番は秘密を話す
その日から、ヴィレは毎晩、桜姫と眠るようになった。
最初に会った時は桜姫に近寄り難さのようなものを覚えていたヴィレだが、距離が縮まってくると、桜姫は穏やかで情が深く、とても面倒見のいい性格だとわかった。
眠る前に御伽草子を読んでくれて、何くれとなく世話をやいてくれる。ヴィレが時々お母さんを思い出して泣いていたら、泣き止むまで優しく頭を撫でてくれた。
その桜姫の額と両腕にはびっしりと呪字が刻まれていた。桜姫は髪や衣装でなるべく隠そうとしていたが、一緒に寝起きしていれば何かの拍子にそれが露になり、ヴィレは見ていて胸が痛くなった。
あの呪字は竜が持つ魔力を封じる枷だ。
竜を狩る時、法術師らは毒矢などで竜を弱らせて人間に変化させ、捕縛の紐を掛けていくと聞いた事があった。紐には呪字が刻まれていて、その文字が竜に触れるや否や、刺青のように皮膚に張り付いていくのだ。
一度肌に刻まれた呪字は、法術師以外は解く事ができない。だから桜姫はこの先もずっと呪字に縛られていくのだろう。
桜姫の呪字を目にする度にヴィレはやり場のない哀しみを覚え、一方で深い恐怖を覚えずにはいられなかった。
自分が呪字の事を知っていると知られれば、桜姫に嫌われるようになるのではと思ったからだ。
桜姫は聡明で公平な竜だ。法術師に魔力を封じられながらも、闇雲に人間を嫌うような事はしない。竜が番とした人間達と一緒に暮らしている事からもそれが窺い知れた。
けれど、法術に関わっている人間に対してはどうだろうか。ヴィレは僅かながら法術を扱える。竜化を封じ、自分を地に縛り付けるようになった法術師に近しいヴィレを、桜姫は果たして受け入れられるものだろうか。
桜姫と眠るようになった翌々日から、ヴィレには教育係が付くようになった。
まだ七つのヴィレには覚えなくてはならない事がたくさんある。それまでは朝から晩まで自由に遊んでいたが、ただ甘やかせて愛情を注ぐだけでは駄目だと桜姫が言い出したのだ。
その教育係を選ぶにあたって、桜姫は迷わずにアヴィを指名した。アヴィの教養やマナーはここに暮らす女性達の中でも抜きん出ている。読み書きや算術といった基本的な座学だけでなく、優雅な立ち居振る舞いや礼儀作法を、アヴィは教えてやる事ができるだろう。
アヴィがヴィレに付きっ切りでものを教えてやっている間、番の獅枇は同じ部屋でおとなしく書を読んでいた。そのようしてくれと桜姫が頼んだからだ。
ヴィレに刻印を与えた彗主は、ヴィレをほとんど構おうとしない。毎日ヴィレのために狩りをして、一日一度は声を掛けてやっているようだが、それ以外は気ままに遊び暮らしていた。
そんな彗主は、話し相手や一緒に空翔けをする相手がちょっと欲しくなると、幼馴染みの獅枇のところへやってくる。だからアヴィを教育係にすればちょうどいいと桜姫は思ったのだ。
とにかく彗主にはできるだけ誓約者と関わらせなければいけない。
望んだ『噛み』ではなかったとはいえ、彗主の魂にはすでにヴィレの色が混じっているのだ。それを自覚させなければならなかった。
日々は平穏に過ぎていた。
ヴィレは毎朝、アヴィに勉強を教えてもらい、午後からは隠れ処に住まう女達と遊んでもらう。
そんなある日、桜姫が以前人間の子どもを可愛がっていたという話を耳にしたヴィレは、その事を直接、桜姫に聞いてみる事にした。
「桜姫はずっと前に里の子どもを可愛がっていたって聞いたけど、本当なの?」
一緒の布団に入り、ヴィレの掛布団を治してやっていた桜姫は、その言葉にふっとその手を止めた。
それからややあって、「ええ」と小さく頷いた。
「そうね。そんな時期もあったわね」
その声がひどく寂しそうであったので、ヴィレはそれ以上聞く事ができなかった。
その子は桜姫が竜であった頃に出会った子どもだろうか。それとも、無理やり人型に変化させられた後に、知り合った子だろうか。
問いを呑み込んで俯いたヴィレの頭を、桜姫が優しく撫でた。
「その子はね、もう死んでしまったの。それが辛くてあまり思い出さないようにしていたけれど、時々は思い出すようにした方があの子も喜ぶかもしれないわね」
じゃあ、その子の事を嫌ってはいないのかな……と、ヴィレはおそるおそる桜姫の顔を見上げた。
桜姫はぽつぽつとその子との出会いについて話し聞かせてくれた。
その子どもの名前はリアラと言い、山に囲まれた小さな邑で父親と二人暮らしていたらしい。猟師だった父親が熊に襲われて大怪我をし、寝付くようになったため、薬草を求めて一人山に入ってしまったのだと言う。
鬱蒼とした山の中で道に迷い、日が暮れて一歩も動けなくなっていたリアラを空から見つけた桜姫は、人姿になってリアラのところに行き、一晩を一緒に過ごしてやった。
「リアラは無事に薬草を摘んで戻る事はできたけれど、お父さんは結局死んでしまったの。一人ぼっちになったその子は、山に入っては薬草を摘み、それを僅かなお金に換えて生活するようになったわ。山の中には熊や狼もいるし、とても放っておけなかった。だから、つい手を貸すようになってしまったの」
桜姫はそこまで言って口を閉ざした。
おそらくそのせいで、周囲がおかしいと思うようになったのだろうとヴィレは思った。
薬草を摘むというのは、とても危険な仕事だ。山は天気が変わりやすいし、獣道で足を滑らせて大怪我を負う事もある。猟師であったその子の父親が熊に襲われたように、危険な獣に遭遇する危険も高いのだ。
そんな中、非力な子どもが一人で山に分け入って、毎回無事に薬草を摘んで戻ってくれば、何かあるのではと誰かが疑ってもおかしくない。
桜姫が法術師に襲われて呪字を刻まれたのは、そのせいだったのではないかとヴィレは考えた。
その晩、ヴィレは桜姫と一緒の布団で眠りながら、まんじりともせずに夜を過ごした。
桜姫はそれ以上を語ろうとしなかったけれど、桜姫がその子どもの死を心から悼んでいる事だけはわかった。
もし自分のせいで大好きな竜が法術師に掴まってしまったとしたら、リアラというその子どもはどうするだろう。
何とかして桜姫を助けようとするのではないだろうか。
多分、リアラという子どもは正しい行動を起こしたのだ。
でなければ、呪字を刻まれた桜姫が法術師の許から逃げ出せた筈がない。
桜姫の寝顔をそっと見つめながら、ヴィレはごめんなさいと心の中で呟いた。
これほど桜姫に優しくしてもらっているのに、自分はそれに見合う誠実さを返せていない。
布団の中で何度となく寝返りを打ちながら、ヴィレは自分を庇って死んだ母の事を思い出した。
どんなに辛い事があっても、母は黙ってそれを心に吞み込み、優しさだけをヴィレに与えてくれた。
母は最後までヴィレの幸せを願ってくれたけれども、自分はそんな母の思いに適う娘になれているだろうか。
もし真実を告げた事でこの温もりを失う事があるとしても、ヴィレは誰に恥じる事もなく、真っ直ぐに頭を上げていられる。
それが一番大事だと思った。
このまま自分の心を偽って生きるよりも、与えられた優しさに誠実に応えられる自分でいたいと、ヴィレは薄暗闇の中で何度も自分にそう言い聞かせた。
「すっかりあの子がいる生活に慣れてしまったわね」
広い中庭で女達と目隠し鬼をして遊んでいるヴィレを窓から見下ろして、桜姫は淡い溜め息を零した。
その傍には、同じように窓辺から外を眺めている桂姫の姿がある。
この隠れ処は満ち足りて穏やかな平穏に満ちていたが、唯一子どもの笑い声に欠けていた。
あの子どもが来てから隠れ処に活気が戻り、皆はそれを歓迎している。
桜姫自身もまた、決断を下す凛主が未だ帰って来ていない事を理由に、ずるずるとこの現状を受け入れていた。
「素直な子だわ。母親の愛情をたっぷり受けて育っているから、考え方が真っ直ぐで、傍にいると心地良いの。生まれ育った邑では理不尽な思いもさせられていたようだけど、それが歪みに結び付かなかったのはすごい事ね」
桜姫の言葉に、「ええ」と桂姫が微笑んだ。
「あの子は人を妬む事を知らないし、時にじれったくなるほど謙虚だわ。だからつい、何かをしてあげたくなるの。きっと皆も同じなのでしょうね」
ヴィレはすっかりこの隠れ処に馴染み、日々の勉強も頑張っているようだ。
今日はこんな事を習った、今日はこれができるようになったと、毎日皆に報告するようになっていた。
「あの子ね、法術師の訓練をさせられていたみたいなの」
唇に笑みを残したまま桜姫がぽつんとそう呟き、桂姫は驚いて桜姫の顔を見た。
「まさか……」
法術師という言葉は、竜にとって禁忌に近しかった。
彼らは竜を狩る事を生業とし、獲物と見定めた竜を半死半生にする。
殺すのではなく、生け捕りにするのが彼らの目的であるようだが、力に溢れた竜が死に物狂いで抵抗するため、極限まで竜を痛めつける結果となってしまうのだ。
桜姫は何とか命を繋ぐ事ができたが、魔力を封じる呪字を肌に刻まれてしまい、生涯竜の姿に戻る事はできなくなった。
その悍ましい呪字は今も桜姫の魔力を吸い取りながら、肌の上でゆっくりと蠢いている。朱殷色のその文字を消そうと肌に刃を立てた事もあったが、どれほど体に傷をつけても呪字を消す事はできなかった。
「ずっと添い寝をしていたでしょう? だからようやく、警戒心を解いてくれたみたい。ある日、泣きながら告白してきたの。自分は法術師の訓練をさせられていたんだって」
「……そうだったの。そう言えば、あの子は幼い頃に人買いに攫われて、どこかのお屋敷に連れて行かれたと話していたわね」
「ええ。皆に嫌われるのが怖くて言えなかったと言っていたわ」
「訓練をさせられたのはヴィレのせいではないわ。人攫いに攫われた子に、他にどんな選択肢があって?」
桂姫が痛ましそうに呟き、桜姫も大きく頷いた。
「貴方の言う通りよ。
その時にね、私の額を指さしながら、あの子が泣きながら言ったの。この文字なら消せるよって。怨と縛と酷の呪型が絡まった一番簡単な字母だから習った事があると」
「まさか……消えたの?」
「ええ」
桜姫は当時の感覚を思い起こすようにそっと瞳を閉じた。
「ヴィレが口の中で何かを呟きながら呪字の一つに手を翳したら、甲高い耳鳴りにも似た音が頭の中に響いたわ。
悍ましい触手なようなものを力づくで魂の核から引き剥がすような浮遊の感覚を覚えて、気付けば竜脈の一つが回復していたの。
勿論、額と腕にびっしりと書き込まれた呪字の中のたった一文字を消しただけだから、何ができるようになったという訳ではないの。
でも、僅かな竜脈を感じられるようになっただけでも嬉しかったわ」
「法術師が竜に呪字を刻んで魔力を封じる事は知っていたけれど、まさか呪字が消せるなんて……。
桜姫。これは大きな発見よ。今まで私達竜は法術師やその力について余りに無知で無力だったわ。この事を皆にも周知させるべきなのではなくて?」
「私もそれは考えたのだけれど、そのためにはヴィレが法術師の訓練を受けていたという事実を皆に知らせなければならないでしょう? 竜やその番は法術師という存在を憎み切っているから、この事を公にしたらヴィレが追い詰められてしまうんじゃないかと心配なの。
凛主が帰ってきたら相談をして、凛主が知り得たという形で皆に知らせようかと思っているのだけど」
「……確かにそれがいいかもしれないわ」
呟くように桂姫が言った。
と、歓声と小さな拍手が中庭の方から聞こえてきて、桜姫と桂姫は思わずそちらに目を向ける。
目隠し鬼にも飽きたのだろう。それまで目隠しに使っていた領巾を使って、アヴィが見事な舞を皆に披露していた。
風にそよぐ領巾の動きまでも計算に入れたその舞は、優雅でありながら艶めかしい色香を放っている。アヴィは体幹がしっかりしているため、どんな激しい動きを踊っても決して芯がぶれなかった。緩急をつけた動きで周囲の目を引きつけて、すっと動きを止める。その舞には音色があり、儚さと力強さが同時に存在していた。
ぽかんと口を開けてその舞を眺めていたヴィレが、舞い終わったアヴィに感極まったように抱き着いた。口の動きから、お姫様みたいと言っているのがわかる。
「みたいじゃなくて、本当のお姫様なのだけどね」
桜姫がくすりと笑い、桂姫も楽しそうに頷いた。
「獅枇がアヴィを攫ったおかげで、竜族は随分評判を落としたものだわ。相思相愛の駆け落ちだったのに、まるで竜が一方的に横恋慕して攫ったみたいに語られて……」
「仕方がないわ。そういう体裁を整えなければ、アヴィの故国は無事では済まなかったもの。獅枇が悪役を買って出る事で、あの国は戦を免れたのよ」
「戦とならなかったのはいい事だけれど、お陰で竜族はあの国からかなり恨まれたわ。
よりによって王族の姫を伴侶に迎えたいだなんて、獅枇は本当にとんでもない事をしたものね」




