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芙蓉恋歌  作者: 冬野 暉
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其ノ八

 麓にある禁域への入り口から山の嶺までは、ほぼ一昼夜かかった。

 既定どおり、鎮魂の儀は満月の晩に執り行われた。死装束である浄衣を纏った銀鈴は、領民の男衆が担ぐ輿で麓の社まで運ばれた。里巫の婆が神へと供物を捧げる旨を奏し、慈悲と恵みを乞う。祈祷が終わると銀鈴は輿から降ろされ、老巫女に導かれて禁域へとつながる門をくぐった。

 門の前で別れる際、老巫女は苦悩の滲む声で謝罪をささやいた。彼女は自らの力が及ばぬばかりに生贄を立てることになってしまったと悔やんでいた。銀鈴は小さく頭を振り、立派に鎮魂の役目を果たせるよう努めると告げた。

 山の嶺へと至る道は、とうてい道とは呼べぬ険しさだった。銀鈴は、文字どおり這いつくばって木の根が張り出した地面を登っていった。何度も転び、小枝や葉末で肌を切り、痣やすり傷だらけになった。知らぬうちに涙が溢れ、嗚咽に喉を詰まらせながら夢中で頂上を目指した。

 重苦しいほどの木々の匂いに満ちた森の奥からは、人ではないものの気配を無数に感じた。鳥や獣だけでなく、まるで人間のように興味深そうに銀鈴を見つめる視線があちこちにあった。

 山野には、魑魅と呼ばれる妖鬼がはびこっているのだという。道に迷った旅人が魑魅に誑かされ、惨たらしく食い殺されてしまうなどよくある話だ。しかし、彼らはじいっと銀鈴を注視しているだけだった。

 物欲しそうな様子を窺わせながら、魑魅たちはまるで「待て」と命じられた犬のように決して手を出そうとはしなかった。ざわざわと葉擦れの音に混じって、彼らのささやく声が遠く近く聞こえてきた。

『なんと美味そうな娘だろう』

『指をくわえて見ているだけとは、ほんに口惜しや』

『しかし、髪の毛ひと筋でもつまみ食いしようものなら、わしらが彼奴の餌食になるぞ』

『おそろしや、おそろしや』

 魑魅たちの口調には悔しさと畏怖が滲んでいた。人の子を手鞠のごとく弄ぶ魑魅にも山の主はおそろしい存在らしい。臓腑が冷たく縮こまるような思いを抱えながら、銀鈴は必死に獣道を進んだ。

(いったいどんな目に遭うのだろう)

 ひと息に喉笛を噛みちぎられるのか。それとも手ひどく犯され、四肢を一本ずつもがれながら苦しみ抜いて死ぬのだろうか。考えるだけで震えと涙が止まらなかった。

 だが、引き返すことは許されない。たとえ戻ったところで、神の牙ではなく人の手で闇に葬られるだけだ。

 ――早く楽になりたい。

 銀鈴を突き動かす思いは、それだけだった。この生き地獄を終わらせてほしかった。休むことなく登り続け、とうとう銀鈴は深い森を抜けて山の嶺の神域にたどり着いた。

 だがそこでまみえたのは、託宣など知らず、眠りから覚めたばかりだという地祇だった。




 銀鈴は小さく瞼を震わせた。

(いつの間にか眠ってしまった……)

 琵琶を抱えたまますっかり強張った体を解きほぐし、彼女はのろのろと起き上った。シンと冷たい夜の匂いがする。

 数日ぶりに食べものを口にして、空腹が満たされた途端に睡魔が襲ってきたのだった。地祇がくれた楊梅の実は驚くほど甘美で、気がつけば大ぶりの枝についていた実を食べ尽くしてしまった。どちらかというと自分は小食のはずなのに。

(本当においしかったんだもの……とっても甘くて瑞々しくて、ひと粒がびっくりするほど大きくて……)

 思い出すだけでじわりと涎が滲み、銀鈴は慌てて口元を拭った。そこではたと気づく。

(――お礼を言っていない!)

 いきなり藪から現れた地祇に驚愕し、礼を述べることすら忘れていた。満腹になって寝こけていた自分の厚顔ぶりにめまいがしそうだ。

(な、なんて失礼を……)

 帰れという地祇に懇願して神域に居座った上に、せっかくの厚意に素知らぬ顔をするとは。いったい何度自分は無礼を働いているのか、数えるだけでおそろしい。

 銀鈴は対岸を見遣った。岩屋の奥に、まるでこの世のすべてを拒絶するような頑なな気配を強く感じた。

(怒っていらっしゃるのだろうか……)

 というか、あの地祇はいつも不機嫌そうだ。脳裏に流れこんでくるような不思議な声は、妙に人間臭い感情を伴って銀鈴の心に響く。太い絃をそっと震わせるような、重厚でありながらどこか頼りない男の声。

 出会ったとき、息を呑んで自分の演奏に聞き入っていた様子を思い出す。盲いた眸にすらまぶしさが焼けつく強烈な存在感の持ち主であるにも関わらず、はじめて琵琶の音色を耳にした子どものようだった。

(何を不敬なことを。何百年も昔からこの地を見守っていらしたお方なのに)

 とにかく、きちんと礼を伝えなければ。

 ふと手元の琵琶に気がついた。

 本来ならば身ひとつで禁域に入るところを、地祇に楽を捧げよという荘園の主人の命のおかげで持ってくることができた。掌になじんだ滑らかな表面を撫で、銀鈴は草の上に座り直した。

 懐から義甲を取り出し、ひとつ弦を弾く。ゆるやかな旋律が夜の静寂に染み渡っていく。

 伸びやかで優雅な調べは、故事を元にした『嫦娥じょうが』という曲だ。

 月の都から地上に舞い降りた天女が野辺で遊んでいると、大切な羽衣をいたずら好きな妖鬼に盗まれてしまった。そこへ勇敢な若者が現れ、妖鬼をこらしめて羽衣を取り返す。喜んだ天女は若者のために感謝の舞を披露した――という話だ。この曲は、天女の舞の場面を描いているのだという。

 月明かりに照らされた夜の野辺で、陽炎のような羽衣を翻して無邪気に舞い踊る美しい乙女。空想のなかで天女の小さな爪先が軽やかに跳ねるたび、銀鈴の指が朗々とその様を歌う。

 無垢で純真な天女に心情を重ね、素直な感謝をこめて銀鈴は琵琶を奏でた。

 ふと、岩屋の奥の気配がのそりと動いた。鮮やかな光がちらちらと火の粉のように瞬く。じっと耳を澄ましている地祇の息遣いが肌に伝わってきた。

 銀鈴は思わず微笑んでいた。

 幻の天女がふわりと着地を決め、銀鈴は最後の一音を鳴らした。しなやかな余韻がしばし満ちる。

 再び静寂が戻ってくると、地祇の気配は岩屋の奥に帰っていった。銀鈴は背筋を伸ばし、深々と岩屋に向かって頭を下げた。

(明日、改めてお礼を申し上げよう)

 空腹が癒されると、だれしも多少は前向きになれるものだ。久しぶりに心地好い演奏をできた満足感もあり、銀鈴は二度目の悪夢に苛まれずにやすむことができた。

 再び目を覚ますと、すっかり陽が昇っていた。蓮の花の香りのこもった風と陽射しの気配が肌を撫でる。

 対岸を窺うと、地祇は岩屋を留守にしているようだった。どこへ行ったのだろうと周囲を探ってみると、足元に何かがごろごろと転がっている。

 手に取ってみると、丸くやわらかく、楊梅とは違う果実の匂いがした。

「杏の実……」

 数えてみると全部で五つもあった。慌てて後ろの藪を振り返るが、もちろんその向こうに地祇はいない。どうやら、自分が眠っている間にこっそり運んできてくれたらしい。

 予想外の二度目の差し入れに、銀鈴は戸惑うしかなかった。そういえば、やたらと岩屋の中に入れと迫ってきたが、もしかして野天で過ごす自分を気遣ってくれていたのだろうか。

 神の御座所を自分のような者が汚すわけにはいかないと必死に固辞したのだが……素直に従っていたほうが正解だったのかもしれない。疲労と混乱と緊張で頭が回っていなかったとはいえ、地祇の機嫌を悪くしてしまって当然だ。

(それなのに、またこうしてわざわざ食べものを取ってきてくださるなんて……)

 ――優しい。とても不器用だけれども。

 銀鈴は杏の薄い皮を剥き、そっと果肉を食んだ。蜜をたっぷりと含んだ果肉は、馥郁と甘かった。

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