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そして入籍へ

紫貴が、神社仏閣巡りを趣味としている事を事前にとっくに知っていた彰は、そういう場所が近くにある所がいい、と要に指示を出していた。

その甲斐あって、紫貴はすんなりと九州へ行く事を承諾し、実は前から高千穂峡に行ってみたかったのだと喜んだ。

つまりは、紫貴も行った事が無いということで、彰も初めてなので、二人で初めに体験するのをとても楽しみにしていた。

そして、何よりそこで、必ず紫貴と夜を共にして、出来たら子供を作りたい、と彰は待ち遠しくてならなかった。

紫貴がどう思っているのか知らないが、しかし来るからには分かっているだろうと思われた。

彰は、当日を指折り数えて待ち続けた。


前日の夜、泉大津港からフェリーに乗って、二人は出発した。四泊五日の旅だったが、そのうちの二泊は残念ながらフェリーでの宿泊だ。

一応フェリーでも特別室を取ったのだが、ここまで我慢したのだから、どうせならホテルのスイートのしよう、と彰は思い、その日は添い寝で我慢した。

案外にそういう所はロマンチストだった。

というか、そんなものだとネットで調べたので、その通りにしようと思ったからだった。

港にはチャーターしてあった車が待っていて、事前にきちんと工程を知らせてあったので、順調に観光地や神社を二人で回った。

運転手がカメラマンもしてくれるので、写真も二人でたくさん撮った。

つまりは、高千穂峡の舟に乗る時も、昼食にレストランに入る時も運転手は一緒だったが、彰は運転手を空気のように思っているようで、気にしてはいなかった。

いつも彰が外出する時はぴったりついているSPも、今回ばかりは遠慮して遠巻きに守っていたのだが、もしかしたら側に居ても良かったのかもしれない、と思ったほどだ。

彰は、つまりは紫貴しか見えていなかったのだ。

そんな一日を過ごして、ホテルへと到着した時には、もう夕方になっていた。

運転手はおいしい昼食ありがとうございましたと喜んで帰って行った。

結構高級な懐石料理を一緒に食べたのだから、運転手にしたらラッキーだったのかも知れない。

彰が予約したのは、最上階のスイートルームで、一泊かなりのお値段だ。

その上、SP達を両側の部屋に泊まらせるので、費用はかなりのものになる。

紫貴はこんなに良い部屋でなくても、と恐縮していたが、SP達だって同じ部屋に泊まる。

なので、気にする必要はなかった。

「…彰さん。」紫貴は、言った。「私は、確かにお金も大切なのですけど、そこまでセレブな生活を願ってはいませんの。だって、一緒に行けばどこでも楽しいでしょう?ちょっと良いお部屋に泊まるだけでも、心が浮き立つものですわ。同じお金で何度も旅行出来た方が、思い出もたくさん作れますし、私はいいです。だから、次からはここまで最高の旅を準備してくれなくてもいいですから。一緒にたくさん旅をしましょう。気軽に一泊で近くの温泉とかでもいいので。」

彰は、そんなものなのか、と頷いた。

「君がそう言うのなら。私はよく分からないのだ。ただ、私にはSPがついていて、それらがあまり同じ階にたくさんの一般人が泊まるのを喜ばないのだ。ここなら私達以外、この階に居ない。守りやすいのだ。」

紫貴は、寂しげに言った。

「…そうですね。彰さんは、きっと私には分からないほど重要な人物なのでしょうから。警備上の事だとおっしゃるのなら、何も申しませんわ。」

彰は、紫貴がそんなに一般客室が良いのなら、次からはその階全部を予約しておこうか、と内心思っていた。

それなら誰もその階に来ないし、問題ないからだ。

だが、紫貴が言っているのはそんなことではない。

無駄に自分に金を使うなということなのだ。

彰は、紫貴の肩を抱いた。

「さあ、今回は初めての旅なので気合いを入れただけなのだ。新婚旅行の代わりだと思ってくれればいい。それならおかしくないだろう?」

紫貴は、言われて顔を上げた。

「彰さんは、まだ私と結婚したいと思っておられますか?」

彰は、何を言っているのだという顔をした。

「もちろんだ。私は君との結婚の意思は変わらない。君は私では、駄目だと?」

途端に不安そうな顔をした彰に、紫貴は慌てて答えた。

「いえ、そうではありませんの。私はこのように何の取り柄もない女です。それなのに私にこれほどしてくださるのに、実は戸惑っているのです。若い時なら、きっと手放しに夢見心地になっていたのでしょうけど、私は若くはありません。そもそも条件だって、結婚向きではないのに。彰さんなら、いくらでも若くて綺麗な、結婚歴のない人を選べたでしょうに。信じたくても、なかなかに信じられる事ではありません。彰さんが嘘をついていると思っているのではありませんの。ただ、そのお気持ちがどこまで続くのかと…直に私は老いて行きますし。子供も産めなくなるでしょう。リスクが高過ぎますわ。」

紫貴は、まだ彰があっさり気持ちを変えると思っていたのだ。

今回の事も、一時の気の迷いでそのうちに夢から覚めるように、気持ちもなくなるのだろうと。

紫貴の前の夫とは、結婚して十年ほどで相手の態度が変わったのだという。

それは、これまでの会話で知っていた。

紫貴からしたら、同じように彰も変わってしまい、自分を疎むようになるのではと案じているのだ。

まして、前は若かったが、今回は年齢も上がっている。

簡単には信じたくても信じられないのだろう。

彰は、ため息をついた。

「…まず、私は君の前の夫とは違う。」彰は、辛抱強く言った。「生き方から全く。考え方などもっとだろう。浮気を繰り返すなど私にはあり得ない。なぜなら私は、女性を見たら最初にDNAやら持っている細菌やらのことを考える癖がある。性的対象には見ない。前に話した通りトラウマがあって、性的にと言われたら道具ぐらいにしか思えなかった。君が初めて人として向き合った女性。君が持つ体内の細菌のことまで熟知しているし、それすらも受け入れて良いと考えている。これは私にしてはとても大きな事なのだ。」

紫貴は、よく分からなかったが、頷いた。彰は続けた。

「歳のことは、これまで出逢わなかったのだから仕方がない。君なら既婚であろうが子供が小さかろうが、私は夫に大金を提示して別れさせ、手にしようと思っただろう。もちろん子達も一緒に。今出逢ったのは運命だし、それに逆らうつもりはない。時を遡れない以上、今が一番若いのだから今でいいではないか。私が良いと言っているのだ。前にも言ったように、不安ならば弁護士に公的証書を作らせるから、私が理不尽だと思ったら、君はいつでも出て行って良いのだ。だから私と、結婚して欲しいのだ。」

紫貴は、迷っているようだった。

彰を信じたいが、信じて裏切られるつらさをもう、味わいたくないのだろう。

彰は、そんな紫貴の様子を見て、思っていた以上に、紫貴の心の傷が深いのを知った。

前の夫を、社会的に抹殺してやろうかと思うぐらいだった。

「…それほどに心を煩わせる存在が前の夫なら、私が手を回して二度と表に出て来れないようにしてやろうか?」

紫貴は、驚いて顔を上げた。

冗談かと思ったが、彰の目は真剣だ。恐らく、彰にはそれが出来るのだろう。

悟った紫貴は、慌てて首を振った。

「いえ、あんな風でも子達には父親なのです。そこまでは望んでおりません。結局は…自分がしたことでたった一人になってしまったのですし。私には、それで十分です。」と、息をついた。「分かりました。彰さんがそんなにおっしゃるのなら、入籍しましょう。私はあなたの、妻になります。」

彰は、パアッと明るい顔をした。そして、急いで懐から、まるでお守りのように持ち歩いていた、婚姻届を引っ張り出した。

「じゃあ、ここにサインを。」見ると、他の欄は全部埋められてある。「帰って役所に提出しよう!その前に弁護士に立ち会わせて文書を作る。それでいいか?」

もう準備万端の彰に紫貴は目を丸くしていたが、頷いた。

「はい。では、それで。よろしくお願いいたします。」

テーブルの上に置いてみると、証人の欄には二人、要と、間下の名前が書かれてあった。

しかもこの婚姻届は、和柄が大きく薄く描かれてあって、紫貴は驚いた。

「今はこんな形の婚姻届なのですね。私の頃は、市役所でもらうものしかありませんでしたのに。」

彰は、頷いた。

「どうやら自分で作ることも出来るらしくて、間下が作ってくれたのだ。」

紫貴は、せっせと自分の名前を書く欄に記入して行く。

ちなみに本籍地や父母の名前の欄は、もう埋まっていた。

紫貴は、書き終わってそれを見つめた。

「…これが、彰さんの文字なんですね。」

形が綺麗に整っていて、几帳面な性格が垣間見える。

しかも、他の文字とバランスが取れていて、とても達筆に見えた。

紫貴の文字は、大らかな感じでふんわりと見える、しかし大人の文字で形は整っていた。

彰の文字より小さめだが、それが二人の、性格の違いが出ているようにも見えた。

書き終わった婚姻届を、それは大切そうに折りたたんで部屋の金庫に入れてある、自分の財布に挟むと、彰は紫貴を振り返った。

「必ず君を幸せにする。君の最期の瞬間まで生き抜いて、君を痛みもなく穏やかな状態で看取ってから私も逝く。後悔はさせない。」

紫貴は、そんな先の事まで考えてくれていたのかと驚いた顔をしたが、涙ぐんで、頷いた。

「はい。」と、両手を広げた。「こんな私にそこまで言っていただいて、とても嬉しいです。」

彰は、初めて紫貴から自分を迎えてくれたので、胸が熱くなってどこか悪くなったのかと思ったほどだったが、そんなことも構わない気持ちでその腕の中へと飛び込むと、紫貴を抱きしめた。

紫貴も、彰の胸に顔をうずめて彰を抱きしめてくれる。

それだけでも、驚くほどに幸福だ、と彰は思った。

そうしてそのまま、やっと彰は思いを遂げた。

まさかこの行為が、こんなにも幸福感を伴うものだとは、想像もしていなかった。


次の日から、彰は驚くほど落ち着いた雰囲気になった。

もう紫貴を誰にも取られることは無いという安心感もあったのだろうが、それよりも、愛する相手に愛されるという幸福を知って、心の安定を取り戻したようだった。

これまでの、どこかピリピリと張り詰めた感じがすっかり抜けてしまい、穏やかな空気を醸し出すようになった。

フェリーの船着き場まで迎えに出た要が、船から徒歩で降りて来た彰が、一瞬誰だか分からなかったぐらいだった。

そう、歩き方も紫貴を気遣っていて、変わってしまっていたのだ。

彰は、車の外で茫然と立っている、要に気付いて微笑んだ。

「要。迎えに来てもらってすまないな。」と、紫貴を見た。「待ちきれなくて、もうあちらから弁護士に書類を作成するように連絡を入れておいたのだ。紫貴が、婚姻届にサインしてくれた。これから、弁護士の事務所に行って、婚姻届を出してから帰る。」

遂に入籍か…!

要は、感無量だった。

ここまで、怒涛の日々だった。彰は少しの事で一喜一憂しているし、研究にも身が入らないしで、フォローも大概限界が来ていた。

意識がこれまで研究だけだったのに、紫貴の事が入って来て効率が下がってしまっていたのだ。

これだけ落ち着いた雰囲気になったし、これで家族のためにも何としても癌を根絶しようと、一層研究に身が入ることだろう。

それから、間下が運転する車に要と紫貴、彰で乗り込み、無事に弁護士事務所へと行き、そして市役所へと行き、婚姻届を提出した。

晴れて二人は、夫婦となったのだった。


彰が最初に紫貴に結婚を申し込んだ時に言っていた通り、紫貴と子供達は今の自宅に近い位置にある、別荘の一つを譲られて、そこに移り住んだ。

メイド二人と執事を一人置いて、食事やそのほかの事を管理させることになったので、紫貴も家を空けることが簡単に出来るようになった。

毎日、執事と運転手が子達を職場まで送り迎えしてくれるので、少し郊外だが全員がストレスフリーな生活を送る事が出来ていた。

時々は元の自宅も掃除のために帰るようだったが、また子供が結婚した時にでも、住んでもらえたらいい、と紫貴は言っていた。

怒涛のふた月が過ぎて行き、やっと皆が新しい生活に慣れて来た頃、紫貴の体調が一気に悪くなった。

執事から連絡を受けた彰が、要とクリスとハリーをヘリに押し込んで突然に屋敷へと飛び、紫貴を訪ねたら、紫貴は大きなベッドの上で、真っ青な顔をして嘔吐を繰り返していた。

…やっと落ち着いたのに。

要が、彰の気持ちを思ってショックを受けていると、意外にも彰は落ち着いて、紫貴の手を取って診察を始めた。

だが、その口元が僅かに震えていたのを、クリスもハリーも見て知っていた。

「…血圧が尋常でなく低い。」彰は、言って紫貴の額に手を置いた。「紫貴、検査をする。大丈夫、私が楽にしてやるから。」

通常の状態で彰からこの言葉を聞いたら、それは命を取られることだろうと皆、身震いしたものだろうが、これは言葉のままの意味だろう。

紫貴は、頷いて無理に口元を上げて微笑もうとしたが、無理そうだった。

クリスとハリーが持って来たポータブル超音波検査装置の準備をしている中、彰は採血をしていた。

要は、つらそうな紫貴に言うのもだったが、控えめに言った。

「あの、尿検査もしたいんですけど。採尿出来そうですか?」

それには、後ろから執事が答えた。

「要様、奥様には朝にお手洗いに立たれた時に、介助したメイドに命じて採尿されております。そちらのお手洗いの中の、洗面台に置いてありますので。」

要は、もう取ってあるのか、と執事の指示の的確さに驚いた。

「私が向こうを発つ前に真っ先に指示したからだ。紫貴を何度も動かしたくなかったからな。そっちは頼む、要。」

要は頷いて、検査キットを抱えてこの部屋のトイレへと向かった。

彰が血液を遠心分離機に入れて振り返ると、エコーのプローブとゼリーを持ったクリスが言った。

「私がやってもいいですか、ジョン?」

彰は、盛大に首を振った。

「駄目だ。私がやる。君はモニターだけを見ていろ。」と、ハリーを見た。「君は血液検査の方を頼む。」

あくまでも、紫貴に触れるのは許さない。

そういうスタンスだった。

「腹部を見よう。どこが悪いのか分からないから総当たりでやる。」

普通は、血液や尿の検査結果が出てから、考えて当たりをつけてやるものなのだが、彰はそれを待っていられないらしい。

彰が、真っ先にプローブを当てたのは、肝臓の位置だった。

何しろ、祖父も友人のステファンも肝臓癌で失っている。

何かあるなら、どうしても先に何とかしてしまいたいと思ったのだろう。

だが、幸いにも思いに反して肝臓には何の所見も無かった。

次に、腎臓へと移った。

ここも特に何も無い。思えば紫貴は、体のオーバーホールを受けた時点で、この歳には珍しく結構な健康体だったのだ。

いきなりに癌だらけとはならないはずだった。

次に疑われたのは、婦人病だった。

プローブを下腹部に当てる…婦人科医ではないクリスにはよく分からなかったが、それでも臓器の形ぐらいは分かった。

この感じは、問題無さそうだった。

だが、何やら空洞のようなものがある…?

「ジョン。」

クリスが言うと、彰は眉を寄せて言った。

「分かっている。」

と、ぐりぐりとプローブを押し付けて、じっと見つめていた。

これは…?!

「彰さん!」その時要が、勢いよくトイレの扉を開いて、叫んだ。「妊娠反応です!」

「「ええ?!」」

ハリーとクリスが、同時に叫ぶ。

「今、見つけた。」彰は、画像を止めて、言った。「これ。胎芽が見えている。」

彰が、紫貴にも見えるようにモニターを動かして見せた。紫貴は、青い顔をしながらも、それを見て言った。

「まあ…じゃあつわりですか?確かに私はつわりがキツい方でしたけど、今回は歳のせいかとても重いですわ。」

妊娠している。

ということは、あの旅行の辺りとしか考えられなかった。

紫貴は、あの時既に身籠っていたのだ。

元々、妊娠しやすい体質なのは知っていた。その証拠に、子供達は皆年子だ。

彰は、ホッと肩の力を抜いて、強張っていた表情を和らげると、言った。

「今回はまさかと思っていたので、君を診ていた班の者達は連れて来ていないのだ。あれらは、不妊症や生殖全般の事について研究しているチームで、君の体を整えていたので、今回の妊娠にはとても喜ぶだろう。つわりを和らげるための薬も開発していたはずなので、すぐにそれを投与するよう命じよう。だが…そうだな、少し入院した方がいいかもしれない。」

紫貴は、頷いた。

「メイドさん達にもご迷惑をお掛けしてしまいますし、病院を紹介して頂けますか。」

彰は、言った。

「君はあのチームの検体だ。だから私の研究所へ。」と、要を見た。「ヘリは振動が良くない。飛行機で連れて帰ろう。空港から車の手配だけ頼む。君達は、ここを片付けて先に乗って来たヘリで帰ってくれ。」

メイド達が、腹部のゼリーを拭きとって、紫貴の着替えをさせようと、ベッドの天蓋の、カーテンを閉じて行く。

「これから飛行機で?」

紫貴が驚いたように言うと、彰は頷いて紫貴の頭を撫でた。

「少しの間だから、我慢するんだ。ファーストクラスを取っておくから。外を見ずに乗っていたらすぐに着く。私が一緒だ、心配ない。」

具合が悪い時に苦手な飛行機だもんな。

要はそれを聞きながら、思った。だが、早く輸送するためには、それしかないのだ。

カーテンの中で紫貴が着替えるのを待つ間、彰は心配そうに何かを考えていたが、ふとハリーが運び出そうとしていたカバンを留めて中を開くと、小さな注射器を取り出して、たくさん綺麗に並んで収められている小瓶の中から一つを選んで、液を吸い上げた。

「…眠ったまま行きますか。」

彰は、頷く。

「ストレスがかかるのは良くない。それに、眠っていたら辛さも感じないだろう。研究所まで、眠らせておく。」

最後に、アルコールを含んだ脱脂綿を手に取ると、カーテンの中へと入って行った。

「あれなら胎児に負担もないし軽いから二時間ほどで自然に目が覚めるだろう。薬の選び方で、ジョンの気持ちが分かるよ。本当にあの人を想ってるんだな。」

ハリーは言うと、バタンと鞄を閉じて、運び出して行った。

しばらくしてメイドがカーテンを開けると、彰は目を閉じて寝息を立てている、紫貴の額に唇を当てていた。

そして、その頭を撫でると、要に言った。

「飛行機の手配を頼む。」と、執事を見た。「細川。車を出してくれ。」

そうして、彰に抱き上げられて、紫貴は移動させられた。

普通の家族なら入る事が許されない研究所に、検体として入る事になったのだった。


次に紫貴が目覚めた時、あの洋館の豪華な部屋の天井ではなく、落ち着いた白い、病院のような天井だった。

壁紙も落ち着いた様子で、照明もシンプルだった。

「目が覚めたか。」優しい声がしてそちらを見ると、彰がベッドの脇に置いた椅子に座って、紫貴を覗き込んでいた。「気分はどうか…?完全には良くはならないらしいのだ。悪阻には本来、薬は無いのでな。」

紫貴は、そういえば、と思った。少しどこかに気持ちの悪さが残るものの、吐いてしまうほど酷くも無いし、無視しようと頑張れば大丈夫なレベルだ。

「…大丈夫なようです。少しどこか気分の悪さは感じるのですけど、何でもないと自分に言い聞かせたら何とかなりそうな程度ですわ。ありがとうございます。」

彰は、ホッとしたように頷いて、ベッドの端に座り直して、紫貴の頬に触れた。

「眠っている間に、検査も済ませた。君の治療チームの者達も間違いなく君に胎嚢があるのを確認し、胎芽に心拍があるのを確認した。君は妊娠している…間違いなく。」

紫貴は、ホッとしたように微笑んだ。

「良かった。どうしても、一人でも産まないとと思っていましたから。でも…私が高齢になるので。異常などは…?」

彰は、首を振った。

「まだ分からない。もう少ししたら分かるようになるが…今のところ、大丈夫ではないかと。君はそんな心配をする必要は無いのだ。何があっても私が善処するから。落ち着いて、ここで誕生まで過ごすといい。」

紫貴は、え、と体を起こした。

「あの…その間、私はここから出られないのですか?」

子達に何も言わずに出て来てしまったのに。

彰は、首を振った。

「正式に入院というわけではないので、体調さえ落ち着いたらいつでも外出していい。だが、基本はここで居て欲しい。私が傍に居るし、何かあっても対応が速い。ここの機器は最新式なので、何があっても助けると言えるが、他の場所だと間に合わない可能性があるからな。ただ…ここは人里から遠く離れているから、監禁されているような気持ちになるだろう。それで、街へ行く時に使っているヘリポートのある屋敷が近くにあって。そこへ、君と一緒に移ろうかと思っているのだ。そこなら、街が近いし君もストレスが無いだろう?」

紫貴は、頷いた。

「はい。でも、彰さんも一緒に?お忙しいのに…。」

彰は、首を振った。

「そこならここからヘリで10分ほどだからな。行ったり来たりが楽なのだ。私はそこで仕事をして、何かあったら研究所へ戻る。治療チームには往診させる。出産は研究所で。それでどうだろうか?」

紫貴は、微笑んで頷いた。

「はい、嬉しいわ。やっと普通の夫婦並に一緒に過ごせますわね。」

言われて彰は、少し驚いた顔をした。

「君は、私と夫婦らしく過ごしたいと思うか?」

紫貴は、それに目を丸くして答えた。

「え?だって夫婦ですから。」

違うのか、という少し拗ねたような目で見る紫貴に、彰は横から、ぎゅっと抱きしめた。

「すまない…君は私よりも子達が優先だと思っていたので、そこまで一緒では鬱陶しいのかと思っていて。私が自分のやりたいことをやっているばかりに離れていなければならないのに。何ならもう、ずっとそこでも良いのだ。何日も研究所の方に詰める時は検体としてこちらへ一緒に来て。君の子達の事は、来たいならその屋敷へ呼んだっていいのだし。」

紫貴は、彰を抱きしめ返して答えた。

「確かに子供達の事は心配ですけど、もう全員社会人ですから。こちらへ来てしまったら、仕事を探さねばなりませんわ。それに、私が案じていたのは、あの子達が結婚するまで世話をする人なんですけど、彰さんはメイドさんや執事さんを置いてくださっているし…時々会えたら、良いと思っていますの。あの子達だって、そのうちに相手を見つけて出て行くのですから。」

彰は、紫貴の頬を両手で包んで言った。

「では、君はこれから、こちらに住んでくれるか。私の住民票は、あの屋敷を友人から買った時にそこに置いていてね。だがほとんど帰っていなくて、時々しか使っていなかったのだが、君がこちらへ来てくれるのなら、そちらへ帰る。」

紫貴は、頷いた。

「はい。子供が生まれたらと、思っていたのですわ。彰さんは父親を知らずに育つのはと思っていらっしゃるようだったし、それならその方がいいですもんね。お仕事のお邪魔をしてはと思っていたので、お任せするつもりでしたけど。」

彰は、首を振った。

「確かに仕事は大切だ。だが、今は君達も大切に思っている。大切なものが増えた分、私もあれこれどうしたら良いのか分からなくなってしまって、すぐに決められなくて申し訳ない。君の意向も聞いて決めたいと思っているから、思う事があるのなら、何でも言ってみて欲しいのだ。私は慣れないから…分からない事も多いので。」

紫貴は、頷いた。

「はい。では、私は出来たら結婚したのですし、一緒に暮らしたいと思っています。でも、無理は言いません。お仕事なのに、いろいろ無理を言うほど子供ではありませんから。彰さんが決めてくださるようにしようと思っていますから。」

彰は、紫貴の髪に顔をうずめた。

「私は…常に傍に居たいとずっと思っていたのだ。だが、君は子供達が大切だろうし、無理に結婚してもらった手前、こちらへ来て欲しいとは言えなかった。そんなことを言ったら、あの時弁護士に作らせた証書を持って、君が出て行ってしまうのではないかと思って…。」

紫貴は、息をついた。

「無理になんて、結婚にそんなことはありませんわ。確かに再婚するつもりはありませんでしたけど、そんな私をもう一度結婚してみようという気持ちにさせてくださったんですもの、私は彰さんを愛していますわ。だから結婚したのです。そんな風に思わないでください。」

彰は、微笑んで頷いた。

「ならば私達は、相思相愛で結婚したのだな?」

紫貴は、苦笑した。

「今さらそんなことをおっしゃるなんて、思ってもいませんでした。はい、そうですわ。私はそのつもりでした。そんな、中途半端な気持ちで結婚したりしませんわ。一度失敗しているのですから、尚更。」

彰は、嬉しそうに微笑んで、紫貴に今居る部屋の説明をした。

「ここは、私の執務室の隣りにある居室なのだ。普段から、ずっとここで寝泊まりして来た。そちらがバスルーム。隣りの扉がトイレ。清掃は毎日入る。食事は二階の食堂で食べる。専属の管理栄養士が皆のメニューを決めて、それを毎食準備してくれる。君の分も、ここに滞在している間、治療チームが登録して君用に作らせているから、食堂に降りて、」と、胸に掛かったIDカードを指した。「これを翳すと出て来る。後で、一緒に降りてやってみよう。簡単だ。私がここで、どんな生活をして来たのか、君に話せるのが嬉しいよ。」

紫貴は、ぶら下がったカードを見て、微笑んだ。

「凄いわ。何でも自分のために計算されたものだなんて。彰さんがずっとお仕事して来た場所を、見られる時が来るなんて思っていませんでしたもの。要さんが言ってましたけど、関係者以外は家族でもその場所すら知らせてはいけない場所なんだとか。」

彰は、途端に真面目な顔になって、頷いた。

「そう。君は生殖の研究チームの検体としてここへ入ったのだ。君が高齢出産出来るかどうかは、あれらと君の体に掛かっていた。無事に妊娠したので、今度は出産までだ。私の妻としてなら、入ることは出来なかった。そういう場所なのだ。」

検体…。

聞き慣れない言葉に、紫貴はキョトンとしていたが、しかし、頷いた。

「では、検体である間だけ、こちらで一緒に過ごせるのなら、嬉しいですわ。彰さんの歴史の一部を見られるようで。」

彰は、嬉しそうに笑った。

「そう。ここは私の終の棲家となるはずだった。だが、君という居場所が出来た。君が居る場所が、私の終の棲家になるのだろうな。」と、ベッドから足を下ろした、紫貴に言った。「動けるか?ならば中を案内しよう。全ては無理だが、見せられる所だけ。もう少しパンデミックが収まったら、私が通った学校もあちこち案内したいものだな。私のルーツを、君に話して聞かせたい。ドイツの、ステファンの墓にも連れて行きたい。」

紫貴は、彰の話に頷きながら、少しフラッとするだけで、かなり具合が良くなっているのを感じて、ここのお医者様はすごい、と思っていた。

彰は、そんな研究者たちを束ねる長なのだ。

「…知りたいですわ。彰さんが、どんな風にいろんなことを学んでらしたのか。早く一緒に旅をしたいですわね。」

彰は、紫貴にカーディガンを着せ掛けながら、頷いた。

「きっと行こう。海外は…」

そうだ、海外にはあれらが居る。

彰は、ハッと思い出した。自分が過去にしていたことを、紫貴は知らない。自分では恥じるような事はして来なかったと思っていたが、こと女性に関しては、違う。

そのせいで、殺しに来る奴が居て、常にSPに守られる羽目になっている。旅行でも、ずっと遠巻きに守っていたが、何かあったら海外で、あの距離では恐らく守り切れないので、ガッツリ回りを囲むだろう。

二人きりで、いや、子供も連れて、おっとりと旅など出来なさそうだった。

…始末するか。

彰は、考えていた。あと、三人。その気になれば、さっさと捕らえて記憶を消してしまい、忘れさせることも出来たのだが、面倒だし、最悪薬が合わないと廃人になるからと、放って置いた結果なのだ。

本当なら、結婚する前に処理しておくべきだったのに。

「彰さん?」

急に彰が黙ったので、紫貴が不思議そうに見上げて来る。

彰は、険しい顔をしていたが、微笑んで首を振った。

「何でもない。早く渡航が楽に出来るようになったらいいな。」

紫貴は、頷いて微笑み返した。

彰は、何としてもこの穏やかな幸せを、壊すものは排除しなければ、と思っていた。

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