冬という名の牢獄(上)
わたしは魔獣さんの背中に乗って、冬に呪われた白い世界を駆け抜けます。
……こう表現すると、まるで、わたしが行き先を指示しているみたいですが、実際は全てを魔獣さんに委ねていました。
魔獣さんの鬣をしっかりと掴んで、背中にしがみ付いて、その温もりを感じながら。
全ての景色を置き去りにして、外の世界を目指す魔獣さん。
その背中が、とても大きく感じられます。
魔獣さんの提案は驚くべきものでした。
ディオン司祭を助けに行く――それは本来、魔獣さんにとって何一つメリットのない話です。
たとえ人間の世界で何が起ころうと、この冬に閉ざされた秘境に住んでいる魔獣さんには関係がないのですから。
それなのに魔獣さんは、あの黒い騎士にその身を灼かれてなお、わたしのために戦ってくれると言うのです。
「魔獣さんはなぜ、わたしなんかのために、ここまでしてくださるのですか?」
そう尋ねると、魔獣さんは答えました。
「そうだな、強いて言えば……ソフィアには心の底から笑っていてほしいから、だろうか」
それは、予想もしていなかった理由でした。
わたしに笑っていてほしいから。
本当にそんな理由で、魔獣さんは命を賭けてくださるのでしょうか?
わたしは知っています。魔獣さんが限りなく不死に近い存在であることを。
そんな彼を唯一殺せるかもしれない、黒い騎士の呪われた炎。
わたしが思い出したのは、あの日の魔獣さんの痛々しい姿でした。
黒い炎に灼かれて炭化した、再生しない傷口。
――メアリス教国と事を構える。ということは必然的に、再びあの黒騎士と相見えることになるでしょう。
魔獣さんは、死を恐れていないのでしょうか?
たとえ永遠を捨てることになったとしても、魔獣さんにとっては、そこに命を賭ける価値があるのでしょうか?
魔獣さんの言葉を信じるならば――。
(全部、わたしのために……?)
そう思うと、なぜか頬が熱くなって、わたしは魔獣さんの背中をぎゅっと抱きしめました。
魔獣さんは他にも理由を語ってくれました。
ですが……それらも、わたしの作ったパイが美味しかったからだとか、わたしのブラッシングが心地よかったからだとか、全てが全て他愛のないものばかり。
どれも見返りを求めるなんてできないような、ありふれた小さな日常。
ああ、これは――自惚れてしまっても仕方がないと思います。
だって、それが本当なら……魔獣さんは、わたしと過ごしたひと月にも満たない時間に、永遠の命を賭けるほどの価値を見出してくれたということになるのですから。
わたしは自分がこれほどまで魔獣さんに大切に想われているなんて、考えたことすらありませんでした。
その想いにわたしは、どうやって報いればよろしいのでしょうか?
わたしのために戦ってくれる魔獣さん。その背中がとても頼もしく感じられて、同時に結局魔獣さんに頼る破目となった自分が情けなくなります。
思い返せばいつだって、魔獣さんは必要以上に優しくしてくださいました。
特に日が暮れてからは、わたしが淋しくないように、できる限りわたしの傍に居てくれます。
そんな魔獣さんにお話をせがむのが毎日の日課で、彼はいろんなお話を聞かせてくれました。
聞いたこともない、いくつもの物語。
この広い世界で、きっと魔獣さんだけが知っている秘密のおとぎ話。
楽しかったり、悲しかったり、恐ろしかったり。そして、美しかったり、優しかったり……そんな素敵な、形のない宝物。
魔獣さんは毎晩、それらを惜しみなく語ってくれました。
そのおかげで、わたしは冬のお城でも淋しさを忘れることができたのです。
すでに魔獣さんの存在は、わたしにとっても掛け替えのないものとなっています。
もし叶うなら……可能な限り魔獣さんと一緒に居たい。
許されるなら、全てが終わったあとも――今のわたしは、そんないけないことすらも考えてしまうほどです。
人間のわたしに、こんな勝手なことを思われるのは、魔獣さんにとってただただ迷惑なだけかもしれません。
それでもわたしは、そんな願いを抱いてしまうほどに、魔獣さんに心惹かれていました。
* * *
雪の降る閑散とした森の中、俺はソフィアを背に乗せて走る。
目指すはメアリス教国の首都にある大聖堂。ソフィアの恩人にして育ての親であるディオン司祭を助け出すためだ。
覚悟を決めた俺の気持ちは昂っていた。
ソフィアのためなら、俺はどこまでも戦える。そんな根拠のない自信が溢れていた。
背中に抱き着くソフィアの体温に火照る肉体。
ソフィアには悪いが、冷たい風が俺にとっては心地好い。
そうして走っているうちに積もっている雪の量が少なくなって、ちらほらと地面の色が見えるようになってくる。
この辺りが冬に呪われた地の境界なのだろう。つまり外の世界が近い証拠だ。
「――魔獣さん、止まってください!」
急にソフィアが制止する。
俺はドリフト気味に急停止した。
「どうした? ソフィア」
「黒騎士の気配が……黒い炎の気配を感じます」
ソフィアの言葉に俺は警戒して周囲を見回したが、黒騎士はおろか、俺たち以外の生き物の気配すらない。
俺はソフィアに続きを促した。
「すみません、もっとよく“視て”みます」
ソフィアは目を閉じる。額の宝石で周囲の魔力を探っているようだ。
「これは……残滓でしょうか?」
「ざんし? 残りカスってことか?」
「はい。あの黒騎士がここで黒い炎を使ったようです……残滓とは思えないほどの禍々しい魔力が残っていますが……もう、一週間も前なのに」
俺にはどうもわからないが、どうやらバフォメット族の特徴である額の宝石には周囲の空間がズタズタに焼き切られているように見えているらしい。
「だが、いったいなんのために……?」
俺の疑問にソフィアが答える。
「おそらく、この地に入って来るためでしょう。冬に呪われた地の境界を焼いて、無理やり穴をあけたのかと」
ソフィアは彼女の推測を答えた。
……おい、ちょっと待て。
それってつまり、境界を超えるために、穴をあける必要があるってことだよな?
数歩前に進んでみれば、確かにそこには見えない壁のような抵抗があった。
全速力でぶつかっても、その勢いが殺されるような……弾力ともまた違う、力や運動エネルギーが強制的にゼロに変換されるような、クッションみたいな感触。
「まさか、こんなものがあるとは……どうすればいいんだ」
俺は壁に触れながら途方に暮れた。
どうしよう。いきなりディオン司祭の救出作戦が頓挫してしまったぞ。
「この壁は非常に強固ですが、基本は結界魔術と同じです。小さい穴ならわたしでも開けることができます。少し時間をいただければ……あれ? 魔獣さん? それを知っていて、わたしを連れて来たのでは……?」
ソフィアは可愛らしく首をかしげた。
「いや、すまない……それは知らなかった」
俺は知ったかぶりをせず、素直に謝った。
彼女を連れてきたのは、強いて言えば魔女が留守にしがちな現状で城に残していくのは不安だったのと、拷問されているディオン司祭の治療のためだ。
こんな障害があることは想定外だった。
「ま、まあ、つまりソフィアがいれば問題ないな! では、頼むぞ!!」
俺は勢いで誤魔化す。
ソフィアは困ったように苦笑しながらも、見えない壁と向き合った。
「では、わたしたちが通れる程度の穴を……」
「無駄じゃよ」
背後から幼い少女の声が水を差した。
振り返ると、そこにはさっきまで居なかったはずの魔女が佇んでいた。
突然姿を現した放浪の魔女。
急に表れたのは転移魔法で飛んで来たからだろう。
「なんだ、戻ってきたのか……それで、無駄とはどういうことだ?」
「そのままの意味じゃ。たとえ境界に穴をあけても、お主はここから出られんということよ」
魔女が樫の杖の先で地面を打つと、見えない壁の向こうに別の景色が広がった。
明らかに冬に呪われた地の森とは違う、一切の雪が無い普通の森だ。
「あっ。ここは、いつもの……!」
ソフィアが一歩踏み出し、見えない壁の向こうに立つ。
どうやら冬に呪われた地の外に出られたらしい。
続いて俺も脚を踏み出そうとする――しかし、俺だけは見えない壁に阻まれた。
そんな俺を見て、ソフィアが不思議そうな顔をする。
「……ソフィーや、穴を閉じるから戻ってきなさい。お主も、出られないことは確認したのじゃし、もう閉じてよいじゃろ?」
俺はただ、頷くことしかできなかった。
魔獣「君のためなら死ねる(キリッ!」
↑ソフィア視点だとこんな感じです。