3話
彼女の名前はエマ。勿論、それは女化したあと変えた新しい名前だ。そう考えると彼女は私よりずっと年下になる。ただ、それだというのに彼女の魅力は遥か私より上をいっていた。まさに天を見上げるくらいに。それは私服から違っていた。高いヒールにだいたいに長い足をどんと見せたスカートを履いて、全てが堂々としていた。そこに恥じらいはなく、むしろ私より女として生きていた。それに対し私はこの町に引っ越してから地味な服ばかり着ていた。何故ならどこかに出掛ける予定もなかったし、周りの目もここなら気にする必要がないとどこか油断していた部分が、私のダサい私服に現れていた。スニーカーだってもう何年も履いているのにまだ買い替えていないくらいに。それはルームメイトのハナと離ればなれになってから、彼女の影響が私とハナの距離くらいにかつての地味な自分に逆戻りしていたに違いない。
それに比べエマは太陽だった。そんな彼女に仕事を自分が教えるなんてどうして……今からでも遅くない。主任に言って誰かに変わってもらった方が。
その時、自分の肩の上にポンポンと軽く叩かれ振り返るとエマが私に訊いてきた。
「あの利用者さんが自分のスプーンがないって言ってるんだけど分かる?」
「ああ、はいはい」
サラはその利用者の隣にいる車椅子に乗っているお婆さんに話しをかけ、それから本人と車椅子の間に手を差し込み周りを見てみると、そこからお隣さんのスプーンが出てきた。
「この方はついつい近くにあるものをこうして車椅子の間に差し込むの。だから二人がいるテーブル席では食事が配膳する時に一緒に食器を出してあげればいいの」
「そうなのね」
その時、主任が通りがかり「これから外出してきます」とその場にいた職員に声をかけると、さっさと行ってしまった。
結局、その日は主任に相談できずに終わってしまった。
早番勤務が終わり、夕方には二人で一階にあるロッカールームへ行き帰る支度をし始めた。すると、エマから「今日は色々教えてくださりありがとう」とお礼を言ってきた。
「いえいえ、当然のことをしたまでです。何か分からないことがあったら遠離なく訊いてね」
「あの」
「はい」
「私じゃやりにくいですか?」
「え?」
「私が元男だから?」
「いえ、そんなことないです! ただ、私より覚えるのが早くて、私なんかより他の人が教えた方がいいんじゃないかって……私、まだ3年目だし、ベテランってほどじゃ」
「サラさんはベテランですよ」
「え?」
「細かいところ見てて、皆さんの気配りも出来るし、私はサラさんに教えてもらえて良かった」
「そ、そう? なら良かった」
「そうだ。この後、一緒にご飯行かない?」
「ご飯?」
「ええ」
結局私は断れなかった。別に嫌ってわけでも、予定があったわけでもなかった。ただ、誘われた時は少し戸惑いがあった。エマにとって私はどう見えるのだろうかと。
ご飯は町中にある古くからある洋食店だった。二人はそこで窓側の角のテーブル席についた。
「あの、今日は誘っていただきありがとうございます」
「サラさん、外ではお互い気楽にいかない? 私のことはエマでいいよ」
「なら、私もサラでいいわ。あの、一つ訊いてもいい? 失礼じゃなければだけど、どうして介護の道に?」
「祖母の世話がきっかけに。半年前に亡くなったけど祖母は最後までずっと私の味方でいてくれた。私が女性になるって言い出した時も」
「お婆さん優しかったの?」
「むしろ祖母は厳しい人だったよ。でも、私の理解者だった。私が女になりたいと言った時、父は反対してて、その時祖母が一緒に説得してくれたの。私は父が嫌いで本当は父が反対でも女になるつもりだった。あの人は厳格で、いつも朝早くから父とランキングや筋トレをみっちりトレーニングして体を鍛えたり、考え方が古いというか、とにかく私を男らしく仕上げたかったんだと思う。多分、自分の息子だから強い男子になって跡を継いでもらいたかったんじゃないかしら。でも、その自分は嫌だった。だから早く家を出たかった。家を出て自由になりたかった。ロック以外の音楽も聴きたいし、筋トレも本当はしたくはなかった。私がしたいのとは違うと思った」
「ちょっと待って。エマは生きる為に女になったんだよね?」
「いいえ。私は本当に女になりたかったのよ」
「え!? あ、ごめん。勘違いしてた」
「別に気にしない」
「あの……それで結局どうなったの?」
「学校を卒業した足でそのまま家出」
「えぇー!?」
「私は家に帰らなかった。バイトで貯めたお金で別の街に引っ越しをして、そこで好きなように生きることにした」
「それで、実家にはもう一度も戻ってないの?」
「ううん。一度だけ。でも、その時には私は女になっていた」
「え?」
エマは笑っていた。それを見てサラも思わずニヤリとしてしまった。
「母はびっくりして腰抜かして、父は暫くその場から動けなくなってた」
サラは「ごめん」と謝りながら堪えきれず爆笑した。
「いいの。それで父はカンカンに怒って、でも、それを止めてくれたのは祖母だった。むしろ祖母はこれから生きていくには男は女にならんといけないらしいからお前もこの際息子と同じく女になったらいいじゃないかって言ったの。父は激怒してたわ。父には最後まで理解出来ないことだったでしょうね。女になるってことが。自分は意地でも女になんかならんって、女になるなら死んでやると言って、そしたら本当に死んじゃった」
「……」
「ただのカゼだった。父は既に免疫が落ちていたの」
「なんと言ったら」
「ああ、いいの。気にしないで。母はその一件があってから私を受け入れてくれた。むしろ感謝してるかも」
二人はクスっと笑った。
「でも、本当に望んでいない男はこれからどうなるのかしら」
「本当に男がいなくなってしまうとか?」
「そうじゃなくて、男として生きたいのに生きられないって辛いじゃない。私はその気持ちが理解出来る。男なんていなくなってしまえば皆は幸せになるのか、もしくは女は幸せになれるのだろうか、少なくとも全員ではない。むしろ、運命の日は残酷な未来の始まりでしょうね」
私はそれを聞いてハッとした。確かにその通りだ。なのに、私はそれに直ぐには気づけなかった。
あの日から私達の関係性は深まっていった。彼女の働きも素晴らしく、お互いフォローし合える仲となった。
施設は基本全個室。今はそれが流行りなのだ。施設によっては居室の管理、掃除は家族にお願いすることもあり、契約時からそれが言い渡されることもあるが、半分の家族は面会にすら来ない。だから、結局そんなルールがあろうとなかろうと結局職員がやることになる。曜日で割り振り、部屋のリネン交換後に掃除機をかける。ここの施設長は若く、なんでも日本の福祉に興味があって訪日した際に、ユニット型の特養を見て参考にしたらしい。
私は日本おろか海外に行ったことすらなかった。結婚すれば、新婚旅行で行くこともあるかもしれない。結婚出来ればだけど。
エマは良い人で本当にこの職場に来てくれて良かったと思う。私も新人に負けないようにしなくちゃと気が引き締まった。
そんなある9月の頃。遂に世界中の男性の割合が四割を切った。そして、更に報道は続く。世界中の男女間の個人レベルでの格差が改善され始めてきたというものだった。因みに性差を世帯資産での測定から既に個人での測定に切り替わっている。それは貧困層の女性の中に非貧困世帯が含まれている現状があったからだ。※家計が平等に分配されるという前提はなく、また経済的虐待等の社会問題もあったからだ。
ただ、一方で社会学者はいう。男女間の格差が男性の女化と関係があるにせよ、格差そのものがこの世から無くなることはないと警告した。新たな格差が生まれるだろうと。つまり、人間社会から格差は無くならないというのが学者の言い分だった。
男と女がいがみ合って、それが今度は女同士のいがみ合いになる。いや、女同士の争いは前から存在した。私はそれを避けて生きてきた。弱い者は強い者に虐げられる。それは女同士でも同じこと。
どうしてこの世は良いことどり出来ないのだろうか。エマに言ったらきっと彼女ならこう返すだろう。欠点があるのが人間だから。それも魅力的になる。
この仕事をしていると人は欠点だらけだと感じることがある。それは自分に対してだ。自分が嫌になることだってある。でも、なんだかんだとめげずにやってきた。
それって生きる強さだと思う。
ここにいる皆も。
人間はカゼになんかに本当は負けたりなんかしない。それは科学でも薬でもない。
私はそう信じている。信じることにした。
12月、どの街も家もこの時期はクリスマスムード一色。そして、世界はというと男女の割合は女性が七割となっていた。残りの男達は抵抗する為に防護服を着て生活している。