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芙蓉恋歌  作者: 冬野 暉
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其ノ一

 だれかに呼ばれたような気がした。

 そう思ったときには、すでに洸宇こううの意識は眠りの淵から浮き上がっていた。水面を突き破るような目覚めのあとに、遠のいていたあらゆる感覚が波寄せる。

 ごつごつした岩肌の固さ、ひんやりと湿った空気。泥臭い水の匂いと、そこに混じる際立つような花の芳香――。

 ああ、蓮の花が咲いているのだ。

 洸宇はうっそりと目を開いた。

 光源の遠い洞窟の中は、暗い水色の闇に満たされていた。奥に向かって細長くくり貫かれた岩肌は、ところどころ苔むし、どこかで水滴が弾ける音を寂しげに響かせている。

 泥のように絡みつく倦怠感から察するに、ずいぶん長く眠っていたらしい。洸宇は深く息を吸いこむと、ぐっと全身に力をみなぎらせて起き上がった。

 しなやかな筋肉の動きに合わせ、硬い獣毛に覆われた背骨の上を光が走る。長い尾を翻し、洸宇は軽やかに寝台である岩の上から飛び降りた。

 足音を立てず、彼は洞窟の入り口まで進んだ。青白い月影の下に現れたのは――、一頭の虎だった。

 美しい縞模様を描く、銀と黒の毛並。静かにすべてを睥睨するふたつの眼は、夜の水面を覗きこんだような青鈍色である。

 だが、もしも彼を目にすることのできる者がいたとしたら、姿かたちよりもまず先に、その重々しい存在感に押し潰されていただろう。

 ただそこに在るだけで、すべてを呑みこみ平伏させる気配。苛烈な霊力の塊である神が持つ、神威ともいうべきもの。

 洸宇は、この中原ちゅうげんにおいて地祇と呼ばれる、大地より芽吹いた神のひとつだった。

 天地を切り拓き、世界の礎を築いた原初の神々――天神たちが地上を去って幾星霜。彼らに代わって大地に生きる数多の命を見守るようになったのは、天地開闢ののちに生まれた年若い神々だった。

 彼らは自らの根づいた土地を守護する役目を担う。健やかな生命の営みが続いていくように、万物の源たる霊力の循環を司り、ときにはあるべき秩序を乱す存在を退ける。

 中原北西部に位置する紫峰山しほうざん。洸宇は、その一帯を守護する地祇――だった。

 ……役目を放棄して山の奥深くに引きこもってから、何度季節がめぐったのだろう。ここへやってきたのも、やはりこんな月の明るい夏の夜だった。

 暗い水面を照らすように、白蓮の花が咲き乱れていた。

 洞窟の外には大きな池が広がっている。その一面を埋め尽くす、幾百という白い花の群生むれ

 あのとき目にしたままの光景だ。まるで、同じ夜をくり返しているような。

 不意に笑いがこみ上げてきた。

 なんと馬鹿馬鹿しいことだろう。どれほど夢のなかに逃げたところで、忌まわしい現実から逃れられるわけではない。すべては何も変わらず、洸宇は今もあの頃のまま。

 自分を呼ぶひとなど、どこにもいないのに。

 洸宇は目を伏せると、踵を返して洞窟の中へ戻ろうとした。そのとき、だ。

 ――微かな音色が、夏の夜気を震わせた。

 思わず立ち止まった洸宇の耳が、ぴくりと動く。彼は後ろを振り返った。

 池を挟んだ対岸からゆっくりと近づいてくる。細い音がいくつも重なり合って深い余韻を残すそれは、嫋々とひとつの調べを紡ぎはじめた。

 洸宇は目を瞠った。

 白い花明かりの向こうに、小さな人影が浮かび上がった。ふらふらと揺れるような足取りで水辺までやってくる。

 女だ。

 癖のない長い髪が肩を覆い、夜目にも清らかな白装束にほっそりとした身を包んでいる。秀でた額をさらした面は年若く、おそらく二十歳にも届いていまい。美しさが瑞々しく匂い立つような、まさに娘盛りである。

 娘の腕には、丸く平べったい胴に弦を張った楽器――琵琶が抱えられていた。彼女は池のほとりに立つと、ひと際大きく琵琶を掻き鳴らした。

 旋律が波打ち、透明な波紋となって白蓮の園に広がっていく。

 洸宇は言葉を忘れ、ただ立ち尽くしていた。

 美しく、なんと寂しげな音色なのか。冷たい夜露のように胸の奥まで染み入ってくる、狂おしいほどの悲しみ。

 声もなく、涙もなく、娘は泣いていた。双眸を白い瞼の下に閉ざし、固く引き結ばれた唇は何も語らない。それでも、琵琶の音が慟哭となって洸宇の心を激しく揺さぶった。

 やがて曲は終わりを迎える。震えるような最後の余韻が空気に溶けたあとも、洸宇はしばらく放心していた。

「……もし」

 ささやくような問いかけにハッと息を呑む。

「そこにいらっしゃるのは、どなたでございますか?」

 瞼を下ろしたまま視線をさまよわせている娘に、洸宇はようやく気づいた。

 ――盲目なのだ。

「どうぞお名前を教えてくださいませ。ずっとわたしの琵琶をお聞きになられていたでごさいましょう」

 洸宇はよろめくように後退った。

 なんということだ。

 娘は、当たり前のようにそこに立っていた。あたりに満ちる濃密な神気をものともせず、自ら洸宇に話しかけてすらくる。

 神威への強い耐性を持つ巫覡ですら、なんの用意もなしに神と対峙することなど不可能だ。ましてや、大した霊力も持たない徒人の娘にできるはずが――。

『……貴様こそ何者だ』

 娘を睨み据え、洸宇は唸るように問い返した。

『なぜ平然と俺の前に立つことができる。そもそも、どうやってこの神域に足を踏み入れた』

 空気を震わせずに響く神の声に、娘はびくりと肩を揺らした。見えぬ目を洸宇のほうに向け、わずかに首を傾げてみせる。

「そう仰るということは……もしやあなた様は、皓牙真君こうがしんくんでいらっしゃいますか」

 それは久しぶりに聞く、人の世に伝わる彼の神名だった。

 洸宇はきつく目を細め、腹に力をこめて答えた。

『いかにも。俺はこの紫峰山が主、貴様らがそう呼びならわすものだ』

 しかし、娘は殺気にも似た洸宇の気迫に臆するどころか――笑ったのだ。

 今度こそ、洸宇は絶句した。

 あまりに儚い笑みは、まるで泣き顔のようだった。

「ああ……よかった」

 ため息をつくように呟き、娘は言った。

「妾は、あなた様にこの身を捧げるために参ったのでごさいます」

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