殺人のモチベーション
「ちっ」
オグラ ヒカルは心の中で舌打ちをした。ピンポーンピンポーンとアラートが聞こえる。先程まで乗客を通過させていた改札はゲートを閉じてしまった。
目の前のサラリーマンのICカードの残高が足りなかったらしい。サラリーマンはすいませんというわけでもなく、方向転換をし乗り越し精算機へ向かって歩いていく。ヒカルはうっかりサラリーマンにぶつかるところだった。すいませんの一言でもあればもやっとした気持ちも収まるものの。背中に感じる圧を、このアラートの原因は私ではありませんという顔を5秒ほどして、やり過ごす。まったく、社会人ならオートチャージの設定くらいしとけよ、とヒカルは心の中で毒づいて改札を抜けた。梅雨の雨で髪の毛がモサモサしているのもあり、いつもよりイライラしやすかったのかもしれない。
ヒカルは、中央区にあるIT企業で働いている。26歳のとき、つまり2年前に転職した。会社は、元は個人向けの資産管理を担うクラウド製品を提供していたが、最近は法人向けにも展開するようになった。法人展開に向けて、クラウド製品以外にもオンプレミスでの製品展開も始め、ヒカルは法人営業部門で製品のサポートを行なっている。前社長が突然死したときは不穏な空気が社内に流れたが、新社長は強いリーダーシップで会社を支え、会社の業績は右肩上がりを続けている。このご時世、会社が成長しているというだけで、この会社に留まる十分な理由だと、ヒカルは考えていた。
座席につき、パソコンの電源を入れると、ヒカルは、今日の予定を確認した。A社との定例会議、B社との定例会議、チームの定例会議‥‥まぁこの辺はアカベコと化していればやり過ごせるだろう、とヒカルは思った。
メールを確認すると、上司からのメールが朝の7時に届いている。上司からの今日の一言が、毎朝メールボックスに届くのである。今日はおすすめの自己啓発本が紹介されていた。うざぁ‥‥とヒカルは心の中で再び毒づき、念のため、ザッとななめ読みすると上司のメールだけゴミ箱に捨てた。
「おはよー」と、チャットが届く。同僚のナギからだ。ナギはヒカルより半年前に転職してきた人事部門の人間だが、年齢が近く、さっぱりした性格が付き合いやすく、仲良くしている。
「今日ランチいこー」とナギからのチャットが続く。
「オッケー」とヒカルは返信を返し、会議室へ向かった。
■■■
「オカダさん、俺の寿命をこれ以上縮めないでくださいよぉ~」とタシロは言った。
ここは、都内の有名和食懐石店である。掘りごたつ式の個室でタシロはお昼の和食懐石御前を食べていた。
いつもは蛇が刺繍されたスカジャンを着ているタシロだが今日はスーツである。
着ているものはいつもと違うが、青白い顔色と目つきの悪さはいつも通りである。
タシロは、手段を問わない何でも屋のオーナー代行の役割を担っている。何でも屋への依頼は、銀色のノートパソコンに、メールで届く。手短な内容のメールで、依頼を理解することが難しい時もある。
「オーナーが本格的にタシロさんに任せるようになっちゃったから、タシロさんも大変だね」と、豆腐をすすったのがトモヤである。トモヤはお昼の湯豆腐懐石を選択した。「あ、これゆずぽんだ。おいし~」と、トモヤは笑顔を浮かべた。トモヤは何でも屋の従業員であり、毒物への知識がある。髪の色は金髪だが、雰囲気が柔和なためか優等生の空気を醸し出している。
「たまには外で飯食うのも悪くねぇなぁ~」と、エビフライをかじったのが、レンだ。レンの前にはオムライスとエビフライ、コーンスープが並んでいる。レンはファストフード専門のため、オカダが予約時に特別メニューをオーダーしておいた。
レンは二重の大きな目をしており、柄シャツがトレードマーク。主に戦闘担当だ。
「で、なんだったの」と、ライが尋ねた。ライもスペシャルオーダーで、豆腐入りのパンケーキとフルーツプレートが用意されている。ライは爆発物担当で、華奢で童顔。そして恐ろしく美人な顔立ちをしている。くっきりとした二重に細い顎。年齢は21歳であるが必要に迫られて高校生のフリをしていたことがある。
「いやあ、そりゃもう立派な豪邸でしたよ」とタシロは話を始めた。時間は一時間前に遡る。オカダとタシロは四谷にある某人物の邸宅へ招かれ、スーツを着て向かうこととなった。白壁に備え付けられたインターフォンを鳴らすと、お手伝いさんと思しき、エプロンをかけた女性が、タシロとオカダを迎え、客間へ通した。
皮張りのソファと、ローテーブルが置いてある客間であった。
客間からは、中庭を臨むことができ、シトシトとふる雨と、苔むした庭園風景を眺めながら、そして忙しなく両膝を掌でこすりながら、タシロはこの家の主が登場するのを待った。
なお、この時点で、誰と会う予定かタシロは教えられていなかった。だが、テレビでよく見る豪邸紹介とは、格と重みが違う建物の雰囲気を感じとり、ただのお金持ちに呼び出されたわけではないと悟っていた。
客間に現れたのは、初老の老人であった。いわゆるヤクザのような凄みはないが、ピリッとした空気をまとっている。
オカダは起立して挨拶をしようとしたが、老人が制した。「挨拶は構わん。手短にいこう」と老人が言った。「隣は女帝のお気に入りか」と、老人が尋ねた。隣とは、タシロのことである。「ええ、そのようですね」とオカダは笑顔を浮かべた。住処では見せることはないよそ行きの笑顔だ、とタシロは思った。
「狐が見つからなくてなぁ。探してくれるか」と老人は言った。「狐‥‥ですか。なるほど」とオカダは返事をした。その後、5分ほどの沈黙の後、老人は客間を出て行った。オカダはその背中を礼をして見送り、タシロも慌てて真似た。
以上が、一時間前の出来事である。その後、レン達と待ち合わせをし、懐石料理をランチに頂くこととなった。なお、この店はオーナーの持ち物である。ゆえにメニュー外のものをオーダーすることも可能であったのである。
「オカダさん、なんなんすか、あれ。俺、さっぱりでしたよ。ていうか、あの一文を聞くためだけに四谷に来たんすかぁ」と、タシロはわけがわからなくなっていた。
オカダは肩を震わせて、クックッと笑っている。
「私もよくわかりません。あの一文を聞くためだけに、私たちは準備だ移動だって三時間くらいかけたわけですよね。タシロさん、今度御仁に言ってみてくださいよ。用事があるならメールしろって。五秒で終わるぞって」
「まぁ、老人だから、メールが苦手か、ログが残るのを必要以上に警戒しているのかどっちかなんでしょうね」とオカダは補足した。
「狐が見つからないって、つまり、人探しを依頼されたってことなのかな?」と、トモヤが言った。
「そうですね。あの方は警察のOBです。つまり、ある事件の犯人を探せということですね。そう言ってくださればいいんですが、犯人を代わりに探せとは御仁からは言えないんでしょう」オカダが答えた。
「公務員が、俺らみたいなのに仕事の依頼していいのかよ」とレンが言う。
確かにそうだ、自分たちはこれまで数えきれないほどの違法行為の実績がある。むしろしょっ引かれる側の人間だとタシロは思った。
「レンの悪行なんて、警察も把握済みでしょ。我々と警察はある意味持ちつ持たれつってことなんでしょ」とライが言う。
「肯定も否定もしません。なんにせよ、我々は依頼を受けました。そして、その依頼を無視するわけにはいきません」と、オカダは言った。
「レンの暴力行為、ライの器物損壊、あっち側からすれば、いくらでもカードをきれるもんねぇ」とトモヤが言った。
「お前だって散々暴れてんだろうがよ」とライが言う。
「まぁまぁ、続きは、この美しい御馳走をいただいてからにしましょう。警察が追えなくて、御仁経由で我々に狐狩りを命じるような案件です。きっと、簡単には片付きっこないでしょうから」とオカダが言った。胡麻豆腐が乗った箸を口に含むと、「うん、絶品ですね」と、添えた。
■■■
「さて、狐の案件なんですが、今回は説明用にホワイトボードを用意しました」と、オカダが切り出した。
四階ダイニングは、オーナーが特注したペルシャ絨毯に猫足のチェスト、振り子式の壁掛け時計に、木製のダイニングテーブルが置いてある。ホワイトボードは、まったくもって相応しくないが、致し方ないのだろう。オカダはホワイトボードに写真を貼り付け、マーカーで文字を書きながら説明を始めた。
「探すのは、簡単に言うと、連続殺人犯です」
オカダは、狐=連続殺人犯と、ホワイトボードに書いた。「まず、一人目の犠牲者の男性です」ペタリと写真をホワイトボードに貼る。40代前後と見られる男性であった。
「頭部を鈍器でなぐられ死亡。殺害場所は自宅です。自宅はごく普通の一軒家で、老いた母親と二人暮らしでした。職業は、マンション設備のメンテナンス作業員です。死亡推定時刻には、母親はカラオケ喫茶にいました」
「二人目が、女性」
オカダは30代と思われる女性の写真をホワイトボードに貼った。
「殺害場所は自宅アパート。アパートには、監視カメラはありません。自宅近くの工場で事務の仕事をしていました。死因は首を絞められ窒息死です」
「三人目は、男子中学生です。死因は首を絞められ窒息死。やっぱり自宅でしたが、殺害当時は、親は仕事で不在。弟がいますが、塾に行っていました」学ランの少年の写真をホワイトボードに貼る。
「ねぇ、それほんとに連続殺人なの?」ライが尋ねた。「不思議に思うのも無理はありませんね。被害者の属性に一貫性はありませんよねぇ。連続殺人と疑われている理由なんですが、全員遺体の両手首から先が、ありませんでした」
オカダは写真をホワイトボードに貼ろうとしたがやめた。ここは食事場所である。
トモヤとライが、レンに顔を向ける。二人は、レンの部屋の棚奥にホルマリン漬けにした手首があることを知っている。
「待て待て、いや、俺じゃねぇよ!確かに俺は、けしていいとはいえない趣味があるけどよ。それは認めるけどよ、男の手首をわざわざ欲しいとは思わねぇよ」とレンは両手を振って釈明した。
「説明は以上です」と、オカダは言った。
「え、それだけ?!」と、トモヤ。
「あぁ、もう一つありました。被害者の所持品、付近の監視カメラ、聞き込みなど、警察は徹底的に行いましたが、三人の共通点は見つからなかった、とのことです」
ダイニングにいた全員が、それだけー‥‥と呆気にとられ、言葉を発せなくなっていた。
「まぁ、警察が民間人に捜査資料を漏洩させるわけにもいきませんしねぇ。あとは、自分たちでなんとかせよということでしょう。まぁ、我々は合法的にやる必要はありませんから、有利といえば、有利‥‥って無理ありますかね」と言いながら、オカダは笑った。「ちょ、オカダさんも、無茶苦茶ってわかってんじゃないすかぁ!」と、タシロが声をあげた。
「あはは、無茶苦茶ですよ。ヤクザの要求より無茶苦茶です。総理大臣を殺害する方が楽かもしれません。まぁ、無茶苦茶ですが、なんとかしないといけません。とりあえず、被害者の自宅を、明日から順番に回ってみましょうか」と、オカダは笑いながら提案した。
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「オグラ、今度、製品戦略会議に出す資料、あれ、今週中にレビューに出せよ」
昼休みから戻ったヒカルは、上司に声をかけられた。了解しましたと返事をする。
製品戦略会議とは、役員も出席し、製品の変更方針について意思決定を行う会議だ。資料作成の際には、フォントのサイズや見出しの付け方に細かい指定がある。一言でいうとめんどくさい。
各々がアジェンダを持ち寄り、発表できれば楽なのだが、製品についての意思決定をする場であるため、意思決定のプロセスをログに残す意味でも、アジェンダのフォーマットと議事録の管理については厳しい。
めんどくさいが仕方がない。ヒカルは、デスクトップにあるパワーポイントのアイコンをクリックした。
横目で上司を見ると、スマートフォンを操作している。一見仕事のように見えるが、あれは違うなとヒカルは思った。
本人はうまく隠せているつもりのようだが、ガチャを引くゲームを、上司がしているのを知っている。面倒事は部下にまかせて、スマホゲーですかぁとヒカルはため息をついた。
「またガチャひいてるよ」とナギにチャットを送った。ナギからは、怒りの絵文字が返ってき、ヒカルは思わずくすりと笑った。
「あーっ、今日もつっかれたぁ」
結局20時過ぎまで資料を更新し、もういいや!となり上司に資料をメールで送りつけ、帰宅した。
帰宅後はお楽しみタイムである。湯船につかり、思わずため息が出た。お気に入りのヒノキの香りの入浴剤を入れ、風呂の蓋の上にペットボトルの水と、ファッション誌を置いた。深呼吸をしてヒノキの香りを楽しむ。
半身浴をしながら、読書をする時間が、ヒカルのお気に入りの夜の過ごし方だ。
オフィスワークで凝り固まった筋肉が少しでもほぐれるように、じんわりと体を温めていく。
雑誌のお呼ばれ服特集のページをめくり、そういえば結婚式に呼ばれていたことをヒカルは思い出した。去年から、第一次結婚ラッシュだ。ヒカルには、今のところ予定はなく、特にあせる気持ちもなかった。
一人でも楽しそうに過ごしている先輩が周りにはたくさんいる。それに、そういう話はセクハラ・パワハラに当たると人事が厳しく教育してくれているおかげで、特段、不便を感じることはなかった。
今度の結婚式は、大学の友人からの招待だ。この間、会社の人に呼ばれた結婚式に着ていったワンピースを着れば大丈夫だろう。
額とうなじに汗がにじみ出てきた。さらにページをめくり、もうすぐ夏本番・美BODY特集の記事を読み始めた。
30分ほど湯船につかり、風呂から上がった。体がほぐれ、芯まで、温まった気がする。
あぁ今夜もしっかり眠れそうだ。ささくれた心が、少しやわらかくなったのを感じる。大食い芸人が特大パンケーキに挑戦している映像を見ながら、ヒカルは髪を乾かした。この後は、ベッドでゴロゴロして、眠くなるのを待とう。
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翌日、タシロはバンを運転していた。やはり今日も雨だ。ワイパーのスイッチを入れるが、雨はどんどんフロントガラスを濡らしていく。後部座席にはトモヤとライがいる。被害者の自宅を見て回るためだ。
被害者の自宅を見学することを提案したのはオカダだが、足を運ぶのは、タシロ、ライ、トモヤになった。
四人だとさすがに多いだろうということで、レンは留守番である。
まずは、一人目。40代の男性だ。築年数がそこそこに経過していると思われる一軒家のインターフォンを鳴らすと、母親と思われる人物が現れた。警察に雇われた探偵事務所のものだとオカダが作ってくれた名刺をだし、挨拶をすると被害者の部屋に通してくれた。
六畳ほどの畳の部屋は、整頓されていた。畳に置かれたマットレス。机と、本棚。テレビ。アクション映画が好きだったのだろうか。本棚には、有名なアクション映画のDVDが並んでいた。
何のことはない、ごく普通の部屋に見えた。
机の上にはパソコンのモニターがあったが、本体はない。警察が持っていったのだろう。
だが、オカダの話によると、被害者のパソコンからは手がかりとなるようなものは何も見つからなかったということだ。
「息子さんは、誰かと会う約束をしていたのでしょうか?」とトモヤが母親に尋ねる。「そうですねぇ…もうあまり会話もなかったものですから…何も聞いておりませんでした」と母親は応えた。
まぁ、自宅暮らしとはいえ、40歳という立派な大人だ。家に誰がくるか細かく話しはしないかもしれないなと、トモヤは思った。
ライは、部屋の棚や引き出しを一通り開け閉めすると、「何もなさそうだ」と、肩をすくめてトモヤに合図した。トモヤは念のためにと何枚か写真を撮った。
二人目は、女性のアパートだ。さすがに片付けられているかと思ったが、まだだった。
北海道の両親が片付けにやってくるはずだが、まだ来ないと大家が説明した。家賃はそのまま引き落とされているため、ほっておいているそうだが、再度連絡をしてみるということだった。まぁ、事故物件だし、すぐの入居は見込めないだろうから、とりあえず家賃がもらえるならほっとけって思うのかな、とライは思った。
粗末なキッチンのある洋間と畳張りの寝室がある2Kの間取りだ。洋間には、テレビ・小さなローテーブル・座椅子。寝室はベッドと本棚がおいてある。なんとなくカビ臭い臭いも感じられた。
本棚には、恋愛ものの少女漫画や、通販のカタログがしまわれていた。
女性はパソコン自体を持っていなかったようだ。モニターだけではなく、周辺機器もなにも見当たらない。携帯の充電器はあったが、携帯本体は警察が回収したと思われた。
「彼氏がいたような様子もないねえ」とライが言った。「洋服の数も少ないし、靴も3足。冷蔵庫には作りおきのおかずに、流しにはお弁当箱。贅沢してる感じはしないね」とつぶやいた。
三人目は中学生だ。団地の2階に住んでおり、母親が出迎えた。もうすぐパートに出ないといけないということで、手早く室内を確認した。
「誰かと会う約束をしていましたか?」とトモヤが尋ねる。「特に聞いていませんでした。それに反抗期っていうんですかねえ、最近はずっと喧嘩ばかりでしたから…」
少年の部屋は、弟と共用だったらしい。二段ベッドと、机が2つ置いてある。教科書や、部活のものだろうか、卓球道具が置かれていた。
制服は、衣類かけにかかったままだった。
「ふっと、ただいまって帰ってくる気がしましてね。片付けられないんですよ」と母親が言った。
そうして、三軒の家を見て回ったわけだが、めぼしい収穫はなかった。むしろ疑問ばかりが湧いてくることとなった。
「押し入った痕跡はないから、警察は顔見知りの犯行だって、推測してるんでしょう。三人とも、自宅に人を招いたのに、ジュースの一杯も出さなかったのかなあ」とトモヤが言った。
「ジュースでも出したなら、コップから指紋が出たりとかしそうなものだけど」
「出す前に殺されたか、飲まずに殺したか、どっちかじゃない?あ、まぁ片付けたっていうのもあるだろうけど。仮に、おもてなしをする前に殺したとすると、台所で発見されてもよさそうだから、後者かなあ」とライが言った。
「三人とも、家族との関わりは薄くヒントは少ない。それに共通点になりそうな趣味もなさそうでしたねぇ」とタシロが言った。
「警察の捜査でも、何も出なかったということは、スマホやパソコンには彼らと犯人と思しき人間の交流の記録はなかったわけだよねえ。まあ、スマホなら履歴を消すこともできるだろうけど、警察なら、そのくらい復元して調査してるだろうね」
■■■
三日後、トモヤはバックパックを持って、ボクシングジムの前にいた。「あれ、おかしいな」と、トモヤは呟いた。
オーナーであるニジョウに、戦闘能力を上げろと言われ、トモヤは二ヶ月ほどボクシングジムに通っている。住処の近くには長い商店街があり、住処から見て、商店街の終わりの方に、ジムがあった。土曜日の朝はジムへ通い、筋トレを1時間、トレーナーとスパーリングを30分ほど実施するのがルーティンとなっていた。運動は嫌いではなかったため、ニジョウには感謝している。
時刻は8時55分。いつもは開いているジムの入り口が閉まっている。ガラス張りのドアのむこうは電気が消えている。
朝シフトのトレーナーが遅刻でもしたのだろうか。まぁ、時間をつぶしながら待つか、とトモヤはスマホのゲームを起動し、ジムの前の地面にしゃがんだ。
「あれぇ」と、トモヤの頭上で声がした。トモヤは顔を上げた。別の生徒だろうか。ドアに手をかけ、やはり閉まっていることに戸惑っている様子だ。
「まだ開いてないみたいですね」と、トモヤは声をかけた。「そうなんですね。待っていればいいのかな」と、生徒は呟いた。生徒は女性だった。小柄でショートカット。同い年くらいかな、とトモヤは思った。
「あーすいません、すいません、今開けますから」と、声がした。走ってきたのはトレーナーだ。慌てたのだろう、息が上がっている。こんがり焼けた黒い肌に、汗が浮かんでいる。「あぁ、ヤノさん、寝坊ですかぁ」と、トモヤが声をかけた。「あはは、すいません。ちょっと朝バタバタしちゃって」忙しなく鍵を開けると、ヤノはジムの電気をつけ、カーテンと窓を開けて換気を始めた。
「じゃ、トモヤさんは、ストレッチの後、筋トレからー、あ、あと、そちらはオグラさんですね。体験ご希望ですね。お待たせしてすみませんでした。お着替えをあちらでお願いしまーす」とヤノは声をかけた。
「あぁ、見慣れないなと思ったら体験の人か」と、トモヤは思い、柔軟を始めた。
ヒカルはTシャツとジャージのパンツに着替えた後、トレーナーの指示に従って、手首を回したり、足首を回したりした。雑誌の美BODY特集に感化されて、思わず近所のジムの体験を申し込んだが思ったより本格的そうだ。トレーナーはともかく、あそこで筋トレを始めた人も、やりこんでいる感じがする。
主婦に混じってトレーニングするのかと思ったが全然違った。トレーナーとマンツーマンとは。よく考えたら土曜の朝一に主婦がジムにくるわけがないか。
ヒカルはやや緊張しながら、トレーナーの説明を聞き、言われたとおりに体を動かした。
「ヤ、ヤノ先生‥‥私…疲れました‥‥」50分の体験を終えて、ヒカルは小声でヤノトレーナーに訴えた。「あはは、頑張りましたね。明日は筋肉痛だと思うので、ストレッチをしてしっかり休んでください」と、爽やかな笑顔で返された。筋肉痛かぁ、つらいなぁ、と、ヒカルは思った。横目で先程の青年を確認すると、名前の知らない筋トレ器具を使って足の筋トレをしている。「トモヤくーん、スパーリングいこうかぁ」と、ヤノが声をかけた。ひゃ~筋トレ一時間やってまだやるの、すごい~と、ヒカルは既に重い体を引きずり更衣室へ向かった。帰りにショッピングに行こうなんて甘かった。既に化粧は落ちてスッピンに近いし、体がだるい。真っ直ぐ帰ってベッドにダイブしようとヒカルは思った。何より汗臭い。
「うん、いいねー!いいねー!」と、ヤノの掛け声を聞きながら、ヒカルはよろよろとジムを後にした。
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その日の晩も、四階ダイニングでは狐案件の会話がなされた。窓の向こうでは、ざあざあと雨が降っている。
タシロとレンはステーキとマッシュポテト。トモヤも、運動の後ということで、レタスの上に赤身肉を乗せて、ステーキサラダを食べていた。
ライはチョコレートパフェのウエハースをかじっている。
「いっそ模倣犯を装って、適当な死体の手首をきってそこら辺に転がしちまえば、犯人が現れるじゃね?」とレンは提案した。
「犯人は現場に戻ってくるといいますからねえ。でも、ちと、アグレッシブっすね。警察から仕事増やすなって怒られないすかね?俺らが捕まっちまうかもしんねっす」とタシロ。
「別々の人間がそれぞれ犯行したって可能性はないんすかね?」と再びタシロ。
「それがですねえ。手首切り落としの件は、マスコミには出ていないんですよ」それぞれの殺害事件のニュース記事をプリントアウトしたものをオカダが机に広げた。なるほど、確かに関連性を示す記述はなさそうだ。
「犯人が誰かに喋って、それを誰かが真似てとか、ありえるのかなぁ。わらしべ長者的な」とトモヤ。
「でも、おじさんにも、お姉さんにも、少年にも、恨まれるようなわけありの人間関係とかはなさそうだよねぇ。
むしろ、人間関係は希薄そうだった。人を殺害するっていうのは、パワーがいるじゃん。レンは別だけど。一般的には手間がかかるし、相当なモチベーションがないとやらないと思うんだよね。
そんなモチベーションを抱くような人間が周りにいたとは考えづらいと思う」とライ。
「一方的に、それぞれの人間に対して、熱い思いをこめた人間が現れる可能性は?ストーカー的な…ってのも微妙かあ。ストーカーされるような感じの人たちじゃないもんな~。
男子中学生にストーカーって意味わからないもんね。じゃ~あとは…快楽殺人?でも、じゃあターゲットをどう特定したかがわからないよねえ。レンだったらターゲットをどういう風に設定するか想像してみてよ。」
「えぇ~俺?俺なら、やっぱロングヘアの美人か、あとはすんげぇムカついた時だろうなぁ」
「やっぱり、何らかのモチベーションがいるよねえ。殺人のモチベーション」と、トモヤが、赤身肉を口に含み、空を見上げた。
「あーあとさ、すげぇきれいな手首とか?きれいなものを集めて並べたい心境はお前らもわかんだろ?」とレンは言う。
なるほど、中学生は卓球をやっていたな。手首が大事だ。マンションメンテナンスでも手を使うだろう。被害女性の工場は縫製工場だった。
きれいな手首かどうかは構わず、手首に意味があるという点では3人とも共通しているように思えるが、大体の人間にとって手首・手は大事だな、とトモヤは思った。
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結局、ヒカルはジムに通うことにした。翌日の筋肉痛には、3日間苦しめられたが、大した趣味もなく、週末だらだらするよりは、土曜日の朝に予定があった方がメリハリがついてよいと判断した。何より30歳手前になって、お腹のぜい肉が気になる。ヤノトレーナーに、へなちょこパンチをお見舞いしていると、ストレス発散にもなる。
初日に、一緒になった青年はトモヤというらしい。同い年くらいなのに、ずいぶんしっかりしているように見えた。ヒカルのへなちょこパンチと違って、トモヤのスパーリング姿は美しかった。
体幹が鍛えられているのだろう。体のブレが少なく、無駄な動きがない。必要以上の筋肉がついていない体から繰り出されるパンチは、トレーナーのミットに当たると、鋭い音をあげていた。
今日も50分のトレーニングを終えて、ヒカルはやはり疲労困憊であった。前回で学んだので、化粧は眉毛を描くだけにしておき、制汗シートも持ってきた。
スッピン隠しの伊達眼鏡をつけ、練習中は外していた、ブレスレットをつけ直した。社会人三年目のボーナスで購入した、お気に入りのブレスレットだ。シンプルな金色のチェーンブレスレットだが、自分の手首を美しく見せてくれる気がする。
イヤリングはすぐなくすし、指輪は手がむくんで外せなくなることがあり、ヒカルにとってはブレスレットがストレスフリーで身につけられるアクセサリーだった。
お昼に食べるものを商店街で物色してから帰ろう。
ホカホカ弁当の唐揚げ弁当‥‥おにぎり屋のおにぎり3個セット‥‥パン屋のサンドイッチ。どれも魅力的だが、せっかく体を動かしたのだから、ヘルシーなものにしよう。自然食レストランのテイクアウトで、五穀米と三種のデリセットを購入し、自宅へ向かった。
「ん?」とヒカルは思った。勘違いじゃないよね?と、ヒカルは思った。通りがかった本屋のガラスに、自分ともうひとりの姿を確認した。
自分の後ろを歩いている男は、ヒカルがジムから出てきたところからずっと一緒にいる気がする。ヒカルは商店街を直進方向に歩いていたが、こんなにタイミングが合うことがあるだろうか?だが、今は土曜日の真昼間だ。往来の中で危険な目に合うことは考えづらい。変なの、と思いながらヒカルは足早に帰宅した。
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再びの土曜日の午前である。ヒカルはまたかと思った。ジムの前にトモヤ青年がしゃがんでスマホをいじっているのが遠目から確認できた。どうやら、今日もヤノは遅刻らしい。
「困っちゃいますね」と、ヒカルはトモヤに声をかけた。「あはは、まぁ、大したことじゃないですよ」とトモヤは答えた。トモヤ青年は笑うと目がきれいなアーチ型になる。激しいスパーリングをする姿と対照的に、優しい笑顔をする人だとヒカルは思った。
ヤノは、10分ほど遅れてやってきた。やはり息が上がっており、髪も乱れている。朝に弱いタイプには見えないんだけどな、とヒカルは思った。
「えぇ?背の低い猫背の男性?」とヤノはヒカルの言葉をおうむ返しした。「そんな人覚えないけどなぁ、というかどこにでもいそうだねぇ」とヤノは言う。
「トモヤくーん、心当たりある?」とヤノがトモヤに声をかけた。「ヒカルちゃんがね、ジムの帰りに後をつけられているって言うんだよ。猫背の背の低い男に」
「猫背の背が低い男‥‥」トモヤは首をかしげた。
「土曜日の真昼間に変態が出るとも思えないですけど‥‥暑くなると変な人増えますからねぇ」とトモヤは言った。「ヒカルさんが迷惑でなければ、家まで送りましょうか?」とトモヤは提案した。
ヒカルは、それはさすがに、と思い断ろうとしたが、「いや、いいですよ。ヤノさん、僕、来週から水曜も来ようと思ってるから、今日は軽めにしとくよ。スパーリングはまた水曜に。いいよね?」とトモヤは言った。
「水曜の夜は空きが結構あるからね、いいよ」とヤノは快諾し、ヒカルはトモヤと帰宅することとなった。
「気のせいだと思うんですけど‥‥すいません」とヒカルは謝った。自分のくだらない心配のせいで人に迷惑をかけてしまった。「いえいえ、大丈夫ですよ」トモヤ青年は会社にいる同僚とも上司とも違う雰囲気を持っている。仕事は探偵事務所に属しているらしい。仕事柄体を鍛えることも必要だということだ。
探偵事務所なんて、不安定そうな職場だが、トモヤ自身は、最初に抱いた印象の通り、自分よりはるかにしっかりしていそうだし、人の評価で一喜一憂したり、小さいことで心の中で舌打ちしたりしなさそうな懐の広さのようなものを感じた。
ヒカルの住むマンションは、ジムのさらに先、つまり駅やトモヤらの住処からは歩くのが躊躇われる距離にあった。普段は駅までバスを利用しているらしい。
たわいもない会話をしながら、あっという間にヒカルの住むマンションの前に到着した。「気になることはありましたか?」と、トモヤはヒカルに尋ねた。「いえ、大丈夫だと思います。ご迷惑をおかけしました」とヒカルは頭を下げ、マンションの中へ入って行った。トモヤは、くるりと体の向きを変えると、辺りを見回した。なるほど、猫背の男ね。商店街からヒカルのマンションに向かう手前の角まで確かについてきていたな、とトモヤは思った。
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「えぇ~なに、ヒカルってば、いつの間にそんな出会いがあったの~?羨ましい~」とナギが声を上げた。「そんなんじゃないよ。ただ、送ってもらっただけ」
ヒカルとナギは会社の隣のコーヒーショップで、コーヒーを買っていた。
上司からの無茶ぶりにイラッとしてしまったヒカルは、チャットでナギを誘ってコーヒーを買いにきた。ヒカルはカフェモカ、ナギはキャラメルマキアートだ。
「お稽古事を始めて、金髪のイケメンに出会って、優しくされてってドラマじゃーんいいなぁ」ナギはカップをすする。
「トモヤさんね、優しいは優しいし、確かに汗を流す男性はちょっとかっこいいね、あはは。それよりもさ、聞いてよ、今度炎上案件に放り込まれそうなんだぁ。ガチャ引く暇があるならお前がやれよって感じ。ほんと言いそうになっちゃったよ。最近はサンドバッグを上司だと思うことにしてるんだ。ねぇ、ナギはストレス解消どうしてるの?」
「ええ〜、そりゃヒカルとこうやってマシンガントークすることでしょう?あとさ、やっぱりオンラインゲーム?必死でやってると嫌なこと全部忘れてるよ。でもさ、最近、オンラインゲームもさ、いろんな人がいるから、かえってストレスになることあるんだよねぇ」
「ふぅん、趣味がストレスになると、それは確かに辛いね」
「そうそう、だからさ、今度飲みに行こうよ。聞いてほしい話まだいっぱいある〜!」
「ナギはさ、なんでもそつなくこなせちゃってる印象がするけどねぇ。もてるしぃ。ま、とにかくさ、オッケーオッケー飲みにいこ」
「あ、でもトモヤさんとデートの予定が入ったらそっち優先しないとだよぉ」
入らないってぇと、二人は笑いながらオフィスに戻って言った。
「ちょっと、いつまで休憩してるの」ふいに声をかけられる。声の主は、ナギの上司だった。「夕方のミーティングの資料、私確認してないんだけど」と、女上司がナギに言う。「すみません、すぐお送りします」とナギは頭を下げると足早に自分のデスクへ戻った。
そういえば、うちの会社は来年から新卒採用を始めるらしい。ナギが新卒採用チームのリーダー候補に上がっているとか。最近睡眠時間も少ないとナギは言っていた。ナギもきっとストレスフルに違いないんだろうな。眠りが浅いなら、今度おすすめの入浴剤あげようかな、と、ナギの背中を見つめながら、ヒカルは思いを馳せた。
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タシロは五階で、アイスコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。
テレビでは、ホットケーキミックスで作るふわふわパンケーキのレシピを紹介している。
いざ完成間近で、画面はニュースに切り替わった。
スマートフォンを操作しながら、部屋に入ってきたオカダがテレビのチャンネルを変えたのだ。ニュースキャスターは冷静なトーンで伝えた。
「都内に勤務するイガラシ ヒロミツさんが今朝、遺体で発見されました。事件と事故の両方で警察が調べを進めています…」
「オカダさん、これって…」とタシロが言った。偏差値の高くないタシロでもなんとなく想像がついた。
「そうですね、また手首のない遺体が見つかったと、別筋から連絡がありました」
その晩、レン・ライ・タシロ・オカダは再び夜のニュースを見ていた。トモヤはジムは向かっていたため不在だ。目新しい情報はなかったが、ライは、じっと何かを考えていた。
「被害者は、門前仲町に一人暮らし・中小の広告代理店勤務・31歳・都内大学卒業。ざっと検索する限り属性はこんなんだね。別にめぼしい情報はないけど」と、ライ。
「ねぇ、タシロ、1個お願いしてもいいかなぁ。なんとなく、警察が調べてない事がある気がしてるんだよね」
ライの手元には、被害者の写真と、トモヤが撮った被害者宅の写真があった。ライは、生まれつきのこぼれんばかりの大きな黒い瞳でじぃっと写真を見ていた。
■■■
ナギとヒカルは、お気に入りのパスタ屋でランチを食べていた。ナギはトマトクリームソースのパスタ、ヒカルは大根おろしのかかった和風パスタだ。
いつもなら、カルボナーラにするが、なんとなくヘルシーそうな和風パスタにした。
「ヒカルは進展なしかぁ。でも、いいなぁ~私も新しい恋がしたぁい」
「ナギは彼氏いるでしょ。あ、すいませんコーヒーお願いします」と、ヒカルは店員に声をかけた。
「まぁねぇ。でもさ、もう別れようと思ってるんだぁ。あ、ヒカル。ね、休憩終わるまで一戦だけお願いしますよぉ」とナギは携帯を取り出した。ハマっているゲームに付き合っての意味だ。しょうがないなぁとヒカルも携帯を取り出した。ナギは、見た目はきれい目OLだが、実はゲームが好きだ。ヒカルはしないが、ナギは課金することもあるらしい。可愛らしい見た目とのギャップがまた、男性陣がナギを気にいる理由だと、ヒカルは理解していた。
「別れるってなんでなの?」とヒカルがスマートフォンの画面を見ながら尋ねる。「彼氏と遊んでてもさ、楽しくないんだよね。びっくりするくらいゲーム上達しないの。一生懸命教えてるのにさ。それに、なんか年収もイマイチだしぃ?優雅な奥さんにはなれなさそうなんだよねぇ」
「ナギってば…。私結局、ナギの彼氏に1回も会えてないなぁ。あっ、私死んじゃったぁ、ごめんナギ~」とヒカルは謝った。プレイしていたのは、二人でパーティーを組んで、ほかのチームと武器を使って戦うゲームだ。
いつもヒカルが最初にやられてしまい、大抵最下位で終わる。「あはは、ヒカルってば、弱い~」とナギは笑った。
その日、ヒカルがオフィスを出たのは21時だった。最近は残業管理がうるさく、オフィスにはほとんど人がいなかった。帰り道、蕎麦屋で軽く夕飯を食べ、駅から商店街に向かって歩く。時刻は22時。バスはもう終わっていた。いつもなら、この時間でも商店街には帰宅の人影があるが、雨のせいか今日は人が少ない。
商店街を50メートルほど歩き、ヒカルは嫌な予感を感じていた。またあの猫背の男がいる気がする。商店街を抜けて、角を曲がって少し歩けばヒカルのマンションだが、角を曲がった先は暗い道だ。家を知られるのも気持ちが悪い。
かといって寄り道できるような店も開いていない。どうしようと、ヒカルは思ったがどうしようもない。ヒカルは早足で角を曲がったが、曲がったところで男がヒカルの背後から覆いかぶさった。ヒカルの手から傘が落ちる。何が起こったかヒカルは一瞬理解できなかったが、男の手がヒカルの口を塞ぎ、もう一方の手で体をまさぐろうとした。
いやだ、気持ちが悪い。ヒカルは思った。
「はいはい、そこまで」トモヤの声がした。
トモヤはあっという間に、男をヒカルから引き剥がすと、「とりあえず」といって男の顔にパンチを一発くらわせた。男はアスファルトの地面に倒れ込む。雨が男に容赦なく降り注ぐ。
「えぇと、ヒカルさんもやります?」と、トモヤが尋ねる。手をぐーにしている。殴るか?ということのようだ。既に男の鼻からは鼻血が流れている。倒れた際に頭も怪我をしたのか、地面にも血がついていた。
「あ、いえ、だ、大丈夫です‥‥」とヒカルは答えた。
「そうですか。まぁ、触るのも気持ち悪いでしょうね。レン、いいよ、持っていって。あ、ヒカルさん、こいつはうちの事務所のスタッフに任せちゃっていいですかね」とトモヤはさらに尋ねる。ヒカルは首を縦に振った。「まぁもう悪さはしないようにしときますんで」と言ったのはレンという青年だろうか。派手な柄シャツを着ている。青年は、どこからか現れ、男をひょいと担ぐと、じゃあなと、トモヤに声をかけ、去っていった。
「大丈夫ですか」とトモヤがヒカルに向き直り尋ねる。気づけばヒカルの目には涙が浮かんでいた。「こ、怖かった‥‥」足がガクガクと震える。トモヤはヒカルを支えると、「部屋まで送ります。あ、あとすいません、汗臭いですよね」と言った。
「ジムの帰りにヒカルさんをたまたま見かけたんですよ。なので雨臭いとか、汗臭いのは許してください」と、トモヤは説明した。汗臭いことの説明か、ヒカルを助けてくれたことの説明かヒカルはどっちでも取れると思った。「とにかく、無事でよかった。戸締りしっかりしてくださいね。じゃ」と言ってトモヤも去っていった。
正確には、トモヤが確認したのは猫背の男の方だった。夜に居残りでスパーリングをしていると、ガラスの向こうに猫背の男が見えた。そして、その先にはヒカルがいたのだ。
ヒカルはしばらく、自室の絨毯の上に座ったまま、放心していた。トモヤさんがいなければどうなっていたのだろうと想像し、嘔吐感が込み上がってくるのを感じた。当面はもっと早く帰るようにしよう。あと、トモヤさんにタオルか傘くらい貸せばよかった。動転してお礼もロクにいえなかった。なんてどんくさいんだろう、自分は。
■■■
レンは回収した男を住処の三階に運んだ。三階奥には誰も使用していない部屋がある。中には誰のものかわからない衣類や使用されていない家具があり、壁面は落書きやすすで汚れている。そして、部屋の奥にはバスタブが鎮座している。人を解体するにはここが持ってこいだ。
「おい、オッサン。なんであの子を狙った?」とレンがバスタブに足をかけて尋ねる。片手には愛用のナタを持っている。「ぼ‥ぼくは‥」と、猫背の男は小さく呟く。「ぼくは‥‥きれいな手首の女性が好きで‥‥それで‥‥たまたま彼女を見て‥‥」
「手首フェチか。俺と一緒じゃねぇか。だが、オッサン、物事には順序があるだろ?いきなりはダメだと俺は思う。ちゃんと手順を踏んで、女性にいい思いをして頂いて、満足していただいてだな、その後で初めてリターンを求めていいと思うんだよ、俺は。レディファーストってやつ。わかるかぁ?」と、レンは男の腹を踏んづけて言った。「ガハッ、ゴホッ‥‥はい‥‥」
「で、お前は噂の連続殺人犯なのかどうか、それを俺は知る必要がある」と、レンは足をどけて続けた。
「ぼ、僕が、殺人ってなんですか‥‥僕はそんなこと‥‥」
「お前は、手首なら男のでも、中坊のでもいいのか?」とレンは聞く。
「なんの話ですか‥僕は女性が‥‥うわぁぁぁ」男の言葉を最後まで聞くことなく、レンはナタを男に向かって振り下ろす。
「‥‥まぁ、そうだよなぁ」と、男の額でナタを寸止めした。「性的な欲求解消なら、もうちょっと被害者に偏りがあるよね。この男は違うんだろうね」と、トモヤがレンの背後から言った。
「だろうな。こいつはただの変態であって殺人犯ではねーな。おい、トモヤお前汗くせぇぞ」
「しょうがないじゃん。シャワーはこのあと浴びるよ。ねぇ、三丁目のアパートにご両親とお住まいのおじさん、次会った時は、間違いなく殺る。わざわざバスタブまで連れてもこない。面倒だから。両手足縛って適当に海にでも放り投げるから。その性的欲求は、今後一人で処理してもらえる?」と、トモヤは男の目を真っ直ぐ見て言った。「わかったら、出てって。3秒以内に。いーち‥にー‥」男は足をもつれさせながら、バスタブから這い出ると、ビルから出ていった。
「まぁ、野郎を解体しても‥‥な」と、レンはやや名残惜しそうに自室へ戻っていった。
階下ではガチャガチャと音がした。
タシロが帰宅したのだろう。よいしょと荷物を抱えて、二階にあがる足音がする。続いて、コンコンとノックする音。
「ライさーん、依頼されたの、持ってきました。結構重いんすね。よろしくお願いします」とタシロが言った。
「濡れなかった?よかった。ありがとう、何かわかればいうね」とライが返事をした。
翌朝、四階ダイニングで、ライはふぁぁと、あくびをした。
今日の朝食は、タシロは焼きおにぎりと味噌汁に小鉢、レンは、フライドチキン、トモヤはブルーベリー味のプロテインだった。ライはチョコレート味のシリアルだ。
「ねぇ、レン。一個お願いがあるんだぁ」と、ライが言う。「なんだよ、改まって。言ってみろよ」とレンがチキンにかぶりつく。「口説いてほしい人がいるんだよね」
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ナギとヒカルは、花金の日に二人で焼き肉を食べていた。今夜も相変わらず雨だ。そういえば、今日は、月末の金曜日。プレミアムフライデーだが、その単語を覚えている人はどれだけいるのだろう?まぁどうでもいい。
二人は、A5ランクのお肉をリーズナブルに頂ける店にて、乾杯をした。
ナギはトングを持ちながら、彼氏と別れた話をしていた。
「やっぱり面倒だけど、彼氏の家に物を置くの減らしてて正解。荷物のやりとりで何度も連絡するのいやだもんねぇ」とハラミを焼きながらナギはいう。
「そうだね~」とヒカルは上カルビをひっくり返す。匂いだけでビールのお代わりができてしまいそうだ。最近は節制していたのに、久々の焼き肉はやはり美味しい。
「ねぇ、今日、ヒカルの家泊まっていい?一応さ、私
、傷心だしぃ…?」とナギは瞳をうるうるさせて言った。
「またまたぁ。よっく言うよ〜。自分からふっておいて。でもいいよ。じゃあさ、うちでゲームの特訓でもする?」とヒカルは言った。
「やったー!ありがと。特訓だったら、ヒカルを寝かせないよ。今夜は寝かせないぜ…的な?」
「やだぁ、完徹は無理だよ。もう若くないもん~。あ、すいません、ビールお代わりお願いします。あと、ホルモン盛り合わせもお願いします。」とヒカルは店員に声をかけた。
先日、嫌な目にあったばかりのヒカルにとっても、ナギの提案はありがたかった。
変質者の一件は、ナギには話していない。余計な心配をかけたくないのと、なんとなく口にするのが嫌だからだ。口にすると事実と認めざるを得ない。早く忘れてしまいたい。別に今日話さなくてもいい。そう思ってヒカルは黙っていた。
「久々の焼き肉美味しかったねぇ~」ナギはご機嫌で言った。
「でも、すごい油とにんにくの匂いがする。帰ったらとりあえずシャワーしなくちゃね」とヒカル。
宣言どおり、ヒカルとナギは交代で風呂に入った。ヒカルはコンビニで買ったチューハイやおつまみをテーブルに広げる。
「あ、ヒカル、ありがとう~。ね、ヒカルの家のドライヤーめっちゃいいね。髪がつやつやだよ」
「マイナスイオン出るやつだからね~。でも、ナギの髪の毛はいつもさらさらじゃん。マイナスイオンなくても全然大丈夫。あ、ナギ、ゲームどっちでやる?スマホ?それともこっち?」とヒカルは持ち運びができるサイズのゲーム端末を手に持った。
「へへ、今日はこっちでやろ~、私も持ってきた」と、ナギもバッグからゲーム端末を取り出した。
結局、夜中の三時まで二人はゲームを楽しんだ。遅い時間にも関わらず、対戦相手のマッチングは一瞬で終わる。一体どれだけの人がオンラインに集っているのだろうと、ヒカルは思った。
翌朝、先に目を覚ましたのはナギだった。窓からは明るい日差しが差し込んでいる。今日は雨は降らないらしい。久々の晴れ間のような気がする。ナギは、「うーん」と伸びをし、ヒカルの方を見た。
ヒカルは昨晩、ナギにベッドを譲った。おしかけたのは自分なのだから、ソファで寝るのは自分なのに。ほんとにヒカルはお人好しだ。
昨晩は楽しかった。たくさん喋って笑ったら、モヤモヤした気持ちが少しスッキリした。
「ヒカル。いつもありがとう」とナギは小さい声でつぶやくと、ささっと身の回りの支度をし、静かにヒカルの部屋を後にした。鍵はしめて、玄関ドアについているポストから室内に放り込んでおいた。
「これでオッケー」ナギには次の予定があった。まずは帰って着替えなくっちゃ。足早に駅へ向かった。
■■■
ピンポンと、インターフォンが鳴る。
「はいはい」とレンが鍵を開けた。
「こんにちは。レンです」と挨拶をした。
「こんにちはぁ、ナギです」と、ナギはとびきりの笑顔で挨拶をした。ブルーのワンピースに白いカーディガンを羽織っている。
「どうぞ、座ってください。いやーナギさんがこんな素敵な女性だったとは。俺は幸せ者です。何か飲みます?」「レンさんこそ、こんな素敵なおうちに住んでるなんて。あ、私、タンブラー持ち歩いているんです。すみません、なので結構です」とナギはピンク色のタンブラーをバッグから取り出した。
「そうですか、じゃあ早速遊びます?」とレンが液晶テレビの下に置かれているゲーム端末の電源を入れる。ウォンという音が端末からした。二人はキャラクターをそれぞれ選ぶと、対戦相手とのマッチングを待った。
「ナギさんは、このゲームやって長いんすか?」
「もう5年くらいかなぁ。随分メジャーになっちゃって、ユーザーも随分増えたみたいですねぇ」
ナギのワンピースからふくらはぎが見えて、レンはゴクリと生唾を飲み込んだ。青少年には目の毒だ。
「俺も新参者なんで、ははは。でも、ゲームのおかげでこんな美人に会えるなんて幸せだな」
レンの口はよく動くが、ゲームの戦績はさっぱりである。何度も対戦を挑むが、一勝したのみで、他はあっという間に殺されてゲームが終わってしまい、気づけば1時間が経っていた。
「いやぁ、ナギさんすごいですね。俺、全然っす。すみません、足引っ張って‥‥」
「そうなの、ほんとにさぁ、下手なやつって私イライラしちゃう」
「えっ‥‥ナギさん、すいません‥‥」と、レンがナギの方を見る。
「すいませんじゃないの。しつこく会おう会おうっていうからどんなもんかと思えばさ。なんなのお前。口ばっかり動かしやがって。手と頭を動かせよぉ!」
ナギは、近くに置いていたオブジェを取り、レンの頭に振り下ろした。鈍い音と共にレンの頭から血が流れ、レンは絨毯に倒れた。沈黙が訪れる。
「気持ち悪い目でみやがって。ヘタクソがいきってんじゃねぇよ!」と、ナギは死体を何度も足で蹴り、怒鳴った。
はぁはぁと上がった息を整えると、トートバッグから、ナタを取り出し、カバーを外した。ナギは躊躇することなく、レンの手首に向かってナタを振り下ろした。まずは右手からだ。
「うすぎたねぇ手、しやがって」
だが、レンの手首が切り落とされることはなかった。
「えへ。俺も、このナタの愛用者。この刻印、金沢の職人さんのなんだよね。手に入れるのに俺は二年待ったよ。趣味合うね、ナギさん。口が悪いところも嫌いじゃねぇな。俺らお似合いじゃね?」と、目をぱっちりと開けたレンが言った。レンの手首はナギの手首を握っている。
レンはナギを引き寄せると、レンはナギを押し倒す格好となった。二人の顔の隙間は3センチほどだ、
「ナギさんの手首は白くて細くて、スパッと切れちゃいそうだな。俺の手首やらしてあげるから、俺もやってみていい?ナギさん、先行でいいぜ」
と、レンが目をキラキラさせて言った。
「ちょっと、レン、見てらんないから、変態発言はそこまでにしてくれる?」と、トモヤとライが奥の部屋から出てきた。
「こんにちは、美人の連続殺人犯さん」ライが挨拶をした。
「なに‥‥なんで‥‥なんなの」と、ナギは顔をしかめた。レンはナギの上から降り、その場にあぐらをかいて座った。
「こいつの頭は石頭だから、鈍器くらいじゃ死なないんですよ。すいません」と、トモヤ。
「僕ら、とある事件の調査をしてます。被害者は三人。いや、被害者は四人か」ライが話し始めた。
「で、被害者のパソコンも、スマートフォンも警察が調べたけど、容疑者になりそうな人物な痕跡が、何も見つからなかったんだって。でも、僕おかしいなって思ってたんだ。家にある通信機器って、それだけじゃないよねぇ。
もしかしたら警察も調べたのかもしれないけど…おじさん達じゃあ、見つけられなかったのかなぁ。持ち運びができるゲーム端末にせよ、据え置き型の端末にせよ、今はボイスチャットしながらゲームするよねぇ。立派な通信機器だよ。
亡くなった3人のゲーム端末、回収して、見せてもらったよ。一人目の被害者の男性は、持ち運びができるこのゲーム端末。
二人目の女性は、それのライト版の端末だね。で、最後の中学生は据え置き型の方ね。中学生の子のはさ、弟が使ってたから、ごめんねっていって、新しいのあげたんだ。たぶん、証拠品として警察に引き渡さないといけないから。あ、もしかして、弟が遊んでたから警察ももっていけなかったのかなあ。
ま、とにかく3台の端末をあらためさせてもらったよ。いろんなゲームがダウンロードされていたから、結構調べるの大変だった。とりあえず地道に調べたらさ、一つのIDがどの端末にも友達登録されてたよ。メッセージ機能の方は、当たり障りのないやり取りだったから、きっとボイチャメインだったんだろうね。
まあ、それだけだと流石に証拠にはならないから。こうやって、呼び出させてもらったんだ」ライが説明する。
「まぁ、トモヤがナギさんの相手してもよかったんだけどよ。最近ボクシングやら別件で忙しそうだったから、俺ががんばったわけよ!二週間かけて、ナギさんを俺のスイートボイスで口説かしてもらったわけだけど、口説く価値は十分あったな!」えっへんとレンは胸を張った。
「ほんとうざい。そういうやつ。ボイチャで口説いてくるやつと、下手なのにやたらと指示してくるやつが、私、いっちばん嫌い。最近はうざいやつばっかり。ヘッドホンから臭い息が匂うんだよ。お陰でちっとも楽しくないの!ほんとムカつく!」
「レンにはわざと、うざがらみしてもらったんだけど。それにしてもさぁ」とライが言う。
「一人目の奴は、あまりにも必死で口説いてくるから、住所教えろって言ったの。そしたら、まあ、あっさり教えたよね。はぁはぁ息荒くして気持ち悪いったらありゃしない。付き纏われてうざかったから、静かになってスッキリしたわ。
二人目は、そうそう、あの偉そうな女ね。せっかくブタが死んで、気兼ねなくやれると思ったのに、いちいち私のID見つけて絡んでくんの。実際に会ったら地味でさぁ。ゲームの中だけ必死でいきがってんじゃねぇよって感じ。三人目は何だっけ?なんか、うざいガキだったっけ?もう、とにかくさ、私の楽しみを邪魔するやつが、とにかくうざいの!」
ふいにナギは、トモヤの姿をじいっと眺めた。そういえばさっき、この青年はトモヤと呼ばれていた。
「ねぇ、あなた、トモヤっていうの?金髪のトモヤって…まさかヒカルの…?」とナギが言う。
「ヒカルって…」とトモヤが言う。
「オグラヒカル、よ。ボクシングジムで出会ったんでしょう?」
「…なんで。なんなのお前。ヒカルさんには手を出してないよね?」とトモヤが尋ねる。眉間には深いシワが寄っている。
「んー…どうだろう。ヒカルもゲームへったくそなんだよねぇ。ヒカルとやると、100パーセント負けるの。ほんとムカついちゃう。要領が悪くてお人好し。昨日も、ヒカルの家でゲームをしたんだけどムカついちゃってムカついちゃって…あはは!」
とナギは笑った。
ガチャンと、ドアの閉まる音がした。トモヤはナギの言葉を最後まで聞くことなく、駆け出していた。まさか二人が知り合いだったなんて。
ここから、ヒカルの家までは3km ほどか。電車でもいいが、ヒカルの家は駅からは近くはない。走ってもそう変わらないだろう。トモヤは駆け出した。
ヒカルのマンションのインターフォンを鳴らすが返事はない。ヒカルの部屋は鍵がかかっていた。
「勘弁してくれよ…」とトモヤはヒカルの家のドアをピッキングで開錠した。
「ヒカルさん、ヒカルさん!」ヒカルはベッドに横たわっている。
「…あれ?えっトモヤさん?えっなんで?あれ、ナギは?」寝ぼけたヒカルは何がなんだかわからない様子だ。
「よかった…」とトモヤは安堵のため息をつき、ヒカルをふわりと抱きしめた。「よかった…やっちまったかと思った…とにかく無事でよかった…」
「あ、あの、トモヤさん?そういえばジムの時間!ていうか、あの、家の鍵って…」ヒカルは突然のことに固まってしまった。トモヤの香水の香りがする。トモヤさんは香水をつけるのか、普段は汗の匂いがしていたから気づかなかったとヒカルは思った。
「ふふっ…ね、ヒカルさん昨日、にんにく食べたでしょう?」とトモヤは笑っていった。
「ええええ!もうやだ!ほんとやだ!あっち行ってください!」とヒカルは叫んだ。
ちょっといじわるだったかな。とっさにいい嘘が思い浮かばなかった。鍵を勝手に開けたこと、うまくごまかせただろうか。とトモヤは思った。
最悪の場合、素直にピッキングしたと言おう。探偵事務所に所属しているからできるんだと、言ってしまえばいい。
レンとタシロは、オカダに連絡すると、やってきた警察にナギを引き渡した。
「トモヤさんと、ヒカルがくっついたらさ、私のおかげじゃないかな」と、ナギは去り際に呟いた。
「なぁタシロ、俺、えらくね?ちゃんと生きて警察に引き渡したんだぜ」
「レンさんは、今回もファインプレーの連続でしたよ。さすがっす」とタシロはサムズアップポーズをきめた。
「あ、いけねぇ。業者に怒られます」と、タシロはオブジェについた血を拭いた。ここは、ハウススタジオである。住処にナギを呼ぶのはイマイチだろうと思われ、ハウススタジオをレンの自宅として案内したのであった。
捜査官と共に車の後部座席に座りながら、ナギはぼんやりとヒカルと過ごした時間のことを考えていた。
下らないおしゃべり、愚痴‥‥楽しかったぁ。ヒカルと会えなくなるのは、つらい。
実はヒカルには話してないこともたくさんある。ロングヘアに隠していたけど円形脱毛症になって、ポッカリと毛が抜け落ちている部分があること。
ヒロくんと話し合いがうまくいかなくて、赤ちゃんをおろしたこと。妊娠を告げた時のヒロくんの第一声は、「そんなに仕事辞めたかったの?」だった。
上司から、悪い評価をもらったこと。両親とは何年も連絡を絶っていること。
帰宅したら何よりもまず最初にゲーム端末のスイッチを入れることを、やめられなかったこと。
自分の手のひらからウジ虫が湧く夢のせいで寝不足だったこと。
結局、自分の中のストレスがマグマになって噴火して、ストレスを発散しているはずが、かえって増幅させてしまっていたんだろう。
「どうすればよかったのかな‥‥」ポツリとナギは呟いた。まぁいい、これから考える時間はたっぷりあるだろう。でも、ちょっと怖いな。きっとこれからの数年間、いや数十年なのかもしれない。自分の中にあるドロドロした部分に向き合わないといけないのだから。
■■■
翌週も、ヒカルはボクシングジムに向かったが、「えぇ…またぁ…?」と声をあげた。入り口にはトモヤがしゃがんでスマートフォンを操作している。
「あのぉ、いい加減クレーム言ったほうがいいんじゃないですか?」とヒカルは言った。いくらなんでもルーズだ。
「あはは…そうだねぇ。ね、ヒカルさん、こっち来て」と、トモヤはヒカルの手をとった。
50メートルほど商店街の脇の道を歩くと、トモヤはある建物の数メール手前で立ち止まった。
「ほら、あれ」とトモヤが指差す先には、ヤノがいた。ヤノと小さな女の子だ。女の子はぐずぐずとヤノにしがみついて泣いている。
脇には、エプロンをつけて困り顔をしている女の人がいる。
「あの子、ヤノさんのお子さんなんだ。土曜保育は人数が少ないからって、いつも保育園に預ける時に泣いちゃって離れてくれないんだって。でも、ジムで子守するわけにいかないでしょう?万が一お嬢さんが怪我したら大変だからね」とトモヤは説明した。
「あれみたら、なんか別にいいかなって僕思っちゃった」
「なるほど…だから、毎回服がぐちゃぐちゃだったんだぁ。確かにあれは仕方ないですね」
あははとトモヤとヒカルは笑った。
ナギの名前は、マスコミには公表されなかった。とある会社に引き抜かれたらしいということにしてある。
円満退社ではなかったため、ヒカルへの連絡は控えているということにしておいた。
きっとヒカルが真実を知る日はそう遠くもないだろう。もう少ししたら伝えようとトモヤは思っている。
そして一緒に会いにいってもいいのかもしれない。
その晩、タシロは、日本酒を頂いていた。御仁から、事件解決の礼にと龍泉という日本酒が届けられたとのことであった。
ふろふき大根をつまみに、猪口をすすった。ゆずの香りと芳醇な酒の匂いがタシロをいい気持ちにさせた。
「事件解決したの、僕だと思うんだけどぉ」とライは、紅茶のムースを食べながら文句を言った。
「俺だって、貢献したぞ。俺様のゴッドマウスがゆえに解決できた事件だろうが。まぁ暴れられなかったのはストレスだけどな」とレン。テリヤキチキンバーガーを食べている。
「でもさ、案外彼女、すぐ釈放されるかもって、僕思うんだよね」ライが牛乳を皿に足しながら言う。
「だって、被害者と容疑者のつながりを示すダイレクトな証拠はないよね。オンラインゲームのIDだけじゃ弱すぎるでしょ。凶器はたぶん処分してるだろうし。あのナタだって、値ははるけど、買えるものでしょ」
「確かになぁ。まぁ、俺らはそこまではしらねぇわなぁ。そこらへんは公務員さんが頑張るだろーよ」と、レン。
「御仁からは、また頼むと電話がありました」とオカダ。
「つ、次は電話とかメールにしてほしいっすよ」とタシロがこたえる。
「俺、ライさんに頼まれて、被害者の家にゲーム機取りに行った時に、聞いたんすよ。そしたら、オンラインゲーム中に随分言葉遣いが悪いのが気になってたって、男性と中学生のお袋さんが行ってました。オンラインゲームってそんなに熱くなるんすかねぇ」とタシロが続けた。
「まぁ、よく考えたらよく知らない相手と突然チーム組んで戦えって、結構ハードルたかいよねぇ」と、トモヤ。「だってさ、リアルの知り合いとだって、チームワークよくやるの大変じゃない?」
「確かに‥‥オンラインだと、年齢も性別もバラバラですしね‥‥うまくいってるうちはいいんでしょうけど」
と、タシロは納得した。
「実は僕も、スマホゲームをたまに暇つぶしにやるんだけど、やっぱり、悪意のあるメッセージが届くことがあるんだよねぇ。当然無視するんだけどさ。レンに、暇つぶしでストレス溜めるなんて馬鹿だろって言われてさ。レンに正論言われるのって、辛いよねぇ」
「どう言う意味だよ、お前。失礼すぎんだろ。あ、トモヤお前、行儀悪いぞ。スマホしまえ」とレンが言う。
「ごめんごめん。デートのお誘いがきたものだから」トモヤは、スマートフォンをしまって、サラダを一口食べた。
「そういえばよ、あのナギってやつがよ…」とレンが何かを言いかけたが、「あーー!オカダさん、すいません、酒のお代わりおねしゃす!」とタシロが遮った。
もう少し、二人の行方をタシロは楽しみたいと思ったからだ。
梅雨はもうすぐ明けるだろう。夏がすぐにやってくる。
次の依頼はみんなが暴れられる依頼を選ぼうと、タシロは思った。