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少女は目覚める


 そもそも人間という矮小な生き物が何故この世界に生まれ落ちてきたのか、彗主はずっと疑念を覚えていた。

 人間さえ存在しなければ、この世界は竜にとって完全無欠な楽園となる筈だった。


 強靭な肉体と魔力を併せ持ち、ゆっくりと時を刻む竜は畢竟ひっきょう、長命であり、生きとし生けるものの頂点に長い年月君臨していた。天敵と言えるほどの天敵は存在せず、同族で殺し合うような愚かな真似もしない。


 糧となるのは大地のエネルギーで、幼竜の頃は溶岩を好むし、成竜となった後は気紛れのように溶岩を食し、澄んだ水で喉を潤す。

 自然の恵みがある限りは飢える事はなく、地を這う人間を脅威だと感じた事もなかった。


 それがいつの間にか、竜の魔力と対極をなす法術という力を身に着けた人間が世に蔓延はびこるようになり、彼らは命知らずにもその法術を使って竜を狩り始めた。


 それはある意味、自然の淘汰であったのかもしれない。生物のヒエラルキーの頂点に立ち、増え続ける竜をこの世界が懸念し、それに拮抗する力をわざと人間に与えたかのようだった。


 そして、竜を縛るもう一つの宿命。

 それは人の絶滅を恐れる竜の本能だった。

 人間がいかに優れた法術師を生み出そうと、強大な力を有する竜が一丸となって排除しようとすれば、人間を絶滅させる事はそう難しい事ではない。けれどそれができぬように、世界は気紛れのように人との共存の選択肢を竜の前に差し出した。


 まるで抗い難いごうに引き摺られるように、数十頭に一頭の竜は種族の違う人間に激しい恋心を抱く。

 次世代に命を繋ぐ事のできない異種間の恋に溺れた竜は、その人間に誓約の刻印を授け、誠実な愛情を番に捧げ続けた。


 彗主に言わせれば笑止千万だった。

 竜には元々、同じ相手と生涯を共にするという概念は乏しい。熱に浮かされたように束の間の恋に溺れ込んだとしても、時と共に想いは薄らいでいき、千数百年という長い生涯の間に何度か恋人を変えていくというのが常だった。


 けれど、人間に刻印を与える竜は違う。

 彼らは一世一代いっせいちだいの恋に溺れ込み、種の保存という絶対的な自然界の理に背いて尚、その唯一の相手だけを狂ったように求め続けた。


 そうした彼らの心情が、彗主には全く理解できなかった。

 彗主は黄金竜であり、この竜種は他に比べて竜至上主義が強い事で知られている。考え方や行動が抜きん出て保守的で、排他的な傾向が強く、性格は獰猛、かつ凶暴だ。


 その黄金種の純血である彗主もまた、竜こそが世界で一番優れた生き物だと思い込んでおり、人という存在そのものを嫌っていた。

 人間は力が脆弱なくせに欲だけは一人前で、小賢しく知恵だけは回る。同族で殺し合いをする愚かしさも、彗主にとっては許し難いものだった。


 そうした人間を心から忌み抜いてきたというのに、自分が何故『噛み』という行為を人間の子どもに許してしまったのか、彗主には全く自分自身が理解できなかった。

 あの時はきっと頭が湧いていたに違いない。

 いや、前足で掴んでいるこの塊を空から放り出せないでいる今も、現在進行形でイカレているのかもしれなかった。


 彗主はそのまま山を一つ超え、山の間を流れる川のほとりで降り立った。

 岩と岩の間の僅かな草場に慎重に子どもを下ろし、鼻先を子どもの顔に近付けて生きている事を確かめた。


 子どもは死んだように眠っていた。だらんと四肢を伸ばし、目覚める気配もない。


 それにしても薄汚れた子どもだなと、彗主はしみじみと子どもを見下した。

 肩より少し下まで伸ばされた髪や衣服には血がこびりついていて、服の下から覗く手首は骨が浮くほど細っこい。身に付けている服もまた粗末な麻布で、肘や膝の辺りの布が擦り切れていた。


 これからどうしたものかな……と彗主は溜め息をついた。

 鈎爪でひと掻きすれば、あっさりと刈り取れる命だった。だがそのひと手間が、ひどく億劫に感じられた。


 何も今、早急に答えを出す必要もないだろう。

 森には獣もいるし、放っておけばいずれ死ぬ。こんなひ弱な子どもを、自分がわざわざ手にかけてやる必要などどこにもないのだ。


 彗主はそう思いつき、その結論に至った事に対し、大きな安堵を覚えた。


 子どもは何も知らずに、深い寝息を立てて眠っている。

 彗主は子どもの傍でゆったりと腹ばいとなり、子どもの寝息を感じながら満足そうに目を閉じた。





 さらさらと川の流れる音がしていた。


 目が覚めて最初に目に入ったのは、すぐ目と鼻の先にあるごつごつとした岩だった。

 どうやら岩の間にできた細長い草地で眠っていたらしく、ヴィレが体を起こすと、血で固まった衣服がごわごわと音を立てた。


 寝返りも打たずに爆睡していたからだろうか、体の節々が妙に痛い。

 空を見上げると、陽はさほど高くなかった。

 岩の向こうにあった低木がちょうど顔の部分を強い日差しから遮ってくれていたようで、身を起こしたせいで眩い陽光がまともに顔を照らしてきた。


「ここ、どこ……?」


 手で陽を遮りながら、ヴィレは困惑したように辺りを見渡した。

 岩が途切れたすぐ先まで森が迫っていて、ヴィレを挟んだ向かい側には川がある。川の幅はそこそこあり、すぐ下流で大きく湾曲して、小さな渦を作りながらゆったりと流れていた。


 森の向こうからは山鳥の長閑のどかな鳴き声が響いている。川が近いからだろうか、夏特有の水の匂いと若葉が醸し出すむっとするような草いきれが鼻をついた。


 と、自分の体に目を落としたヴィレはぎくりと体を強張らせた。麻の上衣には赤黒い血がこびりつき、見れば自分の両手も血に塗れていた。


 これはお母さんの血だ……。

 そう思い出した途端、忌まわしい記憶が一気に脳裏から溢れ出てきた。



 ヴィレはふた月ほど前から、西方の国に向かう商団と一緒に旅をしていた。その隊商に雇われていた煮炊き女がたまたま病を得たとかで募集があり、母が雇われる事になったのだ。

 下女の子どもであるヴィレは幌馬車に乗せてもらった事はない。毎日毎日、足が棒になるほど歩き通しだったけれど、母と一緒の旅は嫌ではなかった。

 

 二日前の晩、街道から少し逸れた草地に野営の天幕を張り、ヴィレ達は隊商の皆とごろ寝をしていた。この街道には時々夜盗も出ると聞いていたから、護衛が二人ほど見張りに立っていたのをぼんやりと覚えている。

 歩き通しで疲れていたヴィレはすぐに眠りに落ちてしまい、薄暗闇の中、どうにも様子が変だと枕から頭をもたげた頃にはすでに略奪と殺戮が始まっていた。


 矢でも射られたのだろうか、甲高い馬のいななきが夜の静寂しじまを長く切っていったのを、今も鮮明に覚えている。

 逃げ惑う人々の足音や剣戟のぶつかり合う音。そこらかしこで聞こえるおめき声から耳を塞ぐようにして、ヴィレは母に手を引かれるまま夜の闇へと飛び出した。



 夜盗どもに見つからずに山に逃げおおせたのは奇跡に近かった。

 ちょうど雲で月が覆われ、篝火の届かない場所は深い闇に覆われていた。夜盗どもは武器を持って応戦する男達を襲うのに手いっぱいで、こっそりと逃げ出した母子に気付く者はいなかった。


 山を上る途中でようやく見つけた小さな岩穴に、母はヴィレの体を押し込んだ。

 一緒に隠れようと母の服を引っ張ったけれど、母は頷かなかった。その穴は、大人の体を隠せるほど大きいものではなかったのだ。

 絶対に声を上げては駄目よと険しい顔で何度もヴィレに言い聞かせ、母は外側から木の枝や枯れ草で入り口を塞いでくれた。


 ヴィレは母の言いつけを守った。膝を抱え、歯を食い縛り、じっと穴の中に蹲っていた。そして悲鳴や喧騒が遠ざかり、木々を嬲る風の音だけが辺りを押し包むようになった頃、ヴィレはそろそろと穴から這い出して、そこからかなり上ったところに母の遺体を見つけたのだ。


 血塗れになった母の体に取り縋り、ヴィレは必死で母を揺り起こそうとした。

 声が枯れるほど泣き叫んでも、母は返事をしてくれない。母は胸から腹を大きく切られていて、乾ききらない母の血がヴィレの手や服を赤く染めた。

 やがて体は少しずつ冷たくなっていき、東の空が明るくなり始めた頃にヴィレは母を起こす事を諦めた。


 他に誰か生きてはいないだろうかと、ヴィレはよろめきながら山道を下り、天幕のところまで戻ってみた。

 そこはまるで地獄絵図だった。

 遺体が折り重なり、血塗れの刀が地面に突き刺さっている。切り落とされた手の指や膝から先の足が、無情に放置されていた。


 顔見知りになった御者のおじいさんも、この仕事が終わったら家族の許に帰るつもりだと笑って話していた護衛のお兄さんも、苦悶と恐怖を顔に張り付けて事切れていた。

 生き残りは誰もいない。

 鉄錆と生臭い臓器の匂いが辺りをむっと押し包んでいて、堪えきれずにヴィレは吐いた。


 命拾いをした事が幸運なのか、ヴィレにはわからなかった。

 とぼとぼと母のところへ戻ろうとして、ヴィレはふと、血と泥で汚れた古びた外套が地面に落ちている事に気が付いた。

 誰のものかはわからなかったけれど、躊躇った末にヴィレはそれを手に取った。

 母の体を覆いたいと思ったからだ。


「お母さん……」


 ヴィレは啜り泣きながら母のところに戻り、その外套を母の体の上にそっとかけた。

 本当は遺体を埋めてあげたかったけれど、ヴィレの力では無理だった。だから布を掛けた上にそこらにあった草花を摘んで、母に手向けた。


 自分が逃げ延びた事をあの夜盗達が嗅ぎつけたのは、それからすぐの事だった。

 目ぼしいものが残っていないか、もう一度天幕を確かめに来た夜盗達は、おそらく母の遺体を見つけたのだろう。

 遺体に外套が被せられ、その上に草花が置かれているのを見た夜盗達は、昨日襲った隊商の中に生き残りがいると確信した。


 気が付けばヴィレは追われていた。

 体の小ささを生かして何とか追手を撒こうとしたけれども、夜盗達は執拗だった。

 とうとう崖の縁まで追い詰められて、もう駄目だと観念した時に、ヴィレは上空を優雅に舞う巨大な竜の影に気付いたのだ。


「あの後、あたし竜に殺されたんじゃなかったっけ?」


 頬を伝う涙を拳でぬぐいながら、ヴィレは思わず眉根を寄せた。


 それを望んだのは自分だった。

 大好きなお母さんは殺されてしまったし、この先どうやって生きていけばいいかもわからなかった。

 お日様の色を纏ったあの獰猛な竜はヴィレの願いを聞き届けて夜盗どもを殺してくれた。そして猛々しい殺気を纏わせたままヴィレへと向き直り、首に牙を突き立てた筈であったのだ。


「なのに何であたし、まだ生きてんの……?」


 牙を立てられた首筋は、まだじくりとした熱を孕んでいた。体も何だかぽかぽかしている。

 まるで風邪のひきかけのような、何とも言いようがない違和感が体の中に感じられた。


 途中で竜の気が変わって殺すのを止めたのかなとヴィレは首を傾げた。

 そこまではまだわかるけれど、ここは一体どこだろう。誰がここに自分を運んでくれたのだろうか。


 訳がわからず自分の手をぼんやりと見下ろした時、枯れ枝を踏むピシッという小さな音がヴィレの耳朶を打った。

 何かがこちらに近付こうとしている。

 ヴィレは体を強張らせ、警戒するようにそちらへと目を向けた。


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