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芙蓉恋歌  作者: 冬野 暉
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其ノ三

 娘は銀鈴と名乗った。

 その名のとおり、まるで鈴の音のように澄みきった声は、悲壮なまでの決意に満ちていた。

「真君のお召しに従い、おそれ多くも御前に馳せ参じました。卑しき身ではございますが、我が命を以てお怒りを鎮め、再びこの地に安寧をお与えくださりますよう」

 銀鈴は抱えていた琵琶を傍らに置き、両手を揃えて深々と平伏した。洸宇はしばし唖然としていたが、ぐうっと低く唸った。

『……俺が貴様を召したとは、どういう意味だ』

「どういう……とは?」

 おそるおそる顔を上げた彼女は戸惑いの色を滲ませた。

 洸宇は苛立ちながら問いをくり返した。

『なぜ貴様はここへ来たのかと訊いている』

「それは……真君が託宣を下さったのではないのですか?」

『――託宣だと?』

 剣呑な響きを帯びた神の声に、銀鈴はつっかえそうになりながら答えた。

「ここ十年近く、麓の土地では災厄が続いております。川の水が干上がり、田畑は荒れ果て、血に狂った獣が家畜を襲い……村々では体力のない子どもや年寄りから死人が出るばかり。これは真君がお怒りなのに違いないと、領民たちは供物を捧げ、ご慈悲を求めて日々祈り続けております」

 洸宇は小さく息を呑んだ。

 守護者である地祇がいなくなれば、土地の霊力は正しく循環しなくなり、やがて荒廃につながる――最初からわかっていたことだというのに、目の前の娘から告げられた衝撃は大きかった。

 かつて山の峰から誇らしく見下ろし、ときには風となって駆け回った美しい大地の姿が甦る。鮮やかな翡翠の色に輝く山々。谷間から流れ出る川は平地に広がる田畑を潤し、村人たちが汗を掻きながら鋤や鍬を振るっている。花が揺れる畦道を子どもたちが笑いながら駆けていき、大人たちはふと手を止め、幸せそうにその後ろ姿を見送るのだ――。

 いとおしく、何度も何度もそのなかへ入っていくことを夢見た風景が灰色の砂となって崩れ去る幻に、洸宇は己が途方もない過ちを犯した事実に戦慄した。

「そんなとき、旅の方士がご領主様に『雄々しき虎の夢を見た』とお告げになったそうです」

 続く銀鈴の言葉に、洸宇はハッと我に返った。

『旅の方士だと……?』

「はい。曰く、夢に現れた虎は紫峰山の主と名乗り……わ、若く美しい生娘を生贄に差し出せば災厄を治めてくださると……」

 当の娘は洸宇の視線に恥いるように俯いた。その様子に間の悪さを感じながら、洸宇は鼻の頭に皺を寄せた。

『それで、貴様が俺の許へやってきたというわけか』

 羞恥に声も出ないのか、銀鈴は項垂れたままこくんと頷いた。

 洸宇は苦々しく吐き捨てた。

『――痴れ者め』

 なんと愚かなことだ。すべての原因を招いた自分も、得体の知れぬ『神』の託宣を信じた人間たちも。

『貴様は、本当に地祇が人を喰らうとでも思っているのか』

「え……?」

 訝しげに顔を上げた銀鈴に、洸宇は冷えた声で言った。

『我らは大地の理の司――地上に生きる命を産み、育て、守るモノ。その我らが、よりにもよって自らの愛し子を己が欲を満たさんがために屠るとでも?』

 銀鈴は言葉を失ったようだった。茫然とする顔がみるみるうちに青ざめていく。

 ――遥か昔から、人は見えざる神をおそれてきた。

 さまざまな自然現象は神のもたらす恵み、あるいは天罰だと考え、供物を捧げることで感謝を表し、慈悲を乞うてきた。それはたわわに穂をつけた穀物であったり、きらびやかな宝玉や綺羅であったり、美しい舞楽であったり……生きた人間であったりした。

 人身御供の風習は中原だけでなく、この神葉しんよう大陸の各地に伝わっている。大きな災禍であればあるほど、無辜の命が儚く散った。拭いきれぬ血を流した分だけ救われるはずだと、人々は盲信しているのだ。

 あまりにも馬鹿馬鹿しく、それ以上に悲しく、洸宇は乾いた笑みを洩らした。

『我らは何ひとつ求めることを許されぬ。そして理を超えた行いも。……俺はずいぶんと長く眠りに就いていた。目覚めたのはつい先刻――どうやら貴様の琵琶に呼び起こされたらしい』

「そ、それでは……あの託宣は……」

『少なくとも俺は知らぬ。そのような『旅の方士』とやらの夢枕に立った覚えはない』

 銀鈴の顔は、今にも透きとおってしまいそうなほど蒼白だった。ぺたんとその場に座りこんでしまう。

「……そんな」

 痛々しいその姿から、洸宇は思わず視線を逸らした。

「では……では託宣を下されたのはいったいどなただったのですか? なんのためにそんなことを……」

『神の名を騙る不届き者――おおかた、若い女を好む妖鬼ようきであろう。方士に化け、領主に甘言をささやいたに違いない。人を惑わすことは彼奴らの十八番だ』

 神でもなく仙でもなく、ましてや人でもない埒外の化生を総じて妖鬼という。遥か西域では妖霊デーヴァ、東海では鬼、あやかし、物の怪などさまざまな名で呼ばれる彼らは、規格外の霊力を持ったために森羅万象の理から外れてしまった存在だ。

 万物には『かくあるべし』と定められた正しい在り方があるが、強すぎる霊力はそれを歪めてしまうことがある。たとえば仙は、並外れた霊力によって『器』である肉体が不老長寿に変質した人間だ。妖鬼はそれすら超えて、存在を根底から覆され、まったく異質なモノへ作り変えられてしまったのである。

 その性質は千差万別だが、たちの悪い妖鬼は力のない人間を誑かして弄び、惨たらしく命を奪うことさえある。今回の出来事も、洸宇の不在につけこんだ妖鬼の仕業に違いない。

「では……妾はいったいどうすればいいのですか?」

 哀れなほど弱々しい娘の問いかけに、洸宇は目を伏せた。

『帰れ』

 びくりと銀鈴の細い肩が揺れる。

『悪しき妖鬼は俺が始末をつける。貴様は山を下りて、里へ戻るがいい。……生きて帰ることを願う者もいよう』

「…………そんな」

 返ってきたのは、震える声だった。

「そんなひとは……もういないのに」

 洸宇は銀鈴を見た。彼女の青白い瞼の下から、夜露のような涙が音もなくこぼれ落ちた。

「帰る場所なんてありません。妾は――妾には、もうあなた様にお食べいただく道しか、残されていないのに」

『何を……』

 月明かりに白く光る涙の儚い美しさに、洸宇は続けようとした言葉を失った。見えぬはずの銀鈴の瞳がまっすぐ心臓を射抜いたような錯覚を抱いた。

「お願いでございます。どうか、どうか妾をお食べくださいませ。貴き御身の糧となることが、妾の本望にございます」

『――っ、馬鹿なことを! 貴様は俺の話を聞いていなかったのか!?』

 思わず怒鳴ると銀鈴はくしゃりと顔を歪ませた。いやいやをするように首を横に振りながら、か細くすすり泣く。

 洸宇は途方に暮れて立ち尽くした。彼は慰めの言葉など知らなかった。

 ただ無性に、娘の涙を拭ってやれる手を持たない自分を悔しく思った。

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