第29話 明日の日記
仁州のとある県領主は、寝る前に自室の枕元にあるうす緑色の表紙の本に目を通すのを常としていた。本は印刷物ではなく手書きであり、表紙には薄れかけた黒い字で「明日の日記」と書かれている。
中には手書きで、過去の公式・私的なできごとと、一日ぶんの明日のできごとが書かれている。
日記は手書きで、領主の筆跡のものだけれども、領主は書いた覚えのないものだった。そして明日の日記には領主の筆跡で、明日起きるような、正確には確実に明日起きる事項が書かれてあった。
当日の天気にはじまり、領地の運営などをめぐる会議、領主をふくむ個人同士の揉めごと、周辺自治体の動向、3食の献立など、記述はさまざまで、領主は翌日、ほぼ日記に書かれているとおりの行動を取った。
いわば不正行為とはいえ、それらの行動が先に至るまでは読めるわけではないので、領主は慎重だった。たとえば明日、ある職員を強く叱責すると、何日か後に自分で成仏を選ぶかもしれない。近隣との友好関係は、相手の領主の交代でまた違う対応を取らなければならなくなるかもしれない。
明日の日記は、いつから存在したのかははっきりしない。領主としての官邱に引っ越したときにはすでにあったので、代々の領主が使っていたに違いない。留守が日記を見つけたときには、先代の領主の字によって3分の2ほどが埋められ、最後の2頁だけが現領主の筆跡になっていた。そして領主の字が増えるにつれて、先代の字は減っていった。つまり常に3分の1ほどは空白だった。
日記はさほど厚いものではないので、気がつくと記述はすべて領主のものになっており、領主になりたてのころの記録は消えていた。
公的な記録は公文書として、私的な記録は私的に秘録として残してあるから、特に問題は生じなかった。
夜の長いある日、領主はかつての公文書とは異なる、異様な記述を見つけた。
「領主は大蛇に飲み込まれる」
未だかつて、この日記に書かれていて起きなかった出来事はない(書かれてなくておきた、些細な出来事はある)ので、領主は戦慄し、自覚的な覚悟をせざるを得なかった。
翌日、専門医の治癒と何度もの入浴・消毒にもかかわらず、軽くぬるぬるした皮膚と、抜けきっていない大蛇の体液の生臭いにおいを感じながら、領主は夜、官邸の寝室でおそるおそる日記を読んだ。
当日、領主は家を出て公用車に乗ろうとしたところを、大蛇に頭から飲まれたのだった。
職員と警備員、それに救護班の必死の救出作業により、領主は大蛇の腹で消化されずにすんだ。しかし大蛇の消化液は強力だった。医師と従者は抜けた髪が生えそろうまで帽子のようなものをかぶり、下に軟膏と湿布を貼っておくよう推奨した。
おそるおそる読んだ日記には次のような記述があった。
「領主は床に倒れ、頭から血を流す」
なんなんだこれは、と領主は、朝食に秋刀魚を出されたような悲しみと怒りと期待に近い楽しみを感じた。
翌日、領主は自治体病院の特別病室で、頭に包帯と湿布、それに布製の帽子をつけた状態で夕方に目を覚ました。
朝方、官邸を出るときに階段で足を滑らせ、後頭部を打ったのだった。軽く触って見ると血が流れているのがわかったため、心配している従者に対して領主は、一度部屋に戻るから、しばらくたって様子を見にきてくれ、と言い残し、自室の床に倒れた。
日記には「階段に」ではなく「床に」と書いてあるとおりにしなければならないのだった。
病室で領主は考えた。
きょうの件もきのうの件も、成仏するとは書いてないんだな。
つまり、成仏してしまったら「○○という事件(ひどい目)に会った」とは書けない。ヘビに飲まれても血を流しても。
領主は従者に、自室に置いてあった日記を取り寄せるよう命じ、従者は指定のものを、中身を確認することもなく領主に渡した。
明日の日記には、病室内でも勤勉に執務をこなした記録があり、何日か経過観察は必要だったとしても仕事に支障はないようだった。
領主は病室に執務用の小さい机と椅子、それに筆記具を用意させ、明日は作業をするのでいつも通りに働く、と伝えた。
職員が帰って夕食までの間に、領主はすこし考えて、「明日の日記」の最後の行に、こう記した。
「領主は明日の領主と会う」
ひと仕事終えて、病院の健康によさそうな、雀の餌のような食事を終えたあと、ひと眠りして目覚めた領主は、自分の病室の仕事用椅子のうえに、不吉ながらも親しみのある人影を見つけた。
誰、と領主が聞くと、日記に書かれてたろ、明日のおれだよ、とその影は答えた。
「今まで長い間ありがとう、と、おれはおれにいうべきだろ」と明日の領主は言った。
「お前は今日から「明日のおれ」になって、おれは「明後日のおれ」になる。わかるかな。つまり「明日の日記」を書くのは、お前の仕事になる。それを読んで行動を決めるのは「きのうのおれ」ということになるな。
ええぇー、なんか面倒くさそう、と領主は答えた。
「念のために言っておくけど「領主は成仏した」とだけは絶対書かないように。それから、おれが使ってた雑記用紙を渡すよ、文具販売の店に頼めばいくらでも手に入るから」と、明後日の領主は言って、てのひらに隠れるほどの、すこし厚めの紙をくれた。
そして明後日の領主は言った。
「明日のことがわからないって、やっぱ最高」




