其ノ十二
明くる朝には、地祇は起き上がれるまでに回復した。
使いすぎた力はまだ半分も戻ってきていないが、と彼は苦々しくつけ加えたが、銀鈴は心の底から安堵した。思わずこみ上げた涙に地祇は慌てふためき、ほとほと困り果てた様子で『頼むから泣いてくれるな……』とぼやいていた。
いつの間にやら、彼の弱点は銀鈴の涙になったらしい。怒りを雷に変えて打ち下ろすことができる存在が人間の小娘の泣きべそにおろおろするなんて、なんだか妙におかしく、こそばゆかった。
あれほど近寄りがたかった地祇の傍らには、不思議な居心地の好さが生まれていた。
大袈裟な咳払いのあと、地祇は渋い口調で言った。
『とりあえず、その身形をなんとかしろ』
確かに、銀鈴の格好といったらひどい有り様だった。
長い髪は乱れに乱れ、顔から胸元まで血まみれで、布地を引きちぎった裙はほとんど意味を成していない。そもそも、山に入ってから着替えはおろか水浴びもしていないため、饐えた体臭が髪や皮膚にべったりとこびりついていた。
恥じ入って俯いた銀鈴を、地祇はせっかちに森の中へ促した。獣道とは思えぬほど歩きやすい道を進むと、澄んだ水の香りと涼やかな空気が銀鈴を迎え入れた。
小さな岩場の奥に、ひっそりと湧き出す泉があった。
『神域に近いことを憚って山中の獣たちは立ち寄らぬ水場だ。念のために結界を張っておく。支度が終わったら呼べ』
口早に言いつけると、地祇はどこからともなく新しい衣を取り出し、逃げるように立ち去ってしまった。ひとり取り残された銀鈴は、開き直ってありがたく水場を使わせてもらうことにした。
岩場の陰に入り、血が乾いてぱりぱりと固くなった浄衣と裙の残骸を脱いだ。水音を頼りに、慎重に水辺に近づく。
水はキンと冷たかったが、汚れにまみれた身にはちょうどよかった。顔を洗い、ついでに喉の渇きを潤すと、内側から生まれ変わるような心地だった。
(ああ――妾は、ちゃんと生きているんだ)
自然と目頭が熱くなり、銀鈴は洟をすすりながら何度も水を被った。どこか拭えきれずにいた、妖鬼に圧しかかられたおぞましい感覚も一緒に洗い流されていくようだった。
肌が痛くなるほど念入りに汚れを落とし、銀鈴はそっと泉の中へ爪先を差し入れた。まろい感触の岩を足場にしながら、腰のあたりまで水に浸かる。
張り出した岩に腰かけ、膝を抱えるように背中を丸めた。
(あの妖鬼の狙いは生贄――妾だった)
銀鈴を自分の獲物だと言っていた。粘つくような咆哮は、その本性をまざまざと感じさせた。
(真君のお力でずいぶん深手を負っていたようだけれど、余計にあきらめようなんて思わないわ。きっとまた襲ってくる)
銀鈴は鳴り出しそうな奥歯を噛み締めた。ようやく自覚した死への恐怖は、時が経つほど鮮明になっていく。
(どうすればいいのだろう……)
行き場のない感情が再び両目に火を点けた。銀鈴は閉じた瞼に力を入れ、ごしごしと顔を拭った。気づけば、すっかり体は冷えきっていた。
いつまでも地祇を待たせておくのは申し訳ない。水から上がった銀鈴は、着替えと一緒に渡された手拭いで露を落とし、おそろしく手触りのいい衣を手に取った。
まるで雲を紡いで編んだような、ふわふわとして布地で作られている。麻でも木綿でも絹でもない。更に不思議なのは、どこにも縫い目が見当たらないことだ。
(いったいどうやって作ったのかしら)
首を傾げながら上衣に袖を通し、裙を身につける。驚くほど軽やかな着心地だ。動くと仄かな香草の匂いが立ち上り、銀鈴の胸を清々しく慰めた。
脱いだ衣の残骸をどうしようか悩んでいると、岩場から少し離れたところまで地祇の気配が近づいてきた。それ以上踏み入るのを迷っているように、うろうろとあたりを歩き回っている。
銀鈴はとりあえず手拭いで衣の残骸を包むと、岩場の外に顔を出した。
「お、お待たせしました!」
『あっ、ああ!』
地祇は飛び上がったような声を出すと、二度目の咳払いを響かせた。
『身繕いは済んだようだな』
「は、はい。あの、着替えをありがとうございました」
『霊気で衣の一枚や二枚を編むなど、別に造作もないことだ』
どうやら、これは地祇の霊気で作られた天衣らしい。道理で縫い目もないはずだ。
ふと、地祇の視線を手元に感じた。
『……それはなんだ』
「あ……」
銀鈴が答える前に、音もなく冷たい炎が手拭いを呑みこんだ。神気の火は銀鈴の肌を焦がすことなく、あっという間に布の塊を燃やし尽くしてしまった。
『――戻るぞ』
低く呟き、地祇は足早に歩き出した。銀鈴は慌てて彼のあとを追いかけた。
岩屋に着くと、彼はその奥へ入っていった。濃い水の匂いは、銀鈴に安堵の嘆息を促した。
『しばらく、休め』
立ち止まった地祇の足元に自分の寝床があるのだと気づき、銀鈴は睫毛を揺らした。
「ですが、真君は……」
『俺のことを気にする必要はない。最低限の休息はすでに取った』
「わ、妾も平気です!」
『……馬鹿者。おまえは柔な人間で、しかも女子ではないか』
いいから休め、と地祇は細い声で重ねた。途端に泥のような疲労感が押し寄せてきた。
銀鈴がのろのろと寝床に入ると、地祇は足音を忍ばせて離れていこうとした。とっさに声を上げる。
「し、真君!」
『俺は入り口で番をしている。何かあったら――』
「あのっ、一緒に寝ませんか!?」
沈黙が落ちた。
『…………は?』
ぽかんと呆ける地祇に、銀鈴はまくし立てた。
「真君もまだお疲れでいるはずです。ですから、あの、ふたりで一緒に休めばいいのではっ……ないかと……」
言いながらどんどん顔が熱くなっていく。自分がとんでもないことを口走っていることにようやく気がついた。
『ばっ、なっ、何を!』
地祇もすっかり動転した様子で怒鳴り返す。銀鈴は湯気を上げそうな頬を押さえた。
「ごめんなさい! わ、妾、まだ怖くて」
ぽろりとこぼれた言葉に、地祇は息を呑み、銀鈴自身ですら表情を固めた。
「……妾、……」
(ひとりでいたくない)
ひとりでいたら、いやなことやおそろしいことばかり考えてしまう。地祇の毛皮のぬくもりを思い出し、知らず手を伸ばしていた。
「お願いです。ひとりに、しないで」
『――ッ』
地祇の呼吸が激しく揺らぐ。長い間を置いて、彼は静かに近づいてきた。
伸ばした掌に湿った鼻面がそっと押しつけられる。唸るように喉を鳴らし、地祇はささやいた。
『…………俺で、いいのか?』
銀鈴はこくこくと頷くと、子どものように太い獣の首にかじりついた。剛毛の下の筋肉が一瞬の緊張を孕む。
地祇の巨躯からは、水辺や、森や、あらゆる場所の匂いがした。豊かで瑞々しい大地の香り。
しばらくして、地祇はおずおずと銀鈴の傍らに腹這いになった。探るような慎重さで、鼻先で少女に触れ、匂いを嗅ぎ、ふうっと吐息を洩らしたかと思うと濡れた舌で頬を舐めた。
くすぐったさに、銀鈴は思わず笑った。地祇は彼女の頬に頭を寄せると、驚くほど優しい声で呼んだ。
『銀鈴』
「はい」
あまりにも優しく、慈しむような熱に満ちていたから、銀鈴は素直に応えた。疲労感は眠気に変わり、彼女の思考はほとんど働いていなかった。
『おまえが望むなら、俺は……――』
だから、その先にどんな言葉が続いていたのかも聞かぬまま、深くあたたかい眠りに落ちた。




