其ノ四(2)
砂を固めて築いた城は、ひとたび波が打ち寄せれば呆気なく崩れ去ってしまう。
銀鈴が見た夢は、まさに脆く儚い砂の城だった。蜜のように甘い嘘をたっぷりと塗りこめ、愛も情もない虚ろな真実を見栄えよく覆い隠していた。うっとりと手を伸ばせば、たちまち砂塵に還ってしまうというのに。
その夜、正幹が所望したのは『想夫恋』だった。
本来は『相府蓮』と書き、古代の王に仕えたある宰相の屋敷に咲く蓮の美しさを称えた曲である。しかし、いつしか同じ音を持つ『想夫恋』の名で呼ばれるようになり、今では女が愛しい男を想って奏でる恋歌として知られていた。
正幹の前でこの曲を弾くのははじめてではなかった。想いが通じて以来、銀鈴自身が何度も彼に贈っていた。芳しい蓮の花が咲く庭園で恋人のために奏でる曲に、これ以上ふさわしいものはないと思ったからだ。
ふたりの憩いの場となった四阿で、傍らに座る正幹の熱を感じながら銀鈴は流れるような調べを紡いでいく。どこか哀切を纏った旋律は彼女の心そのものであり、この曲に恋情を託して露と消えた名もなき女たちの歌声のようでもあった。魂を震わせて哭くような、一途な願い。
最後の余韻が夜気に溶けると、正幹は思い出したように息をついた。ゆるりと背に頼もしい腕が回される。
「……何度聞いてもきみの奏でる『想夫恋』はすばらしい。恋人の欲目といわれようと、この世で最も美しい音色は何かと問われたら迷わずきみの琵琶だと答えるよ」
「もったいないお言葉です、正幹様」
銀鈴は頬を染めて俯いた。肩を包む掌にぐっと引き寄せられ、心臓が震えた。
「僕は、なんて幸せ者なんだろう」
落ちてきた呟きには、しかし苦渋の色が滲んでいた。額に寄せられた唇に、思わず見えない双眸を持ち上げる。
「正幹様……?」
どこか様子がおかしい。正幹は深いため息を洩らすと、微かにわななく声で言った。
「銀鈴……きみは、僕が頼めばどんなことでも叶えてくれるかい?」
「え?」
「どうか落ち着いてきいてほしい……。実は昨夜、ある旅の方士が屋敷を訪ねてきたんだ。彼は皓牙真君から託宣を賜ったと言った」
ぼろ切れに身をくるんだ老人を物乞いだと思った正幹の伯父は、すぐに彼を追い返そうとした。すると老人は一瞬で最高位の紫衣を纏った道士の姿になると、自分はこの地を守る神の使いとしてやってきたと告げた。
慌てて平伏した伯父に、方士は「神はお怒りである」と厳かに言った。曰く、近年続く天災は祈りと感謝を忘れて久しい民への皓牙真君の祟りであり、荒ぶる神を鎮めるためには生贄が必要である。方士の夢枕に立った皓牙真君は、『汚れなく美しき娘を贄として捧げよ。娘の流す清らかな血によって不逞の罪は雪がれ、我が怒りは豊穣の恵みと変わるだろう』と仰せになったという。
銀鈴は身じろぐことすらできなかった。先ほどまで心を包みこんでいた甘い熱がすうっと引き、恐怖がじわじわと冷たく広がっていく。
「生贄を捧げるのは次の満月の晩……我が領地で、最も美しい処女を贄として差し出さねばならないんだ」
正幹の言葉がぷつりと切れた。
食いこむほど掴まれた肩が痛い。こぼれそうな震えをぎゅっと拳の内に握りこみ、銀鈴は息を吸いこんだ。
「…………妾に、その贄になれと?」
地の底まで沈むようなため息が落ちた。少女の華奢な背骨が軋むほど抱き締め、正幹はささやいた。
「銀鈴、きみは今までだれとも情を交わしたことがないと言ったね。男を恋しいと思ったのは僕だけだ――と」
「……はい」
「僕はきみの言葉を信じている。そして、きみは美しい。我が領地で……いや、五色の羽衣をたなびかせて舞い降りた天女のようだ」
なんて残酷な睦言だろうと銀鈴は思った。玻璃によく似た氷の刃をやわらかく突き立てられ、一気に抉り裂かれたような痛みが走る。
閉じた瞼が引きつったように震え、いつの間にか悲しみの潮が満ちて涙が溢れていた。崩れ落ちそうな銀鈴の肢体を力いっぱい抱き竦め、正幹が押し当てた肩口で頭を振った。
「すまない、銀鈴。本当にすまない」
「正幹様……」
すべてが遠く曖昧になり、銀鈴はぼんやりと男の体温を感じていた。力の抜けた腕の中は空で、養父の形見である大切な琵琶を取り落したのだとようやく気づく。だがそれを拾い上げる気力すら湧かなかった。
許しておくれ、と濡れた男の声が耳朶をくすぐる。その一音一音が雨垂れとなって銀鈴の心に打ちつけ、絶望が黒く重く染みこんでくる。
もう、何も聞きたくなかった。
「……泣かないでください、正幹様」
銀鈴は正幹の重みに負けてずるずると石床に膝をついた。見えぬ目で探りながら恋人の頬を包みこむ。
掌を濡らす涙も、自分の頬を伝う涙も、ひどく冷たかった。
「妾は心からあなたをお慕いしております。あなたが望まれるのなら……それが、あなたをお救いできるただひとつの術ならば……妾は……」
ただ、幸せになりたかった。
愛するひとに愛される、ありふれた幸福を手に入れたかった。満たされるあたたかさを知りたかった。
――たとえ、幻のような刹那でも。
「銀鈴……」
「きっと、きっと妾も幸せ者です。あなたのような貴い方に優しくしていただいて、命すら惜しんでくださる……妾は、きっと、幸せです」
言い聞かせるようにくり返し、銀鈴はぎこちなく笑った。笑わなければいけない気がした。
そう、自分は幸せなのだ。幼い頃から夢見てきた願いを確かに叶えることができたのだから。
「……っ、銀鈴、銀鈴……!」
縋りついてくる正幹の背にそっと両手を添え、銀鈴は彼のぬくもりを刻むように頬を寄せた。
崩れはじめた砂の城は、しかし少女を奈落へと突き落とすはじまりに過ぎなかった。