番は竜の常識を教えられる?
桜姫の膝の上で泣きじゃくる内に、ヴィレはいつの間にか寝入ってしまったらしい。
午睡から覚めれば、昨日泊まった部屋に誰かが運んでくれていた。
クッションの置かれた床榻から身を起こし、どれだけ眠ってしまったのだろうとヴィレはぼんやりと辺りを見回した。
外はまだ十分に明るい。眠っていたのはせいぜい半刻かそこらなのではないだろうか。
ごそごそと部屋の中を探検していると、その音が聞こえたのだろう。廊下側から「入ってもいい?」という声が掛けられた。
走って行って扉を開ければ、そこには午前中にヴィレを訪れたお姉さん達がいっぱい立っていた。
幾人かの女の人は衣装盆のようなものを持っていて、別の女の人は甘い匂いのする籠を持っている。
昼食はお腹いっぱい食べさせてもらったヴィレだが、鼻をくすぐる甘い匂いに思わずお腹がぐうっと鳴ってしまった。
「小腹も空いたみたいね。ちょうど良かったわ」
「おやつを持ってきたの。一緒にいただきましょう」
色とりどりのお菓子が卓子の上に並べられ、ヴィレはわあっと顔を輝かせた。
花を模った落雁や、黄金色のべっ甲飴細工、他にも生地を捩じって落花生をまぶしたような焼き菓子もあり、どれもこれも美味しそうだ。
ヴィレは小麦色をした一口サイズのお菓子を、そっと指で摘まんで口の中に入れてみた。ほろほろと口の中で生地が解け、極上の美味しさだった。
ヴィレが満面の笑みでお菓子を頬張っているのを、女達は嬉しそうに眺めている。
ヴィレがもうお腹いっぱいだと言うとお菓子は部屋の隅に片づけられ、今度は衣装盆がヴィレの前に並べられた。
「これ、どうしたの?」
盆に乗せられていたのは、大人用の襦裙や様々な帯紐だった。端切れで花を模った可愛らしい簪や組紐でできた帯飾りなどもあり、その向こう側には丸い柄をした刺繡入り団扇も置いてある。
「全部ヴィレのものよ。本当は子ども用の襦裙や布靴が欲しいところだけれど、あいにくこの御殿にはないの。
今度街に下りる事があったら、買ってあげましょうね」
ヴィレが今身に着けているのは、袖の擦り切れた上衣とズボンである。色もすっかり褪せているし、膝や肘のところはてかてかだ。
浄化魔法をかけてもらったので服自体は清潔なのだが、余りにも見栄えが悪かった。
「少し大きいけれど、帯で詰めたら丈は何とかなるでしょう。
こちらにいらっしゃい。着せてあげるわ」
ヴィレはその場で服を脱いで大人用の襦裙を着せてもらった。大きすぎる上衣は襟のところで縫い縮めてもらい、裳の丈は帯で調整した。
「うわあ」とヴィレは思わず声を上げた。
姿見に映った自分はまるでお姫様か何かのようだ。ヴィレは滑らかな絹の衣にうっとりと指を這わせ、鏡の前で右を向き、左を向いておしゃまなポーズを取ってみた。
「ちょっとじっとしていてね」
一人の女性がヴィレの髪を掬い上げ、緩く結い上げていく。最後には金鎖が揺れる簪を髪に挿してくれた。
「何だかお嫁さんみたい!」
ヴィレがわくわくと姿見を覗き込んでいると、一人の女の人が楽しそうに話し掛けてきた。
「ヴィレは彗主のお嫁さんになるのだものね」
「セイーナ……!」
隣にいた桂姫が慌てて口を塞ごうとしたが、もう遅い。その言葉はしっかりとヴィレの耳に入っていた。
「あたし、アンジュのお嫁さんになるの?」
ヴィレは目を輝かせた。
悠々と空を旋回するアンジュの姿はものすごく格好良かった。
ヴィレを追い詰めていた夜盗達をあっという間にやっつけてくれて、ヴィレの首にその尖った牙を立てようとした時も、何故か嫌いにはなれなかった。
「竜のアンジュってね、とても格好良かったの。あたしもお嫁さん竜になって、アンジュと一緒に空を飛びたい!」
「ヴィレは竜になりたいの?」
桂姫が優しくヴィレの頭を撫でた。
「残念だけど、ヴィレ。竜は人間に変化できるけれど、人間は竜にはなれないわ」
桂姫としては取りあえずそちらの方向へ話を持っていき、お嫁さんの件を忘れてもらおうと思ったのだが、あいにくヴィレは桂姫の思い通りに流されてはくれなかった。
「じゃあ、竜になるのは諦めるね。それでさっきの話だけど、あたしが彗主のお嫁さんになるっていつ決まったのかなあ」
「えっと……」
桂姫は目を泳がせたが、その横からしっかりとした口調で割り込んできた女性がいた。
並み居る美女達の中にあって、一際抜きんでた美貌を放つ例のアヴィである。ヴィレを構いたくて仕方のなかったアヴィは嬉々とした口調で語りかけてきた。
「貴女の首に痕が残っているでしょう? それはヴィレの竜が求愛をしたという証拠よ」
「ヴィレの竜……」
何て素敵な響きだろうとヴィレはうっとりと目を潤ませた。
「アヴィ……」
傍にいたイレーニが慌ててアヴィの袖を引いたが、アヴィは意にも介さない。
「女性は大切にされて然るべきだわ。それがわからないようなら、理解できるまであの純血種に教えて差し上げればいいのよ」
獅枇に熱烈な求愛をされてこの隠れ処にやって来たアヴィだが、ここで暮らし始めてほどなく、突然やってきた彗主にぼろくそに言われた。
マクレーンの王族の姫で聡明で気品に溢れ、その美しさに陰りなしと吟遊詩人達から謳われていた自分を、何の取り柄もない足手まといの役立たずだと正面切って言い捨てたのは、あの馬鹿竜が初めてだ。
アヴィは執念深かったので、五十年経った今もしっかりと当時の恨みを覚えていた。
「アンジュのお嫁さん」
一方のヴィレは胸元で手を合わせて余韻に浸っていたが、ややあって疑問を覚えたか、アヴィの方に向き直ってきた。
「竜のお嫁さんって何をするの?」
アヴィはうっと言葉に詰まった。
元々お姫様であったアヴィは、日常生活に関する事は全て侍女にやってもらっていた。
王族の姫として美しく着飾り、教養を身に着け、舞踊や書画、三弦琴などを嗜む事がアヴィの仕事であり、後は優雅に微笑んでいれば良かったのだ。
けれど、隠れ処に暮らし始めればそうもいかない。
一人で衣裳を脱ぎ着できなかったアヴィは、自分で身支度を整えるという事を覚え、一切の事を自分でしなくてはいけなくなった。
それはアヴィにとって、とてもハードルの高いものだった。
ちょっとお茶を嗜みたいと思っても、それを頼む侍女はいない。獅枇に手伝ってもらいながら何とかそうした日常をこなそうとしたのだが、どうやらアヴィにはその方面の才能が皆無であったらしい。
その事実は大いにアヴィのプライドを傷つけ、「アヴィは家事が嫌い」と獅枇に泣きついたら、何もしなくていいよと獅枇が言ってくれた。
なのでこの五十年間、アヴィは獅枇におんぶにだっこの状態だ。
彗主が足手まといの役立たずだと罵倒した程度には、実はしっかり獅枇のお荷物だった。
「何って、身の回りの世話をいろいろしてもらって、お茶が飲みたくなったらシェーンを呼ぶわ。
ちやほやされるのがお仕事かしら」
アヴィは堂々と言い放った。
「でも夜は一緒に寝て、きちんと満足させてあげているわよ」
「アヴィ……!」
傍にいたイレーニが悲鳴を上げた。
どこか浮世離れしたアヴィはいつもこんな感じだが、七つの子どもに向かってそんな説明はないだろう。
「ちやほやされるのがお仕事?」
ヴィレは首を傾げた。
「そう言えば、アンジュはヴィレのために狼を狩ってくれたけど……」
でも、そうやって調理してもらった狼肉は、この世のものとは思えないほどにまずかった。
あの時は空腹で仕方なかったからつい食べちゃったけど、あの後お腹がひっくり返るほど吐く羽目になったし、正直に言えばアンジュの手料理はもう二度と食べたくない。
むむむっと眉を寄せるヴィレに話し掛けたのは、セイーナだった。
「結婚生活にはいろいろな形があるのよ。アヴィのようにお婿さんが全部の家事をしてくれる場合もあるし、二人で分担する場合もあるわね」
「そうなの?」
「ええ」
セイーナは他の女性達とちらりと目を見交わしてにっこりと頷いた。
実際のところ、アヴィの家庭事情はかなり特殊な部類に入るのだが、ここでわざわざアヴィの面子を潰すような事を言わなくてもいいだろう。
第一、獅枇は好んでアヴィを甘やかせているのだ。本人達がそれで納得している以上、他人が口を挟むべきではない。
「話は戻るけれども、竜のお嫁さんだからって、特に何かをしなきゃいけないって事はないのよ。
竜はね、大地や自然から力をもらう存在だから、人間や他の動物のように食事をとらなくていいの。人間の食事を口にする事もできるけれど、番に付き合って口にする程度かな」
桂姫がその続きを引き取り、ヴィレは「番?」と首を傾げた。
「番ってなあに?」
「竜のお嫁さんかお婿さんよ」と桂姫は微笑んだ。
「それに竜の番となった人間も体質が変わってしまうから、余り食事をしなくなるわ。する必要がなくなるのね。
でもヴィレは違うわ。ヴィレはまだ体が小さいから、いっぱい飯を食べないといけないの。たくさん食べていっぱい眠るのがお仕事よ。できる?」
「うん!」とヴィレは元気良く頷いた。
「いっぱい食べていっぱい寝るね。
で、後はアンジュと一緒のお布団で寝たらいいのよね!」
「え。あー……、それはどうなのかしらね」
桂姫が口ごもり、先ほど余計な事を言ったアヴィを恨めしげに見た。
ここに連れてきたくらいだから、この子どもの事を彗主がまるで嫌っている訳ではないだろう。
けれど、あのプライドの高い俺様竜が子どもの添い寝をしてやるなど、天地がひっくり返ってもあり得ぬ事のような気がした。
周囲の女性達も、同じように思ったようだ。
皆で苦笑いを浮かべていると、アヴィがいい事を思いついたとばかりに、その秀麗な面にいたずらっぽい笑みを刷いた。
「その事なんだけど、ヴィレ。
彗主はこういった竜の常識にあまり詳しくないの」
「そうなの?」
「ええ。だから貴女が直接お願いした方がいいと思うわ。一緒のお布団で眠ってね……て。
いい事、ヴィレ。必ずアンジュって名前を呼んでからお願いするのよ。わかった?」
何て非道な……! とその場にいる女性達全員がそう思った。
名前を呼ばれて誓約者に命じられれば、竜は逆らえない。
ましてや彗主は純血種だ。何よりも枷に縛られるだろう。
「わかった! そうしてみるね」
何も知らないヴィレはにこにこと笑って頷いた。
本当に彗主に添い寝をさせる気なの? という目で女達はアヴィを見たが、アヴィは素知らぬ顔だ。
これでようやく五十年分の意趣返しができたと、口元に満足そうな笑みを浮かべた。




