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弟・樹

樹は、兄が好きだった。

兄は、気が付いた時には同じ家に居て、他の人達とは違って自分に笑顔を向ける事もない子供だった。

そもそもが、兄が笑ったところなど見たこともない。

だが、そんな兄でも、樹にとっては身近に居る同じ子供の仲間だった。

最初は自分に全く興味も無さそうだった兄も、こちらから一生懸命話し掛けると、答えてくれた。

無視をすることは、一度もなかった。

なので、兄が自分を嫌っているのではなくて、ただ笑わないだけなのだと思った。

兄は、大人のように話した。

言葉が難しくて理解出来なかった時は、素直にそう言うと丁寧に教えてくれた。

なので、樹は同じ年頃のもの達よりも、格段に語彙力のある子供に成長した。

小学校に入った時、兄は既に六年生だった。

父は樹を私立の小学校に入れたがったが、兄と同じ学校に行きたかった樹はわざとテストで間違った答えを書いた。

もちろん落ちて、樹は無事に同じ学校に進学出来た。

兄なら余裕で受かったのだろうに、と思った時、樹は父が兄を憎んでいる事を知った。

母と使用人達が話しているのを聞いていると、どうやら母の父、つまり祖父と兄がとても似ているからだということだった。

あまりにも理不尽なので、樹は兄を庇うようになった。

母のことは好きだったが、なので樹は父が嫌いだった。

後で分かった事だったが、子供の自分がこんなことを悟るのは、おかしかったのだ。

そう、自分も兄と同じように、兄ほどではないにしろ、他の皆よりいろいろ分かる頭脳を持っていたのだ。

小学四年生の時、兄は突然家から消えた。

間下という使用人と一緒だった。

それがなぜなのか、樹は知っていた。間下が自分にも一緒に行こうと言って来たからだった。

本当は、樹は兄と一緒に行きたかった。

だが、樹には出来なかった。父はどうでも良かったが、母は家には帰れないと泣いていたのを見ていたからだ。

母は、兄の事でよく父と言い争いになっていた。

その時、母が祖父に逆らって父と結婚したのを知った。

母は、一人では何も出来ないので、兄と自分を連れて家を出る事も出来なかったのだろう。

祖父の弁護士だという男が家にやって来て、抵抗する父相手にでは取引中止をと勧告し、父は怒り狂いながらも判を押していた。

それが、兄との別れになるなど、樹には分からなかった。

だが、兄はそれから帰って来る事はなく、海外へ留学したのだと母から聞いた。

それから間もなく、祖父は死んだ。

葬式の席で、遺言状が読み上げられ、遺産の半分は祖母、半分は兄にと取り決められた。

そこでも父は怒り狂っていたが、母はどうやら縁を切られていたらしく、父と結婚するのなら遺産は受け取らない書類にサインをしろと言われて、それにサインしていた。

その書類が決め手となり、こちらには一切金は渡らず、父は歯ぎしりしながら葬式場を後にするしかなかった。

何しろ、葬式の席でも親族達がこちらを見てヒソヒソと囁いているのが見えていたので、招かれざる客だったのは確かだ。

それでも父が列席したのは、間違いなく祖父の金をあてにしていたからだろう。

幼かった樹だったが、それで父にはほとほと愛想が尽きてしまった。

とはいえ、自分は兄のような天才ではない。

兄の後を追って海外へ行くほどの気概もなく、また金もなかった。

樹は知っていたが、兄は数ヵ国語をスラスラと話した。

町中でいきなり外国人に話し掛けられても、狼狽える事もなく、あっさり答えていたのは見ていた。

樹には、それがない。兄に教えを乞うて英語は少し話せるようになったが、まるで辞書のような兄の語彙力には到底叶わなかった。

後で聞いたら、兄は辞書を丸暗記していた。

樹にはそこまで出来なかった。

「本は頭に入れるものだ。」兄は言っていた。「集めて置いておくスペースがもったいない。一言一句を違えず覚えてしまった方が、後から自分の中で引き出せるので楽なのだ。」

それが出来るなら、と樹は思った。誰もが兄のようにはなれないのだ。


兄が出て行き、祖父が死んで間もなく、父は会社を失った。

売るしかなかったのだと後で聞いた。

当然、あの大きな屋敷に住む事は叶わなくなり、会社を二束三文で売った時に残った僅かな金を使ってアパートを借り、父は日雇いの仕事、母はパートに出て食い繋ぐことになった。

父は事あるごとに母につらく当たった。樹はまだ義務教育の只中で、母を助ける事も出来なかった。

高校には、学力でなんとか奨学金を勝ち取り、行く事が出来た。

バイトに明け暮れながら学校に通い、何とか大学にも進めるだけの金を貯めてやっと家を出ようと思った時、父の使い込みが発覚。

国立大に入学が決まっていた樹の、入学金の振り込みが出来ない事態に陥った。

母は、言った。

「…彰に、頼んでみましょう。」樹が驚くと、母は続けた。「実家の使用人が、ソッとあの子の携帯番号を教えてくれたの。お葬式の時よ。あの子なら、きっと助けてくれるはず。あなたが困っているんですもの。」

困った理由は父なのに。

樹は、思った。こんな時にも、母はまだ父を責めずに兄に頼ろうというのか。長い間放って置いた、あの兄に。

「そうだ!」父も言った。「あいつはあの男の遺産を相続してるんだ!こんなもの、はした金だ、出すべきだ!」

さすがに樹は、声を荒げた。

「父さんはいつも、兄さんを蔑ろにして怒鳴ってばかりだったじゃないか!兄さんなら、会社を立て直して今頃はこんな生活をしなくて済んだかもしれないのに!自分より賢い兄に腹が立ってただけのくせに!」

そう叫んだ樹に、父は激昂してその頬を思い切り殴った。

樹は寸前で少し避けたので、もろに食らうことはなかったが、それなりのダメージを受けた。

「聡さん!やめて!」

母が叫ぶ。そう、母はいつもこんな風だった。言うだけで、行動が伴わないのだ。

「オレに逆らうからだ!」父は叫んだ。「これで分かっただろう!」

樹は、心の底から腹を立てて、生まれて初めて人を殴った。

思い切り振りかぶった手は、父の左頬をもろに捉えて、父は吹っ飛んで壁に叩き付けられた。

思えば、今では自分の方が体が大きいのだ。

背が高かった祖父の、そこを受け継いでいたのだろう。

「父さんこそ、これで分かっただろう!」樹は、倒れてフラフラと立ち上がれずにいる、聡を見下ろして言った。「これでおあいこだ。殺すことだってオレには出来る。あなたはとっくに老人なんだよ!」

とは言っても、まだ父は五十代に差し掛かる辺り。

だが、体格は樹の方が良く、背も高いし何より若かった。

「で、出て行け!」聡が、叫んだ。「お前なんかと一緒に暮らせるか!」

樹は、フンと鼻を鳴らした。

「オレはいいよ。」と、くるりと自分の部屋へと足を向けた。「オレの金に手を付けるぐらい困ってるのに、オレが出て行って、そっちこそ生きて行けるの?ま、もうどうでもいいけど。」

樹は、部屋へ戻ると、急いでなけなしの自分の持ち物を鞄に詰め込んだ。もう、こんな所には居られない。大学にだけは、絶対に行かなければ。どこかで、金を借りて…。

だが、兄にだけは、絶対に借りることは出来なかった。

これ以上、兄を煩わせたくなかったのだ。

樹は、荷物を担いでおろおろするだけの母親の横を通り過ぎて行く。母親の事も、もう愛想が尽きた。ここまで庇って来たが、自分でどうにかするつもりなどさらさらなく、ただ父を責める事もせずに兄を頼ろうとする。

何をしてやらなかったくせに。

「待って!」母は、必死に言った。「あなたが出て行ったら、今月分の家賃が…!」

樹は、くるりと振り返った。

「そんなの、その男のせいじゃないか。オレは知らない。もう、オレもここを出るよ。オレの事は、いなかったと思ってくれ。それから、兄さんに金の無心なんかするな。ま、兄さんに頭を下げるなんて、その男に出来るとは思えないけどね。」

樹は、それだけ言い残すと、そのアパートを後にした。

もう、戻るつもりもなかった。


大学へは、アルバイト先に無理を言い、長く真面目に働いていたこともあり、何とかお金を前借することが出来て、入学だけは出来た。

寮に入ることも出来て、樹の成績なら困窮世帯の子というのもあり、すぐに奨学金の申請が出来た。

これは、返すことは必要ないもので、それを受けられるのは一握りだったのだが、幸い樹は成績がとても良かったのだ。

アルバイト三昧でこの成績を取れるのは、奇跡だなと先生にも言われていたが、これもきっと兄に似ている所なんだと思って、樹は嬉しく思った。

一度、母の様子だけでもとアパートを遠く窺ったことがあったが、その時にはもう、両親はそこに居なかった。

どうやらどこかに引っ越したようだったが、恐らくは家賃が払えなくなって追い出されたのではないかと思われた。

兄に迷惑が掛かっていないだろうか、と、一度恥を忍んで祖父の会社に電話をしたことがある。

すぐに、間下が出て来て、樹に対応してくれた。

樹は、自分が家を出たこと、母が祖父の葬式の時に兄の電話番号を入手していたこと、もしかしたら兄に金の無心をするかもしれない事を話すと、間下は答えた。

「…でしたら、その番号ではもう、繋がりません。」間下は、言った。「ご安心を。あちらでも数年前、ホームステイ先から出られた時にいろいろありまして、その時に全て変えられたのです。ですから、新しい番号の入手は困難です。屋敷の方でも、箝口令が敷かれております。個人情報ですので。」

樹は、ホッとした。では、兄は何も知らずに順調なのだ。

「ありがとうございます。それが分かれば良いんです。では、失礼します。」

樹は、すぐに電話を切った。

間下は、まだ何か言いたそうだったが、これ以上はこちらの様子を知られたくない。

何より、兄に自分のこんな様を見せたくはなかった。

毎日、必死に働くしかなく、母も父も、捨ててしまった自分を。

樹は、そのまま母の実家にも連絡しなかった。


樹は、大学を主席で卒業した。

兄ほどではなかったが、それでも兄に追いつきたいと必死に勉強をした成果だった。

一応、一般企業に就職し、自分の事を食べさせるのは全く問題なくなった。

今なら兄に会えるかもしれない、と思ったが、何しろ長年会っておらず、しかも兄が今、どこに居るのかも分からない。

連絡が取りたければ、また間下に連絡すれば済んだ。

だが、父母を捨てた自分を、兄が何と言うだろうと思うと、とても言い出せなかった。

学友たちが結婚して行く中、樹はどうしてもそういう気にはなれなかった。

付き合った女性は居たが、幸せな家庭を築けるかと言われたら、とてもじゃないが自信がなかった。

それに、自分の父母すらどこに居るのかも分からない状態だ。結婚となると、親族の顔合わせなどもあるのだろう。兄の事も、言わねばならない。それが、樹にはとても難しかった。

なので、いつも女性の方から、痺れを切らして去って行った。

自然もう、結婚などどうでも良いと考えるようになった。

樹は社内でも、全く結婚には興味がないやり手の上司、と密かに言われていたのだが、そんな事は本人も知る由もなかった。

最年少の部長となっても、樹はいつも、孤独だった。

そして、自分はこんなものだろうと、諦めてもいたのだった。


「神之原部長、ご面会なのですが。」

樹が、いつものように自分の執務室でパソコンとにらみ合っていると、秘書が入って来て、言った。

「面会?」と、自分の脇に開いたままの手帳を見た。「…予定はないがな。」

秘書は、困ったように名刺を小さなトレーに入れて持って来て、樹の前に差し出した。

名刺には、『国立医学技術研究所 立原 要』と書いてある。

「立原様と仰いまして。多勢峰(たせみね)彰様の事でお話がとおっしゃっております。」

多勢峰?!

樹は、立ち上がった。多勢峰は、祖父の姓だ。兄は祖父の養子に出たのだと聞いている。

「すぐにお通ししてくれ。」

秘書は、食いぎみな樹に驚いた顔をしたが、慌てて頭を下げた。

「はい!」

そして、出て行く。

国立医学技術研究所…如何にもありそうな名称だが、しかし住所も何も書いていない。

これが、偽物の名刺である可能性もあるのだ。

そう思いながらも、彰の名を知っている人物であることには間違いない。

もし、兄に何かがあって、自分を探してきたのだとしたら…?

樹は、ドキドキと胸が痛いほど打つのを感じた。もしかして、何か兄の事を聞けるのかもしれない…!!

しばらくすると、若い男が秘書に案内されて入って来た。

すらりと背が高く、しかし穏やかそうな表情で兄のような険しい様子ではない。

相手は、自分の顔を見て、目をスッと細めると、言った。

「…初めてお目に掛かります。」と、手を差し出した。「私は、立原要。あなたを探して、こちらへ参りました。」

樹は、その手を躊躇いがちに握って、言った。

「私が、神之原樹です。多勢峰彰のことについてとお聞きしましたが。」

要は、頷く。

「はい。やはり弟さんでいらっしゃるから、雰囲気が似ている所があります。彰さんは、私の上司なのですよ。」

兄が生きている…!

樹は、涙が浮かんで来るのが分かった。兄は生きて、日本に帰って来ているのだ。

「座ってください。」樹は、要に座るように促した。そして、秘書が持って来た茶を置いて、出て行くのを待って、続けた。「兄は、日本に居るのですね。私は…もう長く兄とは会っておりませんで。」

要は、頷いた。

「はい。彰さんもそう言っておりました。全てをあなたに押し付けて日本を発ったので、今更どんな顔をして会えばいいのか分からないと言って…でも、長く会っておられないし、探してみてはと勧めたのですよ。そうしたら、探して欲しいと言うので。私が、参りました。実は、あなたがどこに居るのか、もう彰さんには伝えてあります。私が本日、ここへ来るのも知っておられます。」

樹は、兄がそんな風に思っていたのかと、驚いた顔をした。

「そんな…私が、残りたいと言ったのです。これは、私の選んだ道なのですから。」と、下を向いた。「あんな偉そうなことを言っておいて、私は最後には父母を捨てて家を出ました。今では、どこで何をしているのかも知りません。」

要は、目を細めてそんな樹を見ていたが、言った。

「…私からは、多くは語れません。でも、彰さんは。あの、会社の前のコインパーキングに止めた車の中で、待っているんですけど。会ってくださいますか?」

樹は、びっくりして立ち上がると、慌てて窓へと走った。

そして、遥か下に見える道に設置されたパーキングメーターの横に、大きな黒塗りの車が止まっているのが見えた。

「…あの車ですか?」

要は、樹が急に動いたので驚いたが、傍に寄って来て、見下ろした。

「ええ、あの黒い車。実は私と一緒に来たんですが、先に行って聞いて来てくれと言って。あなたが会いたくないと言うのなら、このまま帰るからと。」

樹は、慌てて言った。

「すぐに!上がって来てもらってください、いや、お迎えに行きます!」

要は、思い立ったらすぐというのは兄弟で一緒だなと苦笑しながら、言った。

「いや、上がって来ますから。受付に、こちらへ案内するように言ってもらえませんか。」と、携帯を出して、電話を掛けた。「彰さん、上がって来てください。待っておられます。」

樹は、慌てて受付に連絡した。

「私の兄が来た。多勢峰彰だ。私の部屋まで案内してくれ。」

向こうは驚いたようだったが、はい、と言って切ろうとした瞬間、何やら「きゃ」と小さな叫び声のようなものが最後に聞こえた。

要は、あちゃーまだ邪神モードの綺麗さ残ってたからなーっとそれで内心思い出していた。


何やら、外が騒がしいような気がする。

樹は、落ち着かないようにウロウロとしていたが、何やら声が聴こえて来るので、おかしいと思ったのか、扉を開いた。

「なんだ、騒がしいぞ、来客があるのに…、」

そこまで行って、樹は固まった。

エレベーターから降りて、真っ赤な顔で先導する受付の女性の後ろを、不機嫌そうな顔で歩いて来る男が居た。

兄だ。

樹は、一目見て分かった。

兄は、とんでもなく綺麗な姿だったが、間違いなくあの、不機嫌そうで笑ったこともない顔は、兄そのものだった。

このフロアは重役の執務室だけなので、そんなに人が居るはずがないのに、何やら階段付近には人だかりができている。

どうやら、彰があまりにも見た事が無いほど綺麗な容姿なので、噂が瞬く間に広がって、見に来ているらしかった。

そのうちに、彰は樹のオフィスの前までやって来た。

「…久しぶりだな、樹。それにしても、君の会社の社員たちの躾はこんなものか?皆仕事中ではないのか。」

樹は、ハッとして慌てて皆に叫んだ。

「仕事に戻れ!見世物ではない。」

皆、慌てて去って行く。

要が、言った。

「仕方ないですよ彰さん、だってあの被検体になって今、まだ残ってますからね。」

邪神モードが。とは要は言わなかった。

彰は、息をついた。

「まあ、いい。それで、中へ入っても良いか?」

樹は、ポカンとして彰を見ていたが、慌てて頷いた。

「もちろんです。入ってください。」

彰は、樹に促されてソファの上座へと座った。

秘書が茶を持って来たが、茶わんを持つ手がブルブルと震え過ぎて茶のほとんどが茶たくの中へとこぼれてしまい、淹れ直しになってまた手が震えていたので、仕方なく樹が茶わんをテーブルに置くなど、トラブルはあったが何とか落ち着いた。

「兄さんが、こんな風になっていたなんて。」樹は、口を開いた。「おじい様の写真にそっくりですけど、おじい様はこんなに綺麗な感じじゃなかったですよね。」

彰は、ふうと息をついた。

「これはな、うちの研究所の美容班が作った美容液の検体になったからなのだ。髪だって驚くほどにサラサラ。だが、そのうちに元へ戻る。あっちこっちで悲鳴を上げられたら私もたまらない。まあ、あまり街中を歩くことなどないが。本来、年相応のおじさんだよ。」

そうかなあ。

要は、横でそれを聞きながら思っていた。彰は見た感じ年齢不詳なのだ。

樹は、言った。

「…兄さんは、医師になっていたんですね。医学技術って書いてありますし。この要さんの、上司なのでしょう?」

彰は頷いた。

「そうだ。細胞の研究をしている。と言っても、私の研究施設は誰にも知られぬ場所にあって、君にも教えることは出来ないのだ。機密が漏れるのを避けるため、滅多に人は出入りできない。そんな場所だ。」

樹は、頷いた。

そして、何かを言いたそうにもじもじと下を向いている。

彰さんが、はっきり言えとかキレたらどうしよう、と要が内心ハラハラしていると、意外にも落ち着いた様子で、彰は言った。

「すまないな。」樹が、驚いたように顔を上げる。彰は続けた。「私は長い事君をほったらかしにして来た。探そうと思えば、簡単に探せたのだ。だが、君に父母を押し付けたまま、世界中を飛び回って14年も留守にしていたのに、帰国した時点でもう、君に会うのを諦めていた。それからも、時が経つにつれて今さらと言われるのではないかと、探すことも出来なくなり、結局今になってしまった。本当は、君が困っていた頃に、こうして会えて居たら良かったのに。」

樹は、ブンブンと首を振った。

「私こそです。あんな大きな事を言っておきながら、私は父母を最後には見捨てました。私も、もう探すこともしておりません。一度、大学生活が落ち着いた頃に住んでいたアパートを見に行ってみましたが、もう誰も居ませんでした。私も生活費を稼いでいたし…私が居なくなったら、家賃が払えなかったのだと思います。」

彰は、眉を寄せた。

「君は君の好きな事をしたら良いのだ。父は自業自得、母はその父について行くと決めた時から、もう運命は決まっていたのだろう。恐らくは父の言いなりで、それが母の選んだ道だ。ならばそれでいい。祖母が亡くなったのは知っているか?」

樹は、渋い顔をした。

「いえ。でも、もうご存命ではないと思っていました。会社は、では間下達が?」

彰は、頷いた。

「私に継いでもらえればと言われたが、私は生憎医師でやりたい研究があるのだ。だから、間下に任せている。だが、君が後を継ぐというのなら、あちらへ行っても良いかと思うが?」

樹は、苦笑して首を振った。

「私は、今この会社で満足しております。重宝して頂いていますし、いろいろ新しいシステムの導入も、私なら指示出来ますから。この会社も、若返りを図り始めているのですよ。」

要も知っているが、この会社はそこそこ大きな会社だった。上場企業だし、樹が優秀だったからそこへ入って、ここまで上り詰めて来たのだろうと思われた。

彰は、言った。

「ならば、君は君の道へ。君が自分の手で勝ち取った地位だし、富だろう。良い事と思う。」

樹は、だが下を向いた。

「ですが…やはり、父母の事は気になります。行方不明など、体裁が悪くて結婚も出来ませんしね。」

彰は、眉を上げた。

「君は結婚したい相手が居るのか?」

樹は、慌てて首を振った。

「いえ、居ません。でもお付き合いした事はありますし、その時に相手に婚姻を迫られても、そんな気にはなりませんでした。婚姻というのは、家同士のものという風潮がありますしね。うちの両親の事を聞かれた時に、生死も定かでないとは言えません。」

彰は、ふむ、と顎に手を置いた。

「…父母の居場所を知りたいか。」

樹は、目を丸くした。

「え…まさか、分かったのですか。」

彰は、頷いた。

「本気になればいつでも探せたが、探して来なかっただけなのだ。君もだろう?」と、樹がぐ、と黙るのを見て、笑った。「冗談だ。別にどうでも良いことではあるが、一応調べさせた。見つかったのだ。」

樹は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「どんな…どんな様子でしたか?」

彰は、淡々と言った。

「何も。静かなものだった。何も言わないわけだから、私から文句の言いようもなかった。なので、黙って花だけ置いて来た。」

樹は、胸を押さえた。それは…。

要が、同情したように頷いた。

「はい。お二人とも、亡くなっておられました。神之原家の墓ではなく、身元がよく分からないと共同墓地に収められたようです。その…去年の冬は、とても冷え込みましたから。」

去年の冬…最近だ。

彰は、長い息を吐いた。

「もう、70近くだっただろう。外では冬の寒さも堪えたはずだ。私の居場所は分からないし、君の事を調べようにも分からない状態だったようだ。君は戸籍も抜いて住民票も閲覧不可にしていただろう?二人で、公園で寝泊まりしていたようだったが、死んだのは氷点下を下回った夜。父は公衆トイレ脇の極々小さな段ボールハウスの中、母はその前にあるベンチの上。恐らく、段ボールハウスには二人は入れなかったので、追い出された母は外で寝ていて先に死んだのだろうと思われる。無理にでも二人で入っていれば、二人分の体温と段ボールの保温効果でもしかしたら死ななかったかもしれないと、警察では言っていた。つまりは最後まで、父はあんな感じで、母はそんな父に縋るしかなかったのだ。そういう運命だった。」

母は逃げることも出来たのに。

樹は、思った。そう、もっと早くに家を出て、兄と自分の二人を連れて、祖父に頭を下げていれば、祖父は母を許したのではないだろうか。

母は、それなのにその勇気が出なかったのかもしれない。

そうしてズルズルとあんな男について行き、最期には追い出されてベンチの上で…。

「…哀れですね。」樹は、言った。「父はいいです。一発殴ってやりました。殴られたので、殴り返したんですがね。母は、本当に哀れだと思います。もっと早く、父を見限っていればこんなことには。勇気がなかったのでしょうね。無理にでも、連れて出た方が良かったのでしょうか。」

彰は、首を振った。

「これが母の選択だった。私達には関係ないのだ。私達には、私達の選択がある。人は皆、一人なのだ。全てにおいてな。」

兄はそれを悟ったのかもしれない。

あの、たった一人で渡米した、14歳の時に…。

そう思うと、この兄も苦労したのだろう。金銭面では、自分のように困らなかったかもしれないが、外へ出てたった一人で戦い続け、自分の地位を確立したのは同じだ。

まして兄は、自分のように両親に可愛がられた記憶もない。自分は、あんな父にでも可愛がられた記憶はあった。

兄がこんな風に笑わないのも、きっと生い立ちが関係しているのだろうな…。

樹は、思いながら久しぶりに見る兄の顔をまじまじと見つめた。その顔は、放課後に図書館へと外出する兄の後を追って、一緒に行くと無理を言い、結局公園に付き合わせてしまった時のあの姿と、ダブって見えた。

兄は、あんなことを望んでいなかったはずだ。それを、弟の我がままに付き合って、一緒に遊んでくれた。兄はこんな風だが、本当は優しい人なのだ。

ふと、兄が自分の視線に気付いて、フッと眉を寄せた。樹は、じっと見たりして、気分を害したかも、と慌てて下を向くと、言った。

「すみません、懐かしくてつい。」

下を向いた弾みに、何かがぽたぽたと膝に落ちた。なんだろうと頬に触れると、自分でも気づかない間に、自分は大量の涙を流していた事に気付いた。

「私は…。」

恥ずかしい。

樹は、せっかく大人になったのに何をしているのだろう、と慌ててハンカチを探した。彰は、フッと苦笑して自分の懐から白いハンカチを出すと、樹に渡した。

「いいのだ。長く放って置いて、悪かったな樹。私の連絡先を知らせておく。これからは、何かあったら連絡してくれたら良い。だが、電話に出られない時も多いので、出来たらメールをしておいてくれたら助かるな。必ず読むので、返事は待っていて欲しい。遅くても、七日以内には返せると思う。」

樹は何度も頷いて、自分の名刺を慌てて懐から出した。

「私の連絡先も。個人の連絡先をすぐに書きます。」

見るからに設えの良い万年筆を胸からスッと抜き取って、樹はさっと自分の名刺の裏に連絡先をメモした。

「要。」

彰が言うと、要が、同じように胸ポケットからあの、名前と研究所名しか書かれていない名刺を出して、裏を返した。

そこには、手書きの連絡先があった。

「こちらが、彰さんの個人的な連絡先です。もし漏れたのが分かったら、すぐに変わりますので注意してください。変わった際には、彰さんからまた個人的に連絡が入りますので、知らない番号からの電話には気を付けてください。」

そんなに厳重に管理されてるのか。

樹は、いったいどんな研究所で働いているのだろう、と思ったが、詮索するのは良くないと、頷いた。

「わかりました。」

彰は、言った。

「なに、変わったらメールで先に知らせてから電話するので、むしろメールの方を注意して見ておいてくれ。しょっちゅう変わるのだ、漏らす奴が世界中に居てな。」

要が、頷く。

「彰さんと話したいって人多いですもんね。」

彰は、うんざりした顔で言った。

「私は出来れば誰とも話したくない。」と、ぽんと膝を叩いた。「では、ひとまずこれで。会えて良かった。」

彰は、さっさと立ち上がる。

よく見ると、さっきあれだけ秘書が難儀した茶には全く口を付けていなかった。

「待ってください、兄さん。せめてお茶だけでも。」

彰は、困ったように言った。

「すまないな、私は外では何も口にしないのだ。細菌の問題があって。」

樹は、何のことだろうとぽかんとした顔をした。要が、慌てて言った。

「徹底的に栄養管理しているので、自分用に作らせたものしか食べないんですよ。すみません。」と、彰を見た。「彰さん、他に何かあるでしょう、もう帰るんですか。」

彰は、要を怪訝な顔で見た。

「え?連絡先は渡したし、必要な事は言ったと思うが。」

樹は、そんな様子を見ながら、相変わらずだ、と思った。兄は何も変わっていない。悪気はないが、素っ気なく見えるこの態度も。だが、兄が本当は優しい事は、樹が一番知っていた。

「そうですね。では、私の行きつけのお店があるので、今度そちらで飲みながら話しませんか。ええっと、栄養士か何かに、食べる物を管理してもらってるなら、事前に店をお教えするので、メニューから何を食べるか選んでもらって、そこで栄養価を考えてもらったら。」

そういう事じゃないんだけど。

要は思ったが、黙っていた。

意外にも、彰はすぐに頷いた。

「分かった。店の名前を聞こう。」

今?!

要は目を丸くした。しかし樹は、急いでスマートフォンを取り出して、さっさと操作した。

「ここです。」と、画面を見せた。「この、居酒屋。庶民的に見えて結構丁寧に料理が作られていて、おいしいんです。なかなか予約が取れないんですけど、私は出来た時からの常連なんで融通してくれます。」

彰は、さっと画面を見ると、頷いて視線を外した。

「分かった。では、日時は後で詰めよう。ではな、樹。」

樹は、相変わらずだな、と思いながら、頷いた。

「はい、お送りしますよ。」

そして、樹と彰は並んで歩き出した。

少し後ろを歩く要には、二人は確かに、兄弟なのだと思った。

何しろ、動きも背の高さも体格も、後ろ姿は本当にそっくりだったのだ。

そんな要の視線に気づくことなく、二人は何やら話ながら、エレベーターへと歩いて行ったのだった。

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