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芙蓉恋歌  作者: 冬野 暉
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其ノ二

 銀鈴ぎんれいは故郷を知らない。

 彼女の母は、諸国を渡り歩く旅芸人の一座の踊り子だった。流れ者の舞姫は芸だけでなく、春もひさがねば食べていけない。だから銀鈴は、自分の生まれた土地も、実の父親も知らなかった。

 行きずりの客との間にできてしまった娘を母は疎んだ。娘の目が見えないとわかってからは、いっそうひどく扱った。盲目の子どもなど貧しい旅暮らしのなかでは足手まといにしかならず、少女は他の一座の大人たちからも暴力や罵声を浴びて育った。

 たったひとり、琵琶弾きの老人だけは少女に優しく接してくれた。こっそり傷の手当てをし、客のくれた甘い菓子を頬張らせ、「泣くでないよ、銀鈴」と皺だらけの手で涙を拭ってくれた。

 おまえさんの声はまるで銀の鈴を振るうようだと、美しい名前をつけてくれたのも彼だった。口を開くたびに母には「うるさい」と叩かれるのに、老人は銀鈴のたどたどしい言葉を嬉しそうに聞いてくれた。

(儂にはのう、娘がおったんじゃよ。気立てのいい、優しい子でなぁ……だが体が弱くて、嫁にも出してやれぬまま死んでしまった)

 だから銀鈴が生まれたとき、まるで娘が生まれ変わって自分の許に戻ってきてくれたように思ったのだと、老人は語った。じゃあ爺々イエイエはあたしの父さんだねと銀鈴が答えると、涙を流して抱き締めてくれた。

 銀鈴が老人から琵琶の手ほどきを受けたのは、ごく自然な成り行きだった。天は彼女に光を与えず、しかし優れた耳と音楽の才を授けてくれた。徐々に銀鈴は楽師として認められていき、やがて一座の花形といえる名手にまで成長した。

 銀鈴が十三歳のとき、師であり父であった老人が死んだ。ひどく寒い春の夜、まるで眠るように寝床の中で冷たくなっていた。

 凍りついたような月の下、銀鈴は泣きながら老人の亡骸を早咲きの白木蓮の木の根元に埋めた。掻き出した土が爪の奥に入りこむ感触と、むせ返るような花の香りを今でも憶えている。

 古ぼけた琵琶だけが、たったひとつの形見だった。

(幸せにおなり、銀鈴。だれよりも幸せになって、いつまでも笑っていておくれ)

 生前、老人が口癖のようにくり返した願い。それはいつしか、銀鈴自身の望みになっていた。

 ――幸せになりたい。

 だれにも言えぬ、胸の内にひっそりと秘めた想いだけを支えに、銀鈴は琵琶を弾き続けた。

 それから三年の月日が流れた頃、彼女の運命は暗転する。

 とある荘園の領主の屋敷で催された宴の席で琵琶の音を披露したときのこと。賞賛と褒美を賜り、いつものように退がろうとした銀鈴を、屋敷の主人が呼び止めた。

「そなた、名はなんと申す?」

 酔いの回った中年の声には、締まりのない好色がはっきりと滲んでいた。銀鈴は悪寒に声を震わせながら頭を垂れた。

「銀鈴と、申します」

「ほう……見目のとおり、なんとも涼やかで愛らしい名だ。旅回りの楽師にしておくには実に惜しい」

 ねっとりとした視線に全身を舐め回され、銀鈴は吐き気を覚えた。ぱしんと扇で膝を打つ音のあと、主人は笑って言った。

「気に入ったぞ、銀鈴。そなた、今より私に仕えよ」

 銀鈴は言葉を失った。見えぬ目を見開いて凍りつく少女に、主人は嬉々として命じる

「すぐに部屋と侍女を用意させよう。そなたの奏でる音色で、淋しい独り寝を慰めておくれ」

 あまりにあけすけな揶揄に、カッと頬に火が散った。しかし、銀鈴は唇を噛んで涙を堪えることしかできなかった。

 養父であった老人が死んだ今、銀鈴の身を案じてくれる者などいない。一座の花形ともてはやされる盲人の娘を、陰ではだれもが妬み嫌っている。目の前に金銀を積まれれば、一座は喜んで銀鈴を差し出すだろう。

(あの子を産んだせいで妾は醜く老いさらばえたんだ! あの子は実の母親の美しさを盗んで生まれてきたんだよ!)

 年を重ねるごとに衰えていく容色と、一方で美しく成長する娘の存在に、いつしか母は心を病んだ。狂気に蝕まれた怨嗟の声は、やがて甲高い哄笑に変わる。

(薄汚い盗人め、生きたまま地獄に落ちて苦しみ抜けばいい! いつかおまえも妾と同じように、救いのない苦界の底で死に果てるんだ!)

 娼婦の娘は所詮、娼婦にしかなれないのか。

 絶望の闇に呑まれかけた銀鈴の心に、不意に凛々しい若者の声が光となって射しこんだ。

「伯父上、そのような年端も行かぬ娘をからかうのはお戯れが過ぎましょう」

 銀鈴は思わず顔を上げた。だれかがすぐそばまでやってきて、まるで彼女を背に庇うように主人との間に立ち塞がった。

「何だ、正幹せいかん。そなたには関係なかろう。余計な口を挟むでない」

「いいえ、常々思っておりましたが伯父上のお振舞いには行き過ぎたところがございます。こんな女孩こどものような、ましてや目の見えぬ不憫な娘を物のように売り買いするなど、人品卑しき所業でありましょう」

「ええい、黙れ! そなた、この私を愚弄したいのか!」

 主人の怒声が響き、器が砕ける甲高い音が近くで上がった。銀鈴は肩を震わせて頭を抱えたが、正幹と呼ばれた若者の声はびくとも揺るがなかった。

「私は良心から申し上げているのです。このような行いが下々の者に知れ渡ればどのように思われるか……領内の現状を鑑みれば、こたびの宴を開くことすらためらわれるでしょうに」

「うるさいうるさい!」

 主人は癇癪を起こした子どものように喚いた。

「冷飯食いの居候の分際で知れた口を利くな! 孤児になりそこねたそなたを引き取り、ここまで育ててやった恩を忘れたかッ」

「……っ」

 何かが当たるような鈍い音がし、銀鈴の手元に扇が転がった。うっすらと漂う鉄の臭い――主人の投げた扇が正幹の肌を傷つけたのだ。

「……伯父上には心から感謝しております。だからこそ、私は伯父上によき領主であってほしいのです。なにとぞ、このご忠告をお聞き届けますよう」

「ふん、よくもそのようなことをぬけぬけと言えたものだ。興醒めだ、その娘を連れてとっとと去ね!」

 正幹は黙って銀鈴の手を取り、立つように促した。困惑する彼女の耳許で、「大丈夫、私についてきてほしい」と低い声がそっとささやいた。

 うるさいほどの胸の高鳴りを聞きながら、銀鈴はおずおずと若者に従った。

 宴の間を抜け出し、正幹が誘ったのは夜の静寂に満ちた庭園だった。四阿の屋根の下までやってくると、長椅子に腰かけた彼は自分の隣に座るよう示した。

「そんな、妾のような者が畏れ多いことです……!」

「どうかかしこまらないでほしい。伯父の言ったとおり、私はただの居候なんだ」

 正幹は苦笑した。

「私は早くに家族を亡くしてね、母の兄だった伯父に引き取られたんだ。伯父夫婦には娘ばかりだったから私を跡取りに、と考えていたようなんだが……馬が合わなくてね」

 笑みを含みながらも、正幹の声はひどく寂しげだった。

「結局、一番目の従妹が婿を取って家を継ぐことになったんだ。そして私は用済みというわけさ」

「若様……」

 銀鈴はきゅうっと胸の奥が締めつけられた苦しさを覚えた。正幹の語った孤独は、彼女が抱えているものと驚くほど同質だった。

 ふと、節くれ立った精悍な手が銀鈴のそれに重なった。はじめて触れる異性のぬくもりに、少女の頬は熱く上気した。

「きみの琵琶の音を聞いて……美しいだけでなく、どうしようもなく胸が切なくなったんだ。清らかな水のように澄みきっていて……それなのに、深い悲しみに満ちていた」

 気づけば、正幹の吐息がすぐ近くで聞こえている。銀鈴は盲目であることを生まれてはじめて心の底から呪った。

 ――ああ、このひとの顔をひと目でいいから見てみたい。

「そんなきみが伯父の無体に震えているのを、見ていられなかった。あんなにもすばらしい音色を奏でるきみを、薄汚い伯父の欲望の犠牲にしていいはずがない」

「若様、そのお言葉だけで充分です。本当に、本当に……」

「……どうか、正幹と呼んでくれないか」

 懇願するような掠れた声は、銀鈴の背骨を甘い痺れとなって伝い落ちた。体中を焦がす熱に今にも溶けてしまいそうだ。

「きみのことも、銀鈴と呼んでいいだろうか?」

 銀鈴は瞼の下の瞳を潤ませ、喘ぐように頷いた。

「はい……、正幹様」

 ふっ、とため息のような優しい気配が伝わってきた。正幹が微笑んだのだとわかり、銀鈴はめまいのような幸福感に溺れた。

 おそるおそる若者の手を握り返すと、しっかりと包みこまれる。言葉はない。だが、その力強さこそが銀鈴を安堵させた。

 それは少女が知る、はじめての恋だった。

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