法の急速な変貌が感じられた。
旋回の連続はまた、速度や高度など、作戦飛行に十分な位置エネルギーの消耗にも繋がる。ぼくらにとって名機とは如何なる状況で如何なる無理な操作をしても、これら位置エネルギーの消耗の少ない飛行機のことであり、それはまた、格闘戦性能に優れた機体であることをも意味していた……そして空戦とは位置エネルギーの消耗の連続であり、それを最小に抑えられた者が勝者たり得る。
三度目の左旋回に入ったとき、にわかに敵機の速度が落ち始め、動作が緩慢になって来た。零戦の鋭い旋回性能に、その持てる限りの旋回性能を以て必死の対応を続けてきた結果、機体の方に位置エネルギー上の限界が迫ってきたのだ。それに、種類の違う機体で共に飛ぶ中で、旋回中も編隊を維持するべくしょっちゅう舵やエンジンを弄っていたのもここに来て響いてきたようだ。
P―36……ぼくらは、その三旋回のうちに、この新たな敵機の性能を把握する。
いい飛行機には違いないが、こちらはもっといい飛行機であることに、今では当の我々が思い当たっている。風防と胴体が一体化している点を除けば、その姿は殆ど零戦と代わり映えしない。操縦性の劣悪なI―16と編隊を組みさえしなければ、運動性能も実はかなりいい部類に入るのだろう。
零戦隊は、完全に敵編隊の後上方に達していた……というより、敵はすっかり位置エネルギーを蕩尽し、速度と高度をともに著しく下げてしまったと言った方がいいのかもしれない。
その零戦隊。先頭を行く二個小隊四機がぐんと増速した。
その先には、編隊の最後尾たる二機のP―36。零戦隊は距離を詰め、機銃の一連射で難なくそれらを叩き墜とした。その拍子に敵編隊は崩れ、四方八方に散った敵機を、編隊の制約を解かれた零戦隊は一気に追い込みに掛かった。
その瞬間。零戦隊の勝利を、ぼくらは今日もまた確信する。
敏捷さが鈍ったところを零戦に襲われ、たちまち数機の敵機が黒煙を発しながら落下していく。ぼくらもまた、足下をクルクル回るP―36の四機編隊を追う内、無線通信の中に入ってくる妙な雑音に、ぼくはともすれば気を取られかける。
『……sit!……fuck!……』
混信する無線通信が、ぼくに無線機のつまみを捻らせた。
「…………?」
『……全機へ……下だ。下へ逃げろ!……馬鹿っ! 上昇するんじゃない!……』
偶然に合わせた無線機の向こうで、英語でがなり立てる声をぼくははっきりと聞いた。学校で習ったような英国英語ではなく、もっと荒削りな、野暮ったい発音だ。ドイツ訛りでもない。
どこだ?……ぼくは目を廻らせる。数秒の逡巡の末、目指すものはぼくの下方にいた。二機の列機を従えた黄色い尾翼のP―36が、空戦の環のやや外周で旋回上昇と降下を繰り返している。
戦況を把握しつつ、指揮を取っているのだ……と、ぼくは直感した。
誰が?……少なくとも、大陸の人間ではない。
「天満より中隊長へ。敵指揮官機と思しきもの発見。一〇時下方!」
『……こちら古谷。了解した。敵はこちらに気付いたか?』
「いいえ……空戦域より距離を置いて戦況を把握しているようです」
『了解した。下のやつを片付けてから食ってやろう』
その間も、中尉は一機のP―36に黒煙を噴かせている。七.七ミリを何発か撃ち込んでいる内に、その敵機から落下傘が飛び出すのを見届け、中尉は上昇に転じた。ぼくもまた機首を上げて増速。混戦の中を駆け抜けるようにそいつへと機首を転じる。
ぼくらは、敵編隊のはるか後背にあった。ぼくらの存在を知らないまま、指揮官機の編隊は旋回を繰り返し、それがぼくらと彼らとの距離をさらに縮めるのだった。
再び周波数を合わせた無線機には、相変わらず血相を欠いた英語が飛び込んで来る。
『……戻れっ……上に逃げろ! 体勢を整えるんだ!』
その彼は、すでにぼくらの掌中に入りかけている。滑稽なものだ……と、ぼくは思わず内心で微笑んでしまう。そのぼくの照星は、すでに彼の列機の左翼付根に重なっている。見ようと思えば、操縦席の中すら覗けてしまう距離……!
そのP―36の操縦席。皮製の飛行帽に覆われた頭が、こちらを振り向いた。
間髪入れず、機銃発射レバーを握る手にぼくは力を篭めた。
七.七ミリ、そして二〇ミリの全弾発射!……弾道特性のいい七.七ミリ弾は左主翼付根に集中して火花を飛ばし、二〇ミリ弾は後落して数発がP―36の尾翼に当たり、昇降舵を弾き飛ばした。直後にP―36は前のめりに機首を下げ、その姿勢からクルクルとでんぐり返る様に回転しながら下へと落ちていく。
もう一機が、柴田兵曹の射撃で破片を撒き散らした。更なる一撃の後、敵機はそのまま錐揉みに入り墜落していった。
黄色い尾翼は?……と見ると、直前でぼくらの襲撃に勘付いたのか、素早く遠方に退避し、追尾した古谷中尉機と格闘戦を繰り広げていた。中尉を援護しようと機首を向けるぼくのイヤホンに、英語で再び飛び込んでくるあの声。
『……背後に付かれた! 誰か援護してくれ……!』
「…………」
ぼくは周囲を見回す。零戦隊の追撃を逃れた残余の敵機が体勢を整えこちらに向かって来るのがはっきりと見える。
『……敵機! 急速に接近する!』
蔡兵曹の声は、もはや悲鳴に近かった。脅威を感じるまでに急速に敵機は肉薄し、眼前で銀翼を煌かせる。背後を追尾する敵機にぼくらが気付き、急上昇でそいつらを振り切ってもそこに新たな敵機が向かって来る。これでは長機の援護どころではない。黄色い尾翼のP―36の乗り手の命令は、それほど徹底されているようだ。
多数対多数の空戦において、一機対一機の空戦はその場で多数機間の空戦を引き起こす。続々と空域に参入する敵機はそれだけ多くの零戦を曳き付け、返ってぼくらを離れ離れにした。
『……一機撃墜!……墜としたぞ!』
『……こちら……番機。敵機を追尾中……発火! 撃墜した!』
『……こちら……被弾した。主翼タンクより燃料が漏れている』
『……許可する。安全空域まで退避せよ』
味方機の会話を聞きながら、ぼくは眼前に飛び込んできたI―16を追尾する。7.7ミリの一連射……命中。立て続けに二〇ミリを撃つ……これもまたI―16のズングリとした胴体に次々と命中し、空の一点に燐粉の如く破片が舞う。急な左旋回で失速したI―16を追い抜いた先、エンジンより黒煙を発し、降下に転じるP―36とそれを追う古谷中尉の零戦。そのさらに後方には、今まさに距離を詰めんとするP―36が二機。
ぼくはP―36を追尾する。遠距離ながらも牽制のために放った7.7ミリの一連射……それでも、敵機は追尾を続けている。
「古谷中尉。後方より敵機。さっさと片付けて帰りましょう」
『……そいつぁ無理な相談ってもんだぜ。天満がどうにかしてくれ』
「……了解」
何て余裕ある遣り取りだろう?
窮地に震える中尉の声を聞きたいというぼくの微かな望み―――というよりささやかな欲望―――は、この時点で脆くも潰えた。だがそのことは逆にぼくを安心させる……何故かと言うに、それは中尉が戦いを恐れていないということの、何よりの証であるから。
―――そのぼくは、中尉が大胆な空戦を続けられる上で重要な立場にいる。見方を変えれば、ぼくはある意味中尉の生殺与奪を握っている? そのことがぼくを少なからず焦らせた。中尉は、ぼくが仕事をきちんと成し遂げることを信じているからこそ、自分の背中を空けて居られるのだ。
中尉が、敵指揮官機へさらに距離を詰めた。ぼくらの距離も詰った。
照準する間も無く、ぼくは撃った。砂粒のような弾幕が鼻先の二機を覆い、二機は慌てたように四方に散る。そこに、他の零戦が襲い掛かる。
中尉の銃撃を受け、指揮官のP―36から破片が飛んだ。P―36が背面の姿勢となるのと、操縦席から何か黒いものが飛び出すのと、殆ど同時だった。
『―――全機空戦止め。空戦止め……高度四〇〇〇で集合せよ』
飛び出した黒いものが、真白い落下傘となって再びぼくらの視界に入るのに、たっぷり五秒ほどは必要だった。敢闘した敵に対する敬意よりも、中々渋とい相手に抱くような苦々しさを胸に押し殺し、ぼくは地上に降り行く彼を見送った。
敵地上空。それも圧倒的な数の敵機を相手にしながらも、空に残っていたのは全てが零戦だった。零戦の強さに改めて驚くと同時に、その性能に絶対の信仰を強くする瞬間でもある。
綿雲を貫き、空の青を黒く染め上げているのは、気化したオイルの描く黒い軌道……それが、ついさっきまで空戦があったことを示す痕だった。
編隊を組み直すべく旋回を繰り返している間に、ぼくは味方機の数を数える……高度四〇〇〇で集合を終えた頃には、三機の零戦がぼくらの編隊から欠けていることに、ぼくは気付いたのだった。
『―――全機へ、帰投する……!』
南東へ一時間を掛けて飛び、敵空軍の勢力域を脱したところで、ぼくは行きに残して置いた魔法瓶入りのお茶のことを思い出す。戦闘終了の後、お茶を飲んで一息つくのは、零戦隊の日課のようなものとなっていた。
すっかり冷め切った、ぬるいお茶を啜りながら、ぼくはこの場にいない者のことを考える。被弾し飛行続行不能に陥れば、元山港西方に不時着して救助を待つという打ち合わせに従った―――従うことの出来た―――者は、今日出撃した者の内果たしてどれほどいるだろうか?
『―――こちら中原。エンジン不調』
うちの中隊の、中原一空兵の声だ。
『―――古谷より中原へ、海峡までは飛べるか?』
『…………』
『―――どうだ? 無理か?』
『……やってみます』
ぼくは中尉機に機体を寄せる。
「自分が行きます」
と、ぼくは後手に親指を指した。中尉もまた、「行け、行け」と手を振る。
取って返すようにして接近した中原機。プロペラの回転数の極端に落ちたその傍には、列機の岩木兵曹がいて、中原機の様子を見守っている。
中原機に、ぼくは目を凝らす。前の風防がどす黒く汚れているのに気付き、「ああこれはオイル漏れだな」と、ぼくなりに勘繰ってしまう。
「油圧はどうなってるの?」
『いま0.15を切りました……少しずつですが下がってます。でも、何とか……』
彼の報告を、実のところぼくは聴いてはいなかった。何故なら、機首を小刻みに上下させる彼の機に、揚力の不足を見たからだ。いわば現高度を保っているだけでアップアップの状態である。あとは昇ることはない。ただ高度を下げていくだけだ。なるほど飛行機というやつは、それを操る者以上に正直に出来ている。出力が足りなければ、下りて行くしかない。
「後どれくらい飛べそう?」
『……わかりません』
彼は恐らくは判っている。天の意思が彼自分を空に留まらせる時間が、僅かしか残されていないことを。
「中原一空兵。針路をもうちょっと南東……海岸線沿いにとってみようか?」
『……了解』
彼はぼくの言わんとすることを、恐らくは理解したはずだ。このまま進めば、ぼくらは一五〇〇~一八〇〇m級の山々の連なる山系を二時間近く。左に見ながら飛ぶことになる。まだ高度に余裕のある内に海岸線沿いに出ないと、最悪山を飛び越えられない恐れがある。
……それから二時間を、三機はただ浮いているような速度で半島の東海岸を飛んだ。
高度は、すでに一〇〇〇を切っている。不時着はもはや回避しようもなかった。
「中原一空兵。今直ぐ不時着し、脱出しろ」
『……大丈夫。まだ飛べます』
「これは命令だ」
命令なんて言葉を、少尉である内に使うなど、ぼくはこれまで考えたことすらなかった。命令とは、得てして自分より下位の誰かに、不利益を強制することのように思えるが、この際利益を強制する命令もあっていいだろう。もっとも、それが本当に彼のためになるのかどうかは、命令したぼくでさえ確信を持てないでいた……それでも、ぼくは「上官」として命令する。
そしてぼくは無線機で司令部を呼び出す。救難機の出動を要請し、矢継ぎ早に不時着地点は追って報せる旨を伝える……そこに、中原一空兵を含め、他の二人の意思を斟酌する余地を、ぼくは持たせなかった。
中原機が、機首を下げた。加速し、揚力を少し回復した零戦は、高度三〇〇でエンジンを停止し、そこからやや機首を上げ気味に、鉛色の海原へと滑り込むように降りていく。空回りするプロペラが海面を激しく叩き。ほぼ同時に零戦は派手な水飛沫を上げて着水した。
操縦席から這い出た中原一空兵がマフラーを取り出して手を振った。上から旋回しながら見下ろすぼくらは、焦りと共にそれを睨みつける。早く救命ボートを出せ。何をノンビリしているのか?……と。
海軍機は不時着水を想定して設計されているとはいっても、その浮いていられる時間にはやはり制限がある。その短い間を、救命ボートの展開をはじめ、自分の生存のための一切に費やす訓練を、ぼくらもまた完熟訓練中にかなりの頻度と熱意を以て受けたものだ。中原一空兵は、訓練で学んだその手順をぼくらの眼前で完璧に示した―――ただ、沈み行く機体からボートに乗り移る段になって、機体から足を滑らせて一度海に落ちたことを除いては。
岩木兵曹を、ぼくは呼んだ。
「燃料残は?」
『……あと二時間二〇分』
「よろしい、許可する。基地へ戻れ」
『しかし……』
「いいから……」
ぼくの燃料残は、あと一時間五〇分だった。さすがに下士官の方が訓練が徹底している分燃料の使い方が巧い。それでも、大事を取って先に帰すことにした。ぼくはと言えば、あと一時間くらい、頑張れないことはない。
司令部が、ぼくに通信を送ってきた。元山沖で救難作業に当たり、任務を終えて帰投中の九七式大型飛行艇をこちらに差し向けてくれるという。上手く行けば、あと一時間でぼくらは合流できることになる。
駄目なときは?……ぼくも一緒に波間を彷徨うさ。本当なら深刻なことを、ぼくはさも下町で駄菓子でも買うような感覚で考えていた。
スロットルを極限まで絞り、ぼくは空兵の様子を見守る。眼が合う度に、空兵は手を振ってぼくに笑いかけてくる。
時計は?……すでに昼。皆は帰還し、遅い昼食にパクついている頃だろう。反駁の唸り声を上げる腹を押さえ、ぼくは苦笑する。
一時間を少し過ぎた頃。北側から迫って来る四発機の機影に、ぼくは胸を撫で下ろす。
機体は……紛れも無い四発エンジンの九七式大型飛行艇。横に広がった巨大な胴体に、パラソル式の分厚い主翼が、如何なる波間もものともしない性能の余裕を見る者に感じさせた。
着水……低空から目を凝らせば、飛行艇の機内に他の不時着機の搭乗員と思しき人影がギュウギュウに詰め込まれているのが見える。これでは、定員オーバーで離水は難しいようにぼくには思われた。
飛行艇の主翼上部に這い上がった乗員が主翼の端に駆け寄り、中原一空兵の救命ボートへロープを投掛けた。水面に延びたロープを手繰って、中原一空兵は飛行艇までボートを進める。程無くして中原一空兵の収容を終え、飛行艇は離水すべく真っ直ぐに海面を割り始めた。
それでもやはり定員オーバーが響いているのか、飛行艇はたっぷり二〇〇〇m近くの距離で波間を割り、漸く離水した。離水……とは言っても、フラップの効果で辛うじて海面スレスレを浮いているような印象を受ける。しばらく飛行艇の後につき従い、安全域にまで達したところでぼくは飛行艇と別れ、自分の針路に戻った。
燃料、後四〇分。その状態で只独り大空の一点に取り残されたということになる……飛行艇から分かれて基地への帰路を取るとは、言い換えればそういうことだ。
青空に層を張る雲を貫き、零戦は上昇を続ける。最小の目盛にまで合わせたスロットルでも、零戦の上昇ぶりは目を見張るほどだ……単に零戦が軽量であるがために、返ってトリムタブの効きが良くなっている、ということかも知れないが。
日は、すでに西に傾きかけていた。右手の遥か先には、半島南東部の海岸線がうっすらと影のように広がっていた。盛んにお茶を口に運びながら、ぼくはそれを疲れ切った眼で眺めていた。今思えばそれらは、抗えない不安の反映と言えたのかもしれない。
ふと、眼を落とした燃料供給切替コックは、二時間前からすでに胴体を指している。これ以外にコックを切替えることは即ち……エンジン停止に繋がる。
燃料計は、あと一目盛を残すばかり。
還るべき陸地は、未だ見えない。喩えあったとしても、足下一面はびっしりと綿畑のような雲に覆われている。
意を決し、降下……地上への激突を避けるべく、機首を上げ気味に、速度を押さえ気味に……分厚い雲の織り成す闇を抜けた先には、未だ茫漠たる海原!
行く時はお目にかからなかった曇り空の下で、息を付きかけるエンジンを、そして手動燃料供給ポンプをコセコセ動かし、あやしながらぼくは飛ぶ。さながら空の自転車操業だ。傍目から見ても「誇りある海鷲」のすることではない。格好悪い……と、ぼくは思う。
司令部に救難機の手配を要請しようかとも考えたが、少しの逡巡の末、ぼくは確実に助かる不時着水よりも、その確度に乏しいながら愛機と共に地上に降り立つ可能性のある方法に賭けることにした。沈み行く愛機から脱出する途中で海に落ちた中原一空兵の姿が脳裏に浮かんだのも、幾許かそちらへ傾く手助けになった。一張羅を濡らすなんて、絶対にイヤだ……!
雲を一つ、また一つ潜り抜けた先に海岸線を見たのは、まさにその時だった。紛う事なき、そして懐かしき九州北部の、緑に満ちた海岸線……!
間欠泉の如く込み上げてきた安堵感に、ぼくは思わず笑った。その途端、エンジンが止まった。
「…………!?」
断末魔の呻きの如く連続するエンジンの軋み……それらの後に来たものは、風の流れる音以外何物も無い空虚。
滑空状態に入った零戦を左に滑らせながら眼を凝らした先に、飛行場特有の矩形が広がっていた。ぼくは一目で、北九州の芦屋飛行場だと確信する。
動力を失った機体を失速させないよう慎重に操縦桿を操り、フットバーを踏む……着陸コースを取るべく旋回に入れた機体が失速寸前の振動を示した瞬間。ぼくの背中を冷たいものが滑り落ちる。それを我慢した先に、水平の姿勢で飛行場に進入する零戦の操縦席から、低めの角度で飛行場の全景を見つめるぼくの姿があった。
フラップを、少し下げた。
主脚を下ろした。
風防を開けた。
ドスンッ……主脚が接地する音。
キュルキュルキュルルルル……主脚が地面を擦る音。
それらが日通り過ぎ去った後、零戦は完全に沈黙し、ぼくはゆっくりと天を仰いだ。
風防を押し開く。同時にそよぐ風と共に、雲が動くのを、ぼくは見た。
量感溢れる雲海の切れ間から、後光のような日の光が、ぼくと零戦を照らし出していた。
―――元山の潜水艦基地攻撃作戦は終った。
潜水艦退避壕の破壊……ただその目的のためだけに造られた特殊爆弾は期待された通りの威力を発揮し、退避壕の悉くを内部に停泊する潜水艦一二隻ごと破壊し尽くした。事後の航空偵察に拠ればこれら諸施設の復旧には、少なく見積もっても三ヶ月を要するものと思われた。
その後日に起こった空戦でも、我が方は二四機の敵機を撃墜。長駆敵領域奥地を進撃し、不利な状況で圧倒的な戦果を収めた零戦隊の声価は、この戦いを以ていよいよ高まったのである。
だが、攻撃成功の代償は少なくは無かった。出撃機数二七機の内九機が未帰還。戦死者は墜落及び機上戦死を含め五〇名出た……未帰還機数に比して戦死者が意外に少ないのは、未帰還機の半分が損傷し、あらかじめ指定された西方海域に不時着水後、駆けつけて来た味方の救難機や潜水艦に速やかに救助されたためである。もしこれらの支援体制が欠けていれば、今後の航空作戦に深刻な影響をもたらしたものと思われる。
零戦隊からの未帰還機は四機。その全機が空戦で損傷後安全圏まで離脱しての喪失であり、脱出した搭乗員は中原一空兵をふくめ三名が不時着水後に同じく救助されたが、あと一名の遠藤少尉は懸命な捜索にもかかわらず遂に見付からず、本当に未帰還とされた。
陸攻隊に限って見れば手痛い大損害ではあるが、この作戦で搭乗員の救難体制の有効性が確認されたわけで、戦果の他、人的資源の損耗を最小限まで抑えられたという点もまた高く評価されたのだった。
だが、多少の瑕疵(?)も出た。退避壕に隣接する米人技術者の居住区への命中を避け得たものの、着弾時の衝撃で居住区に属する数棟の窓ガラスが割れたというのである。これは、現地より報告を受けたアメリカ大使館からの抗議によって明らかになったことだ。些細なクレームではあったが、ぼくら搭乗員としては、多大な犠牲の末に成し遂げた壮途にケチを付けられたみたいで寝覚めが悪い。
作戦から数日後。海外通信社の記事は、アメリカのF‐D‐ルーズベルト大統領が中華民国の外交使節を接見し、国内のみならず各国記者団の注視する中、中国に本格的な軍事援助を行うと宣言したことを伝えていた。
宣言の翌週。アメリカ本土のサンディエゴ軍港からは、中国に輸出する戦闘機を積み込んだ米空母が出港。フィリピンからは同じく援助機材のB―18爆撃機が、米軍飛行士の手により続々と中国本土に空輸され始めていた。
ハワイの軍港からは太平洋艦隊の主力戦艦群が出撃。一部の艦をフィリピンに残したものの、残余の艦は訓練と称して南西諸島の日本領海近辺を遊弋し始めている。九州南部の鹿屋や沖縄に展開する陸海軍の長距離哨戒飛行隊には、対潜哨戒という従来の任務の上に、これら太平洋艦隊の戦艦の動向注視という新たな任務が加わることとなった。彼らの目的が、通常の訓練航海ではなく我々に対する「挑発」にあることはもはや明らかだった。
そう……アメリカは、この時点で明らかに指向していた。日本との戦争を。
そのアメリカの意図を日本は知るべくもなく、アメリカの行為を対中協力の一環ぐらいにしか捉えてはいなかったが、敵意丸出しのアメリカの一方で日本政府はアメリカとの対立を極力避けるべく動いた。
大陸と戦争状態にあることはや五年。その上さらにアメリカと戦端と開こうという者はもはや軍部にも政府にも存在しなかった。それほど日本の国力が疲弊していることは誰の目にも明らかであったし、何よりも太平洋でアメリカ海軍に対するべき連合艦隊の主力が、これまでの戦闘で全くの役立たずであることを露呈してしまった現在、太平洋全域にまで拡大するであろう対米戦を乗り切る見込みなど、誰も持っていなかったのだ。
……そして、戦いに倦んだ国民の世論も、これ以上の戦争拡大を望んではいなかった。
―――元山攻撃から二週間後。
ここ二週間ほど、大規模な作戦飛行は行われていない。あの空戦以来敵戦闘機隊は、零戦隊を見ると全く空戦を挑んで来なくなった。
尻尾を巻いて退散する敵機を見送る一方で、攻撃機や爆撃機は零戦の傘の下で好きな所を攻撃し、破壊することが出来た。従来の空からの軍事施設破壊や補給網寸断作戦はその所定の目標を達し、部隊の一部は今なお大陸本土や半島北部から輸送船が発着する沿岸の港湾部へとその攻撃の手を移しつつあった。
半島西岸を荒しまわった海軍機動部隊は一旦母港に帰還。補給と休養を終え、安全な太平洋側で再び猛訓練に励んでいる。この頃になると空母部隊にも零戦をはじめ九七式艦攻や九九式艦爆など近代的な新鋭機の供給も始まり、空母部隊の戦力は一層の充実を見ることとなった。
彼らの新たな攻撃目標は元山、清津など、半島北部東岸の主要港とも、あるいは中国海軍主力の立て篭もる遼東、山東の各軍港とも言われるが、この時点では定かではない。
半島に近接しているが故に、元来不時着用飛行場として建造された対馬の南北飛行場は急速に拡張され、陸軍の九七式戦闘機の一個戦隊が展開。半島南部の制空任務に当たるまでになっていた。
少なくとも半島南部から中部にかけては、空はもはや日本軍の手中に落ちたのだ。
―――八月。
その日は、ぼくは警急班の当番になっていた。
エプロンに銀翼を休める零戦の操縦席の中に腰を下ろし、黒眼鏡を掛けた眼で雑誌を読み耽るのは、警急当番として発進命令を待つ間の有効な暇潰しの方法だ。
エプロンの傍に張られた天幕の下では、非番の整備員が手持ちぶたさに何やら話をしている。ここまで聞こえてくる笑い声には、軽い羨望を誘われる。
半年前と比べ、警急出動の頻度は目に見えて減っている。半島南部の制空作戦が成功した段階で、敵はすでに有効な反撃の手段を失っていたのだった。
真夏……抜けるような青空から吹き降ろしてくる風は温く。刺すような日差しを和らげるまでには至らない。
時計は、あと三〇分でぼくの当番が終ることを示していた。三〇分が過ぎたら、何をしようか……雑誌の記事に眼を通しながら考えていたぼくは、愛機に近付いてくる人影に気付かなかった。
「テンマ少尉……!」
「…………?」
エーリヒ‐マイヤー大尉が、涼しげな眼つきでこちらを見上げていた。
「マイヤー大尉ではないですか」
「……今度、少佐になったんだ」
と、彼は軍服の襟を示して見せた。
「それは、おめでとう」
「実はね、本国に帰る事になったよ」
と、彼は寂しそうな口調で言った。
急に、ぼくらの間を、静寂を纏った風が通り過ぎた。
「……そうですか」
「それで、別れの挨拶に来た」
ぼくは手招きした。怪訝な表情で操縦席まで上がってきた少佐に、ぼくは言った。
「零戦、乗ってみませんか?」
「仕事中だろう?」
「いいから……」
席を譲り、少佐の手を引いて座らせる。席に座ると、少佐は周囲を見回した。
「初めて座ったときも思ったが、いい眺めだな」
「空に上がったら、もっといい眺めですよ」
「こいつで元山や平壌まで飛んでいって空戦までするとは、我々の常識では考えられんな」
「アシが長いというのも、操縦する者には結構苦痛なんです。特に一人乗りの戦闘機はね」
少佐は笑った。
「それは言えてる。七時間も八時間も飛べるメッサーなんて、想像しただけで寒気がするよ」
「……そうですか」
「だが、どっちもいい飛行機だ」
少佐は言った。
「私は、祖国に帰れば実戦部隊に配属されることになる。おそらく英国本土の戦い(バトル・オブ・ブリテン)を戦うことになるだろう」
「英国本土の戦い(バトル・オブ・ブリテン)……?」
「今や我が国は欧州を席巻し、大英帝国は欧州から孤立している。君の国と同じだ」
「……我々の戦いは、欧州戦線にも当て嵌まるものなのでしょうか?」
少佐は、自信有り気に頷くのだった。
「もちろん……だが、我がドイツは必ず英国を制圧する。中国人のような轍は踏まないさ」
闘志に輝いた瞳から、ぼくは彼がやはり戦闘機乗りであることを革めて確信させられるのだった。
零戦の操縦席を十分に堪能して、少佐は機から降りた。
「テンマ少尉。君に会えてよかった」
「こちらこそ。マイヤー少佐」
ぼくらはお互いの瞳を覗き、硬く握手を交わす。
「我々がいる間は、君たちを屈服させることが出来なかった。だが、欧州では我々は必ず勝つ。勝って、理想の世界を創る……創って見せる」
零戦の主翼から降り、軍帽の唾を軽く抑えて会釈すると、少佐は踵を返し、そして歩き出した。
ふと、少佐の足が止まった。
「テンマ少尉」
「はい」
「戦争が終って……機会があれば、また会おう」
「また……会えますとも」
少佐は白い歯を見せて笑った。その笑みの中に、揺らぎようのない将来への確信をぼくは見たような気がした。
時に、昭和一五年八月―――――




