表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/11

賢過ぎる赤子

神之原(かみのはら)(さとし)は、妻の杏美(あずみ)が無事に出産を終えたと、会議を終えて出て来た廊下で秘書から聞かされた。

軽く頷くと、言った。

「それで、どちらだ?」

秘書は答えた。

「はい。男のお子様だったそうです。」

聡は、それに頷いて、言った。

「名前は(あきら)で。」と、足を社長室へと向けた。「次の予定は?」

秘書は、戸惑ったような顔をした。

「え?あ、はい、猿渡様とのご会食ですが…。」

聡は、頷いてそちらへ足を向けた。

「ならば行くぞ。ぐずぐずするな。」

秘書は、まだ戸惑っていた。

「あの、病院には?猿渡様には、峯岸(みねぎし)専務に…、」

聡は、秘書を睨んだ。

「何を言っているのだ、安本(やすもと)。私が行く。峯岸などに任せられるか。」

そうして、さっさと車止めへと向かうため、エレベーターへと歩く。

秘書の安本は、息をついた。お子様が生まれて少しは変わられるかと思ったが、社長は全く変わらない。それならここで、長く働けそうにない…。


彰は、ふと目を開けた。

いや、ずっと開いていたのだが、何も見ていなかったような感じだ。

回りは不快だと思えば世話をしてくれる誰かが取り巻いていて、わけも分からずただ泣き叫んでいただけだったような気がする。

回りの何かは、彰にとって意味のない音を引っ切り無しに出していた。

ある日、それが意味を成しているのだと気付いた瞬間、目が開かれた。

回りが、途端に色を帯びて見えて来て、そこからが彰の記憶の始まりだった。

毎日毎日、世話をするもの達の言葉を聞いた。

その意味を理解して来たので、側に居るもの達の中で、特に何もしないのに、尊重されている一人が自分を生んだ女で、母という生き物なのだと知った。

回りのもの達は、使用人というものらしい。

よく分からないが、とにかくそれらが自分を世話してくれていたので、彰はそれらを大切に思った。

しばらくそうやって言語の習得に費やして日々を過ごしている間に、彰は動けるようになった。

毎日使用人に運んでもらわないと動けないのは、とても苦痛だった。

歩行器というものに乗せられるようになってから、彰は不自由な体に時に癇癪を起こしながらも、足腰を鍛えた。

歩行器に入れていれば機嫌が良いので、日がな1日歩行器に入っていたのだが、その甲斐あって早くに自立出来るようになった。

その時、僅か八カ月だった。

父という生き物も居た。

しかし、父は自分に興味がないようで、顔を見ることはあっても、皆のように自分を抱き上げることなどなかった。

実は言葉はほとんど分かっていたのだが、どうにも上手く発声出来ないので、じっと黙っていた。

そうすると、皆理解していないと思うのか、勝手に解釈して勝手に彰を可愛がった。

別にどうでも良かったので、彰はひたすら黙っていた。

一歳を過ぎ、二歳になった。

それでも彰は黙っていた。

完璧主義なのは生まれつきのようで、まだ自分の中で完璧に話せると言う確信がなかったからだ。

毎日、国営放送の教育番組を、朝から見た。

二歳だったがテレビがどうやれば着くのかは知っていたし、チャンネルを合わせるのも問題なかった。

毎日テレビばかりを見て一向に赤子らしい遊びもしない彰に、使用人も母も案じているようだったが、彰には関係なかった。

そのうちに、世の中には別の言語もあることを知った。

衛星チャンネルで、海外のニュースを午後から見た。

新しい事は、とても面白かった。

それでも、毎日黙ってテレビばかりを見ている彰に、発達障害の疑いが掛かった。

その時、三歳になっていた。

その頃になれば、書斎で広辞苑を見付けていた。

国営放送の教育番組でひらがなカタカナと簡単な漢字は習得していた彰は、こんなものがあったなんてと、毎日読み漁った。

同時に、父と母が大学という場所で学んでいた言語の辞書とやらもあった。

今度は、書斎で辞書ばかりを見ている、と、皆が案じた。

いよいよ障害が疑われたが、父はそれを認めたくないようだった。

見た目は小さな幼児だったが、その頃の彰の言語能力は相当なものだった。

広辞苑を丸暗記し、独和、英和、仏和辞典を頭に入れた彰には、回りのもの達が、何を案じてどう動いているのかも理解していた。

加えて小学校の授業内容くらいは、教育番組のお陰でもう頭にあった。

なので彰は、父があまり良い経営者ではないのも、既に知っていた。道徳と言われるものを、学んでいないのではと小さな彰は思っていた。教育番組の中には、世間の道徳を教える番組もあった。

あれを見ていないのだろうな、と彰は思っていた。

そんなある日、書斎でいつものように、辞書にはもう用はないので他の本を読み漁っていると、父親がやって来た。

「待って!彰はただ本が好きなだけなのよ!」

母親の声がする。

母は、最近また腹に子を抱えていて、もうすぐ生まれるのだと聞いていた。

エコー検査で男だとわかったと言っていた。

邪魔をされたのにムッとしながら振り返ると、父親が言った。

「お前!我が家の恥さらしめ!障害者など我が家には要らん!」

彰は、本を閉じて本棚に片付けた。

まだ五歳だったが、そろそろ幼稚園に通うはずが、恥だと入れられていなかった。

彰にしたら好都合で、一度連れていかれたことがあったが、皆が皆好き放題のカオスな場所だった。

とてもではないが、あんな場所に行きたくはなかった。

「聞いているのか?!何とか言ったらどうなんだ、言葉も話せない癖に本だと?!ふざけるな!」

彰は、こんなものが父親かと息をついたが、言った。

「…完璧に話せるようにならないと、あなたのその様子なら接続詞を間違えただけで咎められるのではと話さなかっただけ。私はとっくに理解している。あなたが仕事で何をしていて、部下に陰で何と言われているのかも理解している。それに、あなたの今の言いようで、あなたが世間で言うところの差別主義者なのもな。安心してくださればいい。私は正常だ。世間的に言えば、おかしいのかもしれない。私は世間の子供のようには振る舞えないから。ふりは出来るが、苦痛でしかない。ところであなたは、私が今話していることを理解されたか?」

その場に居る全員が、固まった。

これまで一切口を開かなかった彰が、最初に発したのはママでもパパでも他の幼児語でもない、完璧な日本語だったのだ。

「あ、彰…。」

母親が、ふらりとふらついて使用人に慌てて支えられている。

父親の聡は、言った。

「お前…まさか、分かっていたのか?今までの、全部?」

彰は、頷いた。

「分かっていた。皆が何を話しているのかも。あなたが最初から私に興味がないことも。いつか、懐かない子供など可愛くはないとおっしゃった。興味がないと分かっているのに媚びることなどない。あなたは私の世話など何もして来なかった。世話をしていたのは使用人達だ。母ですら、気が向いた時に私を抱くだけだったではないか?」と、立ち上がった。「それでも私を育てるための金を出してくれたことには感謝している。なので何も言わなかったのだ。いつかは話さねばと思っていたが、お父さん、今のやり方では業績が上がらなくなる。秘書の安本が辞めたのはなぜだと思われる?私が子供なので皆普通に話していたが、あなたのやり方には皆が不満を漏らしている。この生活も…弟が生まれるのに、維持出来なくなるのは私も困ると思う。」

あまりにも、衝撃的な光景だった。

たった五歳の幼児が、父親の運営の悪さを指摘する。

聡は、歯ぎしりした。

「…どうせ本の受け売りだろう。現実は甘くはないのだ。私は間違っていない。外に出たこともないくせに。こんなものがあるのがいけないのだ!全て処分する!」

彰は、それこそ大人のように息をついた。

「ここの本など…もう全部頭に入っているので処分したいのならご自由に。本など基本、置いておくものではなく頭に入れるもの。今はただ、暇潰しに読み返していただけなので。」と、母を見た。「お母さん、図書館に行きたい。使用人に車を出してもらえるように言ってもらえないだろうか。」

母親の杏美は、もう失神寸前だったが、頷いた。

「ええ…あなたが行きたいと言うのなら。」

彰は、頷いた。母の事は、嫌いではなかった。あまり自分の世話はしていなかったが、それでも彰を大切に思っているだろうことは、何となく分かっていたからだ。

だが、父は違った。

「許さん!」聡は、叫んだ。「行きたいなら、自分で勝手に行くがいい!お前には、私の使用人を使うことを許さん!」

「聡さん!」

母親が叫ぶが、聡は真っ赤な顔をしてズカズカと書斎を出て行ってしまった。

彰は、プライドばかりが高い男か、と蔑むような目をその背に向けた。それを見た使用人たちも杏美も、背に薄ら寒いものを感じた。

言葉の出ない、書斎に籠って分からないだろう文字を眺めている風変わりな幼児であった彰が、急に意思を持った、まるで大人の男のように見えたのだ。

それでも、彰はただの幼児に過ぎなかった。父親が言ったように、障害があるとこの屋敷から出してはもらえなかった。

彰だって、人並みの子供のように、外で走り回ることもしたいと思う時があった。

だが、それを取り上げられていたので、唯一の楽しみである本に向かっていただけだった。

自分は、頭の中だけが異常に発達したおかしな存在なのだろうな。

彰は、幼いながらもそう思っていた。

「では、一人で行って来る。」

彰が言うと、杏美は慌てて言った。

「駄目よ!お母さんの車があるから、それに送らせるわ。」

彰は、首を振った。

「お母さんの使用人ではないから。」彰が言うと、杏美はショックを受けた顔をした。「お父さんの使用人を使うなと言われた。ここに居るのは、全てお父さんの使用人達だ。一人で大丈夫だ。」

すると、使用人の一人である、間下(ました)が進み出た。間下は、若くて彰が生まれた時に入った使用人の一人で、最初は大学に行きながらアルバイトでここへ来ていたようだったが、今では正式にここの使用人となって雇われている男だ。

「私が行きます。夜勤だったのでこれから明けの休みですし、仕事ではありませんから。奥様、ご安心ください。」

彰は、間下を見た。

「間下。でも、帰って寝たいのでは。」

間下は、笑った。

「私が何歳だと思っていらっしゃるんですか?大丈夫です、これからカラオケにでも行こうかなって思ってたぐらいですから。明日は休みですしね。」

彰には、それが間下の気遣いなのだと、幼いながらも分かっていた。

だが、図書館に送ってもらえるのは有難い。

なので、間下に感謝しながら、間下の自家用車に乗せられて街中の図書館へと向かった。


そこは、見る物全てが新しかった。

テレビで散々見ていたものの、実際に目にするのは幼稚園の見学に行った時以来だ。

あの時も、あまりに彰が興味を示さないし、保育士の問いかけにも全く反応しないので、両親が無理だと諦めた経緯があった。

そもそも彰は、遊具には興味があったものの、あの無法地帯で割り込んでまで、遊具で遊びたいとは思えなかったのだ。

「まさか坊ちゃまとお話しできるとは思っていなかったので、とても嬉しいです。」間下は、運転席から言った。「オレがヘマしたりしてたのを、きっとバカだなあって見ていらしたのだろうと思うと、ちょっと複雑ですけど。」

彰は、言った。

「彰でいい。」彰は、坊ちゃまとは呼ばれたくなかったので、言った。「間下、君はどうしてあの父の家の使用人などをしている?大学では、確か経済学を学んでいたのではないのか。」

間下は、言われて体を硬くした。

それを見て取った彰は、聞いてはいけない事だったのだ、と察した。

だが、口から出てしまった素直な言葉だったので、間下はまた、他意はないのだと判断したらしく、ハッハと乾いた笑いを上げた。

「オレ、そんなに優秀ではなかったので。アルバイトしていたから、ご主人が拾ってくださったんですよ。」

それが嘘であることは、何となく分かった。

だが、彰はそれを追求するつもりは、全くなかった。なので、頷いた。

「そうか。」

彰は、そう言って窓の外へと視線を移した。

間下登(ましたのぼる)…どこかで聞いたような気がするが、恐らくは父関係だろう。何かある、と彰は思ったが、あんな父の事などどうでも良い。

ただ、自分が独り立ち出来る歳になるまでは、稼いでもらわなければ困るだけだ。

彰は、ただそう思って、図書館へと入って行ったのだった。


そうやって、数年が過ぎた。

街の図書館までは、いつも間下が休みの時や、他の使用人が休みで行っても良いと言ってくれた時にだけ、行くようにしていた。

最初は付き添いが居なければ図書館の中で籠ることも出来なかったが、体も大きくなって、小学校高学年にもなると、そんな必要もなくなった。

彰は、毎日図書館まで、自転車で通う日々だった。

学校にも図書館はあったが、彰の好奇心を満たすような本は一つもなかった。

何しろ、幼い頃から図書館で本漬けの毎日だったので、学術書などが充実している図書館しか、彰は用がなかった。

学校の勉強は退屈だった。

回りは皆、彰をおかしなものを見るような目で見る。人より先にずっと先が見えてしまい、それを言って無駄な事を止めようとすると、怪訝な顔をされる。

理由を話しても理解されない。

そして、結局は失敗して彰が間違っていなかったことを知り、皆はそれを羨望の目で見るより、むしろ異質な物への違和感をもって、遠巻きに見ていた。

居心地が悪いので、教室には居着かなかった。

図書館で借りてきた本を中庭で読んで、時間を潰す日々だった。

一方、弟の(いつき)は普通の子供だった。

生まれた時から愛想のよい子で、彰にもそれは懐いた。

回りに可愛がられて、あの父ですら、樹の事は抱き上げることがあるぐらいだった。

そんな樹は、父が彰に強く当たると、必死に庇った。

時には泣いて間に割り込んで、どうして兄さんをそんな風に言うんだと父を責めるぐらいだった。

一般的な様子で頭も良く、彰がいろいろな事を話すと、それを素直に聞いて、理解した。

そして、兄さんは何でも知っている、と、彰を称賛して敬っているようだった。

彰が中学生になった時、樹はまだ小学校の低学年だったが、単身でさっさと外出する彰について来たがった。

彰は、樹だけは放って置くことも出来なくて、仕方なく近所の公園などに付き合う羽目になった。

それでも、そこで幼い頃には使わなかった、遊具などで共に遊ぶ時間が出来、彰も普通の人並みな遊びを経験することが出来た。

相手は樹の友達ばかりで皆幼いのだが、子守りをしてくれる、と近所の親たちには評判だったので、しばらく彰は、弟の世話をして過ごしていた。

今思えば、生まれて初めての、穏やかな時間だった。

だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。

彰が中学二年になった時、彰の質問があまりにも深いので、教師たちが答えられなくなって来ていた。

学校へ行ってもつまらない。というか、もう自習した辺りの事を、思い出しながら受けている授業だったので、その頃疑問に思った事を思い出して聞いてみているのだが、それが教師たちには負担だったらしい。

いつしか、教師たちまでが彰を避けるようになって来て、彰自身、居場所がないような気がして来ていた。

そんな折、間下から海外の大学の話を聞いた。

「彰様、海外では、歳など関係なく優秀ならば大学に行けるのです。」と、パンフレットを何冊か差し出した。「もし渡航されるなら、こちらの大学の試験があります。今年度はもう募集が締め切られましたが、来年度なら。それに、途中からの編入も出来るそうですよ。」

彰は、海外という選択肢があった、と思った。

だが、父は恐らく自分に金は出さないだろう。彰ならば私立の学校へ進めた方がと母も回りも言ったにも関わらず、父は強固に公立しか認めないと言った。

なので、今の状況があるのだ。

「…資金の問題がある。父が私に金を使う事は無いだろう。そもそもが、経済状況が悪くなって来ているのは知っている。使用人も、君以外は出て行ったではないか。」

間下だけが、残っている状態。

給料など、ないに等しい状態なのだと知っていた。

父の会社の業績は、峯岸など経営陣の離脱もあってここ数年で急転直下の勢いで落ち込んでいるのだ。

分かっているのに、沈みゆく舟に残り続ける意味は何か。

彰は、ずっと間下の真意が気になってはいた。

「奨学金制度があります。」間下は、真剣な顔で言った。「彰様の学力なら、恐らく勝ち取れる。あなた様はこちらに居てはいけません。一年にほんの二人ほど、酷い時には基準に達しないので誰も受けられない制度があるんです。その試験が、近々あります。それを受けて、奨学金を手にし、海外へ渡ってください。あなたはこれ以上、こんな所で埋もれていてはいけません。」

彰は、顔をしかめた。学力と言っても、大したものではない。

「…そもそも、私は全て独学なのだ。あんな学校のテストで満点だからと、そんな大層な物を受けて通る保証はない。」

「それでも、街の図書館の本はあなたの頭の中に。」間下は言う。彰は、確かにそうだが、と眉を寄せた。間下は続けた。「腕試しだと思って受けられたら良いのです。あなたはもっとご自分に自信を持つべきだ。正当な評価を受けて来られなかったのだから、これからは、相応の場所で。」

彰は、考えた。確かに、これまで異質な物として誰にも受け入れられなかった。一緒に遊ぶなどなく、対等に話す人もおらず、誰にも心を許せない。樹が生まれた時、これも敵になるのかと思ったが、樹は違った。思えば、樹以外は全て、敵に見えるような状況だった。

何もかも分かるという事は、他の人にとっては、脅威と感じられるようだった。

暇があれば父は自分を罵倒し、母はオロオロとしているだけ、樹だけが自分を庇ってくれていた。

自分が一体、何者なのかも、彰自身にも分かっていなかったのだ。

彰は、頷いた。

「…では、試験を受けてみよう。父には言うな。私が何をやっても気に入らないのだ。それで私が勝手に海外へと出ても、恐らくあの人は気にも留めないだろう。厄介払いだと思うぐらいだ。手続きを頼む。」

間下は、ホッとしたように頷いた。

「はい。任せてください。」

だが、保護者が必要なはず。

彰は、思った。ああいう手続きには、絶対に責任を取るための成人した誰かが必要なのだ。

そこで、彰はハッと思い立った。

そうだ…祖父。

母方の祖父が、まだ存命だった。

父が嫌がるのであまり会う事が無かったが、それでも何かあったら連絡をと、彰にそっと連絡先を渡してくれていた。

彰は、その母方の祖父である、健一郎に連絡することにした。


後から知った事だったが、健一郎は関西の田舎ではあったが、その土地の大地主だった。

幾つもの建物も所有していて、それを利用してそれなりの財を築いたやり手の祖父だ。

その祖父と密かに会う事にして、その日は間下に、学校に休むと連絡をさせ、登校するふりをして間下と駅で待ち合わせ、その車に乗せられて一路、祖父の屋敷へと向かった。

祖父は、そこで祖母と共に待っていてくれた。

祖母は、おっとりとした顔立ちで、老いて尚美しかった。祖父は、きりりとした顔付きで皺も多かったが、それでも若い頃は美しかっただろうと思われるしっかりとした顔立ちだった。

実は、彰はこの祖父によく似ていると言われていた。

それがまた、父には気に入らないのだろうと、母と使用人がひそひそと話していたのを思い出した。

「来たか。」健一郎は、嬉しそうに目を細めて言った。「お前は運が良いぞ。私がまだ生きていたからな。」

彰は、祖父に頭を下げた。

「おじい様。長くご無沙汰しております。お元気そうで何よりです。」

健一郎は、顔をしかめた。

「お前はどうも昔から堅苦しいな。そんなものはいい、中へ入れ。」と、祖母を見た。「優子、茶を頼む。」

祖母は頷いて、言った。

「はい。さあ入って彰。会いたかったわ。とても良いお茶が手に入ったところだったの。待っていてね。」

彰が屋敷の中へと足を踏み入れると、ついて来ていた間下を見て、健一郎は言った。

「ご苦労だったな、間下。それで、辞表は出して来たか?」

間下は、頷いた。

「はい、旦那様。もう私以外は居ないので、すぐには困ると仰っておりましたが、健一郎様がお呼びなので、と言うと、黙りました。」

健一郎は、クックと笑った。

「だろうな。今あやつは私に見捨てられたら終わりだ。杏美の事も、無下には出来まい。」と、彰を見た。「お前には薄々分かっていたのではないか?間下が、お前の父親に仕えていたのではないという事を。」

彰は、やはりそうだったのか、と頷いた。

「間下ほど出来る男が、どうしてあんな父にとずっと思っておりました。でも、おじい様が絡んでいたとは思いませんでした。」

健一郎は、頷きながら居間へと歩いた。

「杏美は男を見る目がない。私が反対しているのにあの男と関東へ逃げたのだ。間下は私の執事の息子。私がこれの学費などを負担することを条件に、あの屋敷の使用人として入るように命じた。その後も、残ってお前の面倒を見るようにと指示していた。これは、この後私の持っている会社に入る事になっている。最初から、その約束だったのだ。」

だからあんな屋敷の使用人などをしていたのか。

彰は、思った。最初から、この祖父は全て見て知っていたのだろう。間下の、目を通して。

健一郎は、居間の椅子へと腰かけると、彰と間下にも座るように言い、そして、言った。

「お前は私にそっくりだ。」健一郎は、開口一番言った。「見た目も中身もな。私も幼い頃から生きづらさを感じていた。今ほど情報も多くはなかったし、学びたいのに学べないような状況で、お前のように知識を蓄える事は幼い頃には出来なかったので、仕方なく与えられるものを甘んじて受けて育った。だが、私の父は寛大で、話せるようになると、私が行きたいと言った学校に行かせてくれ、やりたいことをさせてくれた。私は医大を出てから法学部に入り直して大学院にも行った。父は本当によくしてくれた。お蔭で私は、医師免許と弁護士免許の二つを持っている。結局、やっているのは会社経営だがね。父の力になりたいと思ったからであるが。」

彰は、母からおじい様がとても優秀なかただから、それに似たのだと聞かされていたが、本当だったのだと思った。

そして、父が彰を嫌うのも、年々祖父に似て来る彰が疎ましかったのだろうとも。

祖父そっくりの物言いで、真正面から批判して来る彰が、家の中に祖父を置いて居るようで、それは面倒だったのだろうと彰は思った。

自分でも思うが、話し方からそっくりなのだ。

「お前を私の養子にする。」健一郎は、いきなり言った。「最初から、あいつには任せておけないと思っていた。だが、お前がまだ幼かったのと、自分の意思で私を頼ってここへ来るのを待っていた。間に合わないかと思ったが…お前は、ここへ来た。自立しようと思ったのだろう?」

彰は、頷いて答えた。

「はい。もう、あの父の側ではこれ以上は望めないと思いました。間下から聞いて、海外へ渡ろうと…」言ってから、ハッとした。間下から…という事は。「…おじい様が、間下に指示したのですか。」

健一郎は、頷いた。

「そうだ。私が指示した。今も言ったが、これを逃したらもう、間に合わないのだ。」と、苦笑した。「私は癌なのだ。気が付いた時には手遅れだった。一応、抗がん剤治療はしたが、もう間に合わないのが分かっているのに苦しいのは面倒なので、やめている。今は、自宅で緩和ケアを受けているのだ。」

彰は、ショックを受けた。祖父が癌…。

「…どちらの癌ですか。ステージは?」

健一郎は、右の腹に触れた。

彰は思った…肝臓か。

「…そう、肝臓だ。ステージⅣ。腹水が溜まるのでさっきまでドレーンに繋がれていたよ。だが、お前が来るのに見苦しいだろうと外させた。後数か月は持たせるから、お前は今すぐ私と養子縁組をして、全ての手続きを済ませるのだ。杏美はあんな感じだし、私の財産はお前に残す。半分は残される優子に。全てこっちで手配させるから、お前はとにかく、試験がどんなものかだけでも知っておけ。中学はもういい。留学するなら関係ないだろう。とにかく、ここで出来る限りの事をしろ。私がサポートする。」

彰は、言った。

「私はそれでいいですが、あの父がうんと言いますか。」

健一郎は、ニタリと笑った。

「もう何年もあいつを貶めようと動いて来たのだ。あいつは、今私の会社に見限られたら終いのところまで来ている。今のあいつは、私に逆らうことなど出来ない。これを待っていたのだ。杏美は、私に縋って来たなら考えよう。だが、あれも私に逆らって出て行った手前、戻ると言えないのだろうがな。ま、自分がしたことの始末は、自分でつけると良いわ。」

全て、この祖父の手の中だったのだ。

恐らくは、許可なく娘を奪って行った聡を、それは憎んだのだろう。とはいえ、その娘本人も同意の上の事なので、無理に連れ戻すこともしなかった。

だが、その背後からじわりじわりと忍び寄り、聡の性質も手伝って、窮地に陥れる事に成功した。

つくづく、敵に回してはいけない相手だったのだ。

自業自得だ、と彰は思った。父はあまりに横暴だった。この祖父が、娘の結婚相手と頷けなかったのは分かる。

だが、懸念があった。

「おじい様、お願いがあります。」彰は、言った。「樹を、守りたいのです。あれもこちらへ連れて来る事は出来ませんか。」

健一郎は、それを聞いて目を細めた。そして、間下を見る。

間下は、首を振った。

「…彰様、樹様は、こちらへ来られませんでした。」彰が驚いていると、間下は続けた。「樹様の事も、お連れしようとお話ししたのです。ですが、樹様はとても賢しいかたです。祖父の家、と聞いた時、仰いました。『おじい様は、お父さんを嫌いって言ってる?』と。恐らく、あのかたも彰様ほどではないにしろ、とても賢いかたなのです。いろいろお分かりになったのでしょう。『兄さんを連れて行って。兄さんはここに居ちゃいけない。僕は、お父さんとお母さんが心配だから、ここに残るよ』とおっしゃいました。」

彰は、無邪気であまり何も考えていないと思っていたまだ小学生の樹が、思ったより考えて、分かっていたのだと知った。

持って生まれた、性格の違いだったのかもしれない。

「…あれもそこそこ賢い子だ。だが、お前ほどではない。お前は私に似ているが、私よりずっと賢い。賢過ぎるのだ。私は周りに疎まれるほどでは無かったのに、お前は疎まれて育った。勉学だけでなくスポーツもそうだろう。それでは、回りはエイリアンを見るような気になるものだ。あまりに出来すぎるのだ。お前は、同じような者達が集う、アメリカの大学へ進んだ方が良い。金は私が出す。奨学金など受けずでも良いのだ。間下がここへ来る気にさせようと、その話をしたとは思うが。」

だが、彰はじっとそれを聞いていて、思った。これ以上、他の手を借りて生きてはいけない。自分の脚で立たなければ。

「…いえ。」彰は、答えた。「私はこれ以上、誰の手も借りずに生きて行きたい。保証人が必要なので、おじい様にはお世話になりますが、それ以上は。奨学金を獲得し、私はあちらへ渡ります。その後は自分の力で稼いで、必ず返還してみせる。」

健一郎は、眩し気に彰を見た。

「お前は、強いな。頼もしい限りだ。まだ13歳…いや、もうすぐ14歳か。先が楽しみ…私は、見られないがな。」

「おじい様…。」

彰は、悲しくなった。どうしてこれまで、無理を言ってでもこの祖父と会っておかなかったのだろう。

自分では、祖父を助ける事も出来ない。医者になって治すにしても、現代医学の粋を集めた治療を受けているだろうに、新米の自分でどうにか出来るはずもなかった。

そもそも、そこまで祖父の命がもたないのだ。

健一郎は、苦笑して彰の頭を撫でた。そんなことを母以外にされたことが無かった彰は驚いた顔をしたが、健一郎は言った。

「お前は、つらい思いをして来たな。それなのに、よく耐えた。私には、もうこれぐらいしかしてやれることがないが、これからはお前はお前の事だけを考えて生きろ。お前にはまだまだ時間がある。もう、こちらの親族の事など考えなくても良いのだ。」

彰は、それを聞いて自分そっくりの祖父の目を見上げて、頷いた。自分の、したいようにする。あの父など、もう関係ない…。


それから、家庭教師を付けられて、本格的に受験というものがどんなものなのか、彰は知った。

教師達が持って来る問題を、彰は難なく解いた。次々に解いて行く彰に、教師達も驚くしかなかったようだ。

図書館の本達は、彰に膨大な知識を与えていたのだ。

教師達も、まさか図書館の本でここまでになるとは思わなかったらしく、教えることは何も無い、と舌を巻いた。

英語ですら、すらすらと話した。

これは、幼い頃から、CNNやBBCなどの海外のニュース番組から培ったものだった。

加えて英和辞典は全て頭に入っている。

語彙力の高さは、このまま留学しても何の問題もなかった。

また、彰自身も自分が付けた知識は、何も間違っていなかったのだと思った。

受験のために学ぶのではなく、自分のために学んでいた彰は、受験のための問題を出されても、自分の知識の中からそれを引っ張り出して来ることが出来た。

思う通りにやればいい。

彰は、更に自信をつけた。

そうして、全ての試験に合格した彰を見送ったのは、今は父となった祖父の健一郎と、祖母の優子、そして間下の三人だけだった。

健一郎は既に歩くこともままならなかったが、間下に押された車椅子に乗って、空港まで見送りに来てくれた。

「これで、お前とは最後だ。」痩せて枯れ木のようになった健一郎は、言った。「次はあの世とやらで会う事になるだろう。だが、私はお前が生まれて来てくれて、本当に良かったと思っている。最初はあんな男の子などと侮っていたが、赤ん坊のお前の写真を間下に見せられた時、その目が私と同じだと思ったのだ。既に物を分かっている目。これは、間違いなく私の血を引いた子なのだ、と直感的に思った。今では、お前のためなら全てを残してやれる。娘は愚かだったが、あんなものかもしれない。お前を生んだのだから、出来たら目を覚まして欲しいものだと思っているよ。」

彰は、祖父の手を握って言った。

「おじい様。私は、私のしたいように生きて行きます。まずはおじい様と同じような事におばあ様がなった時、少しでも助けになるように医師を目指します。そこからは、世界中を回って私に出来るようなことを探して行きたい。研究をしたいのです。愚かな人は知りませんが、真っ当に生きている人類を助ける力を付けたいと思っています。」

健一郎は、クックと肩を揺らして笑った。

「そうか。見届けられないのが残念だが、お前ならやるだろう。私が死んでも戻って来なくていい。お前はとにかく、自分が信じた道を行け。」

彰は、祖父の姿を振り返り振り返り、たった一人搭乗口へと向かった。

そうして、本当にそれが、祖父との今生の別れとなった。


渡った国でも、現実は甘くはなかった。

勉学にではない。最初から流暢にアナウンサーのようなイントネーションで話す彰は、教師にも一目置かれていた。

だが、この国には、まだ人種差別というものがある。

彰は、それがあるのは知っていたが、現実にまだ、こんな考えの人が残っているのかと驚いた。

しかし、散々に実の父に罵倒され、クラスメイトからはつま弾きにされて来た彰にとって、それは何でもない事だった。

差別をする者も居れば、それを咎める者も居る。

どこへ行っても、それは同じだった。

祖父のビジネス上の知り合いだという男、ダリルの家にホームステイしていたのだが、そこの夫婦は彰にとても親切だった。

白人の夫婦だったが、ダリルの方は時間が合えばいつも車で大学まで送ってくれたし、女性のエイダの方は毎食食事に気を配ってくれていた。

今日は、午前中の授業が終わり、午後からは休講となったので、早めに家に戻った彰は、女性に迎えられた。

「まあ!もう終わったの?」

彰は、頷いた。

「午後は休講になったので。部屋に帰ってレポートを書き上げる時間が出来たので、ちょうど良かった。」

彰は、そう言って階段を上がって自分に貸し出されている、部屋へと向かった。女性は、言った。

「そう。おやつを持って行きましょうね。」

彰は、首を振った。

「いや、昼食を済ませたばかりなので。」

そう言って断ると、部屋へと入る。

ここへ来て一年になろうとしているが、最近あの、エイダという女性はお節介が過ぎて、面倒だった。

あまり何もかも世話をされるのに慣れていない彰なので、こちらへ来たら基本は全て自分でするのだと聞いていたので、好都合だと思っていたのだ。

それが、最初はそうでもなかったのに、最近は過干渉ではないだろうか。

…一度、ダリルに言っておくか。

彰はそう思って、傍の電話の受話器を取った。ダリルは、今頃は店に居るはずだった。

そして、電話を手短に済ませてから、今はレポートだと降って湧いた時間を有効活用しようと、すぐに机に向かった。


そうやって一時間ほどして、ふうと、ペンを置くと、肩を回した。

その時、トントンと部屋のドアがノックされた。

また、何か持って来たのだろうか。

要らないと言ったにも関わらず、また過干渉だと思いながら答えた。

「はい?」

彰は、迷惑だと分かるように不機嫌な声で言った。

すると、そんな事はお構いなしに、ドアが勢いよく開いた。

そこには、薄いネグリジェのようなもの…全く中が透けて役に立ちそうにない代物を着た、エイダが立っていた。

…なんと醜い生き物なのだろう。

彰は、思わず眉を寄せた。実は吐き気もしていたのだが、それはなんとか堪えた。

何しろ、下の下着は申し訳程度の大きさで、ほとんどの肉の身が露わな状態なのだ。彰にとって、別に女性のそんな姿を見るのは初めてでは無かったが、それでもそれは、強烈に醜いと思ってしまった。

彰が何も言わずにただ、青い顔をして立っているので、何を勘違いしたのか分からないが、エイダがねっとりとした笑顔を顔に張り付けて、寄って来た。

「もう、こういう事が分かる歳かと思って。ほら、お姉さんが相手をしてあげようと思うの。でも、ダリルには内緒よ?あなたが魅力的だから、特別なの。」

この女は、私と性的に交わろうというのか。

彰は、それこそ吐き気を耐え切れなくなって、傍のゴミ箱に向かって盛大に吐いた。

それを緊張からだと思ったのか、エイダは彰に手を伸ばした。

「そんなに緊張しなくていいのよ。大丈夫よ。」

「やめろ!」彰は、思わずエイダを突き飛ばした。「気持ちの悪い…私が何歳か知っているのか?それともこの国では、15の子供に性的な虐待をしても咎められないのか?それにお前は、どう見てもお姉さんなどという歳ではないだろう。自分の姿を鏡で見た事があるのか?」

法律は知っている。

自分を守るために、ここへ来た時この州の法令には全て目を通しておいた。

どんな理由があろうとも、許されない事だったはずだ。

エイダは、飛び上がるように立ち上がって、逆上して叫んだ。

「何よ!あんたが物欲しそうに見るから、相手をしてやろうって言ってんじゃないの!なのにその言い方は何?!こっちだってあんたみたいなアジア人なんか願い下げよ!」

だったらどうしてそんな恰好をしているんだ。

彰は思ったが、出て行ってくれたらどうでも良かった。それに…。

「何をしている!」

ダリルだ。

さっき電話をした時、後片付けを終えたらすぐ帰ると言っていたのだ。いつもより、一時間は早い帰宅になるはずだと思っていたが、もっと速かったようだ。

「…その女を、さっさとどっかへ連れてってくれないか、ダリル。」

彰が言う。エイダは、叫んだ。

「違うの!この子が私を襲うとして…!」

ダリルは、首を振った。

「お前は襲われる時わざわざそんな服を着るのか?相手の部屋まで押しかけて?」と、首を振った。「残念だよ。干渉が過ぎると言われて話し合わなければと早く帰って来たが、そういう事か。オレ達の関係も、考え直さなきゃな。」

エイダは、ただ叫んだ。

「違うのよ、聞いてよ!ダリル!」

ドアが、閉まった。

彰は、もう一度吐いてから、急いで自分の荷物をまとめた。こんな所には居られない…あんな化け物に襲われるかもしれない家などで、寝ていられるわけがない。

結局、大学に頼み込んで寮に一時的に入る事になった。

彰は、エイダが追って来てはと恐れて、そこから名前をジョン・スミスという平凡な名に変えた。

そこからは皆にジョンと呼ばれるようになった。

エイダは、逮捕されたとダリルから連絡があったが、彰はそれから、ダリルと連絡を取り合う事は二度となかった。


そうして、結局彰は、卒業までその大学の寮で過ごした。

男女で分けられているのが心地よかったのだ。男は襲って来るという事がない。あっても簡単に対応出来たが、女ではそうは行かない。最悪、こちらの方が悪いとみなされる。そんな面倒は、抱えたくなかった。

彰には、なぜか海外へ来てからというもの、女性がたくさん言い寄って来た。日本に居た時にはそんなことは無かったが、海外の女性達は積極的に食事の時でも隣りに座って話しかけようとする。それは面倒だった。

いっそゲイだと言ってしまおうかと思った事も、何度もあった。だがそうなって来ると、今度はゲイの友達から誘われそうで、嘘は良くないとそんなふりも出来なかった。

彰自身は気付いていなかったが、こちらへ来てドンドン身長が伸びて、歳の割に落ち着いていた容姿ではあったし、回りの者達も彰がもう成人していると見ていることが多かったのだ。

だが、彰はどうしてもエイダのあの、醜いと思った姿が頭から離れなかった。皆がああだとは思っていない。だが、言い寄って来る女性全てが、エイダに見えるのだ。時には、エイダという影を消してしまおうと応じる事も考えたが、醜い、汚い、という感情が先に立って、とてもじゃないが無理だった。

それでも、避妊具を付けたら何とか出来た。そう、普通なら長く睦み合うような行為のはずなのに、彰の行為はいつも、一瞬だった。本当に、そこだけ、なのだ。一応そういう衝動はあるし、はけ口があるには越したことがないので、何しろ、早く終わらせてしまいたいだけなのだ。

それにも関わらず、女性は寄って来た。もう、彰から見て女性というのはそんな風に扱われても文句も言わない完全に見下す存在でしかなかった。

中には良い女性もいたかもしれないのに、そんな訳で彰は、女性というものに関して、心の中で完全に距離を置いてしまったのだ。

言い寄って来る女は特に、駄目だった。用があったらこっちから話すから来ないでくれ、というのが、彰の言い分だった。

彰は、そんなトラウマも持ちながら、アメリカの大学を他にもいろいろ点々とした後、惜しまれながらヨーロッパへと渡って行ったのだった。


祖父の写真は、肌身離さず持っていた。

もう、とっくに死んでしまった祖父だったが、僅かな間だけでも、自分をしっかり理解してくれる存在に出逢えたことは、彰の中では宝物だった。

その写真の中の祖父に、彰は年々そっくりになっていた。

二十歳を過ぎて、より一層祖父に似て来たと自分でも思っていると、もう幾つ目かの欧州の大学で、彰は、ステファンに出逢った。

ステファンは、細胞学を専攻していて、長くそれをライフワークにして来たらしかった。

ステファンと話しているうちに、その人柄が祖父に似ている、と彰は思った。

歳は40以上も上だったが、それでもステファンの事は、親友だと思っていた。ステファンも、大層彰を可愛がって、自分が持てる研究成果の全てを、惜しげもなく彰に開示して自分の思考の流れをとくとくと説明し続けてくれた。

ステファンも、それは優秀な頭脳の持ち主だったが、変わり者でこの小さな大学で生涯を過ごすと決めて、若い頃からずっとここに居るらしかった。

自分が表に出る事は好まず、ひたすらに部下達に発表させて自分の研究成果を世に送り出し、名声など全く求めていなかった。

そんな様が、彰には好ましかったのだ。

ステファンに勧められて、バスケットのチームにも入ったりした。ここで彰は、初めて研究だけではない、普通のキャンパスライフというものを知った。ステファンは、何でもやってみなければ分からない、と言っていた。一見凡庸そうに思われることでも、やってみたら驚くほど良かったりする。

それは、実験でも同じだった。

遊び心を忘れてはならないよ、とステファンは常言っていた。

そして、自分のしたいようにしたら良いのだと。自分も好き勝手やって来た。それでも何とか、日々生きて来れたものだと。

ステファンが居る限り、私はここで研究を続けよう。

彰がそう思った矢先、皮肉な事にステファンは、長い間調べ続けて来た細胞の反乱に合う。

そう、癌を患ったのだ。

ステファンは、それすらを研究対象にしようとした。わざと治療はせず、彰に全てを記録するようにと言った。彰は、細胞を採取し、血液を採取し、毎日のようにステファンの病状を見守った。

そうして、ステファンは最後に、笑ってこう言った…細胞を思い通りに出来たとしたら、面白いとは思わないか?と。

それはつまり、彰にそれをやれと言っているのだ。

彰は、ステファンの手を握り締め、この病を根絶すると誓った。細胞を、どうあっても思い通りに動かして、屈服させてみせると。

祖父も、やっと出会えた信頼できる人すら癌に奪われた彰は、癌に対して大変な恨みを持った。

そして、決して表に出ることは無いが、自分のやりたいことを好きなようにさせてくれると約束させた研究所に、最高責任者として入所することを決めた。

その時、彰は二十八歳になっていた。

日本を離れてから、実に十四年の歳月が過ぎていた。


日本へ帰って来てすぐに、彰は祖母の優子を訪ねた。

祖母は、祖父とは違って病を得ることもなく、健在だ。だが、80を越えてさすがに体が思うように鳴らなくなって来ているようだった。

優子はとても喜んで、彰がどこだか分からないが、とにかくは同じ国に居るのだと知って、嬉しいと言っていた。

そんな祖母を、最期まで看取らなければと、祖父の墓を一緒に訪ねて、思った。

そこからの彰は、鬼のように仕事をした。

金は湯水のように使えたし、優秀な人材をいくらでも勧誘して入所させることが出来た。皆この島国の研究所と聞いてへき地なような気がしていたようだったが、それでも彰の能力は知っていたので、性格に少し難があるとは思っていたが、従って共感し、来てくれたもの達ばかりだった。

少々強引でも、無理やりに検体を集めて実験を繰り返し、そうして短期間でどんどんと結果を出して行った。

そうしているうちに、予算も多く付き、金を出したいというクライアントも増えて来た。

ますます研究所は潤い、そうして実験にも遊びの要素を加えようと思い始めた。

それがあの、人狼ゲームだった。

細胞に指示をする、という研究の最中に偶然生み出した産物だったが、それに適合するヒトが居ることが分かった。

真司と博正だ。

それまでも変化はしたが、その後があまり良い経過ではなかった。だいたいが狂うか、人狼とヒトを行ったり来たりして細胞に無理が掛かり、死亡する。

それが、この二人は難なく適合し、あっさりとその能力を使いこなした。

彰は、不可能を可能にすることが出来たと、心が沸き立った。

そうしてゲームの中で実験を繰り返す中で、要に会った。

要は、とても賢い男だった。出会った時にはまだ子供だったが、その感じが弟の樹に似ていた。

賢く、自分を慕って追って来る、弟。

彰は、要に樹を見ていたのだ。

本当は、樹がどうしているのかと調べる事も出来た。

だが、戻って来てすぐに昔の実家の屋敷を訪ねた時には、そこにはもう、誰も住んではいなかった。

父の会社は倒産し、母と父は樹を連れてどこかへ引っ越して行ったと聞いた。

祖母に会った時にも聞いたが、祖母は悲し気に娘の居所はもう、長い事分からないと言っていた。

祖母に会った時に来た間下が言うには、どうやら、祖父が死ぬと同時に祖父の会社は父の会社との取引をやめた。

その遺言に従って、執事の間下…間下登の父だが、その執事が後を継いで社長となり、優子を会長として会社は続いたようだった。

その執事ももう歳なので、次は息子の、登が社長となると言われているらしいが、まだ決まってはいないようだった。

「彰様が戻られるなら、彰様がこちらを継がれた方が良いのだと、父も言っておりました。」

間下は言うが、彰はあいにく、経営などにかまけている暇はなかった。

なので断って、今では間下の一族が、祖父の会社を回してやっているらしかった。

そうして彰は、ひたすらに研究に明け暮れる日々を、送る事になったのだった。


要は、長い話を聞き終えて、あっさりと話してはいるが、壮絶な人生だな、と思った。

生まれた時から回りを理解する能力が異常に高く、不自由な体の中で足掻いていた。

回りからは異質な目で見られてしまい、自分を理解出来る者が親ですらいない。

そんな中、孤独にひたすらに本を友として育った彰は、確かに人付き合いなど、して来なかったのだ。

最近になってこうして話が出来るようになったのも、彰がいろいろ学んだからだった。

「…彰さんが、どうしてそれほどに癌を根絶したいのか、なんだか分かった気がします。」

彰は、頷いた。

「だろう?私は、癌に祖父と恩師を奪われた。誰よりも癌を憎んでいるのは確かだ。そして、焦っていたのも確かだ…検体を強引に集めて来て、実験を繰り返した。若かったからな。どうしても早く結果を出したかった。ま、今は急いでも無駄だと分かっているのだ。量より質の段階に入っているしな。とにかく、粛々と出来る事から進めて行くつもりだよ。」

要は、頷いた。

彰という人物が、どうやって作られて行ったのかが本当に良く分かった。

彰は、本当に生まれた時から、自分の考えで動き、本から知識を吸収し、その中にある事を自分の中で消化し、何が正しくて何が間違っているのかまで自分で判断して生きて来た。

親でさえも信頼できなかった彰にとって、それは当然の事であって、そうしないと生きて行けなかったのだ。

やっと理解してくれる存在を見つけたが、既に病に侵されており、長く共に居ることも出来ずに、単身異国の地へと渡った。

そこでも差別に合い、それすらも克服して生きて来た。たった14歳の時から、彰はただ一人で戦って来たのだ。

その上、性的虐待にも晒された…写真を見せてもらうと、確かに今の彰を彷彿とさせる、美しい顔の子供だった。

そんな目で見られることも、多かっただろう。

たった一人、保護者もいない状態で、よく無事に生き残って来たなと要は身震いした。

「でも…彰さんの、女性嫌いの意味が分かりました。」要は、顔をしかめて言った。「確かに、そんな思いをしたのなら、トラウマにもなりますよね。」

彰は、フッと肩の力を抜いた。

「そうなのだ。あれはかなり私の人生に影響した出来事だった。それからも私はトラウマだというのに、女性がお構いなく寄って来るしな。どうにかならないかと相手をすることを考えても、もうハッキリ言って無理だし。もう、道具として考える事にしたら、案外にいけたので、それで行こうと。まだ十代の頃だったし、それでもいいと思ってしまった。何しろ、相手がそれでも良いようで、いくらでも寄って来るからな。だったらまあ、いいかと使っていたら、まあいろいろと。」

その中に殺しに来るほど恨む女性が何人か居たと。

だが、必ずしも関係がある女性ばかりに恨まれているわけでもないようだった。一度襲撃されて捕らえられた、カミラもその一人だ。彰が好きだがあまりにも相手にされないので、ああなってしまったようだった。

「女性は怖いですね。彰さんは特に、殺されかけたり虐待されかけたりで、碌な思いはしてないですから、愛情を持つなど無理なのかもしれませんね。」

彰は、頷いた。

「そうだな。私は、愛情というものを、知らずで生きて来たのかもしれない。誰も愛したことがないと言われたら、確かにそうなのだ。祖父やステファンの事は、間違いなく愛していたが、そういう対象で愛したのではなかった。信頼して、親愛というやつだな。」彰は、また遠い目をした。「だが…私の遺伝子を、完璧に繋いでくれる相手が居たらと今も思う。私の遺伝子との相性だ。実は私は、この研究所に誰が来ても、最初の健康診断の際に遺伝子の相性は調べているのだが、これまでに誰一人として完璧に合う、私の望みの型を持つ女性が居ない。もし居たら…交渉して、この際人工でもなんでもいいから卵子を幾つか分けてもらおうかと思っているのだがな。難しいのかもしれないが、ここまで待ったのだから妥協したくなくて。」

要は、全部調べていたのかと驚いて目を丸くした。

「そうなんですか?!知りませんでした。」

「内緒だぞ。」彰は、言った。「セクハラだとか言われたら困る。私にそのつもりはない、ただ卵子を分けてもらう相手を探しているだけだ。」

要は、顔をしかめて首を振った。

「言えませんよ。でも…そうですか、難しいですね。オレだって、彰さんの子供が居たら、いろいろ教えたら面白いだろうなって思うのに。」

彰は、顔をしかめた。

「変な事を教えるなよ?油断がならないな。」

まだ、卵子さえも見つかっていないのに。

要は思ったが、答えた。

「変な事って何ですか。ないですって。」と、要は話題を変えた。「それよりは、樹さんが今どうしているのか気になりませんか?調べさせたらすぐに見つかるでしょう。どうして調べないんですか。」

彰は、ため息をついて言った。

「長い年月放って置いたのに、今さらどんな顔をして会えばいいのだ。樹は、生きていたら今は三十五。もう家庭も持っているかもしれないし、あちらも私のことなど忘れているだろう。海外に出ている間も、一度も会っていないのだ。祖母の葬式の時にも、間下に調べされたが分からなかったぐらいだ。お陰で遺言通りに私が全てを相続し、あれには一銭も渡せなかった。気掛かりで仕方がないのだ。」

本当なら、彰の母の杏美にも権利はあったはずなのだ。いくら遺言があっても、遺留分は請求出来たはずだし、彰なら難なく払っただろう。

何しろ、そんなものが無くても彰は金には困っていないのだ。

毎年会計士がやって来て皆の税務相談をしてくれるのだが、彰だけは異常に長い。

どうやら彰には、祖父から受け継いだ多くの不動産があって、その関係の収入が膨大なのでそれを一つ一つ報告してまとめるので、時間が掛かるようだった。

毎年、研究費に事欠かない。いきなり予算をつけてくれと言っても無理なので、そんなお金も彰がすぐにポンポン出すので、研究が滞る事もなく、ここの研究員達が好きなことをし放題なのも、そのお陰だった。

彰は、なので子供の頃とは違い、今はお金には全く困っていないのだ。

樹が困っているのなら、簡単に手助けするだろう。

「…無事かどうかだけでも、調べてみましょう。」要は言った。「良い調査員を知ってます。ほら、いつも人狼ゲームのメンツを揃えるのに奔走してくれる所の。」

彰は、顔をしかめた。

「私の個人情報は渡したくないがな。まあ、あれらならとっくに私のことなど調べているか。」彰は言って、頷いた。「では、頼む。樹のことはいつも気にしてはいたのだ。あちらから私を探すのは難しいだろうが、あれが私を探しているような痕跡もないしな。あれば耳に入るのだが…向こうは、会いたくもないのだろうし、会うかどうかはそれからだ。」

そうして、要はその指示をするために彰の部屋を出た。

樹に、要自身も会ってみたかったのだ。

彰には、どうしても幸せで穏やかな気持ちでいて欲しかったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ