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芙蓉恋歌  作者: 冬野 暉
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其ノ七

 夏の陽はすでに中天まで昇っていた。

 青く乾いた空は目を灼くようだ。しかし、濃い緑の懐に豊かな水源を抱く神域は、真昼の陽射しのなかでもひんやりと冷涼な空気に満ちていた。緑陰を泳ぐ風は甘い土と水の匂い、そして狂い咲く白蓮の香りをいっそう深く燻らせる。

(俺が眠っている間に漏れ落ちた霊力を根に蓄えこんでいたのだろう。この咲きぶりは、あと数年は続くであろうな)

 ねぐらの入り口に寝そべった洸宇は、交差させた前足に顎を乗せてげんなりと考えた。鬱陶しいほどの芳香に鼻がおかしくなりそうだ。

 地の主である彼がひと言『朽ちよ』と命じれば、池を覆い尽くす蓮の群生など一瞬で枯れ果ててしまう。だが、気まぐれな殺生など地祇にあるまじき罪業だ。生かし、育むことこそ地祇の本質であり、それに背くような行いは己自身が許さない。

(つくづく、俺は『俺』から逃げられぬということか……)

 自嘲を噛み殺し、洸宇は薄く目を開けた。

 対岸の木陰にひっそりとうずくまっている銀鈴がいた。古い琵琶を膝に抱え、閉ざした眸でじっとこちらを見つめている。まるで洸宇の居場所を見透かしているような表情に、彼は喉の奥で唸った。

(ええい、まったく!)

 再び固く目を瞑り、苛立ちをぶつけるように長い尾で地面を打った。ぐるぐると低く転がる唸り声は止まらない。

(なぜわざわざ俺の正面にいるのだ! ねぐらの中に入っていろと言えば『神聖なる真君の御座所を二度も汚すようなふるまいはできません』だと? 顔を合わせて俺を落ち着かなくさせるほうがよほどの罰当たりだ、馬鹿め!)

 べちべちと尾で地面を連打しながら、洸宇は前足に突っ伏した。

 冷たい朝露に身を震わせながら綻ぼうとする野の花のごとき容姿をしながら、銀鈴は頑なな娘だった。一度眠っただけでは充分な休息など取れていないだろうに、どんなにおそろしく凄んでみせてもねぐらに戻ろうとしなかった。根負けという言葉を、洸宇ははじめて骨身で理解した。

 千里を見通す神の眼は、離れた木陰の下にいる彼女の顔からすっかり血の気が引いていることを見抜いていた。透けてしまいそうな頬には薄く骨が浮き、唇は乾いてひび割れている。そして何より、生気がまるで霞のようだ。

(盲いた女子の身で、よくぞ無事だったものだ……)

 山中には気性の荒い獣だけでなく、木や石の化生である魑魅ちみもうろついている。力の弱い妖鬼といえど、人間が彼らの縄張りに迷いこめば幻術に惑わされてさまよい続けた挙句、骨の髄までしゃぶり尽くされるのがオチだ。だというのに銀鈴は指の一本も損なわれることなく、神域にたどり着いた。

 ――まるで『何か』が彼女を洸宇の許まで導いたかのように。

 ぴりりと髭が緊張する。洸宇は険しく表情を歪めた。

(天意だとでもいうのか。人の世を追われ、地祇の『贄』になることが、あの娘の天命だと?)

 神々の主たる天帝がいることは知っている。雲上に去ったのちも、天に張りめぐらされた理の網を通して下界をあまねく見渡しているということも。

 天の理はすなわち天帝の意志、その計らいは地上においては宿命とも呼ばれる。

(だとしたら、まったく余計な世話だ)

 洸宇は忌々しく天を睨んだ。たとえ地祇のさだめから逃れられぬとしても、銀鈴についてだけは決して認めるわけにはいかない。もはや苔すら生えた意地だった。

 そのとき、立った耳がなんとも気の抜ける音を拾った。洸宇は目を瞬かせた。

『……は?』

 ぐうぅっと、まるで小熊の唸り声のような音が再び聞こえた。思わず耳がそよぐ。

 対岸の銀鈴が真っ赤な顔で腹を押さえていた。

(……これがいわゆる腹の虫というものか)

 人間は空腹のあまり鳴る音を、腹の中に住む虫が立てる声だと考えているらしい。ずいぶん奇妙な想像だと呆れたような感心したような覚えがある。

(まあ、生きているのだから腹は空くだろうな……)

 しかし、可憐な容貌をしている割になんともたくましい声で鳴く虫だ。銀鈴は首筋まで赤く染めて俯いている。当たり前の生理現象なのだから、恥ずかしがる必要はないと思うのだか……。

 なんともいえない気まずさを覚え、洸宇はさりげなく視線を逸らした。

 道なき道を歩き通してきたのだろう、腹が減って当然だ。やつれきった少女の姿が脳裏にちらつき、苛立ってしょうがない。

(~~くそっ!)

 ぴしりと尾で地面を打ち据え、洸宇は起き上がった。一歩、二歩で跳躍して木立に飛びこむ。

 幾久しい山の主の訪れに夏の森が歓喜の声を上げた。あちこちから霊力が沸き上がり、蛍火のようにきらめく粒子になって舞い踊る。洸宇の踏んだ地面から青々と草芽が生まれ、花は鮮やかに色と香を増し、木の実が豊かに膨らんでいく。懐かしい爽快感に、洸宇は小さく笑った。

 しかし、今は森の精たちと戯れている場合ではない。洸宇は目的の樹木を見つけると、その根元へ歩み寄った。

 それは見事な枝ぶりの楊梅やまももの果樹だった。花の時期は過ぎ、濃い葉陰の至るところに小さな鞠のような紅い実が見え隠れしていた。甘い匂いは松の樹液に似ている。

 洸宇は梢を仰いで尋ねた。

『すまぬが、少しばかりそなたの実りを分けてはくれまいか。腹を空かしている娘がいるのだが……そなたの実は人の子が食べても毒にはならぬだろう?』

 楊梅の樹はおかしそうに葉群を震わせた。

 すると、たわわに実をつけたひと枝が洸宇の目の前に落ちた。快く持っていけ、ということらしい。

『……感謝する』

 洸宇は枝をくわえると、逃げるようにその場をあとにした。森がさわさわと笑っている。妙に優しい思念がいっそうこそばゆさを掻き立てた。

 森のなかを抜けて対岸まで回る。藪から現れた洸宇に、銀鈴は小さく息を呑んだ。

「し、真君……?」

 細い腕がぎゅっと琵琶を抱き締めている。薄く開いた瞼の下の瞳が戸惑いと――怯えに揺らいでいることに気づいた瞬間、たちまち胸の裡が冷えた。

 洸宇はくわえていた枝を彼女の足元に放ると、くるりと背を向けた。

『食え』

「……え?」

『飢え死にされては困る』

 それだけ言い捨てると、勢いよく藪を飛び越えた。

 ひと息に森を駆ける。木々の思念がささやきかけてきたが、かまうことなく走り抜けた。

(馬鹿馬鹿しい)

 対岸を振り向かずにねぐらの中へ逃げこんだ。石の寝台に飛び乗り、そのまま丸くなる。

(いったい何を期待していたのだ、俺は)

 笑って礼を言ってくれるかもしれない、なんて考えてもいなかった。だから傷つく必要など微塵もありはしないというのに、心は小さく萎んだままだ。

 まだ鼻先に楊梅の香りがまとわりついている気がして、洸宇は荒々しく鼻を鳴らした。

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