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誕生

紫貴の体内のトランスポンダーからの応答は、ある時を境にピタリと止まった。

「地下に入ったな。」博正が、言った。「だが、この辺だろう。」

すぐに出て行こうとする彰を、モーガンが引き留めた。

「待ってください。あなたが姿を見せたら敵の思うツボです。紫貴さんなら、きっと大丈夫ですから。」

博正が、言った。

「オレと真司が行って来る。オレ達ならもしもの時は狼になれる。野良犬だと思うだろうし。」

犬にしたらあまりにも大き過ぎるから通報されるかもしれないがな。

要は、思った。

「オレも面が割れてるから出て行けない。頼む、博正。」

博正は、頷いた。

「任せてくれ。あの人はいい人だし、オレだって助けたいからな。」

紫貴は、穏やかで落ち着いた感じなので研究所でもうまくやっていた。研究所員達は皆、日本語が話せるので、わざわざ英語で話して紫貴に分からないような意地悪などしなかった。全員が紫貴に日本語で話しかけて、紫貴も楽しく話していたものだった。

中でも真司と博正は、よく紫貴と話していたもので、彰もムッとしていることが多かった。

二人は、そっと車を出て、紫貴の匂いを辿って居場所を探った。


しばらく行くと、匂いが濃くなっている場所があって、それは小さな雑居ビルの地下へと伸びる階段だった。

「…ここだな。」

博正が小さな声で言うと、真司は頷いた。

「間違いないな。」

一階には、テナントが入るためのスペースがあったが、それを借りる者も居ないようで、埃を被った室内が大きな窓から見えた。

「ここから入るか?床下からうかがえるんじゃないか。」

「プロに頼もう。」と、時計を押した。「見つけた。地下だ。一階のテナントが空だからそこから下を窺ったらどうだ?」

声が返って来た。

「すぐ行く。」

真司は、言った。

「誰か出て来たら捕らえるか。」

博正は、頷いて回りを見てから、階段へと足を進めた。

「オレが狼になって階段で待機する。お前は飼い主のふりをして、一緒に来てくれ。相手が二人だって聞いてるから、多分一人は見張りに残るだろう。出て来たとしても一人。オレがやる。」

真司は頷いて、博正と一緒に階段を降りて行った。

音を立てずに歩く事には慣れている。

そもそも、人狼の二人には、異常な聴覚があって、音に対して敏感なので、その二人が音を立てずに行くと、普通の聴覚では何も聴こえなかった。

地下には、二つの扉があったが、紫貴の匂いが続いていたのは、降りて左の奥へと入った所にある、奥まった扉の方向だった。

そこへと降り立った博正は、サッと人狼へと変化した。

真司と二人、扉に近付くと、二人の耳には盛大に中の会話が聴こえて来た。

「…なんだよ、女の嫉妬か。」

囁くような声で博正が言う。真司は、頷いた。

「だが、紫貴さんは上手い事言ってるな。英語が全く分からないわけじゃ無いのに、全く分からないふりをしてる。わざとジョンが自分に興味がないと思わせてるんだ。」

じっと耳を澄ましていると、中の様子は緊迫して来た。

アデラという女は、紫貴を殺すと腹の子が生きられないと言って、ジョンと関係を迫るつもりらしい。

どうやら、共犯の男と対立しているようだった。

「踏み入るか?でも、紫貴さんを人質に取られたらまずい。心中でもしかねない狂った奴だぞ。」

ピカッピカッと腕時計が光った。通信だ。

急いで階段を上がった真司が、急いで応答した。

「真司だ。まずいぞ、何か女が男と対立してる。」

モーガンの声が言った。

『モーガンだ。床下に入った。紫貴さんを視認出来てる。女が男を…刺した。出て来るぞ、女を捕らえられるか?』

真司は、振り返って博正に合図した。

「出て来る。捕まえろ。」

博正は、頷く。

真司は、それを見て時計に言った。

「捕まえられる。車は回せるか。」

モーガンは頷いようだった。

『大丈夫だ。目の前の白いワゴンがそれ。そこへ袋に詰めて搬入してくれ。バーントに行かせる。』

扉が開いて、女が出て来た。

そして、目の前に大きな犬が居るのを見て、叫び声を上げそうになったところで、その喉を思い切り噛みつかれてそれは叶わなかった。

『ぐふ…!』女は、声にならない声が漏らした。『な、なに…あんたまさか…』

人狼…。

意識が遠のく。

そのまま、女はぐったりと倒れた。

バーントが、慣れたように駆け下りて来て、クリーニング業者が使う大きな袋を広げた。

「ここへ。詰めて持って行く。」と、胸から注射器を出して、それを首に挿した。「念のためな。寝ててもらわないと起きたら面倒だし。」

バーントと真司の二人は、アデラを袋に詰めて、階段を上がった。

幸い、ここは人通りが少ない裏路地なので、誰もいない。

その隙を見て、サッとアデラの入った袋をワゴン車へと乗せると、ワゴン車はそれを確認することも無く、さっさと立ち去って行った。

証拠は、いつまでも同じ場所には置かないという事だろう。

モーガンが、急いで降りて来て、残っていた博正に言った。

「紫貴さんを連れて行こう。ジョンが死にそうな声で必死に紫貴は無事かと訴えてて、無事だと言ってるのに安心出来ないみたいで。」

博正は、頷いた。

「開けてくれ。」

扉を開くと、紫貴がビクッと振り返った。

そして、モーガンと狼の博正を見て、立ち上がった。

「モーガンさん!博正さん!」

博正が、いち早く紫貴に駆け寄った。

「大丈夫か?こいつは、刺されたんだな。」

紫貴は、博正のふわふわと毛皮に抱き着いて、言った。

「ああ、助けに来てくれたのね…!そうなの、私を庇って刺されてしまったのよ。だから、彰さんが持たせてくれた薬を打ったの。」

博正は、頷いた。

「そうか、だったら助かる。大丈夫だ。」

モーガンが、言った。

「ジョンが見たら卒倒するから、早く離れた方がいいですよ、紫貴さん。見た目は狼でも、中身は博正なんで。」と、ヒューを見た。「連れて行こう。もう一つワゴンを呼ぶ。もうジョンも呼んで大丈夫だろう。」

そうして、時計に何やら指示を矢継ぎ早に出している。

紫貴は、博正の首の毛皮を撫でながら、言った。

「もう駄目かと思った。あの女の人が、私達を人質に彰さんに関係を迫ると言っていて…彰さんが、どんなに無理をするかと思うと、気が気でなくて。」

博正は、頷いた。

「オレと真司は知っての通り人狼だからな。鼻が利くし、もっと遠くへ早く逃げて人に紛れないとオレ達の鼻をまくのは無理だ。それに、オレ達は紫貴さんの匂いを知ってるし。すぐに追えたよ。ジョンのヤツは来てるんだが、面が割れてるから刺激して君に何かあったらって、出て来れなくて悶々としてる。」

紫貴は、息をついた。

「私がぼうっとしていたから。志保が、裏から逃がしてくれようとしていたのに、もたもたしていたの。逃げたらこんなことには。」

通信を終えたモーガンが、首を振った。

「身重の体で逃げ切るのは無理でした。抵抗していたら最悪殺されていたかもしれない。無事にあなたを保護出来たし、犯人の身柄を確保出来たので結果的に良かったんです。」

「紫貴!」

扉の向こうから、声が聴こえる。

紫貴は、振り返った。

「彰さん?」

彰は、階段を駆け下りて来て、紫貴の姿を見つけると、博正を押しのけて紫貴を抱きしめた。

「紫貴!!ああ、無事で…!私のせいで、君には怖い思いをさせてしまった…。」

紫貴は、彰を抱きしめ返して言った。

「ごめんなさい、私がぼうっとしていたから…。あの女の人が、私達を人質にあなたに関係を迫ると言っていて…気が気でなくて…!」

彰は、スッと目を鋭くすると、言った。

「あんな女など、ならば最初の夜に指一本触れる暇なく殺してやる。私がどれだけの薬品を駆使できると思う。私は意思に反した事はしない。」と、ヒューを見下ろした。「死んだか。」

モーガンが手配した部下達がわらわらと担架を持って来て、ヒューを乗せて連れて行く。紫貴が、首を振った。

「彰さんが持たせてくださった薬を打ちました。だから仮死状態です。」

彰は、目を見開いた。

「君を連れ去った男を助けたのか?」

紫貴は、言った。

「違うのです。この人は、私を庇ったから刺されたのですわ。止めようとしていました。どうやら、あの女性はあなたを想い切るためにこちらへ来たいと言っていたようで。この人は最初から、私の体を気遣ってくれていましたし、私と子供を人質に取ると言った時も、言い合いになって…それで、刺されてしまいましたの。だから、助けました。」

彰は、ギリギリと歯を食いしばっていたが、鼻で息をつくと、言った。

「…研究所へ。治療をしろと言え。」

モーガンは、頷いた。

「はい。」

紫貴は、パアッと明るい顔をした。

「ありがとうございます。」

彰は、紫貴の肩を抱いて出口へといざないながら、ため息をついた。

「私は別に助けなくても良かったが、君がそう言うから。だが、女は絶対に許さない。殺してもいいぐらいだ。今なら行方不明で処理できる。」

紫貴は、びっくりして彰を見上げた。

「え、殺すって…犯罪では?」

彰は、紫貴を見た。

「あの男を刺すのも、君を誘拐するのも立派な犯罪だ。だが、私達は表に出ないのでニュースになるわけには行かない。なので、事を表に出せない分、こうして裏で処理をして来たのだ。私は二度殺されかけて、あの薬で生還した過去がある。それでも、警察沙汰にはしていないだろう?私は皆に顔を知られるわけには行かないからなのだ。だから、私に何かして来るという事は、闇へ葬られても文句は言えないのが、暗黙の了解となっているのだ。そういう世界なのだ。」

紫貴は、思ってもいなかった世界に、ただ戸惑ってフルフルと震えた。彰は、それを肩に回した手に感じ取って、慌てて言った。

「君まで同じ世界に引きずり込もうなどと思っていない。もう、他の二人は処理が済んだ。記憶は綺麗に消したとハリーから連絡があった。後はあの、アデラだけ。もう、こんなことは無いから。心配しなくていい。」

紫貴は、頷きながらも自分が甘かった、と思っていた。彰が、危ない橋を渡ったりしているのは、なんとなく知っていた。だが、そこまでだとは思っていなかったのだ。

ヒューは別のワゴン車に乗せられてそこを去り、彰と紫貴は、要の待つ車へと乗り込んで、そうして一路、屋敷へと戻って行ったのだった。


紫貴も共にヘリで研究所へと移動して、それぞれの検査の場所へと向かった。

紫貴は、シリルのチームがどこかに異常が出ていないかと検査をし、ヒューは薬から覚める前に処理をされ、そうして目を覚ますための処置をされていた。

アデラは、拘束衣に籠められて身動きできない状態で、それでも意識はハッキリとしている状態で放置されていた。

首に深々と刺さった犬歯のせいで開いた穴は、雑に縫い合わされただけで、大きな傷跡になっていた。

恐らく痛みはまだあるはずだったが、痛み止めなども一切処方されることも無く、排泄もカテーテルを通されていて、ただ生きているだけの塊になっていた。

立った状態で置かれているので、寝るのもその状態なので、過酷なはずだ。

本当はこのまま餓死でもさせるかと彰は思っていたのだが、紫貴が記憶を綺麗に消せるなら、そうして欲しいと言ったので、仕方なくそうすることにした。

…だが、私の命より大事なものを奪おうとするなど。

彰は、それが許せなかった。なので、どうあっても目に見える形で、叩きのめしてやりたかった。

そのためには、紫貴にその姿を見せるわけには行かなかったので、紫貴が検査に出ているうちに、そっとクリスと共にアデラを立たせてある部屋へと向かった。

アデラは、朦朧としていたようだったが、彰を見た途端、パッと目に力が宿った。かと思うと、叫んだ。

『ジョン…!どれほどあなたに訴えたと思っているの…!よく、よく顔を見せられたわね!』

声がかすれている。

思い切り博正に喉を噛まれているので、ある程度損傷しているのだ。

分かっていて、彰はそこを治させなかったのだ。

『君にはどうしても一言言っておかねばと思ってな。』彰は、汚いものでも見るような目で、アデラを見て言った。『私は紫貴を愛している。紫貴は君から逃れようとどう言ったのか知らないが、私達は愛し合って子供を作った。紫貴だけは失いたくなかった。そんな大事な紫貴を、よくも連れ去ってくれたな。ちなみに紫貴には、君が何を言っていたのか分かっていたぞ?英語が分からないと思っていたのだろう?彼女は、話すのは得意ではないが、聞きとることは出来るのだ。君が何を言っていたのかなど、分かっていた。彼女は愚かではない。愚かだと心の中で私の紫貴に笑われていたのは、君の方だ。』

アデラは、目に涙を浮かべて真っ赤な顔をして叫んだ。

『どういうことよ!あの女は契約だと言ったわ!お金のためにって!シリンジで治療して妊娠したって…!!』

彰は、ハッハと乾いた笑い声をあげた。

『だからそれは君の嫉妬を感じ取って咄嗟についた嘘だ。私達は実際に体を繋いで愛し合い、その結果子供が出来たのだ。そうしていればいつか妊娠するだろうと毎日愛し合っていたら、すぐに出来た。私達は相性が良いのだ。DNAの相性が良いのは確かだが、私はそれだけで相手を選んだのではない。愛しているから紫貴と結婚した。終生離れるつもりはないし、私の持てるものは全て紫貴に与えるつもりだ。彼女が金のためであっても別にいい。私は愛しているからな。金で繋ぎとめられるのなら、安いものだ。』

アデラは、悔し気に顔をしかめた。どうあっても誰にも堕ちないと思っていた彰が、愛していると何度も言う。そんなに大した女ではないのにも関わらず。

『どうして…?!あんな冴えない女を…さして美しい訳でもないし、賢い訳でもない。あなたに吊り合わないわ!』

彰は、フンと嘲るようにアデラを見た。

『君なら吊り合うとでも?』と、嘲笑った。『それこそ傲り高ぶった考えというものだ。君のどこが優れているのだ。私などに固執するしかない生き方をしている女が、何を誇れるのだ。紫貴は美しい。私には誰より美しく見える。君などただの中身のない張りぼてだ。私は彼女を心から愛しているのだ。君などに文句を言われる筋合いはない。』

そうして、アデラが言葉を返せないでいるところで、クリスを見た。

クリスは、頷いて脇の棚から注射器を取り出す。

『さあ、全て忘れてもらおうか。そうだな、君には廃人レベルになってもらおう。』と、険しい顔でアデラを睨んだ。『何をしようとしていたのか聞いたぞ。私の妻と子を人質に取って、私に関係を迫ろうとしていただって?しかも、未来永劫?愚かな女、私にそんなことをしたら、指一本触れる間もなく殺している。針一本に塗られただけで、ヒトを殺傷する薬もあるのだ。お前などに触れるものか。馬鹿にするな。』

トントン、とノックの音がする。

そうして、扉が開いた。

「彰さん、こちらですか?声がしたから…あの、性別が分かったと。」

彰は、まずい、と思った。今の暴言を、聞かれていなかっただろうか。

「紫貴?後で聞く。君はここに入らない方がいい。」

紫貴は、ハッと正面を見た。

アデラが、物凄い形相でこちらを見ていたのだ。

『あんた…!よくも騙したわね!やっぱりあなたはその人と性行為をして出来た子じゃないの!』

紫貴は、言った。

『あなたがこのかたを愛してるのを感じたから…言えるはずないでしょう。』

間違いなく、英語だ。

紫貴は、理解していたのだ。

『大したことも無いくせに!私はずっと昔からジョンに出逢ってここまで来たのよ!それを最近になって現れたあんたなんかに…!』

紫貴は、留めようとする彰の手をすっと避けて、前に進み出た。そして、言った。

『私達が今出逢ったのはそういう運命だったからよ。私は自分の人生を省みて、神様に祈って生きていたわ。正しく生きようと、残りの人生を誠実にって。そうしたら、出会ったの。これは、正しく生きようと努力していた私へのグレイスなのよ。あなたのように卑怯なことしか考えられない人に、それがあるとは思えない。私の夫を、苦しめようとするような人を許すことなど出来ないわ。』と、茫然と見ている彰を見上げた。『彰さん、愛していますわ。』

彰は、思わず自動的に答えた。

『私も君を愛している。』

英語でこんなことを話すのは初めてだ。

と思っていると、紫貴は彰の首に抱き着いてしっかりと口づけた。彰も、何のことやら分からなかったが、紫貴なので嬉々としてそれに深く応えた。アデラの悲鳴とも絶叫ともつかない声が響いていたが構わず、そうしてしばらく口づけてから、唇を離して、紫貴はアデラを見た。

『…もうお会いすることもないでしょうね。さようなら。』

とアデラに言い、フッと冷たい笑みを残して、そこを出て行った。

クリスは、それを見て紫貴は間違いなくジョンの妻だ、と思った。やることが似ている…ただ、紫貴はよっぽどキレないとそんな風に振る舞わないだけで。

一方、アデラは目の前でそんな様子を見せつけられて、彰に罵倒されるより頭に血が上ったようで、激昂し過ぎて気を失っていた。

彰は、言った。

「…さっさと済ませてくれ。廃人でもなんでもいい。あの、ヒューというやつに連れて帰らせるから。私の事を二度と思い出さねば、何でもな。」

クリスは、頷いた。

「はい。ま、廃人は後が面倒なので、上手くやっておきます。」

彰は頷いて、そこを出た。

こんな時だが、紫貴が初めて自分から抱き着いて来て口づけてくれた、と、気分は沸き立って紫貴を追って部屋へと戻って行ったのだった。


「紫貴。」彰は、早足で歩く紫貴に追い付いて言った。「何を急いでいるのだ、そんなに早く歩いたら体に障る。」

紫貴は、言われてため息をつくと、彰を見た。

「私、いけないことをしましたわ。まだ私の中にあんな感情が残っていたなんて。でも、腹が立ってしまって仕方がありませんでしたの。私なら仕方がありませんけど、子供を盾に未来永劫あなたを脅そうなんて。そんなことを考える人なんて、絶望してしまえばいいなんて思ってしまいました。」

彰は、そのことか、と首を振った。

「私も怒りで我を忘れそうになった。殺そうと思うほどにな。私は本来、人を生かすための研究をしているので、あってはならないことだった。反省している。ただ、忘れさせる前に罵倒してやろうとあそこへ行ったのだ。君が来る前に、散々罵倒していたところだったのだ。私も同罪だ。」

紫貴は、彰を見上げた。

「あんなことをしたのに呆れていませんの?」

彰は、首を振った。

「まさか。私はあんな時なのに嬉しかったぐらいだ。」と、肩を抱いた。「それより、君はいつの間にあんなに英語が上達したのだ。驚いた。」

紫貴は、答えた。

「はい。屋敷で何もすることがないので、志穂や美樹に頼んで英会話を教えてもらっていたのですわ。それに、シリルさんのチームの方々もとても親切に、こういう風に話した方があなたらしい、とニュアンスまで教えてくださって。でも、まだ単語数が少ないのであまり話せませんの。」

彰は、そうか昼間は暇だから、と微笑んだ。

「上手くなっていたし、君らしい話し方だった。私も教えるから、いつでも言ってくれたらいい。」

紫貴は、苦笑した。

「彰さんはお忙しいし、一緒に居る時は日本語の方がいいですわ。やはりこっちの方が、話しているという気持ちになります。私は日本語ネイティブですもの。」

彰は、笑って頷いた。

「分かった。それで、性別が分かったんだって?」

紫貴はそれには笑って頷いた。

「はい。3Dエコーで顔立ちも見たのですけど、彰さんに驚くほどそっくりで。シリルさんもびっくりして何度も見直していましたわ。」

彰は、せっついた。

「それで、どっちだった?」

紫貴は、頷く。

「男の子でした。順調で、今回の事で何かあったことはありませんでした。」

男。

彰は、何やら自分の分身が生まれるような気がして、胸が熱くなった。もしかしたら、自分がなし得なかった事を、引き継いでくれるかもしれない。

「…安心した。」彰は言った。「生まれたら、ここで育てる事も考えているのだ。もちろん本人次第なのだが、もし私と同じようなら回りに知能の高いもの達が居た方が、生きやすいのは確か。ここには世界中から優秀な頭脳が集っているし、疑問にもとことん答えてくれるだろう。環境としては最高なのだ。」

紫貴は、首を傾げた。

「確かにそうかも知れませんが、世間から隔絶されて育つと彰さんがおっしゃる下界での生き方が分からなくなるかも知れません。そこだけが案じられますわ。後の選択肢を多くしてやるためにも、少しはあちらを知っておくのもとも思います。」

彰は、息をついた。

「そうとも言える。まあ、後で考えよう。生まれてからの事だ。」

そうして、二人は部屋へと歩いた。

クリスがアデラの処置を完了していたが、彰はそんなことはもう、忘れてしまっていたのだった。


紫貴の出産は、突然に始まった。

帝王切開を予定していたのだが、予定日の前日に破水し、陣痛が始まってしまった。

実は紫貴の骨盤は、普通に生むには少し狭く、難しい形だった。

なので三人の子供も皆帝王切開なので、今回も急いでその準備が進められた。

さすがにこのオペは彰一人では無理なので、シリルのチーム総出で参加して、手術室はぎゅうぎゅう詰めだった。

半身麻酔を掛けると、術衣に身を包んだ彰が言った。

「…行くぞ。ここを真っ直ぐ。」

シリルは、頷いた。

「お願いします。」

普通はここでは手術中は英語なのだが、紫貴が聞きなれない医療用語にわけが分からず不安になってはと、彰は日本語を使う事を皆に申し渡していた。

半身麻酔なので、意識はあるのだ。

彰は、この上なく慎重に、綺麗に元々ある傷の上を切った。

そうして子宮の下の方を横に少し切る。遥か昔、帝王切開のオペを見学した時の記憶を引っ張り出して、紫貴に何かあってはとそれはそれは慎重だった。

「よし。」シリルが言った。「頭がある。ジョン、手を頭から背にかけて当てて…そう、はい、留めます。」

シリルが、クリップをへその緒に挟む。彰はシリルにじっと動かない赤ん坊を渡して、クリップの間にハサミを入れた。

「ふ…」赤ん坊が、口元を歪めた。「ふぎゃあああ!」

丸々とした赤ん坊だ。

「生まれた…どちらですか?やはり男?」

紫貴が言う。

シリルが、赤ん坊をダンに渡してダンが笑顔で答えた。

「男の子です。待ってくださいね、今洗いますから。」

彰は、まだ真剣な顔で紫貴の処置を進めている。

胎盤を取り出して他の中身を吸い出して中を綺麗にし、縫合に掛かる。

子宮を縫い合わせた後、彰は言った。

「…傷痕が残らないようにしたい。前はハッキリ残っていたからな。」

シリルは言った。

「薄く線は残るかも知れませんが。ここを削ぎ落としてケロイドの部分を…そうですね、後はジョンの腕次第ですが、あなたは器用だから。紫貴さんがうらやましい。」

紫貴は、見えないところで行われていることに、言った。

「彰さんは、あまりオペされないのですか?」

彰は、真剣に腹の縫合をしているので、答えられない。代わりに、シリルが答えた。

「完璧なんですけど、あまり。皆に機会を与えた方が良いと、最近はついぞ見ていません。」と、彰の手元を見ながら、感心したように言った。「はあ、凄いな。皆見ておけ。ほら、速いのにこの縫い目はどうだ。」

全員が、ずいと寄って来て彰の手元を凝視している。

自分の見えないところで起こっている、自分の体のことなので、紫貴は何やら恥ずかしくて困惑した。

そこへ、ダンがやって来てタオルに包んだ赤ん坊を紫貴の胸元に置いた。

「おめでとうございます。3356グラムの男児です。髪は黒いですね。お二人の御子さんだから当然か。」

紫貴は、その子をじっと見た。

小さいのに、鼻筋が通っていて閉じた瞼が綺麗に切れていて、どう見ても彰そっくりだ。

「まあ。」紫貴は、思わず涙ぐんだ。「なんて可愛らしいの。DNAは…染色体は大丈夫だったかしら。」

クリスが、言った。

「事前の検査でも言いましたように、問題無さそうですね。小さいのに検査をするのはかわいそうかもしれませんが、ここは研究所なので…後で採血もさせてもらいます。既往症がないかどうかを確認しておかなければなりませんしね。」

紫貴は、小さな頭を撫でながら頷いた。

「…(あらた)。」紫貴は言った。「彰さんと決めていたの。名前は、(あらた)にしました。」

ダンが、新が落ちないように支えながら、微笑んだ。

「そうなんですか。良い名前ですね。新かあ。」

そんなことを話している間に、彰がフッと息をついた。そして、紫貴を見てマスクの上の目だけで微笑んだ。

「終わったぞ。きっと痕は残らない。後は洗浄と消毒をしてガーゼを当てて服を着てここを出るだけだ。」と、やっと生まれた赤ん坊を見た。「ああ、やはり男だったな。」

ダンが、言った。

「抱いてあげてください。初めての御子さんでしょう?」

彰は頷いて、シリルを見た。

「後を頼む。」と、手袋を引っ張ってグイグイと取った。「二重になってるからいつも面倒なのだこれは!」

パチンと音を立てて手袋を引き剥がすと、術衣を脱いで、やっと赤ん坊を腕に抱いた。

「…小さいな。」と、その握っている手の中に、指をグイグイと突っ込んだ。「お、握る握る。左右対称。」と、今度は指を口元に持って行く。「吸うな。問題ない。」

ダンが、呆れたように言った。

「そこは私が向こうで見て来ましたよ。ちなみにモロー反射も大丈夫なようです。それより、何か感想は?」

彰は、ジーッと新の顔を見つめて、言った。

「…不思議な気持ちだ。私にそっくりだし、小さいし…」と、声に反応して目を開いた、新と目が合った。「新。君は私の息子だ。」

新は、ハッキリとは見えていないだろう目で彰を見返している。

「臍帯血から今、簡易に調べたところによりますと、染色体に問題はありません。」

向こうから、声がする。

彰は、頷いた。

「そうか。別にもう、命に関わる病気がなければ何でもいい。」と、紫貴を見た。「紫貴、感謝する。君はもう、ゆっくり余生を過ごすような気持ちになっていたのに、私のために新を産んでくれた。私は完璧に私の遺伝子を継いだ優秀な子供が欲しかった。だが、こうなってみると、別に何でもいい。君と私の子供なのだ。大切に育てて行こう。」

紫貴は、頷いた。

「はい、彰さん。私も久しぶりに赤ちゃんを抱けるので、とても嬉しいです。頑張って育てますわ。もう、私にとっては孫でもおかしくない年齢ですけれど。」

紫貴はもうすぐ、46になる。

彰は、首を振った。

「君はこの子の母親だ。」と、ダンに頷き掛けて、新を渡した。「新の検査をしなければ。もしどこかに問題があった場合、すぐに対処しなければならないからな。何があってもこの子は育て上げる。」

シリルが、言った。

「処置が終わりました。やっぱり部屋へ帰るんですか?」

彰は、頷く。

「私が見るから。部屋まで往診に来い。慣れた部屋でないと、紫貴がゆっくり眠れないかもしれないではないか。」と、紫貴の頭を撫でた。「さあ、ストレッチャーへ移動するぞ。麻酔が切れるまで腰がつらいだろうが、私が介助するから。行こう。」

彰は、帽子とマスクを脱ぎ捨ててそこらへ放り出すと、紫貴をストレッチャーへと移すのを手伝い、そうしてそれを押して、部屋へと戻って行ったのだった。


しばらくして要が、彰を訪ねて来た。

本当は手術に立ち会いたかったが、あまりに満員だったので入る事が出来ず、仕方なく終わるのを外で待っていたのだ。

その後、彰は紫貴に付きっきりで部屋へと戻って行ってしまったので、お祝いを言う暇もなく、仕方がないので要は生まれた新の検査に付き合って、シリル達と行動していた。

それも終わって、やっと彰に会いに来たのだ。

彰は、居室の方から出て来て、言った。

「今、よく寝ているのだ。麻酔がまだ残っていて、同じ姿勢だと腰に来るのでタオルを背中に噛ませて来た。寒がるので電気毛布で覆っているのだが、体の震えがちょっと収まって来て、眠れたようで良かったよ。」

要は、頷く。

「おめでとうございます。手術室が小児科医と産婦人科医で満員御礼だったので、オレは入れませんでしたよ。生まれる瞬間を見たかったのに。」

彰は、遠い目をした。

「瞬間といっても、私が取り出して、静かなものだった。へその緒を切ってすぐ、泣き声を上げたのだ。」と、息をついた。「あんなに感慨深いものだとは思わなかった。まさか自分の子を自分で取り上げる時が来るなんて。私は産婦人科医ではなかったし…あんな遠い記憶を引っ張り出すことになろうとは。」

でも、自分がやるって聞かないから。

要は思った。

「縫合が素晴らしかったと皆口々に言っていましたよ。かなり慎重に綺麗に縫っていたらしいですね。」

彰は頷いた。

「もちろんだ。紫貴の体なのに。あれで恐らく、傷跡はほとんど残らないはず。初めての夜でも、気にしていたからな。私はそんなもの構わないのに。」と、要を見た。「それで、新を見て来たのだろう?どうだった?」

要は、頷く。

「もうすぐ報告に来るでしょう。あれだけそっくりだから分かってましたけど、間違いなく彰さんの御子さんで、体に問題は一切見当たりませんでした。」

DNAを解析したのだろうが、彰は、気を悪くしたような顔をした。

「何を当然のことを。私の子なのは分かっている。健康なのか聞きたかっただけだ。」

要は、つい口に出てしまった、と慌てて言った。

「分かってます。結果が出てましたから、それを言っただけです。詳しい項目とその数値はシリルが持って来るかと。」

彰は、ホッと息をついた。

「そうか。では、私は紫貴の様子を見に戻る。いろいろすまなかったな、要。」と、要の目を、じっと見た。「これまでの事、感謝する。新が生まれたのは、少なからず君達の協力があったからだ。紫貴との始めから、本当にありがとう、要。それに、他の皆にも。」

要は、思ってもみなかったことに、感動して思わず涙ぐんだ。彰さんが、そんな事を言うなんて。大人になったなあ。

「そんな…みんなで頑張った賜物です。彰さんだって、慣れないのに一生懸命頑張ったじゃないですか。もうオレ達みんな、家族みたいなもんですよ。」

彰は、フッと笑った。

「そうか、家族か。」と、足を紫貴が眠る居室の扉へと向けた。「そうだな。」

そして、隣りの部屋へと入って行った。

要は、彰が人間らしい感情と反応を取り戻している、と、一刻も早くこれをみんなに知らせようと、執務室を出て行ったのだった。

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