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芙蓉恋歌  作者: 冬野 暉
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其ノ五

 無情なほど平穏に夜は明けた。

 ねぐらである洞窟の前で伏していた洸宇は、水色に明らんでいく空を忌々しく仰いだ。山の端から昇る朝陽の清々しさすら腹立たしい。それほど彼は不機嫌だった。

 夜通し張り詰めて毛が逆立ってすらいる神経は、振り返らずとも洞窟の奥の気配をはっきりと感じ取っていた。深い眠りのなかにいるせいか、それとも最初の印象のせいか、どこか儚い。だが、これほど近くに他者の存在をはじめて感じる洸宇を落ち着かなくさせるには充分すぎた。

 結局、銀鈴は頑として山を下りず、根負けした洸宇は彼女とともに夜を明かす羽目になった。泣き疲れた銀鈴を脅す勢いで洞窟まで追い立て、朝になるまで出てくるなときつく命じた。

 銀鈴はひたすら喰い殺してくれと懇願し続けたが、険しい山道を歩き通してきた上に決死の覚悟を裏切られた絶望に身も心もすり減っていたらしく、とうとう黙りこんで洞窟に入っていった。すぐに崩れ落ちるように聞こえてきた寝息に、洸宇は心底安堵した。

(夜が明けてしまった。じきに娘も目を覚ます……これから、俺はどうすればいい?)

 現状を考えるだけでめまいがした。神の前で立って話し、ぐっすりと寝入る徒人などいるはずがない。だとすれば、彼女はいったい『何』なのか。

 ぞくり、と洸宇は戦慄した。

(まさか、あれは……あの娘は――)

 たったひとつだけ、説明のつく例外がある。

 しかし、それを認めることは途方もない恐怖だった。ありえるはずがなかった。夢見ることに疲れ、とうの昔にあきらめることを受け容れた自分に許せるはずがなかった。

(あれは人間だ。地祇おれとは違う場所に在るべき者だ。妖鬼を仕留めてしまえば贄も必要ない。さっさと片づけて里に追い帰そう)

 枯れた土地を癒すにはかなりの霊力がいるが、一気に力を使ってそのまま再び眠ってしまえばいい。里の社で眠れば大地とのつながりも切れず、ある程度は霊力の枯渇を防げるはずだ。おそらく神域ほど心地いい眠りではないだろうが、それでも埋まらぬ飢えに苦しみ悶えるよりはずっとましだ。

 洸宇は淡く自嘲した。どう足掻いても自分は地祇でしかいられない。目と耳を塞いで背を向けても、心は根づいた地から離れられない。愛惜などではなく、みじめな未練でしかないけれど。

 やがて太陽がすっかり姿を現した頃、銀鈴がのろのろと起き出す様子があった。じっと意識を尖らせていると、ためらうような足音が後ろから聞こえてきた。

『――目が覚めたか』

 息を吸って吐き、洸宇は努めて静かに尋ねた。

「…………申し訳、ございませんでした」

 応えた声はか細く掠れていた。振り向くと、地面に額をこすりつける娘の弱々しい背中があった。

 長く艶やかな髪に土がこびりついてしまっている。陽の下で見る銀鈴の髪は濡れたような深い紫紺だった。洸宇はとっさに『顔を上げろ』と言った。

 だが銀鈴は額ずいたまま、絞り出すような声で言った。

「此度の次第は真君の御心に背くことだと承知致しました。ですが……どうか、どうかご慈悲をいただけるなら、妾をお召しになっていただけないでしょうか」

 洸宇は怒鳴ろうとして、しかしその気力も湧かなかった。

『……貴様はよほど愚劣らしいな』

「お食べになっていただけないのなら、おそばに置いていただけるだけでかまいません。妾は――妾は、二度と人の世に戻れぬ身なのです」

 少女の声が寒さを覚えたように震えた。

「妾はこの地の者ではなく、賤しき流民の生まれにございます。旅回りの一座で琵琶弾きを務めてまいりましたが、……荘家の方々にご恩情を賜り、楽士としてお仕えすることをお許しいただきました。真君への供物になることは、ご恩に報いる唯一の機会なのでございます」

 銀鈴はバッと顔を上げた。白く滑らかな額や頬は土の色に汚れ、乱れた髪と相俟って顔をしかめたくなるような有り様だ。だが、形振りかまわず訴える姿から目を離すことはできなかった。

 昨夜は固く閉じられていた瞼を開き、銀鈴は虚ろな瞳で必死に洸宇を捉えようとしていた。頼りなく揺れる双眸は、髪色よりも仄かに赤みを帯びた不思議な瑠璃色だった。

「もしも妾がおめおめと生きて帰れば鎮魂の儀が失敗したとされ、恩ある方々のお顔に泥を塗ることになってしまいます。どうか、どうかこの身をわずかでも憐れとお思いになっていただけるのなら、御身に捧げられたものとしておそばに仕えることをお許しください……!」

 洸宇はきつく目元をしかめた。ふつふつと怒りが沸き立っている。

『おまえの主は、我が守護の地の者ではない、背負うべき因果のない娘を贄に差し出したというのか』

 いつの時代、どこへ行っても流民は蔑視の対象だ。定住の地を持たないということは、租税を納めて領主から保障される人間的な権利がないに等しい。寄辺のない流れ者、更に年若く盲目の娘ともなれば、領民の身代わりとして切り捨てるには打ってつけだろう。

 銀鈴が彼女の主人とどんな関係を結んでいたのかは知らない。もしかしたら我が身を差し出すほどの深い忠義を誓っていたのかもしれない。だが、どんな経緯があろうと銀鈴のけなげさを利用するようなこの仕打ちは――あまりにも許しがたい。

 剛毛の一本一本を針金のように尖らせた洸宇の怒気に、銀鈴は驚いたように息を呑んで頭を振った。

「い、いいえ、いいえ! 決してそのようなことはありませぬ! 此度のお役目は妾から志願したのです! 我が主人は、この地の未来さきを担うお方は、決して力なき者を踏みにじるような非道をいたしませぬ! お優しい、お優しい方なのです……」

 不意に少女の声音が潤んだ。色の薄い唇が言葉を見失ったようにわななき、眉を苦しげに引き絞る。

 だが、紅瑠璃の瞳から涙がこぼれ落ちることはなかった。

「妾のような者のために泣いてくださった、お優しい方です。妾があの方のためにできるのは、こんなことしか……」

『もうよい』

 洸宇は顔を背けて吐き捨てた。必死に『主人』のために言い募る銀鈴の姿がひどく不愉快だった。

 こんなにも彼女に想われながら、よくもやすやすと手放せたものだ。あまつさえ、地祇への供物として死を命じるなど。

(俺ならば)

 ――どうするというのだ。銀鈴が真に命を捧げているのは、自分ではないのに。

 洸宇は目を伏せ、きつく噛み合わせた牙の奥から唸るように言った。

『事が片づくまでだ』

「え……?」

『妖鬼を仕留め、此度の一件が片づくまで神域に留まることを許す。すべてが終わったら山を下りろ。里へ帰れぬというのなら、この地から離れた場所まで送ってやる。そして二度と戻らず、神の贄となった者とは別人として生きていけばいい』

 最大の譲歩だった。銀鈴はきゅっと唇を噛み締め、静かに平伏した。

 高く昇った陽射しが神域を照らす。これから訪れる波乱など素知らぬように、咲き乱れる白蓮の花々がただ鮮やかに輝いていた。

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