海陵王と張浩
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻八十三 列伝二十一の張浩伝を見てみましょう。
紇石烈良弼伝に「左丞相の張浩は実務に練達しているが、あまり仕事に熱心ではない。」とある張浩は、太古の東明王の子孫と称する渤海人で、世宗からは「海陵王時代の重臣筆頭」と呼ばれています。その伝は長いため、張浩の人となりの分かるエピソードを挙げましょう。
海陵王は張浩を戸部尚書として都に呼び戻し、更に参知政事に任じた。天徳二年(1150)に母の喪に服し、復職して再び参知政事となり、更に尚書右丞とした。
天徳三年(1151)、燕京城の拡張工事が行われ、宮室が造営された。張浩は燕京留守の劉筈、大名尹の盧彦倫と共に工事を監督し、張浩は総監督を命じられた。
このころ既に夏になっていたので人夫の多くが病気にかかっていた。そこで海陵王は、燕京より五百里以内に居る医者を徴用して治療に従事させ、官から薬が支給した。完治させた者が一番多かった医者には官職が与えられ、それに次ぐ者には恩賞が与えられて、それに準じる者は転運司より海陵王に報告された。
貞元元年(1153)、海陵王が都を燕京に定めると、燕京は中都と改められ、析津府は大興府と改められた。張浩は平章政事に昇進し、金帯・玉帯を各一個賜り、張浩のために魚藻池で宴席が設けられた。
このとき張浩は、地方に住む民のうち中都に住むことを希望する者には十年間租税免除にして京城の籍に入れるよう奏上して、意見の通りになった。
これ以降、張浩は首都造営と南宋遠征を諌めますが聞き容れられず、南征時に都の留守を預かって、海陵王の死後、世宗の下で引き続き宰相を務めます。
世宗から「有為な人材を推挙するように」と命じられた張浩について、『金史』の本伝はこう記します。
「紇石烈志寧らを推挙し、のちに張浩が推挙した者はみな名臣となった。」