其ノ十五
闇は深く、雨の音だけが轟々と鳴り響いていた。
雨脚はいよいよ激しさを増し、地面は沼のような泥濘になっている。傾斜に差しかかると細く水が流れ出し、衰弱した木の根の悲鳴が聞こえた。近いうちに山津波が起こるだろう。
(ここだ)
洸宇は斜面の頂に立ち、眼下の景色に目を細めた。
濁った水の筋がひしゃげたように歪んだ闇へ吸いこまれていた。斜面を下った先の地面は消え、ずれた空間の隙間から禍々しい妖気が染み出している。李渠が作った界のひずみに違いなかった。
(この穴にやつはいない。だが――穴の内側ですべてつながっているとしたら)
洸宇は漆黒の天を仰いだ。
礫のような雨に打たれ、剛毛に覆われた巨躯はずぶ濡れだった。あらわになった雄々しい骨格が、不意に輝きを帯びはじめる。
『風伯、雨師、雷公』
漲る霊気が雨粒を弾き飛ばし、青い陽炎となって立ち上る。青鈍色の眸を白銀に透過させ、洸宇は朗々と告げた。
『空を駆け、嵐を統べる兄弟たちよ。地に注がれし貴兄らのお力をお借りしたい』
びょうびょうと唸る風雨の咆哮に紛れ、低く遠雷が鳴った。森の上空で巨大な霊気が渦を巻く。
『土と水より芽吹きし兄弟よ』
鐘の音を思わせる太く荘厳な『声』が降ってきた。森のあらゆる住人たちが震え上がり、小さく縮こまってひれ伏している。
洸宇は今にも押し潰されそうな四肢を踏ん張り、顎を反らした。
『我らは天に在りしもの』
『ゆえに、地の理とはすでに遠く隔たれている』
『ゆえに、地上で何が起ころうと関知せぬ』
『我らは天の理のままに定めをまっとうするのみ』
多重に響く『声』は答えた。
『地に下りしものはすでに天のものにあらず。地に馳せる汝の好きにせよ』
洸宇は深々と頭を垂らした。
『お礼を申し上げる』
木々が大きくしなり、風が舞い上がる。天神の気配が雲の帳の奥へと遠ざかっていく。
やがて、雨の音だけが戻ってきた。
顔を上げた洸宇は、皓々と光る眸を眼下に据えた。
巨躯を包む霊気の炎が大きく膨らむ。火の粉めいた燐光が弾け、雨粒のひとつひとつに燃え移った。洸宇の足元から青い火が走り、斜面を伝い、流水の筋に絡みついた。
空中から、地面から、水に宿った神気が闇に穿たれた穴へ注ぎこまれていく。全神経を集中させ、洸宇は穴の向こうに広がる無数の亀裂に力を浸透させていった。
(今宵、決着をつける)
眠る銀鈴を神域に残し、李渠の気配を追って山中に入った。雨が上がる前に行動に移らなければならなかった。
この地に、そして彼女に、本当に平穏な朝を取り戻すために。
どれほどの時が過ぎたか――拡げた意識の先端に妖気の本体が触れた。慌てて逃げようとするそれを容赦なく捕らえ、ぐうっと喉を鳴らして地表へ引きずり出す。
鏡を打ち砕くような甲高い音が響き渡る。燃え盛る炎に呑まれた影が躍り上がった。
『あ゛あ゛あ゛ァァァァッ!』
濁った絶叫を上げ、妖鬼がのた打ち回る。羽虫の群のような影は何かを形作ろうとしては崩れ、苦痛に歪む男の顔を浮かび上がらせた。
『おのれェおのれェ……!』
熱に溶けていく男の目が洸宇を睨む。ぽっかりと空いた眼窩から炎が噴き出すと、人面は砂になって崩れ落ちた。
『な、なめっ、なめるなァァァ――ッ』
ザザザザッ! と砂の塊が炎を纏ったまま跳躍した。洸宇はとっさに霊気の障壁を築いた。衝撃とともに火花が散る。
『……っ』
突っ張った後ろ足が泥土に沈む。洸宇はぶわりと剛毛を逆立たせた。
『がっ、ぎ、ぅぐァァァァァァッ!!』
ばちばちと耳障りな音を立て、李渠が障壁に圧しかかってくる。炎に焼かれながらも大量の砂がいびつな輪郭を繕い、やがて錆びた毛色の虎に変化した。
ところどころ毛が抜け落ち、背骨が浮き上がるほど痩せているが――あれは自分の姿と洸宇は見抜いた。
白濁した両目を剥き、李渠は激しく爪で障壁を掻いた。
『ふざけるなふざけるな! 今更しゃしゃり出てきやがって! この土地も、神の座も、あの娘も、ぜ、全部俺のものなんだァァ!』
目の前が深紅に染まった。そう錯覚するほどの怒りが洸宇を灼いた。
『――ほざけ!』
霊気が迸り、砕けた障壁がいくつもの火矢となって李渠に襲いかかった。ぎゃおおおッと悲鳴が上がる。
洸宇は倒れた李渠の喉笛に食らいついた。しかし目の前の虎の頭が消えたかと思うと、首筋に杭のような牙が打ちこまれた。
血飛沫と肉片が撒き散らされる。
洸宇は身をよじって追いかけてくる李渠の顎を躱した。すんでのところで張った障壁が血濡れた牙を防いだ。
『逃げるなァ! 今度こそおまえを殺してやる! おまえの名も力も奪い尽くしてやるゥゥゥ!』
『……べらべらと好き放題言いおって』
溢れる血が銀と黒の毛を汚していく。激痛を噛み砕き、洸宇は宿敵を睥睨した。
『貴様にくれてやるものなど、何ひとつない』
嵐の夜を照らすように青い炎が燃え上がる。それに反して、洸宇の胸中は穏やかなほど静かだった。
(ようやく、わかった)
己が己として生まれた理由が。憎み、恨み、厭い、呪い続けた宿命の意味が。
(俺は地祇として生まれ、生きてきたからこそ、俺だけの苦しみや喜びを抱くことができた。千年の孤独も、それに勝る刹那の幸福も――命すら惜しくはない恋を、知ることができた)
洸宇がこれまで過ごしてきた歳月は、積み上げてきた記憶と感情は、自分だけのものだ。だれにも奪えない、かけがえのないの財産なのだ。
そして、もしもすべてを捧げるべきひとがいるとすれば、それはただひとり。
(銀鈴)
永い生の果てにたどり着いた答えに、洸宇は微笑んだ。
心など欲しくないと思っていた。だが今は、彼女への愛しさが熱く胸を震わせる。決して折れない意志となる。
(俺は、俺でよかった)
自分を呼ぶ銀鈴の声を思い出す。それを一歩に変え、洸宇は牙を剥き出した。
『我が地を穢した罪、そして――我が妻を傷つけた罪。その身を以て贖え、妖鬼』
舞い踊る燐光が凝縮され、洸宇の周囲に幾百の炎の槍が浮かぶ。断罪の宣告を受けた李渠は怒号で返した。
『いいだろう、受けて立ってやる! 今度こそおまえの首を食いちぎり、その前であの娘を存分に辱めてくれるわァ!』
咆哮が森を揺るがした。炎の槍がいっせいに放たれ、真昼のような閃光が黒雲を照らす。
人ならざるものたちの死闘を覆い隠すように、雨は強く、強く、降り続けた。