運命の日
数週間後の夕方、一般人の格好をしたSPにガッツリと守られた彰は、面倒そうな顔をしながら、要と共に居酒屋の前へと到着した。
一般人の姿をしていると言っても、体格の良い数人に取り囲まれた様子は異様で、通行人の目を嫌でも引いた。
しかし要は、やっとここまでこぎつけた、とホッとしていた。
彰が外出するとなると、服から調達しなければならず、かなり大変だったのだ。
彰は、自分で買い物をするという事がない。学会などに行く時も、適当に頼んで誂えられたスーツしか着ない。
なのでスーツやワイシャツ、ネクタイなどは多く持っていたのだが、普段着は全くと言っていいほど持っていなかった。
ならば普段は何を着ているのかというと、ワイシャツとスーツのスラックスだけしか持っていないので、もっぱらそれだ。
上から白衣を着てしまえば、中身など分からないので、寝間着にしているスウェットの時もある。
そんなわけで、普通の人に見えるように、要とアレックスが買い出しに行かされたのだった。
それに、これから飲食するこの居酒屋だ。
この店には気の毒なのだが、保健所の監査を強引に入れさせ、その折こちらの研究員も同行して中を徹底的に除菌、洗浄して食材もかなり厳しく調べ上げた。
そして、調理の際は素手ではなく、必ず手袋を着用するように指導し、帽子、マスクを徹底させるようにそれは厳しく勧告した。
ハッキリ言って、ここまでやる必要など普通の店にはないのだが、彰が食べるとなると、自分を検体にしてしまう彰の、命にも関わって来るので皆、必死だった。
そしてそれを、約束の日の前の日、つまり昨日やったのだ。
きっと、店では疲弊してしまっているだろうが、背に腹は代えられず、申し訳ないとしか要には言えなかった。
そんな大層な事になっているとは、もちろん樹は知らず、店の前で待ち合わせていたのだが、SP達の姿に、さすがに驚いていた。
彰は、さっさと手を振ってSP達に下がるように指示すると、樹に言った。
「すまないな。過去の女性関係で面倒が起こったことがあって、それから厳重警備がついているのだ。」
要が、横で頷く。
「殺しに来るんですよ。一人は処理しましたが、まだ三人ぐらい要注意人物が残っているので、こんな感じですみません。」
いったい、何をやったんだ。それにしても処理ってなんだろう。
樹は思ったが、兄はこんな風なので、恐らく誤解も受けた事もあっただろう。
そう思って、店の入り口へと彰を誘導した。
「構いませんよ。でも、みんな中に?」
彰は、うーんと唸った。
「外でも良いのだが、恐らく一人は絶対について来ると聞かないと思うのだ。」
一人が、進み出て言った。
「私はお傍に。」
彰は、やっぱりな、と諦めた顔をした。
「分かった、アルバート。」と、樹を見る。「そんなわけなので、席を四人頼んだのだ。」
樹は、苦笑した。
「そうでしたか。大丈夫ですよ、六人掛けのテーブルですから。では、中へ。」
そうして、樹、彰、要、アルバートの四人は、その居酒屋の中へと入って行った。
この時期にしては盛況な店内だ。
きっちりと隣りと間を空けて皆座っていたが、個室は無いようだった。
一番奥のテーブル席へと案内されたが、隣りの席までは一メートルほどあって、間に透明の簾のような膜が吊ってあった。
入って一番奥の席へと彰を押し込んだアルバートは、自分はその隣りへと陣取って回りへと鋭い視線を送る。
必然的に手前の席に樹、要と並んで座ることになった。
だが、どう見ても何か起こるような雰囲気ではなかった。
「アルバート、ピリピリし過ぎだよ。一般人がこんなに居るところで襲われたことなんかなかったじゃないか。大丈夫だって。」
彰も、呆れたように言った。
「やり過ぎだぞアルバート。そもそも、今は入国審査も厳しいから大丈夫だと言ったのに、ついて来ると聞かないから連れて来たんだぞ。弟とやっとゆっくり会えるというのに、君はぶち壊すつもりか。」
言われて、アルバートはハッとしたような顔をした。
「…はい。申し訳ありません。」
大きな体が、少し小さくなったような気がする。
要は、可哀そうになって言った。
「いや、普通にしてたらいいから。あんまり、他のお客さんにご迷惑になるような威圧とかやめてくれよ。頼むから。」
アルバートは、黙って頷いた。
アルバートは、彰に拾われて学校へ行かせてもらい、その体格と運動能力をかわれてSPとしての訓練を受け、そうして彰を護衛することに命を懸けている男だ。
元はアメリカのどこかのストリートに居た子供だったと聞いている。だが頭が良く、教えたらすぐに何でも覚えるのに才能を感じて、彰はあちらの学校へ入れてやったのだと言っていた。
一応彰が保護責任者として全てを面倒見ていたらしいが、ハイスクールを出てからは自ら鍛え上げ、大学に通いながらも特別講習などを受けてまず、警官を目指し、そこからいろいろ訓練を受けてこちらへやって来た。
その後、その身体能力をかわれてSPの訓練を受けたという流れだった。
彰の回りには、こんな風な崇拝者と言われる人がたくさん居た。
要もその一人だと思っているので、アルバートの気持ちは分かるつもりだった。
「それより、何を飲みますか?」樹は、話題を変えようとメニューを持ち上げた。「それとももう、決めて来てらっしゃいますか?」
彰は、首を傾げた。
「それが、メニューを見ても皆目分からなくて。要?」
要は、急いでメニューを見た。
「ええっと、この中ならチューハイならどれでも多分、いけますよ。マンゴー以外。」
途端に彰は、顔をしかめた。
「マンゴーはダメだ。じゃあ任せる。」
この要は兄さんの世話係なのか。
樹は思った。どうやら兄の事は熟知しているようだ。考えてみれば、兄は初めて会った時も要に何でも任せているようだった。
「そうですね、じゃあチューハイの巨峰で。オレはレモン。アルバートは?」
アルバートは、首を振った。
「私は水でいい。」
仕事だし。
そんなアルバートに、彰は言った。
「いいから君も何か飲め。」
アルバートは困ったような顔をした。
要は、急いで言った。
「ノンアルコールカクテルがあるからそれにしたら?ほら、君が好きなイチゴがある。」
仕方なく、アルバートは頷く。
「ではそれで。」
樹は頷いて、手を軽く上げた。
店員がやって来て、注文を取って戻って行く。
今は店員も、ガッツリと分厚い重装備のマスクをしていた。
…あれも多分、指導だな。
要は思った。普通なら不織布のマスクのはずだからだ。
あれは、研究所で見たことのあるKN95マスクだった。メーカーの刻印がそれだったからだ。
息苦しいだろうなあと気の毒に思いながらそれを見送り、飲み物が来て樹は言った。
「では、再会を祝して。」と、少し黙ってから、続けた。「…両親が今は安らかであるように。」
樹らしい、と要は思ってグラスを上げた。
「再会とあなた方の両親に。」
彰とアルバートは、黙ってグラスを上げた。
そして、一口飲んで、彰は言った。
「うん。これならいけそうだ。やはり要に任せた方が楽だな。」
要は、苦笑した。
「彰さんはそれで甘いものが好きですものね。コーヒーだって甘いしぬるいし。」
樹は、驚いて彰を見た。
「兄さんは猫舌ですか?」
彰は、頷いた。
「あまり熱いものを飲むは無理だ。だが、食べ物は熱い方がいい。味噌汁も。」
難しいな。
樹は、思った。要が苦笑した。
「少しでも気に入らなかったらもう口を付けませんものね。だから難しいって言われるんですよ。」
彰は、チラと要を見た。
「食べないだけで空気を読んで文句は言わないぞ?食べない理由を聞かれたら答えるが。」
それは確かにプレッシャーだな。
樹は、思った。一緒に暮らしていた頃は、確かに何も言わずに食べない事もあったが、好き嫌いの問題だと思っていた。だが、内心は何か気に入らない事があったから食べなかっただけなのだ。
「…少しずつ、兄さんの事もお話が聞きたいですね。例えば、海外へ渡ってからどうだったかとか。」
彰は、頷く。
「いくらでも話してやるが、良い事ばかりではないぞ?世界は広い。理不尽な事で差別されることも多かった。とはいえ、それを私は持って生まれた知能でねじ伏せて来たがな。その点では、正当な評価が得られるのであちらは平等と言えるだろうが。」
要は、自分も経験があるのでそれをうんうんと聞いていた。基本、学校ではあまり差別的な事を言われる事はなかったが、地下鉄で移動している時とか、全く知らない人に怒鳴られる事もあったし、ただアジア人というだけでこんなに罵倒される世界があるなんてと、怒るより珍しくてマジマジと相手を物珍し気に眺めてしまったぐらいだ。
要が素直に、面白い生き物だ、人種なんてものを重要視して物を考えるなんて余程自分が優れているのだと思っているのだろうが、神が同じ考えでいらっしゃると思ってるのか?と言うと、相手は困惑したような顔をして、回りにもそうだそうだ!とやじられて、離れて行った。
あの国が神を信じていてよかった、と要は思った。要自身はというと、一応八百万の神は信じていた。
だからといって、信心深い方でもなかった。
彰が、樹に問われるままにアメリカでの生活、ヨーロッパでの生活のことを話していると、一メートル離れた四人席の方に、四人の男女の組が入って来た。
彰は一瞬嫌な顔をして、そちらをチラと見たが、すぐにじっと観察するように四人を眺めた。
その時には、要と樹が話していたのだが、最初は彰の様子に気付かなかった。
だが、要がふと飲み物がない、と次の飲み物を彰に聞こうとそちらを見ると、彰はまだ、そっと隣りを見ていた。
要は、何を見ているのだろう、とそちらを見た。
向こうは誰もこちらを気にしていなくて、和気あいあいと話している。
どうやら初めて会ったようで、敬語で話しているが、インターネットがどうのという話が聴こえて来たので、ネット上では長く知り合いであった仲らしい。
年の頃は彰と同じか少し上、なので四人とも、騒ぐ様子はなく、落ち着いて楽し気にしていた。
手前の女性が、言った。
「私、ビールが駄目で。それ以外なら大丈夫なんだけど。甘いのが好きだから、カシスオレンジがいいかな。」
隣りの女性は笑って言った。
「私は生で!最近飲めなかったから嬉しいわ。」
こんな世の中だもんなあ。
要は、思いながらそれを聞いたが、彰もじっとその様子を聞いているようだったので、言った。
「彰さん?気になりますか。」
彰は、ハッとした顔をした。
「ああ…珍しいと思って。私は、知らない者と近くで食事をすることも無いから。」
嫌なわけではないらしい。
だが、樹が気を遣って言った。
「席を換えてもらいますか?あまり騒がしい人達ではないようですけど。」
彰は、それにはすぐに首を振った。
「いや。このままでいい。」と、グラスを見た。「私も、甘い物なら興味があるし、カシスオレンジというのを飲んでみたい。」
要は、怪訝な顔をしながらも、頷いた。
「わかりました。ではそれで。」
それから、要と樹に注文を任せきりだった彰が、積極的にポンポンとメニューを頼むようになった。
何事かと思ったが、前向きに食べた事の無い物を食べる決意をした彰に、何とか食べさせようと皆言われるままに注文し、彰はそれを、またポンポンと口に入れて味わった。
「うまい。」彰は言った。「こっちもうまい。」
それからも、彰は注文をやめなかったが、しかしピタと止まった。
「あれ」要は、テーブルの上の料理も無くなって来たので、言った。「彰さん、もう食べたい物は無いんですか。」
彰は、首を振った。
「分からないのだ。」
樹が、眉を寄せた。
「分からない?でも、知らない物を頼んでいたでしょう?」
彰は、頷いた。
「確証がない物は頼めないし。」
樹と要は、顔を見合わせた。わけが分からないのだ。
「…じゃあ、何か適当に頼みます。」
彰は、頷いていきなり立ち上がった。
「トイレに行く。」
隣りのアルバートが、スッと立ち上がって先に立って歩いた。
「どうぞ。こちらです。」
トイレにもついて行くんだな。
二人は思ったが、黙ってそれを見送った。
樹は、まだ顔をしかめたまま、要を見た。
「…いつもあんな感じですか?」
要は、困ったような顔をして答えた。
「いつもあんな感じといえばそうなんですけど、今日はもっとワケが分からないね。どういう事だろう。名前をぽんぽん言うから、調べて来てるのかと思ったんだけど…。」
樹は、店員を呼んで適当にメニューを示して注文をすると、声を落として、言った。
「…どうも、隣りと同じ物を頼んでいたように思う。」
要は、思わず同じように声を落として言った。
「え?じゃあ隣りが頼んだからおいしそうに見えて頼んだとか?」
樹は、小さく首を振った。
「いや。その、手前の女性。」要が見ると、樹は首を振った。「今は席を外しているのだが、その人が頼む物を頼んでいるようだった。どうやら、味覚が同じだと思ったのではないか。」
要は、居ないという事はトイレかな、と思い、ハッとした。
「もしかして…まさかとは思うけど、その女性がトイレに立ったから、行ったんだろうか。」
樹は、神妙な顔をした。
「兄さんはトラウマがあるとかさっき言っていたし、女性にどうのとは無いと思うんですけど、そうとしか思えないんですよね。最初に入って来た時から、じっと見てましたし…チラチラ気にしていたような気がするんです。」
要は、困惑した顔をした。隣りに座っていた女性というと、特に目立って美しいというわけではなく、だが穏やかで落ち着いた様子の中年の女性だった。
こう言ってはなんだが、おばさんという年代かもしれない。
あれぐらいの年代で、ああして上品に落ち着いた感じとなると、結婚して子供も大きいのではないだろうか。
そんな人に、まさか卵子がどうのなんて言ってないだろうな。
要は、まさかいくら何でもそんなことはしないとは思っていたが、彰だから分からないと、落ち着かずに早く帰って来ないかと、気になってソワソワとトイレの方を窺っていた。
トイレの前では、アルバートがガッツリと立って扉を守っていた。
とはいえ、入って行く人の顔をじっと睨むだけで、何かしているわけではない。
だが、立っているだけで最早脅威だった。
隣りの女性用トイレから出て来た女性が、目の前に立っているアルバートにびっくりして胸を押さえた。
アルバートも慌てて邪魔かと避けた拍子に、女性の鞄にぶつかって、それは派手に中身をぶちまけて落ちた。
「申し訳ありません。」
アルバートは言って、拾い集めるのを手伝った。女性は、見るからに強面な外国人が日本語をスラスラ話したのでホッとした顔をした。
「いいえ、私がぼうっとしてしまって。ごめんなさい。」
そうして、しゃがんで一緒に物を拾っていると、彰が出て来た。
「アルバート?何をしている。」
彰が言う。アルバートは、言った。
「は。申し訳ありません、この女性の鞄に当たってしまって、落としてしまいまして。」
彰は、息をついた。
「私の部下が御迷惑を掛けてしまって申し訳ない。」と、彰もしゃがんで床に散った物を拾った。そして最後らしいペンを拾い上げると、言った。「これで最後か?」
見たところ、他に何もない。
女性は、それまで床ばかりを見ていて初めて顔を上げ、彰を見て驚いた顔をしたが、さすがにそこそこ年齢が上なのもあって、若い女性のように、悲鳴を上げたりしなかった。
その代わり、微笑んで彰からペンを受け取った。
「ありがとうございます。」
彰は、首を振った。
「こちらこそ、部下が失礼を。」
女性は微笑んだまま頭を軽く下げて、そうして戻って行った。
それを見送ってから、彰は言った。
「…何を手に入れた?」
アルバートは、答えた。
「は。口紅とハンカチを。」
彰は、頷いた。
「戻ろう。」
そうして、席へと戻った。
席へ帰ると、あの女性が、隣りの席だったのか、と気付いたようで、軽く会釈した。
彰はそれに返し、そうして心配そうに見ている樹と要の前へと座った。
「新しい物を頼んだのか?」
目の前には、タコわさびと漬物が並んでいた。もう大概食べたので、つまめるぐらいの物が良いと思ったからだった。
「はい。」要は答えてから、声を落として言った。「今、会釈しましたね?何か問題が?」
彰は、首を振った。
「何も。ただ扉の前でアルバートを待たせていたので、あの女性の鞄に接触して落としてしまったらしい。それをアルバートと女性が拾い集めていたので、詫びを言ったのだ。」
樹が、小声で言った。
「兄さん、多分ですけど、あれぐらいの年代はもう、子育ても終わって落ち着いたあたりですよ。確かに兄さんが嫌う感じのガツガツ寄って来る感じではありませんが、それにも訳があるのです。もし気に入ったとかなら、考え直した方が良いかと。」
彰は、少しむっとしたような顔をして、樹を見た。
「彼女をどうにかなど考えていない。ただ、これまで見て来た女性の中でもそれほど美しい部類ではないのに、どういうわけか見た瞬間、和む、と思った。なので、彼女が好む物を試しに食べてみると、全てが私の味覚と合った。もしかして、DNAの相性が良いかもしれない、と思っただけだ。」
樹が、目を丸くする。要が、慌てて言った。
「待ってください、もし相性が良かったとして既婚者に何て言うつもりですか。まあまだ、既婚者かどうか分かりませんが…。」
「卵子だけもらう。」彰は言った。「交渉する。」
樹は、困惑しながらも必死に言った。
「兄さん、普通に結婚できる人を見つけてその人と自然に子供を作った方が良いですよ。社会規範から外れるとめんどくさい事になります。」
彰は、樹を睨むように見た。
「社会規範?それに則った私達の親はどうだったのだ。それで良かったと君は思うのか?」
そう言われてみたらそうなのだが…。
彰は、もう聞きたくないと言う風に手を振った。
「この話は終わりだ。まだ相性が合うのかどうかも分からないのに、君達はうるさい。さっさと食べて…」と、少し耳を澄ましてから、言った。「デザートにしよう。」
隣りが、デザートを頼んでいるのだ。
樹と要は顔を見合わせた。
だが、彰はさっさと店員を呼び、要が仕方なく皆のデザートを注文して、そうしてその日は、デザートを食べて終了となったのだった。
彰は、デザートもうまかったと上機嫌だったが、要は心配で仕方がなかったのだった。
後から知ったのだが、彰はアルバートに命じて、女性の鞄をぶちまけさせ、中身のDNAが残って居そうなものをすり取らせていた。
完全に犯罪行為なのだが、彰自身も、メモ帳らしきものを抜き取って来ていて、相手の個人情報のいくらかがそれで入手出来たらしい。
口紅とハンカチから採取されたDNA型がどうだったのか、要には気になって仕方がなかったのだが、それから彰は何も言わないし、要自身も忙し過ぎてそれどころではなく、しばらくその事からは離れていた。
ひと月ほど経って、樹からもあれからどうなったと矢のような催促があるので、要はやっと実験もひと段落ついたのもあって、彰の執務室を訪ねた。
すると彰は、いつものようにモニターを眺めていたが、耳にイヤホンを挿している。
何かを見ているようだった。
「彰さん?」
要が声を掛けると、彰は顔を上げた。
「要。」と、マウスを操作した。「なんだ、報告なら受けてるが。」
要は、扉を閉めて彰の前に立った。
「違いますよ、今日は居酒屋で出会った女性のことで聞きたいと思って。DNAはどうだったんですか?」
彰は、イヤホンを外して、息をついた。
「どうせ反対するのだろうが、やはり思った通りピタリと合った。私のDNAを邪魔しない完璧な組み合わせだ。あそこまでの適合率を見た事が無いほどだったよ。」
要は、合ったのかと身を乗り出した。
「それで、どうせもう相手のことを調べてるんでしょう?どうだったんですか。」
彰は、じとっとした目で要を見て、言った。
「君が私を案じているのは分かっているが、頭から反対するな。彼女は、DV夫と離婚が成立したばかりだ。裁判にもなっているから記録が残っている。あの時は、やっと離婚出来た事の祝杯を皆で上げていたらしい。ちなみに元々関西に住んでいる。ネット仲間と集まるのに、こちらへ来ていたようだ。」
そんなことまで。
要は、眉を寄せた。
「…でも、それじゃあまだ結婚なんて考えられないだろうし、第一子供を産める歳なのですか?」
彰は、また頷く。
「まだ可能だ。こちらへ来て体質改善をしてもらえば、難なく。私より5つ年上なだけだし。」
45?!だとしたら、かなり見た目は若い方だ。とはいえ…。
「体に無理が掛かるんじゃないんですか?!」
彰は答えた。
「大丈夫だ。私がついていて何かあるなどない。それより、相手がその気になるかどうかなのだ。子供もたくさん産んでいるし、彼女は妊娠可能だ。やっと子供から手が離れたので、長年我慢していた夫から解放されたいと離婚したようだったし…私がそんな野蛮な男ではないと知ってもらって、再婚する気になってもらうには、どうしたらいいかと。」
野蛮ではないかもしれないが、結構強引だと思うけどな。
要は思ったが、彰がこうと決めてそこまで調べ上げてしまっているのなら、恐らく後に退く事は無いだろう。
とはいえ…やっと離婚して解放されたばかりで、すぐ再婚など考えられるのだろうか。
ん?待てよ、再婚?
「え」要は、驚いて彰を見た。「ちょっと待ってください、彰さん、結婚するんですか?!卵子だけって言ってませんでした?!」
彰は、神妙な顔をした。
「やはり、樹が言う通り順当に、結婚してから子供の方が良いのだろうと思い始めて。誰から生まれたとかなったら、子供が可哀そうに思うし。」
おかしい。
要は、思った。そんなことは、以前から分かっていたはずなのだ。
それなのに、突然に結婚する気になったのはなぜなんだ。
「でも…」要が更に突っ込んで聞こうとした時、真司が扉を開いて、来い来いと手招きした。要は、振り返った。「え?真司さん?」
彰は、要が面倒だと思っていたようで、言った。
「何か用なのだろう。私の事などより、仕事をして来い。」
そう言って、またイヤホンを耳に挿した。
要は、顔をしかめたが、仕方なく真司の方へと歩いて行って、扉を閉めた。
すると、真司が博正と一緒に廊下に立っていて、言った。
「防音完璧だからオレら人狼以外は聞こえないしここで話すけどさ、あいつはガチであの、紫貴って女性に惚れちまってるんじゃないか。」
要は、眉を寄せた。紫貴?
「紫貴って誰?」
「だからあの女性だよ。」博正が言った。「紫貴って名前なの。オレ達も調べに行かされたから知ってるけど、子供は三人居てみんな成人してる。昔っからダンナがDVと浮気のどうしようもない奴で、でも金だけはあったから子供が育つまで待ってたみたいだな。最近裁判にまでなって、やっと離婚が成立したようだ。だが、実家には帰ってなくて、財産分与で分けられた持ち家にそのまま子供達と住んでる。仕事はまだしてない。結構慰謝料分捕ったから、ちょっと休憩ってやつみたいだ。ただ、求職はしてるみたいで、通勤可能な場所ばっかり検索してるな。」
要は、いろいろ情報過多で混乱しそうだったが、何とか消化して言った。
「そこまで調べてるってことは、本気で結婚しようと思ってるんだね。見た感じ、確かに感じの良い人だったけど、どこにでも居そうな感じの人だったんだけどな。」
どこが彰のツボにはまったんだろう。やっぱりDNAだろうか。
真司が言った。
「ジョンのヤツ、紫貴さんの家のパソコンをハッキングしてるから、日がな一日何を見て何をしてるのか見てるんだよ。通販の履歴も見てるし、動画サイトで何を見てるかとか、どんな音楽を聴いてるのかとか、そんな事まで全部な。SNSも最近自分のアカウント作って友達申請してた。紫貴さんも人狼ゲームが好きみたいで、そういう集まりの友達がオンライン上に居て、この前の飲み会はそれだったみたいだ。SNSで相談してたみたいで、晴れて自由になったとああして集まっていたんだってさ。ジョンは、自分も人狼ゲームを、人狼バーでやっていると言って、そのコミュニティに入り込もうとしているんだ。」
確かに、数年前から年に一度ぐらいの頻度で、実験に付き合わせた敦也たちと人狼バーで徹夜で人狼に興じる。
なので、嘘は言っていなかった。
博正は、頷いた。
「なんかさあ、見てるうちに段々気に入って来たんじゃないかって思うんだよな。だって、紫貴さんって通販で佐藤錦を何度も買ってるし、ほんとジョンと味覚が似てるわけだ。ジョンは、紫貴さんを知るうちに、どんどん卵子が欲しい、から、結婚してもいい、で、結婚したいってなって来たんじゃないかって。ここんとこの反応見てても、そんな気がする。」
それは困ったな。
要は、思って顔をしかめた。これまでの彰を見ていても、こうと決めたら本当に一直線、即行動なので、もしかしたら本当に、しばらく関西へ帰るとか言って、戻って来ないかもしれない。
何しろ、あちらには彰の本宅があるのだ。
とはいえ、紫貴の方は全くこちらがそんな風に思っているなど、知らないだろう。まして、自分のパソコンがハッキングされていて、中身を全部見られているなど、思いもしないはずなのだ。
それに、DVに長い間晒されていて、やっと解放されたばかりなのに、そんなストーカーな男が寄って来たら怖いがるだけでなく通報されるんじゃないだろうか。
最初の印象が大切なのに、あまり押しが強いとまずい。
というか、先に彰の本気度を聞いておかないと、紫貴を傷つけてしまうことにもなりかねない。
要は、なんだって自分がそんな心配をしなきゃならないんだよと思いながら、まだ彰の部屋へととって帰した。
「彰さん!」彰は、驚いたように要を見てイヤホンを外した。要は続けた。「紫貴さんと結婚したいんですね?どれぐらい本気ですか?!」
彰は、驚いたように目を丸くしたが、諦めたように息をついて、言った。
「…これまで誰とも結婚など考えられなかったが、紫貴なら結婚しても良いと思うぐらいには。」
要は、真剣な顔で頷いた。
「本気ですね?後からこんなはずじゃなかったとか言って、放って置いたりしませんね?相手は、一度傷ついている女性なんですよ。しかも、やっとそれから解放されたばかりなんです。まず、今から言い寄っても相手にされない恐れがあるのです。子供だって、出来るかどうか…慎重に行きましょう。」
彰は、言った。
「だが、そんな事をしている間に、紫貴が他の男と付き合いだしたらどうするのだ。とにかく、私は自分の事を知ってもらいたいと思っている。子供の事は私がなんとかするし、今はそれどころではない。今なら美容班の言う事を聞いてもいい。検体になる。邪神の私の方がいいか?紫貴はあのTRPGも好きなようなのだ。」
要は、首を振った。
「あんまりにも美し過ぎたら退きますって。今ぐらいがいいんですよ、充分美形ですから。それより、ほんとに慎重に。あまり押しが強いと、ブロックされますよ。DM送り過ぎたりしてませんよね?」
彰は、頷く。
「紫貴の投稿にコメントを書くぐらいにしている。それは、博正にも言われたのだ。最近では、私の投稿に紫貴がコメントを付けてくれることが増えた。そろそろ会いたいと言っても良いのじゃないかと思ってるんだが。」
まだひと月なのに?
要は慌てて首を振った。
「まだ早いですって!焦っちゃだめです、もうちょっとそうやって交流して、自分が無害なんだって思わせないと!どうせ、女性は離婚後六カ月たたないと再婚出来ないんですし、ゆっくり歩み寄りましょう。それに、結婚となると紫貴さんのお子さん達とも挨拶しなきゃならないでしょう。段階を踏んで行かないことには、みんなが不幸になります。落ち着いて。まずは、付き合うことを目標にしましょう。最初から子供が欲しいとか言っちゃ駄目ですよ。」
彰は、顔をしかめた。
「私は早く結婚したいのだが。」
だから一方的なんだよ。
要は思ったが、根気強く言った。
「今も言いましたが、物事には順序があります。最初からガツガツしていたら、彰さんが嫌う寄って来た女性達と同じですよ。紫貴さんに、そんな風に思われてもいいんですか?」
彰は、複雑な顔をして下を向いた。どうやら、本当に早く結婚したいらしい。
…付き合い出したら即、家に連れてって押し倒すとか考えてそうだな。
要は、どうしたものかと心の中で頭を抱えた。寄って来る女性にしていたら、こんなに面倒が無かったのに、よりにもよってまた、複雑な境遇の人を選ぶんだから…!
それから彰は、要や博正、真司の助言に従って、コツコツ関わりを積み重ねて行った。
本人は、もういいだろう、もう会えるだろうとうるさかったが、いきなり会いたいとかハッキリ言って、ドン引き案件だ。
なのでなだめてなだめて、妥協案として、人狼会を主催することにした。
あくまでも、ネットのコミュニティの皆に向けて、対面人狼をしませんか、と呼び掛けたのだが、案外に反応は良くて、人狼バーで集まることになった。
その日は貸しきりにする予定で、紫貴にも是非と言ったのだが、紫貴はあいにく、職を探している最中なので、と、断って来た。
というのも、紫貴も遊んでばかりもいられないのだ。
今は慰謝料と成人した子供達の稼ぎで生活しているが、そろそろ働かないとということらしい。
旅行している場合ではないのだ。
なので彰は、ならば自分の別荘で、と強引に場所換えをした。
確かに関西には祖父から受け継いだ不動産が山ほどあるので、場所には事欠かない。
もう参加が決まっていた人達には、旅費は出すので自分の別荘で集まろうと変更を言い渡した。
とにかく、強引だった。
だが、タダで関西まで旅行出来るので、皆怒りはしなかった。
年末が近付いていたのだが、その年末休みの2日を使い、皆あちらへ行くことに決まった。
航空券の予約から、ついた空港からのバスのチャーターまで要がやることになった。
「紫貴さんは、なんと?」
要が疲れ切りながら言うと、彰は嬉しそうに言った。
「来ると。家の前まで私が車で迎えに行くからと言ったら来てくれると言ってくれた。」
また押し切ったな。
要は思ったが、とにかく会わないことにはどうにもならなかった。
何しろ研究に身が入らないので、早く落ち着いて欲しかったのだ。
まさか彰が、ここまで紫貴、紫貴と言うようになるとは誰も思っていなかったのだ。
「前日は私もあちらの屋敷に戻って、次の日皆が着くまでに先に紫貴を別荘まで連れて行っておく。話がしたいのだ。」
まだ面と向かって会話したことないもんなあ。
要は思った。でもそれで、思っていたのと違ったらどうするのだろう。
要は思ったが、その時はその時だ。彰が元に戻るのが重要なので、要としてはどちらでもいいのだ。
研究所でも休みを取る人が増える年末なので、こちらも何も起こらないだろうと、要は息をついて思っていた。
一緒に休みを取った要は、彰とその祖父の屋敷にお邪魔した。
屋敷では主人の帰還に大喜びだったが、彰は言った。
「長く留守にしてすまないが、一時帰宅しただけなのだ。こちらは、私の部下の要。」と、要を紹介した。「ゲストルームに案内してやってくれ。」
間下が進み出て、言った。
「お帰りなさいませ、彰様。奥様をお連れになると聞いていたのですが。」
まさか要ではないだろうなと、間下は警戒しているようだ。
彰は、首を振った。
「まだ婚約していないのでな。本人に確認を取ってからだ。それより部屋へ帰る。」
彰はさっさと階段を登って行く。
慌ててメイド達がそれを追い掛ける中、間下が怪訝な顔をしたので、要は言った。
「多分、SNSの確認に行ったのかと。」間下が、ますますわけが分からない顔をしたので、要は間下に説明した。「彰さんは一方的に相手を想ってるんですよ。居酒屋で隣り合わせた人なんですけど。相手はまだ、何も知りません。付き合ってすらいないので。」
間下は、びっくりした顔をした。
「え、ということは、これからお相手のお心を掴むとか、そういうことなんでしょうか。」
要は、バツが悪そうに頷いた。
「はい。まだまともに話したことすらないんです。こちらから一方的に調べ上げて、SNSで繋がってるぐらいで。お相手の方はまだ、お子さんが育ったからと離婚されたばかりだし、多分再婚なんか考えてないと思うので、ちょっと時間が掛かりそうなんですが。」
間下は、まさかそんなことになっていたとはと、愕然とした顔をして、階段を見上げた。
彰はもう、自分の部屋へ帰ったようだった。
「困りましたね。」間下は言った。「やっと彰様に奥様がと、私達もホッとしていたところでしたのに。跡継ぎのお子様は、それでは無理そうですね。」
子供が育ったということは、結構な歳だということだからだ。
要は、首を振った。
「まだなんとも。確かにお歳のわりには若々しいかたで、派手な人ではなく上品で落ち着いた感じでしたけど、私もチラッと見ただけなので。」
また難しそうなかたを。
間下も思ったようで、ため息をついた。
「そういうことなら、とにかくはお手伝いを。明日は車を出すように言われておりまして、私は会社の方があるので運転手に任せようと思っておりましたが、お相手を確かめるためにも私が行った方が良さそうですね。」
要は、頷く。
「はい。確認しておきたいなら、その方がいいかと。」
間下は、頷いて電話を取り出した。
恐らく明日の予定を開けさせるために秘書に連絡するのだろう。
「要様。」メイドが話し掛けて来た。「こちらへ。お部屋へご案内致します。」
要は頷いて、そうして二階へとメイドについて上がって行った。
明日は、いろいろな意味で決戦の日だった。




