お姫さまの窓
むかしむかしあるところに、まあるいお城がありました。
お城にはたいそうかわいらしい、それでいてたいそうわがままなお姫さまがいました。
どのようにわがままかというと、お姫さまのおじいさん、つまり前の王さまが建てた四角や三角を組み合わせた形のお城をまあるく造りかえるようにお父さんに、つまり王さまにせがんで、王さまがうんと言うまでお世話をしてくれる召し使いを何人もムチで叩き続けたのです。王さまが仕方なくお姫さまのわがままを聞くころには、お城じゅうの召し使いの半分、およそ100万人が死んでいました。
まあるいお城は、まあるい中庭を取り囲むように造られました。
中庭のまんなかには、悪いことをした人が閉じ込められている塔があります。悪いこととは例えば、お姫さまのおやつのケーキの盛り付けが汚かったり、お姫さまの髪をクシでとかす時の力加減が痛いほど強かったりといったことです。
悪いことをした人は悪い人と呼ばれ、塔の中で穴を掘って土を袋に詰めて、その土で穴を埋めるという大事な仕事をしていました。
しかし、悪い人は仕事がいやで、家に帰してほしい、許してほしいと毎日泣いていました。
そこでお姫さまは塔の窓からお城の窓に向かって一本のロープを張らせ、ロープを渡り切ったら悪いことをした罪を許してあげるとおふれを出しました。
たくさんの悪い人が、お姫さまの背丈の何倍も高いところに張られたロープを渡ろうとしては、ある人は突然の風に揺られ、ある人はお姫さまがいたずらで投げた鞠に当たって、ぽろぽろと落ちては頭がぐしゃっとつぶれたり首や手足が変な方向に曲がったりして死んでしまいました。
こわごわふるえながら歩く人がいました。勢いをつけて一気に走り抜けようとする人がいました。ロープを渡り切った人は一人もいませんでした。
お姫さまは面白くなって、中庭にヘビやムカデを100万匹ほど放ちました。落ちてまだ息がある悪い人も、お腹をすかせたヘビにのみこまれたらひとたまりもありません、
ぽっこりふくらんだヘビのお腹を見て、お姫さまは手を叩いてよろこびました。
文句を言ったら悪い人として塔に送られる上、その塔に行くにもロープを渡らなければいけなくなったので、お城にいる誰もお姫さまに逆らいませんでした。
お姫さまは毎日、ロープを渡ろうとして落ちていく悪い人をお城のがわの窓から眺めていました。
あっ落ちる、と思った瞬間の悪い人の顔を正面から見つめるのが大好きでした。この後すぐに死んでしまう人の絶望、後悔、憎しみ、悲しみに満ちた顔を見ているだけで元気が出てくるのでした。
ある日、いつもと同じように塔からお城に向かってロープを渡ろうとしている悪い人がいることに気付いたお姫さまは、うっとりと笑みを浮かべました。
塔の向こうでは、黒髪の悪い人がゆっくりとその片足をロープにかけ始めました。両足を乗せると、その悪い人はお姫さまの方を見ました。
お姫さまは珍しく思いました。これまでの挑戦者は、足元のロープや、さらにその下のヘビたちに釘付けになっていたからです。その時点で緊張のあまり足を滑らせる人もたくさんいました。
でも、今正面にいる人はそうではありません。ロープに乗ったまま、お姫さまに向かってうやうやしくお辞儀をしました。
お姫さまはたいそう機嫌よくなりました。なんと礼儀正しいのだろうと、そんな人の顔がみにくく苦痛で歪むところを見たいと強く思いました。
その悪い人は女の人だったので、柔らかそうな肉にヘビの牙が沈み込むさまを想像して、よりいっそう楽しくなりました。
女の人は裸足で一歩一歩確実にロープの上を進んで来ます。焦らずに、それでいてもたついてもいない歩みを見て、お姫さまは少し驚かせてやろうと思いました。
そこで、たくさんためた羽虫の群れが入った大きな袋の口を開け、召し使いにうちわで扇がせました。
羽虫がプウプウと不愉快な音を立てて女の人に向かって飛んでいきます。
女の人が手を振って踊るような動きをしていたので、お姫さまはよろこびました。そんなふうに虫を振り払って、バランスを崩して落ちてしまうだろうと思いました。
ですが不思議と女の人の顔の前には虫が一匹も飛んでいません。
お姫さまがロープの下をよくよく見ると、羽虫がぽろぽろとチリのように落ちていきます。
ロープを渡る人の顔から目をそらしてしまったのは初めてで、お姫さまはあわてました。もう一度女の人の顔を見ます。
すると、なんということでしょう。
お姫さまが100万匹ほど一生けんめいためた羽虫が、女の人の手のひらで一匹一匹ぷちぷちと握り潰されているのです。
驚くべき速さです。女の人の手の動きは夜空を星が流れるより速いのではないかとお姫さまは思いました。
女の人は塔とお城のちょうど真ん中あたりまで進んで来ました。
それではこれはどうかと、お姫さまは楽士団を呼んできました。
楽士団はそれぞれお腹の前に大きい太鼓を抱えています。
女の人が一歩進むごとに、その歩みに合わせて大きく太鼓を叩くようにお姫さまは命じました。ただし、少しだけ早すぎたり、少しだけ遅れたりしなさいと言いつけました。
大きな太鼓の音が女の人に聞こえないはずがありません。調子よく進んでいる女の人と言えど、歩く速度が太鼓の音で乱されて、足を踏み違えることでしょう。
どおん、どおん。太鼓の音が響きます。
その音が聞こえた女の人は、一旦歩みを止めました。
お姫さまは、やったあと思って満足げに笑みを浮かべました。
ですが、再び女の人が、動じる様子もなく歩き出したのを見て不思議に思いました。
女の人の顔をよく見ているお姫さまはすぐに気付きました。
歌っていると。
お姫さまの知らない歌を、高く澄んだ、それでいて力強い声で歌っていると。
その歌をかき消そうと、お姫さまは楽士たちに、もっと強く太鼓を叩くように命じました。ですが、それまでも精一杯の力で叩いていたので、いくつかの太鼓が破れてしまいました。
女の人は歌い続けます。
お姫さまの知らない言葉が、旋律がまあるいお城じゅうに響き渡ります。
するとなんということでしょう。
お城の下の階のあちこちから同じ歌が聞こえてくるのです。
王さまや兵士たちが慌ててやめさせようとしますが、100人、1000人と歌い始めます。
お姫さまはお勉強が苦手なのでよく知らないのですが、お姫さまのいるお城のある国は、たくさんの地域に攻め込んでいて、他の民族の人をつかまえて、家族を殺すぞとおどして言うことを聞かせてきたのです。この国で下働きをしているのはそういう人たちです。
女の人が歌っているのは、ある民族の人たちがご先祖さまの代から大切にしてきた歌でした。その民族の人数は1万人とも10万人とも言われています。お城の中にいる人数がどれほどかはわかりませんが、とにかくすごくたくさんの人の歌声が、渦のようにお城の中を回り巡っているのです。
そして女の人の後ろ――塔からも、同じ歌が砲弾のように飛んできます。
もう太鼓どころか、他のどんな音も意味がありません。
女の人はお姫さまに向かってどんどん進んで来ます。
ロープの4分の1まで渡り切っています。
お姫さまはなんだか無性にくやしくなって、ロープを手で揺らします。
女の人は飛び跳ねながら踊り、指をぴんと伸ばして綺麗にロープの上で着地してみせます。
お姫さまは近くにあった物を手当たり次第に投げてみます。鞠を、櫛を、水差しを、筆を、宝石を投げます。
女の人は避けようとすらしません。普通に歩いているだけで、お姫さまの投げる何にも当たることはありません。水のようにしなやかに、それでいて力強く、お姫さまのいる窓に近づいてきます。
絶望が見えません。
後悔が見えません。
憎しみが、悲しみが、諦めが、失望が、恐怖が、何一つ見えません。
それでいてまっすぐに見つめられています。
黒く短い髪が風に靡いても、女の人の目は揺るぎなくお姫さまを見つめています。
なんだろう、これは。お姫さまは思いました。
お姫さまにはその黒い輝きがとても珍しく、尊く、美しいものに見えました。
たくさんの宝石で飾られた袖に包まれた両腕を、もうすぐロープを渡り切る、目の前にやってきた女の人に向かって伸ばしました。
女の人はお姫さまのその手をやさしく握り、自分の方に引き寄せます。
そして。
お姫さまをそのまま中庭に向かって振り落としてしまいました。
落ちていくお姫さまをよそに、女の人は窓枠の向こうで背を向けています。お姫さまを見ようともしません。
ですが、お姫さまはやっとわかりました。
自分を正面から見つめる、冷たく鋭い刃物のような顔。
あの感情の名前は、殺意。
お姫さまはたいそう満足しましたが、すぐに体中の痛みを覚えます。ムカデに刺されたところが痺れます。ヘビに巻き付かれたせいで背骨が折れる音がします。
お姫さまが初めて上げた悲鳴は、お城や塔からのものすごい歓声にかき消され、誰にもきかれることはありませんでした。
めでたし、めでたし。