第1部
梅雨の中休み、というやつだろうか、七月の初旬は晴れ空から始まった。
本来練習部隊の性格が強い大村海軍航空隊が、警急体制に移行してすでに三ヶ月。その日の早朝の当直はぼくと柴田一空曹、そして蔡一等航空兵の三人だった。
従兵の木村一等水兵に起こされたのは、まだ暗いうち。娑婆では誰もが未だ眠りについている時間帯だ。海軍生活にだいぶ慣れたとはいえ、寝起きの悪いぼくには早起きは結構苦痛だった。
もとから当番であることはわかっていたから、寝る前にあらかじめ着込んでいた飛行服に縛帯を締め、マフラーを捲くだけで全ては事足りる。遠雷のように外から入って来る整備機の試運転の音に耳を傾けながら、縛帯に落下傘を繋ぎ、ピストへと向かう。
宿舎の外に置かれた自転車。それが、ぼくら搭乗員が仕事場へ向かうための徒歩以外の交通手段だった。
じっとりとした空気のだいぶ抜けた、朝の爽やかな冷気の中で自転車を走らせるのは快い。中学時代、学校へ向かって一心に自転車を走らせたことを思い出す。夢中になって漕ぐうち、朝焼けの赤い光の存在に気付き、思わず苦笑する。今日もまた、暑くなりそうだ。
陽光の昇る向こう側には、大村飛行場の全容を伺うことが出来た。
巨大な湖を思わせる大村湾に面し、取って付けたような格納庫と指揮所以外は、平坦な芝生が広がるこの場所が、一通りの基礎訓練課程を終えたぼくが最初に配属された飛行場だ。
飛行場の端に居並ぶ銀色の複葉機の列線に、ぼくは目を細める。
今や旧型の九〇式艦上戦闘機と、一応第一線機の九五式艦上戦闘機の混成。それが、我が大村海軍航空隊の全戦力だった。
ペダルを漕ぐ足を緩め、ぼくはピストに自転車を滑り込ませた。
列機の二人は、既に起き出していて、ぼくを待っていた。
「お早う御座います。天満少尉殿」
蔡一等航空兵が、その特徴的な丸顔を、一杯に歪めて微笑みかけてきた。
「コーヒー、ありますよ」
「もらおうか」
慣れた手付きで、蔡一空兵はポットからコーヒーを注ぐ。コーヒーを生まれて初めて飲んだのが、つい三ヶ月前とは思えないほどの手捌き……
蔡一空兵は、その名の通り台湾の出身だ。本来海軍は植民地出身者の入隊を許してはいなかったが、周辺情勢はそんな「差別」を許さないほど緊迫し、逼迫していた。
「まさか自分も、あの頃は予科練に入れるとは思っていませんでした」
と、蔡一空兵は自分でもそう言っていた。だが、前述の事情と、深刻な戦闘機操縦士の不足が、大量の搭乗員の需要を高め、蔡君にも大空への門戸が開かれたというわけだ。
ピストの片隅で、地図に見入りながらコーヒーを啜る柴田一等航空兵曹は、つい三ヶ月前まで艦上攻撃機の偵察員だった。
彼は戦闘機部隊の大増員が決定され、他機種からの転科組が募られるや否や志願し、今ではこうして第一線の戦闘機搭乗員として勤務している。戦闘機操縦士としてのキャリアはぼくらと殆ど同じだが、それ以前の、偵察員としての経験を合わせれば、彼の海軍航空兵としてのキャリアはぼくと蔡君を合わせたよりも長いだろう。
先月に海軍少尉に任官し、戦闘機操縦士としては未だ延長教育の途上にあるぼくもまた、緊迫する周辺情勢により生まれた即製海鷲―――俗称「テンプラ」の一人だ。
――――事の発端は、日露戦争までに遡る。
明治三七年の開戦以来、「敵野戦軍の捕捉 そして殲滅」という帝國陸軍の戦略的目標は、開戦から一年余りを経た時点でも達成されず、やがて明治三十八年の初旬に行われた奉天会戦の終了時点で、その攻勢は限界点に達した。
後に続いたのは、ロシア軍の怒涛のような反攻だった。長大なシベリア鉄道を通じて遥かな欧州の地より送り込まれ、反撃を期して前線の後方に集積された圧倒的なまでの兵力が南下を始め、それらは延びきり、疲弊しきった日本軍の前線に襲い掛かった。
これら一連の動きを後世は「六月攻勢」と呼んだ。
停戦間際のこと、単に今後の国内政略のために敵軍に対する戦術的な勝利をなるべく稼いでおきたいという、ロシア軍司令部の打算の他に、同時期にアメリカはポーツマスにおいて行われていた和平交渉を有利に進めようという狙いもあったのであろう。ロシア軍の進撃は苛烈を極めた。戦争を遂行する上で必要な、統制も際限も失われた死に物狂いの攻勢は、当然日本軍の反撃に遭い多大な損害を出した。だが、それ以上に日本軍の失ったものは大きかった。
一ヶ月半に渡る攻勢期間中、日本軍の前線は南西五〇キロに渡って後退し、それはまさに「血の撤退路」とよばれる凄惨な撤退戦を露呈した。この間ロシア軍は一〇万人近くの死傷者を出し、日本軍に至っては四万人が満州の荒野に骸を晒すこととなったのだ。
だが両者の違いは、前者がこれらの損害を埋め合わせられる以上の兵力を続々と前線に送り込んでいたことに対し、後者にはもはやそれだけの損害を補うだけの戦力は何処にも残されていなかったということだ。そしてこの間、日本軍が出した死傷者の半分近くが、戦死ならぬ戦病死によるものであった。
それはまさに、十分に栄養を蓄えた巨熊と、手負いの猟犬の戦いだった。もう少しで止めを刺せるという段階で、いきなり熊の豪腕で跳ね飛ばされ、噛み付かれた末に崖っぷちに追い込まれた猟犬。その猟犬が、漸く体勢を整え、再び牙を剥き出して熊の喉元に食い付こうとした瞬間――――後退した日本軍が、漸く体勢を整え、進撃するロシア軍を真っ向から迎撃する体勢を形ながらも整えたとき。戦場から太平洋を挟み二万キロメートルを隔てたポーツマスでは、講和が成立した。
結果として、疲弊しきった日露ともに満州における権益のほとんどを放棄し、戦争の際、日本軍の後方補給の拠点となっていた朝鮮半島はその北半分をロシアの保護領。南半分の権益全てに日本が優越権を持つという決定がなされた。
北にはやがてロシア帝国の総督府が置かれて実質的にロシアの植民地と化し、南は軍事的、外交的に日本の影響を色濃く受けた大韓帝国として「独立」した。要するに日露両者の睨み合いの場が、満州から朝鮮に後退しただけで、「南下政策に対する防衛戦争」としての日露戦争は、結局は決着が付かなかった……ということになる。
交渉の仲介者として振る舞い、勝者が得るべき戦後の満州における権益に預かろうと画策していたアメリカの打算もまた、この勝者なき戦争では交渉相手を見出すわけにも行かず、ついには挫折することとなった。
戦後、ロシアに対抗して半島の南半分を日本が直接支配する案が陸軍の一部勢力を中心に真剣に検討されたが、日露戦争でその国力の過半を消耗させていた日本に、世界的には未開地扱いされていたこの半島の面倒を見る余力は残されていなかった。
「植民地」としてよりもむしろ、有力な「同盟国」、言い換えれば「ロシア南下政策への防波堤」として大韓を育成し、発展させる途を日本は選んだのだ。それでも大韓帝国の内政は日本の統括下に置かれ、韓国こと大韓帝国各地の軍事上の要衝には陸軍の部隊が続々と駐留し、北半分のロシアに対峙することとなった。
日露戦争において、苦戦続きだった陸戦の一方で、海戦ではかの「日本海海戦」をはじめとして、大勝ちするにはした。それら海での勝利は陸上の戦いの推移に、海上補給路の安定した確保という面で大きく貢献したが、その主戦場が陸であったことが、皮肉にも海主陸従という島国としてあるべき国防方針を大きく揺るがすこととなってしまった。つまり、大陸に於ける戦況に皆の視線が集中したあまり、海軍の貢献度を量ることが疎かにされた観があった。
陸軍は陸軍で、戦略レベルで強いられた苦戦を糊塗する風潮と、個々の戦術レベルでは善戦したという、自己満足にも似た欺瞞とが蔓延することとなった。その傾向はやがて、日露戦争によって朝鮮半島中部まで後退した防衛線の回復という名目の下で推進された朝鮮駐留軍の戦力増強と、そのための陸軍軍備強化の機運の高まりとなって顕在化した。
波乱の最初の契機は、一九一四年に勃発した欧州大戦中盤の、ロシア帝国の崩壊だった。それはまさに、朝鮮半島の完全制圧を狙っていた陸軍にとって、まさに渡りに船であるように思われた。
北上の口実は、きちんと用意されている。「現地の『同盟国』ロシア人を、革命政権より保護する」という誰の目から見ても、立派な理由が。欧州大戦において、日本とロシアは共に連合国側として参戦した。だから友邦の国民を「革命政権の魔手」から助けるのは当然のこと、というわけだ。
……だが、その目論見は見事に外れることとなる。
帝政を打倒した革命政権は、日本が行動を起こす遥か以前に、ヨーロッパ方面においてドイツ側と極秘裏に接触し、戦線離脱工作を進めていた。それと並行して、同種の交渉は東アジア方面においても進められていた。だが、彼らの交渉の相手は日本ではなかったのだ。
日本軍が北上するより先に、革命政権の要請により南下し、速やかに総督府の所在地である平壌を占領したのは、満州に根拠を置く独立武装勢力、いわゆる軍閥だった。さらに日本側を驚愕させたことには、大陸に放った諜報機関員よりもたらされた情報に、こうした軍閥と民国政府が裏で連携しているというものがあったことだ。
革命政権側から見れば、同じ連合国側の中華民国と直接に戦線離脱交渉を持つ「裏切り行為」を大っぴらに行うわけにもいかず、民国側の息のかかった軍閥を通して彼らと交渉し、最終的に中華民国の介入を許す状況にまで持っていく必要があったというわけだ。
当然、日本側は抗議した。だが抗議した先、中華民国政府は「行動を起こしたのは統制に従わない軍閥で、中央政府とは何の関わりもない」という態度を一貫させ、日本側を困惑させた。だが、その後間を置かずして、「半島北部に侵入した軍閥の討伐」という名目で中華民国の正規軍が進駐してくるという事態が発生するに至っては、彼らが軍閥を志操し、ロシアに代わり朝鮮半島における勢力伸長を狙っていることは明らかとなった。
必然の成り行きとして、同じ連合国側でありながら、日本と中国との関係は険悪なものとなった。だが半島を舞台に日中の衝突一歩手前まで行った事態を一旦収拾するに至ったのは、降って沸いたような、連合国側からのシベリアへの出兵要請だった。
欧州に於ける東部戦線の、ドイツに対する牽制という英仏の思惑とは裏腹に、ロシア領内での緩衝地帯建設への誘惑に囚われた陸軍は出兵し、程無くして事態は現地パルチザンの抵抗により泥沼の一途を辿った。ロシア領内のチェコ軍救出という美名の裏で、大陸に於ける本土防衛拠点確保への執念に囚われ続けた結果としての足掛け四年近くに及んだシベリア出兵でも、結局日本は何等得るものなく、半島情勢もまた日露戦争以来何等変わらないまま、となったのである。
日本が極東において徒に戦費と人命を浪費していた一方で、大陸の中華民国はその足元を着々と固めつつあった。
元々、大陸はあらゆる商品、産業の市場として無限の可能性を持つと世界的には見做されていた。だからこそ欧米列強は競って大陸に進出し、租界を形成し、様々な産業設備を建設し、莫大な投資を行ったのた。
日本も例に漏れず、日清戦争後を境に積極的に大陸への進出を指向した。欧州大戦後期の、朝鮮半島を廻る一連の推移が、日本と中華民国に深刻な対立をもたらしたのは前述したとおりだが、それも結局は一過性のもので、以後は経済から軍事に亘り、両者の間には表面上ではあっても比較的良好な関係が保たれる。
民国側は満州の広大な平原に日本の工業設備を誘致し、日本の財界は多額の投資と資本投下を以てこれに応じた。軍事面でも、陸軍を中心に多くの軍人が大陸に軍事顧問として渡り、未だ発展途上にあった中華民国正規軍の錬成、指導に当ることとなった。
「日中が合同して亜細亜を導き、欧米列強の帝国主義に合同して当たる」
誰ともなく言い出した東亜合邦論が、一種の熱気となって日本の論壇を駆け巡るのに、それほど時を要しなかった。そしてその理想は、すでに手に届く距離にあるように誰の目にも見えたのだ。中国という「友邦」との関係を緊密なものにしておけば、かつての二度の戦争のように徒に軍備を浪費せずとも済む。ゆくゆくは、両者ともに確固たる同盟を結び、合同して欧米の圧力に抗し得る一大勢力圏を亜細亜に建設することも夢ではない!……誰もがそう考え、その実現を信じて疑わなかった。
……だが、新たな対立の種は、この時点で捲かれていたと言ってもいい。
地理的には同じアジアという地域に区分される日本と中国ではあったが、実際にはその民族の性格、風土、そして文化には著しく相違がある。例を挙げれば、経済活動をする際、その根幹として重視される商道徳からして、日本と中国は違う。日本において重視されるべきものは契約の締結及び履行だが、中国においては個人の面子と一族郎党の利益確保がそれに勝る。
また、日本では道徳的にも法的にも忌避されるべき贈収賄が、大陸の地では信じられない程の頻度で罷り通る。なぜならそれは大陸においては「悪」ではなく、何世紀にも亘り法治という概念が定着することのなかったこの地で人々が生き抜く上で、あたかも物を飲み食いするのと同じ感覚で育まれ、貫かれてきた「手法」であったからだ。
……従って、現地で経済活動を行うに当たってこうした現地との感覚の相違が、当初は針で刺した程度だった齟齬の溝を次第に広げていったのは、ある意味自然な成り行きだった。
経済活動に対する考え方の違いの他に、国土統一を果たしたばかりの国民政府の体制の不安定さも、大陸における日本の立場を危うくしかねないものを秘めていた。
各地に割拠する軍閥を滅ぼし、あるいは服従させ、政府内の造反勢力をも一掃し一応の国土統一を果たしたものの、内には未だ統制に従わない軍閥の他、新興の勢力たる共産党も度重なる弾圧に関わらず日毎に勢力を増し、その声望、規模ともに無視できないものとなっていた。
特に共産勢力が跋扈し始めた背景には、やはり国民政府内の腐敗と、地主制をはじめ地方に温存された旧弊的な社会制度。そして急速な経済発展に伴う、都市部に於ける貧富の格差の増大があった。さらに悪いことには、当の国民政府自体、そうした問題の根本的な解決策を何等持ってはいなかった。
国内問題に行き詰った一国が、国民の批判の目を逸らすために取る政策といえばそれは決まっている。それは国民の批判を忍びつつ、地道に改革に取り組んでいくか、自国の内外に敵を作り(または仕立て上げ)、国民のナショナリズムの矛先をその「敵」に向けさせることである。国民政府が取った方策は、後者だった。そして、満州で経済活動を行う日本企業と、日本という国そのものが彼らのスケープゴートとなった。
満州における日本の経済活動が徐々に軌道に乗り、活発化するにつれ、中国側は次第にその活動に規制と干渉を加えるようになった。規制と干渉は時を置かずして、官民一体となった苛烈までの排日運動へと昇華した。
日本資本の工場は操業を停止し、はたまた乱入した暴徒によって略奪され、放火された。さらには現地邦人の安全すら脅かされるようになるに至っては、日本もついに軍の派遣という実力行使に打って出るしかなかった。
だが、事態は日中両国の本格的な武力衝突までは発展しなかった。その要因の多くは日本側にあった。当時の世界的な経済恐慌下にあって、例外なく呻吟していた日本の財界にとって、満州はそうした閉塞状況を打破する可能性を秘めた有力な「出城」であったし、下手に紛争を起こして莫大な投資を無に帰するが如き自殺行為はなんとしても避けねばならなかった。政府もまた、大陸の争乱を歓迎しない国際世論の手前、対中外交姿勢に多少の手心を加える必要があったし、そして対大陸政策において最も先鋭的な軍部も、ある意味満州以上に、日本の安全保障に深刻な影響をもたらすであろう火種をすでに抱えていたからである。
……その火種とは、朝鮮半島である。
明治四三年の「独立」以来、大韓帝国は順調に日本の「同盟国」として発展を遂げていた。
日本より派遣された内政顧問団の下、李朝以来続いてきた旧弊的な制度、近代化に関して有害とされた慣習は悉くが廃止され、これまで閉鎖的な官僚階層として民衆を不当に弾圧し、搾取してきた両班層は一切の特権を失い形骸化した。日本式の教育制度の移入もまた、その傾向を一層促進した。
また、来るべき北進への後方拠点として、日本の財政支援の下、産業の創設に伴う農業及び工業生産力の向上が図られ、早くも大正年間の半ばにはその所定目標を達成する。
国防の面においても、半島北部のロシアを睨んで配備されていた日本陸軍を恃むのみならず、韓国自体、日本の指導の下で装備、練度ともに強力な国軍を創設、保有し、有事の際は日本軍の指揮下で北上する戦時作戦計画まで策定されるまでに、その重要度は増していた。
だが、欧州大戦以降、状況は急転した。
暗躍を始めたのは、日本による「外からの改革」により、従来の特権を失った両班層だった。彼らの中で過激な反日思想の持主は海外に逃れ、細々と反政府活動を続けていたが、そこに中国の支援が加わった。中国としては、日本の後押しを受けた急速な南朝鮮の経済成長の結果、半島の政治的、軍事的均衡が崩壊することを恐れていたのである。それを防ぐには、彼らからして「物分りのいい」両班層に権力を回復させるのが最善の方法であろう。喩えそれが叶わずとも、来るべき「南進」の準備が完了するまでのしばらくの間、大韓の内政が混乱してくれさえすればいいというわけであった。
はたして、工作の手は韓国政府および軍にまで浸透し、それらはやがて慢性的な政情不安となって韓国を苛むに至った。満州で排日運動が活発化していた当時。韓国もまた、予断を許さない状況にあったのだ。
自然、半島北部への備えも疎かになりがちとなった。
……ここに、破局への伏線があった。
中国の排日運動と半島の政情不安への対応に日本側が追われている間にも、中国は着々と独自に軍備の拡大を進めていた。従来の日本軍出身の軍事顧問は職を解かれて追放され、替わりに招聘されたドイツ人の軍事顧問は彼らなりの方法で近代軍隊として一応の体裁を整えた中国軍を編成し、訓練した。陸軍はドイツ式の装備に一新され、空軍は日本製のコピー機の上に、主にアメリカ製の機材を積極的に、それも大量に導入し、イタリアやアメリカから招いた教官が操縦士を教育し、または義勇飛行士として実戦任務に就いた。
それ以上に飛躍的な充実を遂げたのは海軍であったかもしれない、日清戦争の敗北以来、常に沿岸海軍の域を出なかった中国海軍は、欧州大戦後のヴェルサイユ体制下で海軍力を制限されてきたドイツの造艦分野に対し、常に上顧客となり続けることで海軍力を整備してきた。
……その主力は、潜水艦である。中国は艦のみならず、それを操る人材すら当のドイツから登用することで極めて短日時のうちに日本のそれと遜色ない潜水艦隊を作り上げることに成功した。後にはそこに、アメリカ製の旧型潜水艦やアメリカ人の「傭兵」が加わった。
当然、これだけの規模の軍事力を急速に編成し、運用を軌道に乗せるには少なからぬ対価が必要となる。中国は、将来的な満州や沿岸地域における権益付与を代償に、これだけの軍備と、それを運用できるだけのノウハウと人材の取得に成功したのだった。
特にアメリカは、そうした取得先の最たるものだった。日本やドイツと同じく、「遅れて来た帝国主義国」だったアメリカは、手始めに中南米やフィリピンを併呑し尽くしてもなお、その有り余る資本の投下先としてさらに西方の中国をも射程に入れていたのである。「市場としての中国」を守るためなら、出来うる限りの助力はやるべきであった。当然、代金は後できちんと、それも利子を付けて取り立てるが……
このようなアメリカにとって、太平洋を挟んだ日本は、安定した中国への進出には実のところ邪魔な存在以外の何物でもなかった。元々日露戦争を境に、将来の脅威として日本を敵視する傾向は少なからず強まっていたのである。自分たちの代わりに中国が日本と一戦交え、これを叩き潰してくれるというのなら、それを拒否する理由などアメリカは持ってはいなかった。
ドイツのヒトラー政権もまた、反共の友邦として「のみ」利用価値のある日本に与するよりも、反共の友邦と将来の市場の両方を両立しうる中国に与する途を選んだ。それに、地理的にソヴィエトという強敵と隣接する中国との友好関係を進めておくことは、今後のヨーロッパ外交を進める上で牽制材料とするに都合がいい。
自然……対ソ連という観点から構想が持ち上がり、一度は締結寸前まで行った日独防共協定は解消された。四方を海に囲まれた海洋国家でありながら、亜細亜を股に駆ける大陸国家たらんとした日本陸軍および財界の日露戦争以来の悲願(野望?)は、ここに破綻したのである。
――――かくして、日本は孤立した。
――――当直の間、やることといえば世間話しかない。
身の上話は、もう飽きるほどした。だからぼくらは、お互いのことはおそらく自分たちそれぞれの家族の次によく知っているはずだ。
「あと一人いれば、麻雀ができるんですけどねえ」
と、柴田一空曹はそんなことを言った。
出身も、生い立ちも全く違う三人。戦争の足音が、ぼくらを引き合わせたのも同じだった。
日本は、追い詰められていた。
朝鮮半島では、政権より追放された旧勢力と結んだ軍のクーデターにより大韓帝国が崩壊し、帝室は日本に亡命した。大韓帝国に代わって成立した「大韓民國」は、あからさまな反日、親中姿勢を取り、現地在住の日本人や「親日派」と見做された多くの人々が囚われ、虐殺され、それは未だに進行している。
時を同じくして半島から遠く離れた上海で成立した「大韓民國臨時政府」は日本に宣戦を布告。現地軍の一部がそれに同調し、さらに半島北部からは中国の陸空軍が続々と南下、かつては日本軍が駐留していた場所に基地を構築した。
その間も満州における排日運動は苛烈さを増していた。ついには居留地が現地官憲とつるんだ暴徒の襲撃を受け、数百人単位で現地邦人に死者が出るという事件が起こるに至っては、日本政府は檄向する世論に圧され、現地に居留する邦人救出を名目に大軍の派遣を決定した。
中華民国はまさに、その行動を日本の「侵略行為」と決め付け、宣戦を布告したのだ。昭和一〇年の初旬のことだった。
その頃蔡一空兵は、予科練への入隊を許され、土浦における基本訓練課程は二年間から一年半に短縮された。
柴田一空曹は艦攻の偵察席として空母「赤城」飛行隊に勤務し、連日のように半島上空を敵陣への爆撃に、そして偵察に飛び回っていた。
ぼくはと言えば、大学の図書室で、時折学窓の桜の木を見遣りながらゲーテなぞ読んでいた。
学生の徴兵猶予は、ぼくが大学に入学した年にはとっくに廃止され、学内の誰もが、何時お声がかかるのかとソワソワしていた。気の早い者は、「どうせ引っ張られるなら……」という理由で、定員が拡充されたばかりの予備学生や士官候補生に志願を始めていた。
「――――精神の翼の羽ばたくところへ
肉体の翼がついて行くことは出来ぬ
だが、頭上高く、青空の何処かで
雲雀が謳う朗らかな歌を聞くとき
樅の木の生えている嶮しい山の上高く
鷲が翼を拡げて飛び漂うのを見るとき
また鶴が野を越え、湖を越えて
故郷を求めて飛び行くのを眺めるとき
心が遠く高く憧れ動くというのは
人間本然の情というものではあるまいか――――」
「ファウスト」の中の、空への憧れ、空を飛ぶことへの憧れを篭めたこの一節に、ぼくは空への道を志願したのだった。
大学を休学して予備学生を志願し、霞ヶ浦海軍航空隊でぼくが基本訓練を受け始めた頃、邦人救出のため遼東半島近海に展開した連合艦隊は、迎撃に出撃した中国海空軍と交戦し、大損害を受けて撤退した。
地形的に見れば、初めから負けないまでも、無傷で済む要素はその戦いには存在してはいなかった。半島では反乱軍とそれに同調した現地人の攻勢の前に、駐留軍は現地の邦人を守るだけで精一杯という状況。さらには半島北部では、中国軍が黄海を北上する連合艦隊に絶えず監視の目を光らせている。連合艦隊は、文字通り敵地奥深くに単独で乗り込んだようなものだ。
だが、日露戦争における「日本海海戦」の勝利の余韻に未だに浸っていた連合艦隊は、明らかに慢心していた。自力でろくな艦艇も造れず、外国人の手を借りねば運用もできないような艦隊に、何が出来るというのだろうか? 戦艦部隊を押し立てていけば凱遊一触。中国海軍何程もあらん、というわけだ。
―――――果たして、戦闘はかねてより日本海軍が期待していたような一方的な展開にはならなかった。
呉、佐世保より出撃した連合艦隊主力は、済州島近海を過ぎたところでドイツ人、アメリカ人士官の指揮する中国海軍の潜水艦群に一艦、また一艦と捕捉され、次々と撃沈されていった。出撃した戦艦四隻のうち二隻が潜水艦の雷撃で撃沈され、もう二隻が大破し戦線を離脱するに至っては、連合艦隊司令部は遼東半島の遥か手前で救出作戦を中止し、すごすごと母港へと引き返した。
もともと太平洋において、将来の米海軍の侵攻作戦を、艦隊決戦を以て迎撃することを前提に編成され、訓練されてはいる一方で、二度の軍縮条約によってその戦力を著しく制限されていた連合艦隊にとって、来るべき艦隊決戦の主力となるべき戦艦を失うことなど自らの手を切り落とされること以上に耐え難いことであったのだ。
当然、海軍は囂々たる非難に晒された。
「将来の決戦のために、戦艦部隊の温存を優先したのだ」と抗弁はして見せても、
「敵地に残る同胞の命より、戦艦の方か大事か?」
とすごまれては海軍には立つ瀬がなかった。識者の中には「連合艦隊はその保有する全ての戦艦を廃棄せよ。国民を守れない艦隊など必要ない!」と、海軍に痛烈な避難を投げかける者までいた。
この間、満州における邦人抑圧は激化の一途を辿っていた。現地の日本資本の悉くが当局に接収され、後からやってきた中国人企業家に廉価で売却された。日本資本の紡績工場や肥料工場だった場所が、忽ち兵器工場に変貌し、「仇敵」日本を倒すための武器、弾薬を大量に生産し始めたのはもはや悲劇を通り越して皮肉としか言いようがなかった。
かつては邦人の居留地であった場所には、続々と漢人の移民が流入し、救援もなく、住む場所を追われた日本人は、次々と囚われて殺されるか、「敵国民」として即製の収容所に強制的に移送された。
国民の非難の声に圧され、連合艦隊は新たな救援艦隊を編成したものの、もはや救援のための時期は失していた。むしろ反乱軍と、南下してくる中国軍との激戦の末、後退を重ね半島の南端たる釜山近辺に半包囲状態となった朝鮮駐留軍の撤退支援に、その全戦力は振り分けられることとなったのである。
後に、「東洋のダンケルク」と呼ばれる撤退支援戦は、昭和一一年の初旬に終了した。
半島南端では勢いに乗る中韓連合軍と、救援を待つ日本軍との間で熾烈な戦闘が繰り広げられ、対馬海峡から半島南端の空では中国空軍と日本陸海空軍の航空部隊との間で大規模な空中戦が繰り広げられた。
陸軍はこの方面に投入できる全ての飛行連隊を投入し、海軍に至っては、遼東における鬱憤を晴らすかのように旧型の「鳳翔」から最新の「龍驤」に至るなけなしの空母四隻を展開させ、数に勝る中国空軍相手に辛うじて海峡上空の制空権を確保した。それでも無傷というわけにはいかず、一連の損耗を埋めるための努力は、未だに進行中だった。
むしろ日本が大陸からも、そして半島からも追い落とされた現在、これからのことを考えれば、単に空戦における損耗を埋め合わせるだけでは、航空戦力、特に戦闘機とその搭乗員の数は絶望的に足りなかった。本来少数精鋭を旨としていた陸海軍航空は、一連の航空消耗戦に長期間耐えられるようには作られてはいなかったのだ。
この間も、敵は動いていた。
海軍の「八試特種偵察機」による決死の長距離偵察から、平壌、瀋陽といった大陸側の拠点に中国空軍の爆撃機が、それこそ数百機単位で続々と集結中であること、さらに半島南部の各所に、大規模な飛行場群が続々と造営中であることが判明した。
さらには、陸軍が半島に潜入させた特務機関員による情報は、南北朝鮮の沿岸部の造船所(これが日本の資本と技術により建設されたものであったという事実こそが、今次の歴史の皮肉を痛烈に表す一事であるのかもしれない)において、大量の上陸用舟艇と思しきものが建造中であることを伝えていた。彼らが近い将来、日本侵攻の機会を窺っていることは、この点からして明らかだった。
――――そして年が変わり、昭和一二年となった。
この年の五月、ぼくは慌しく海軍少尉に任官し、追い立てられるように基本操縦過程を終え、そして大村海軍航空隊に配属された。そこで、柴田兵曹、そして蔡一空兵と出会った。
――――そして、現在。
「そう言えば、今日は七夕ですね」
と、柴田兵曹は言った。
「ああ……そうだね」
確かに……ぼくも忘れていた。任官して以来、慌しい日常に気を取られていたからか、それとも単に忘れっぽい性格だからか、それは判らない。
年が変わってからというものの、戦闘らしき戦闘は何も起こっていない。両軍とも戦力の再編期にあり、敵は敵の方で占領地の行政に専念しているのであろう。あったといえば、時折此方から出撃して行ったり、向こうから飛んで来る偵察機と、彼我の迎撃機との追いかけっこぐらいだ。もっとも、これまで一度も実戦経験のないぼくには、それらの戦いを論評する資格などないのだが……
ただ、柴田兵曹は、ぼくや蔡一空兵のようなヒナ鷲ぞろいの大村空の中でも、偵察員としては教官に勝るとも劣らない実戦経験を持っていた。話題に詰れば、ぼくらは大抵彼に前線の話をしてもらったものだ。普段無口な彼の、外見から離れた美声を聞く機会はこういう時をおいて滅多に無いのも理由の一つだったが……
水平爆撃隊の嚮導機として、昭和一一年一月の大邱攻防戦に参加したときのことを、柴田兵曹はよく語ってくれた。
複葉、水冷エンジンの九二式艦上攻撃機の偵察席に納まった柴田兵曹。彼自身の照準が、長機に追従して飛ぶ八機の挙動と投弾にも大きく影響する。責任は、重大だった。
遥か下で炸裂する高射機関砲弾の爆風に煽られながらも、編隊は雁行陣を崩さず目標の上空に殺到した。爆撃照準器を睨みながら、前席の操縦士に指示を下す兵曹。投下電鍵を握る手に、冷や汗が滲んだのを彼は昨日のことのように覚えている。
「五度右……ヨーソロー……針路そのままー……」
照準器の十字に重なったのは、味方に引っ切り無しに砲弾を浴びせる敵の野砲陣地。
「ヨーソロー……テェーーーー!」
照準動作から投下までの間、操縦席を完全な静寂が覆う。操偵の職人芸的なまでの連携と、息をすることさえ許さないような雰囲気の下で落とされた爆弾の束は、数秒の後には、見事に敵陣のど真ん中に土色の花を咲かせた。
そのとき、着弾の轟音を柴田兵曹は聞いたような気がした。
『九時方向っ!……友軍機!』
通信員の絶叫。その機影には、見覚えがあった。陸軍の九二式戦闘機だ。その数は三機。
「韓国空軍……?」
胴体と主翼の大極旗で、それと判った。政府側か……?
だが、次第に此方に接近してくる三機の挙動に目を凝らすにつれ、柴田兵曹は彼らの行動に疑念を芽生えさせずにはいられなかった。
その疑念が、確信に変わったときには、柴田兵曹は通信員を怒鳴りつけていた。
「突っ込んでくるぞ!……注意っ!」
まずいっ!……と思ったときには、頭を伏せていた。操縦士に回避を指示する余裕など無かった。
激しい衝撃!……肩を灼く疼痛。
再び頭を上げた先に、第一撃を成功させ此方を追い抜いていく一機。
味方撃ちか?……否、違う。その一機は主翼を翻すと、再び此方へと向かって来る。明らかな裏切り行為だった。
操縦士の名を、柴田兵曹は呼んだ。降下に転じる乗機の中で、柴田兵曹は操縦士の呻き声を聞いた。
『手を……手を飛ばされた』
「手っ……て、操縦桿ですか? スロットルの方ですか?」
不思議にも、そのとき右手とか、左手という表現が、彼の脳裏には浮かんで来なかったらしいのだ。
『スロットル……!』という返事を聞いたとき、彼は背後を振り向いた。
後席の通信員は……とっくに事切れていた。彼らだけではなく、列機は全て不意を突かれ、炎の腕に抱かれ、錐揉みしながら高度を落としていく機。エンジンや燃料タンクから白煙を曳いている機。主翼と言わず胴体と言わず外板に穴を入らせ、桁を剥き出しにしている機など、まさに阿鼻叫喚の地獄図を演出している。
その内一機の姿に、柴田兵曹は息を呑んだ。
それは偵察練習生の同期が乗っていた機だった。操縦士と通信員はすでに死に、彼一人が、微笑を浮べて柴田兵曹を見詰めていた。
二人の目が合った。二人は―――おそらく無意識の内に―――敬礼した。
同期生の機は、彼一人を乗せたまま次第に高度を落としていった。手負いの獅子に襲い掛かるハイエナのように追い縋る九二戦をどうにかかわした後、柴田兵曹の艦攻は眼前に現れた雲に突っ込み、漸く安全域まで逃れることが出来たのだった。
この日の出撃で、柴田兵曹の編隊は三機の未帰還を出した。生還したペアの中にも機上戦死、負傷が相次いだ。そしてこの日の出撃を最後に、柴田兵曹のペアは自然解消となり、その翌月、半島での攻防戦は終焉を告げる。
「――――戦闘機隊に志願したのは、その後のことです」
と、柴田兵曹は言う。自分で操縦していた方が、いざという時諦めがつく……あの日の経験で、それを強く実感したのだという。おそらく彼は、あのときの同期生の笑顔に、よく言われるような諦観ではなく無念さを見たのかもしれなかった。
ぼくは蔡一空兵に聞いた。
「蔡一兵、君の田舎でも七夕を祝うのか?」
「台湾じゃあ、七夕は八月八日ですよ」
怪訝な表情を堪えきれないぼくに、柴田兵曹が言う。
「少尉殿、向こうは旧暦ですよ」
それで、納得が行った。
「ああ……そうか」
「自分の田舎では、七夕は男女が互いに想いを打ち明ける日なんです」
「なるほど、そっちの方が正しいのかもなぁ。おれは願い事を書く日というばかり……」
「……それに、一六歳の子供が大人扱いになる日でもあります。自分も、その日の夜の内に男になりました」
「なにをー」
ぼくは驚き、笑うしかなかった。
「それじゃあ、そっちの方の『単独』はおれより早いってことじゃないか」
「テヘッ……」と、蔡一空兵は照れ臭そうに頭を掻く。
「じゃあ今度は、蔡一空兵の『初飛行』の話でもゆっくりと……」
話を遮ったのは、電話のベルだった。それも突然。
電話の回線は大村海軍航空隊の指揮所から繋がっていた。何かが起これば、すぐに待機状態にある搭乗員に伝わるのだ。
受話器を取りながら、外の様子に視線を転じる。
空は、だいぶ白みかけていた。ピストから少し離れた場所に列線を形成する三機の九〇戦の、カラーから機番号までしっかりと確認できる位に闇は薄れている。
「こちら天満少尉。どうぞ」
『対馬上空にて機影六を確認。機種は爆撃機と認む。九州上空へ接近する模様。天満少尉は列機を率い、佐賀上空、高度二〇〇〇にて空中待機。以上』
「……!」
来た!……気付いたときには、ぼくは叫んでいた。
「始動―――――――っ!」
と同時に、内心で「しまった」とも思う。列機の二人と事前の打ち合わせをしないまま、ぼくは列線の方に合図を送ってしまっていた。これでは、エンジンの爆音でぼくの指示が聴き取れないかもしれなかった。
仕方なく、野球で円陣を組むようにお互いに額を寄せるようにして、ぼくは大声で指示を伝える。
「敵は爆撃機六機。佐賀上空。高度二〇〇〇にて空中待機!」
「わかったか?」という風に、ぼくは二人の顔を見回す。戦地を知る者の余裕か、軽く頷く柴田一空曹。一方で緊張に丸顔を紅潮させ、大きく頷く蔡一空兵。二人の様子に、ぼくは内心でほっとする。
後の動きは、早かった。
短距離走かと見紛うほどの猛烈な足取りでぼくらは愛機の操縦席に駆け寄り、九〇式艦上戦闘機の狭い操縦席に腰を滑り込ませた。エンジンは機付き整備員の寺崎二整曹の手によって始動を終え、あとは早朝の空へ滑り出すだけだ。
寺崎兵曹の手でベルトを締めるのを手伝ってもらいながら、ぼくは噛み締めるように思い出す……針路は?……敵機の数は?……予想会敵時刻は?……会敵したらどうすべきか?……等々を。小隊長である以上、どうしても、それを考えざるを得なくなる。
腐っても元は戦闘機。一度エプロンから飛び出すや、九〇戦は驚くほどの勢いで滑走路を滑り始めた。ここに着任して以来、何度も経験してきたことであるはずだが、この日は特別な感触がある。
スロットルを全開に、しばらく滑走を続ける中、尾部が心なしか浮き上がり、その次には機体がフワリと浮き上がるのを感じる。ふと下へ目をやると、主脚が浮き上がっているのがよく見える。
速度計はどうか……?
……操縦桿を引き、上昇に転じるには後五ノット/時は要ることをぼくは計器から瞬時に悟る。
逸る心を抑え、程無くして所定の速度に達し、一気に上昇する。
針路は北東。
列機は?……と振り返る……よかった。ぼくのような下手糞にも十分、付いて来てくれている。
宙にただ浮いたような、落ち着いた感じの柴田兵曹機。
そして機位が定まらないのか、小刻みに機首を揺らす蔡一空兵の機。
初めて小隊を組んで以来、その挙動だけで誰が操縦しているのか判るまでには一ヶ月近くは掛かったものだ……だが、今ならよく判る。
高度二〇〇〇に達するまでに僅か三、四分。嬉野の温泉街を眼下に見る頃には、機は既にその位の高度に達している。敵機はどうなっただろう?……と思いながら、機銃の弾丸を装填し、安全装置を解除する。
「会敵しなくてもいいから、出撃の際は絶対に射撃の準備は済ませて置け」とは、教官の三橋中尉の言だ。でないといざ会敵したとき、新人ほど慌てることになる、と言う。確かに、それが元で敵に先手を許し、衝撃と恐慌の中で死ぬことほど馬鹿らしく、哀れなことは無いだろう。
一五分が過ぎた頃には、ぼくら三機は脊振山地に連なるなだらかな山々を眼下に見ていた。あと一五キロほど行けば福岡との県境。向こうから先は太刀洗を発進した陸軍の飛行連隊の縄張りだ。
彼らの迎撃が成功することを、気流に揺れる愛機の中でぼくは祈る。その一方で、万が一敵編隊が此方に来た場合、ぼくらだけで彼らを止められるのか? という不安も沸く。
しかし今、ぼくらができることと言えば、周囲の状況に目を配りながら、こうして佐賀上空を大きく旋回していることだけだ。
寒い……もう少し、厚着をしてくればよかったかな。
九〇戦の操縦席は昔ながらの向き出し式だ。吹き込む上空の冷気は容赦なくぼくの体温を奪い、自分でも知らない内に集中力、反応力を低下させる。せめて座席の背後に、寒さを凌ぐフードのようなものでも付いていればなぁ……と冗談めいた考えが頭をよぎる。
幼い頃のぼくは少年誌に掲載された冒険飛行家や欧州大戦の撃墜王の話に胸を時めかせ、飛行家に憧れたものだが、実際になってみると時を置かずして、これほど辛い仕事が世の中にあるだろうか? と思うようになった。
初級飛行訓練での苦労などは、今でもよく覚えている。
霞ヶ浦海軍航空隊名物の、元々は飛行船を係留していたという巨大な格納庫にぼくら練習生は集められ、司令直々に訓示、そして飛行作業中の注意を与えられる。
整列し、直立不動の姿勢のまま、当時ヒナ鷲ですらなかったぼくは何気なく視線をめぐらせる……ぼくらのような大学、高専出の予備学生出身練習生の他、「正統派」の海兵出の練習生。そして予科練の基本教育課程を終えた操縦学生。さらには一般兵科から志願した操縦練習生……見事なまでの海軍という閉鎖された社会の縮図の中で、ぼくら学徒は見事なまでに「余所者」だった。
戦闘機隊の増員が決定され、「君たちが必要だ」という美辞麗句に応じてここへ導かれたぼくらではあったが、スマートさとリベラルさを売りにした海軍は、その実は陸軍以上に徹底した階級社会である。海兵出の士官を頂点とした一種のヒエラルキーの真ん中に、予備学生という形でぼくらが割り込む形になったのだから、そのピラミッドの中での、ぼくらの上や下の者には、これが面白いはずがないだろう。
「学生の分際で」
と、海兵出の士官はそう言っては、何かと理由を付けてぼくらをなじり、絞り上げた。同じ士官でも、海兵出と予備学生、そしてたたき上げの特務士官では昇進も待遇も何もかも違う。例えば同じ中尉でも、その任官順に関わらず全てにおいて海兵出の中尉の命令が優先される。
階級上はぼくらより下であるはずの予科練や操練の学生すら、影に日向にぼくらのことを見下していた。はっきりとそうとは言わなかったが、態度でそうとわかるのだ。
階級こそ下だが、軍隊の飯を食っている期間はほんの少しまで住む世界が違っていたぼくらよりも長い。そんなぼくらが、非常時とはいえある日突然彼らの前に上官として現れる……彼らにしてみれば、面白かろう筈が無い。
飛行訓練は飛行訓練でまた、別の苦労があった。
正式名称、三式陸上初歩練習機。それが、ぼくが生まれて初めて搭乗した飛行機の名だった。
木製羽布張りの機体。むき出しの空冷エンジン。翼端には木製の取っ手が付いており、地上滑走の際は整備員がそこを握り旋回、直進を助けるようになっている。さらには、エンジン始動は直接木製のプロペラを回して行うという古めかしさ……初めてこいつに接したとき、ぼくが知っている飛行機そのもの、という強い感銘を受けた記憶がある。
だが、こいつは空の上では、ぼくの思う通りにはなかなか動いてはくれなかった。陸に足をつけているときとは別の意味の苦労が、飛んでいる間中ぼくに圧し掛かった。
エンジン出力が一三〇馬力と低いばかりに、軽い機体の割にはその動作は牛のように緩慢で、そして気流の影響に敏感だ。
言われたとおりに舵を切ってはみたものの、自分の思惑とは遥かに違う方向に行き過ぎたり、逆に舵の加減が足りず、慌てて修正してみたりと……そういうときは必ずと言っていいほど、ゼウスの雷の矢よろしく前席の教員の怒声が響き渡る。
『コラッ!……貴様やる気があるのか?』
頼むよ……ちゃんと飛んでくれよ……と、学生の恨みは大抵、思い通りにならない機体の方に向いてしまう。
教員の任務は、子供の頃に抱く飛行機への夢想を完膚無きまでに打ち砕き、学生を現実の世界に叩き落すことにある。その上で空を飛ぶ術を手取り足取り伝授する。現実を見た段階で挫けてしまうような人間など、海軍は必要としてはいない。現実を見てもなお、前へ進もうとする者を、海軍は迎え入れ、鍛え上げる。
単独飛行は、予備学生の同期の中ではぼくが最後だった。それ位、ぼくは教員に世話を焼かせたわけだ。
その時の感激といったら!……前席からは目障りな教員の頭が消え、筑波山の雄大な威容が広がっていた。そしてぼくはその顔に、変針のため地上の位置関係を掴もうと横に出したとき以外に受けたことにない風を、真正面から受けていた。燃料の続く限り、ぼくはずっとそこまで飛んで行きたいと、半ば本気で思ったものだ。
「貴様、平時なら首だったぞ」
と、艦攻出身のその教員は初めてのソロを終えたぼくに言ったものだ。口は悪いがその目元には、教え子に対する慈愛の眼差しが「よかったナァ」と言っていた。
教える側だって、実のところ大変である。急速な搭乗員需要の拡大は、元々少数精鋭を貫いてきた海軍の航空行政に大きな負荷として圧し掛かっていた。その皺寄せは、末端の教員にも押し寄せる。平時なら最大でも三人の学生を担当すればいいところを、五人も六人も担当しなければならなくなったのだ。それも限られた期間の内に一通りのことをこなせる操縦士を養成せねばならない。
自然、訓練にも熱が篭った。
初めて同期生の死を体験したのは、中級訓練課程に移行して二週間が過ぎた時のことだ。
九三式中間練習機。愛称「赤トンボ」に移行し、三式初練とは比較にならぬその「高級さ」に、ぼくらが未だ浮かれていたとき、それは起こった。
一機が錐揉み操作から回復しきれず、そのまま機首からまっ逆さまに地上に激突したのだ。教員と練習生は死亡し、そのときの練習生が、武専出身で腕っ節の強いことで有名だったF君であったことが皆の動揺を誘った。
「貴様らもいずれこうなる。同期に対する礼儀ぐらいは尽くしておくように」
と、教官はぼくらを事故現場に連れて行き、遺体の回収をやらせた。生前は身長六尺に喃々としていた威丈夫は、回収作業が終ったときにはズタ袋一杯に納まりきれるほどの肉片の塊と化していた。
これぞ……飛行機乗りの運命。
それでも、人は空を目指す。
海兵や操練組からも死者が出たときにも、それぞれの同期生に同じ事をやらせた。事故も僚友の死もまた、ぼくらにとっては教育の一環だったのだ。
――――再び、佐賀上空。
あの時点では自覚してはいなかったが、九〇戦で一番困ったことといえば、機に無線が搭載されていなかったことだ。モールス信号でもいいから、地上から指示を送ってもらったりこちらから状況を報告できれば、無駄に時間と燃料を使うこともないし、もっとスムーズな迎撃ができたかもしれない。
夜は、完全に明けていた。闇を経て生まれ変わった太陽は、光の腕を天界の隅々に投げ掛け、雲雲を黄金色に染め上げていた。主翼を傾け、首を動かしながら周囲に目を凝らす内に、酷い空腹を覚えている自分がいる。
地上は、もう朝餉を掻っ込んでいることだろう。学生だった頃。未だまどろみを捨てきれない朝の寝床まで漂ってくる下宿の味噌汁の香りを、ぼくは思い出す。
うらぶれた裏町の下宿屋、そこの看板娘は今頃どうしているだろう?
「オニイチャン、ご飯ですよ」
ご飯の度に、たどたどしい口調で、ぼくに山盛りに盛った飯を差し出した笑顔は、目に入れても痛くないほど可愛かった。それも決まって、ぼくが食べる分だけ山盛りなのだ。それを見て、下宿生の皆はぼくをよくからかった。
「ミヨちゃん、お前に気があるらしいぞ」
「よせよぉ……」
……今思い出しても、苦笑を禁じえない学生時代の情景。
訓練部隊の基地へ旅立つ日、つまり下宿を去る日。ミヨちゃんは馬鹿でっかい饅頭を二個、手ずから弁当代わりに持たせてくれたっけ……最初の頃は福々していた饅頭も、汽車の三等客室の中で昼を迎える頃には、文字通り歯が立たない位にガチガチに硬くなっていた。それでも無理をして腹に詰め込んだ後には、歯がズキズキ痛んで仕方がなかった。娑婆を離れる日の、痛くも嬉しい思い出……
時間は?……計器板の時計は、ミヨちゃんが未だ寝ている時間を指示していた。小学校には、ちゃんと行っているだろうか?
「それ」を見つけたのは、まさにミヨちゃんのことを考えていたときだった。
遠い空の一点……飛行眼鏡に覆われた目の中に映えた揺らめきに、ぼくは反射的に操縦桿を握りなおした。
揺らめきは、時を置かずして点と点との蠢きとなり、それはぼくらが知っている翼の環となった。
それは……空戦の環。
空戦?……ぼくの直感は、間違いなかった。間違いなく、ぼくらは本物の空戦を眼前に見ていたのだ。
直進する巨大な機影の群れと、それに入れ替わり立ち代り攻撃する戦闘機……それはさながら、巨大な牛とそれに集る虻だった。隣を飛ぶ柴田兵曹の機をぼくは睨み、その方向を指差す。
操縦席の柴田兵曹が、頷いた。
主翼を翻し、三機は征く。スロットルを開き、全速で空戦域へ向かうにつれ、迎撃に上がった陸軍九五戦の機影の他、それまでおぼろげだった敵機の機影が、明確な輪郭を持って浮かんで来る。
「・・・・・・?」
一面緑色のすらっと伸びた胴体に、あまりにも不似合いな分厚い翼――――それが、ぼくが初めて見た敵の第一印象だった。朝日を受けて鈍く煌く分厚い主翼からは、小さな液冷エンジンが申し訳程度にその先端を覗かせていた。
編隊は六機……三機ほどが邀撃側の度重なる突進で主翼から白煙を吐いていたが、編隊の緊密さは未だに維持され、見事なまでの対空火網でこちらに対抗している。
眦を決し、ぼくらは飛ぶ。ぼくらは傍観者ではない。戦う者だ。敵編隊の背後からぼくらは大回りに回り込み、敵機の上後方に占位した。
敵の速度は?……それがぼくらの戦闘機の巡航速度とほぼ同じであることに気付き、ぼくは少し不安になる。取り逃がしやしないか……と。
前屈みに覗いた照準眼鏡の中には、四発機の機影がそのまますっぽりと入っている。だめだ!……まだ遠い。照準眼鏡からはみ出るぐらいに接近しないとだめだろう。
降下する九〇戦。速度計はすでに水平での最高速度である一六〇ノット/時を越えていた。加速が付いているのだ。ぼくの眼前に傘のように広がる敵機の主翼。高度において優位であり、速度を稼いでいるぼくらが彼らに追いつけない道理など、なかった。
そのとき、下方から編隊に突っ込んだ一機の九五戦が、突然にエンジンから黒煙を曳いた。そのまま背面の姿勢に転じ、急速に機首を下に向けて離脱していく。
離脱?……否、墜落か?
さらに距離を詰めた敵機の主翼には、大きく描かれた晴天白日旗。主翼の付け根付近の砲塔に陣取る銃手の姿まで手に取るようにわかった。主翼と胴体上方に設けられた砲塔からこちらに投げかけられる射弾の網。雁木状の編隊が、その濃密さを一層際立たせているように見える。急に湧き起こってくる恐怖に目を瞑りたいのを堪え、ぼくは機銃の発射把柄を握り締めた。
もう一度覗いた照準眼鏡の中には、一機の胴体が大きく映し出されていた。
反射的に、発射把柄を引いた。
タタタタタタッ!……軽妙で、心地良い射撃音。
小便のように放物線を描いて敵影に延びるか細い細粒。
あ……当たった。
宙に捲いた砂粒のように機影へ延びた一斉射は、意思あるもののように目標に追い縋り、分厚い主翼の一面に幾重もの火花を入らした。
さらに一撃!……と気が急くのも束の間。距離を詰めすぎて、その後を確かめる間はおろかもう一撃を加える間もなかった。
編隊を追い抜き、再び上昇に転じる。
逸る心が、もう一時だけの敵機との逢瀬をぼくに望ませたのだ。
宙返りの頂点、そして背面の姿勢。
頭を上げた先に、一糸も乱れぬ敵編隊。
その編隊の見事さが、一層敵愾心を掻き立てる。
上方からのもう一撃!……射弾は敵機のエンジンを捉え、黒煙を吐かせた。射撃を止めるべき理由などなかった。ぼくが撃った一機を含め、二機ほどが次第に速度を落としていくのが目に見えて判った。
狼が獲物の群れを襲うとき、一番弱いものから先に襲うという。
このときぼくが取った行動が、まさにそれだった。
速度を落とした一機にぼくは食い下がり、何度も射弾を撃ち込んだ。畳み掛けるように向かってくる防御砲火も、ぼくと同じように敵機に食い付く陸軍の戦闘機も、あの時のぼくの目には全く入ってはいなかった。
一斉射、もう一斉射が小気味良く敵機の胴体に命中する。さらに何撃目かを加えようとしたときには、ぼくと敵機の高度はすでに一〇〇〇mを切り、あれほど煩わしかった抵抗は殆ど止んでいた。
止めとばかりに引いた発射把柄に、何の手応えも感じなくなったとき、敵機はがくりと機首を下げ、地上へと降下していった。墜ちゆく胴体から飛び出した幾つかの人影が、硝煙渦巻く朝空の中に落下傘の真白い、特徴ある矩形の花を開いた。
上空を旋回しながら、ぼくは落下傘の落ちる先を目で追った。このとき、敵機に人間が乗っていることに、ぼくは初めて思い当たった。その瞬間、不意に湧き起こってきた震えに、ぼくは操縦席の中で蹲りたい衝動に駆られた。戦争ではあったが、つい数分前までぼくがやっていたことは、純然たる殺人であり、破壊であった……!
慌てて機銃の発射把柄から手を離そうとしても、一向に動かない手にぼくは気付いた。恐怖ではなく、むしろ興奮が、ぼくの手を機銃レバーから離そうとしなかったのだ。
やむなくぼくは、再び地上へと目を凝らした。左方にはすでに玄界灘の一端がぎらついた姿を覗かせていた。つまり機は、既に東松浦半島の上空にあった。眼下の、青々とした田畑の連なる地上に、蒙蒙と立ち上る黒煙は、おそらく墜落した敵機の跡であろう。
落下傘はすでに着地し、搭乗員らしき人影がそれを外そうともがいている。先程の興奮とはうって変わって、現金にも妙な好奇心にそそられたぼくは高度を下げた。
人影は二人……ぼくが機首を下げると、彼らは何かにせっつかれたかのように駆け出した。此方が攻撃してくるとでも思ったのだろうか? 覚束ない足取りで田圃を駆ける二人。彼らの向かう先は、竹林に覆われた小山。
そうか……逃げる気か。だが、林の遠方からは住民らしき人々が手に手に棒切れか何かを持って林へ向かっている。敵機の墜落に気付き、飛び出してきたのだ。二人が捕まるのも、時間の問題。
林の遥か上空では、三機の九五戦が手持ちぶたさであるかのように舞っていた。ぼくと似たり寄ったりの動機で、戦闘を終えても上空に留まっているのは確かだ。
否……戦闘は終っていはいない。
柴田兵曹は?……蔡一空兵は?……ぼくは再び首を動かし、見張りでもするかのように視線を廻らせた。
二人の機影は、既にぼくの視界からは掻き消えていた。
墜落した? それとも既に帰還した? いやいや……残余の敵機を追って海へ出た?
ぼくはと言えば、もう帰還するしかなかった。燃料が心細かったのだ。
もと来た空の途を辿り、すっかり晴れ渡った青空の下に、懐かしい基地の滑走路を目にしたときの感激を、ぼくは今でも忘れることが出来ない。粗い操縦で、ぼくは息を切らして駆け込むかのように着地した。エプロンに機を滑り込ませた瞬間。三橋教官の怒声を聞いたかのように思えたほど、ぼくの操縦は粗く、雑だった。
寺崎兵曹が、神妙な面持で駆け付けて来る。
「やりましたかぁーーーー?」
「わからない!……でも、一機墜ちた」
「どっちがでありますか? 敵ですか? それとも味方?」
「敵に決まってる!」
今考えても妙な遣り取りだったが、初空戦に浮ついた身では、それしか言いようが無かった。
ぼくはそのまま駆け足で指揮所に飛び込んだ。司令をはじめ幕僚達が一斉に立ち上がり、その場の視線がぼく一人に集中した。三橋教官を初めとする教員連中に至ってはすでに飛行服に身を包み、要請があれば何時でも戦闘に参加できる状態になっていた。
ぼくは背を正し、息を整えようと勤めた。だが、それがなかなかできない。報告もままならず、何度も肩で息をしているぼくを、堪り兼ねた司令が肩を掴み、怒鳴りつけた。
「少尉! しっかりしないか! 落ち着け!」
ぼくは、頭を上げた。
「天満少尉は、佐賀上空にて……」
そのあとは、ぼくは何を言ったのかうまく覚えてはいない。とにかく、その日の早朝から体験した全てを、ぼくは話した。それだけは確かだ。
「……ご苦労」
と、司令は、報告を終えたぼくに、ただそれだけを言った。本当なら、それ以上に言いたかった事があるはずだ。眼前の敵機に気を取られる余り、列機をろくに引率もできなかった小隊長に何の意味があるのだろう?
……だが、彼はそれ以上を言わなかった。
二人の様子を最後まで見届けられなかったぼくは、報告を終え、先程とは打って変わって、悄然とした足取りでエプロンへと向かった。疲労が、落ち込んだぼくに畳み掛ける様に、どっと肩に圧し掛かって来た。
辿り着いたピストでは、木村一水が待っていた。
「少尉殿、お食事まだでしょう?」
そういえば……と、ぼくはお腹を庇うようにする。空腹は、何時の間にか消えていた。
「腹は、減ってないよ」
「食べなきゃだめです。今用意しますから」
彼は戦況については何も聞かなかった。それが、ぼくには有り難かった。
果たして、二人の消息は基地に帰還してから二時間後に判明した。
「柴田兵曹、蔡一空兵は燃料欠乏により壱岐島に不時着。壱岐基地隊は現在給油中」
そして二人は、その日の昼下がりに、翼を連ねて基地へ戻ってきた。
蔡一空兵は、ぼくの姿を認めると、相好を崩して笑い掛けたものだ。
「イヤァー、小隊長、敵機は渋どかったですなァ。何十発撃ちこんでもウンともスンとも言わんですよ」
あの時の空戦で第一撃をかけた直後、彼らは先頭の小隊長機の姿が掻き消えている事に気付いた。その時点でぼくは急上昇し、再び突進への体勢を取っていたのだが、彼らの方はそれに気付かず全速で敵編隊の遥か前方まで直進したらしい。
「小隊長がいなくなってですねえ、ここは一つ、小隊長の仇をとらなきゃいかんと思いまして、残りの四機を追いかけて行った次第です」と、柴田兵曹は言う。
彼らはぼくとはぐれた直後、ぼくが敵機に墜とされたと勘違いし、その後はずっと無傷な敵機を追いかけていたのだ。東松浦半島を抜け、壱岐水道の中程に達したところで弾切れとなり、さらにはガス欠に陥り、壱岐島の飛行場にどうにか滑り込んだのだという。
敵機は、どうなったのか?
「二機に白煙を吐かせたところまでは見たが、あとは判らない」というようなことを二人は声を揃えて言った。
目先の敵に囚われ、指揮を誤ったぼくと、実直にも残余の敵機を追い、徹底的に追尾した彼ら。その差にぼくは内心で愕然とする。これでは誰が小隊長で、だれが列機かわからない。あのとき、ぼくが彼らと行動をともにしていれば、その四機を取り逃がさずに済んだかも知れない。それを思えば、なお辛かった。
一息ついて、ピストに戻った時に、寺崎兵曹が機体に被弾していたことを教えてくれた。果たして、愛機の元へ行って見ると、主翼、胴体、垂直尾翼に各一発ずつ被弾している。その内胴体に当たった一発は、ご丁寧にもエンジンへの燃料供給パイプの寸前で止まっていて、もう少しのところでぼくは火達磨になるところだったわけだ。知らないということは恐ろしい。
空戦の全貌は、その日の夜の内に判明した。
七月七日払曉。朝鮮半島は大郊の飛行場を発進したのは、ドイツ製のユンカースG38大型輸送機を改造した長距離爆撃機八機。途上二機が引き返し、六機が午前四時二一分に対馬北端を南下したのが、現地守備隊の監視所により確認されている。ぼくらを発進に至らせたのが、このときの情報だったわけだ。
それよりも一足早く受取っていた陸軍航空は混乱した。敵編隊がどちらを指向しているか、判断が付きかねたのである。北九州の工業地帯か? それとも福岡の市街地なのか?……逡巡の後午前四時三五分に飛行第四連隊の九五戦八機が福岡県太刀洗飛行場を発進。内四機が北九州上空で警戒待機。築城、大分の海軍航空隊もほぼ同時期に九五式艦上戦闘機及び新鋭の九六式艦上戦闘機計一〇機を発進させ、上空警戒に付いた。
果たして午前五時九分。福岡市から海を隔てた志賀島近海上空で、四連隊の九五戦は敵編隊を迎え撃った。しかし度重なる突進にも拘らず、敵機は中々墜ちない。後でよく検討した結果、敵機の機体が余りに巨大であったため、操縦士が目測を誤り、射弾は殆ど命中してはいなかったのだ。ぼくらもそのことに後で思い当たり、大いに悔しがったものだ。
敵編隊は我が方の迎撃を掻い潜り、博多湾の港湾地帯に投弾。爆弾は荷揚げ作業中の輸送船と、埠頭に山積みされた物資を焼き払い、一部は倉庫に命中。五棟を中の物資ごと完全に破壊した。この時の爆撃で出た死傷者は二三名。その殆どが港湾作業員だった。
編隊はそのまま福岡市街上空を通過し、佐賀方面から再び対馬海峡に抜けるルートをとった。そこで当初の四機に、太刀洗から駆けつけた増援の四機も加わり、さらに大村を発進したぼくらも加わった。時に午前五時二四分。
前述の通り、我が方は敵編隊には何ら有効な打撃を与えることも出来ず、逆に敵編隊の防御砲火で数機の脱落機を出した。内一機の、四連隊の某軍曹は乗機のエンジンに被弾し停止、軍曹は落下傘で脱出したものの、そこでは別の悲劇が彼を待ち構えていた。彼は興奮した地上の群集に敵兵と間違えられて捕まり、こともあろうに撲殺されてしまったのだ。彼がこの時の空戦の、唯一の人的損害であり、以降足掛け三年以上に渡って続く「本土防空戦」の戦死者第一号となったのだった。
我が方の戦果は撃墜二機、撃破四機。撃墜された二機から脱出した乗員は全員がその日の内に捕虜となった。敵兵と間違えられて殺された某軍曹の無念を思えば、なんともやりきれない結末ではある。
その後の司令部の対応は早かった。司令部の指示というより、第一線の実施部隊ではこのような「悲劇」から虎の子の操縦士を守るため、飛行服の上腕に大きく日の丸を縫付けることを指示したのだ。
この指示は多く搭乗員に歓迎された。ぼくらのような駆け出しでも、日本を背負って戦う一人であるかのような感を一層強くし、部隊の士気は高まったのだ。搭乗員の中には、上腕と言わず背中や飛行帽にも日の丸を縫付ける者まで出たほどだ。
――――後に、敵空軍の通信傍受によりもたらされた情報により、柴田、蔡両名の追尾を振り切って東シナ海方面へ逃れた四機は、途上で二機が不時着水。二機が辛うじて済州島に辿り着いたことが確認された。
昭和一二年七月七日。本土防空戦、後世の戦史に言う「Battle of Japan」はこうして幕を開けた。以降三年六ヶ月の長きに渡り、大陸と日本は九州から南西方面に至るまで、海空において本格的な戦闘状態に入ったのである。




