魔女のお茶会
その日、朝早くから冬の城を離れた魔女。
彼女は転移門をくぐって、石造りの不気味な建物を訪れていた。
見えない扉を開いて中に入る。
歩いていると、まるで洞窟の中にいるような錯覚に陥るその場所は、れっきとした魔女の家だ。
魔女の家――即ち、あらゆる偽装が施され、いくつもの危険な罠が仕掛けられた魔女の縄張り。
もしかすると、本当はもっと変哲のない外観の住家なのかもしれないが、ここの主は特に用心深い。
その上、余りにも使い勝手の良すぎる魔法を使う彼女は……世間から『あらゆる願いを叶えられる』と信じられている彼女は、他の魔女よりもなお厳しく、その姿を隠して生きることが義務付けられていた。
その制約はもちろん、人間たちの欲望から彼女を守るためであり……それ以上に、彼女の魔法から人の世の秩序を守るための処置でもあった。
奥へ奥へと進む放浪の魔女。
突き当りの岩壁に触れると、偽装が解けてなんの変哲もない木製の扉が現れる。
ノックをすると、中から「どうぞ」と声が聞こえた。
小さな魔女がその扉を開くと、生活感のある雑多な部屋があり、その中央の椅子に妙齢の女性が座っていた。
「いらっしゃい。待っていた、わよ?」
妖しい水煙草の燃えるテーブルの上には、ハーブティーと焼き菓子が用意されていた。
彼女の姿を地球出身の者が見れば、まさに悪魔のようだと表現するだろう。
褐色の肌と、異様に長い白髪。
黄金の瞳には横向きの瞳孔。
額に妖しく輝く紅の宝石。
捻じれたヒツジのような大角に、ヤギの蹄。
そしてその扇情的すぎる服装は、彼女の短い尾や全身に刻まれた呪刺青を全て露わにしていた。
さらには彼女の体に巻き付けられた、大小様々な鎖の装飾品。その一つ一つが、誓約を課せられた呪具であり、彼女の象徴であるとも言える。
そう、彼女こそが“鎖”の二つ名をもつ、バフォメット族の魔女――“鎖の魔女”、その人物であった。
「だいたい、ひと月ぶり、かしら? なんだか最近、縁があるわね」
鎖の魔女が自分で用意した焼き菓子を齧りながら言った。
「白々しいのう、儂が来ることを知っておったくせに」
放浪の魔女は言い切った。なぜなら目の前で鎖を鳴らす彼女もまた、今回の仕掛け人だったからである。
鎖の魔女はあらゆる魔術や魔法に通じた魔女だが、中でも特に“誓約”という最古の魔法を得意としていた。
その魔法は汎用性に富んでおり、今回魔獣にかけられた魔法の根幹を担ったのも、この鎖の魔女の秘術であったのである。
放浪の魔女は彼女の向かいに用意された席に座ると、さっそく用意された焼き菓子に手を伸ばす。
「うむ。いつ来ても美味い」
「相変わらず、私のほうが先輩なのに、遠慮がないのねぇ……」
その口調は放浪の魔女の無遠慮さに呆れているようにも聞こえたが、その眼差しは微笑ましい親戚の子を見つめるような優しげなものだった。
ちなみに長い歴史があるのは、彼女の使う魔法だけではない。鎖の魔女自身についても、メアリス教の英雄たちが存在していた頃から生きている大先輩だ。
魔女の中でも比較的若い放浪の魔女にとって、彼女は敬意を持って接するべき存在である。
しかし、放浪の魔女はそんなことを気にする様子もなく、ハーブティーを楽しみながら二つ目の焼き菓子に手を伸ばしていた。
「ムグムグ……何を言っておる。儂らは今さら、そんなことを気にする間柄でもないじゃろ」
咀嚼しながらも、ちゃんと行儀良く喋る放浪の魔女。
「フフフ……そうよね。貴女のそういうとこ、好きよ?」
水煙草の甘い煙をぷかぷかと浮かべながら、鎖の魔女は妖艶に微笑んだ。
建て前の上では、全ての魔女は対等。
そうなってはいるのだが、放浪の魔女は……良くも悪くも、それを実践できている数少ない魔女の一人であり、それ故に気難しい鎖の魔女と友人関係でいられると言えた。
「で、単刀直入に聞くが、どこまでお主の仕込みじゃ?」
お茶会を楽しみながら、放浪の魔女は切り出す。
しかし、鎖の魔女は真意の読めない妖艶な笑みを浮かべたまま、答えをはぐらかせた。
「さぁて、なんの話かしらね?」
どうやら、鎖の魔女は知らず存ぜずの態度で通す心算のようだ。
「なるほどのう……ならば、ちょっとした世間話でもしようではないか」
放浪の魔女は“ちょっとした世間話”の体で、最近の出来事を鎖の魔女に話した。
「お主の手掛けた例の魔法を使った結果じゃが……まあ、少々予想外の事態はあったものの、魔法自体は概ね正しく発動しておる。しかしのう、坊主の元に訪れたのが、とんでもない大人物だったのじゃ。誰が訪れたか、想像できるかの?」
「いいえ? 皆目見当も、つかないわ」
惚けた態度で鎖の魔女は答えた。
「なんと、実は彼女、レヴィオール王家の姫君だったのじゃよ。お主とも無縁ではない。これは驚きじゃろ?」
「あら、そうなの? 驚いたわ。凄い、偶然ね」
鎖の魔女は態とらしく驚いた表情を見せる。
しかし、その大根役者っぷりを見る限り、演技であることを隠すつもりは毛頭なさそうだ。
「でも、運命に選ばれた相手なら、仕方がないわよね? 人の恋路を、邪魔しちゃダメよ?」
「……そうか、運命なら仕方がないのう」
「そうよ、仕方がないわ……それに私、ちゃんと規則は、守っているもの。ちょっとだけ、強引だった気もするけど、流石に、二回目だから……ね?」
鎖の魔女の顔は相変わらず妖艶な笑みを浮かべていたが、その背後には怒りの魔力がにじみ出ていた。
ミステリアスを通り越して退廃的な雰囲気すら醸す彼女だが、見た目とは裏腹に情の深い女でもある。
レヴィオール王国の現状には腸が煮えくり返っているのが本音だろう。
しかし魔女連盟は完全な中立であり、魔女と称される者たちは各国の内政に干渉してはならないと定められている。
それは強大すぎる力を持つが故の束縛であった。
「まったく、損な役回りじゃのう。でも、よいのか? どこぞの魔獣の骨かも分からん奴に、お主の可愛いソフィーをくれてやって」
「分かっていて、聞いているでしょ? 貴女が珍しく、ここまで執着する男の子だもの。きっと、悪い子じゃないって、私、信じているから」
放浪の魔女は少しばつが悪そうに眉をしかめた。
「別に、執着なんかしとらんて……」
「……それに、私も少しだけ覗かせてもらったけれど、彼、とてもいいと思うわ。だって、あの人にすごくよく似ているもの。故郷が同じだから、かしらね?」
左手の薬指にはめられた指輪。
それを大事そうに愛でながら、鎖の魔女は懐かしむように言った。
放浪の魔女は噂でしか聞いたことがないが、鎖の魔女は未亡人だという。
数百年……いや、もしかしたら千年以上も前に死別した夫を、未だ忘れずに想い続けているようだ。
「……お主が良いと言うならば、儂はこのまま見守るだけじゃ」
放浪の魔女は鎖の魔女の意思を受け入れた。
「ありがとう。やっぱり、貴女のこと、好きよ?」
その絶妙な距離感に、鎖の魔女は微笑みながら言った。
* * *
その後も、ちょっとした用事のつもりだったが、二人の魔女はついつい話し込んでしまった。
いつの間にか、テーブルの上の焼き菓子は全てなくなっている。
楽しい時間ではあったが、放浪の魔女は他にも果たすべき用事があったことを思い出した。
「ああ、いかんの。つい、長居しすぎてしもうた。儂はそろそろ、おいとまするぞ」
とびきりのハーブティーを飲み干した放浪の魔女は急いで席を立った。
「あら、急ね? この後は、どんな御用事?」
「ひとまずは、薬師のところに寄ろうと思っておる」
「ああ、お“薬”ちゃん、ね? それはとても良いわ。私もそろそろ、新しい薬草を貰いにいかないと」
鎖の魔女は長い爪で水煙草の瓶をコツコツと叩いた。
「それにしても、あの子を気遣ってくれて、ありがとうね? 女の子でも角が折られたままなのは、やっぱり辛いもの……でも、お薬ちゃん、作ってくれるかしら?」
「なーに。土産も用意したし、大丈夫じゃろ」
放浪の魔女がそう言うと、鎖の魔女は演技っぽくハッとする。
「ええ、お土産? そんな、ひどいわ。私には、何もなかったじゃない」
悲しいわ~、と鎖の魔女は大げさな泣き真似をした。
そして横目でチラチラと、放浪の魔女の反応を窺っている。
「……分かった、分かった。お主にも今度、何か持ってくるから。それで勘弁してほしいのじゃ」
「あら、そう? なら、楽しみにしてるわよ」
けろりと泣き真似を止めて、鎖の魔女は去りゆく放浪の魔女に手を振った。
「――あ、そうだわ……言い忘れていたことが、あったの」
放浪の魔女が扉に手をかけたところで、鎖の魔女が引き止めた。
「実はね、例の魔獣くんについて、訊いて来た娘がいたのよ」
「……あやつのことを? まさか“婚礼”の、か? あのド変態ババアめ、さっそく雄の臭いを嗅ぎつけおったな」
とはいえ、見た目だけはとにかく男に好かれる婚礼の魔女だ。
彼女に迫られれば、女慣れしていない童貞の魔獣はあっさりと引っかかるかもしれない。
少しずつだが、せっかくソフィアと良い感じになっているのに……ここで横槍を入れられるのも面白くないと、放浪の魔女は思った。
何か対策を打たなくては……。
しかし、鎖の魔女が口にしたのは予想外にも別の二つ名だった。
「違うわよ。彼を気にしていたのは……“星詠み”ちゃん、ね?」
「……星詠み、じゃと? あの狂人がか?」
それは放浪の魔女にとって意外な二つ名だった。
彼女を一言で表現すれば、婚礼の魔女とは別の意味で変人……いや、狂人だ。
放浪の魔女が知る星詠みの魔女は、暇さえあれば現実の星空に則さない妄想の星図を描き記し、夜になれば縄張りの天文台に籠って望遠鏡を覗き込みながらニヤニヤ笑っている気持ちの悪い女である。
なぜかそれなりに立場もあるが、魔女の集会には滅多に顔を出さず、何を考えているかも分からない。
口を開けば、そこから跳び出てくるのは支離滅裂で意味不明な妄言かポエムばかり。
大なり小なり何かが壊れた者が多い魔女連盟だが、彼女が群を抜いた狂人であることは魔女たちの共通認識であった。
「あんなに楽しそうな彼女、初めて見たわ……少し、気を付けたほうが、いいかも……」
「儂からすれば、あの女はいつも楽しそうじゃがな……」
理由は分からないが星詠みの魔女に気に入られている放浪の魔女は、いつもベタベタ絡み付いてくる彼女が苦手であった。
しかし忠告通り、警戒するべきなのかもしれない。
噂で聞いただけだが、彼女の魔法は運命操作の一種らしい。
確かな情報はない。しかし、彼女とて魔女なのだ。そう呼ばれているだけの実力は持っているのだろう。
「ひょっとして……」
「なんじゃ? 何か心当たりでもあるのか?」
「……横恋慕?」
不意に鎖の魔女から放たれた冗談。
放浪の魔女は笑いを抑えきれず、つい吹き出してしまった。
「ありえん、ありえん。あの狂人に、人並みの恋をする感情が残っているとは思えんよ……まあ、あやつが絡まれんように、一応気にかけておくべきやもしれんのう」
少女のようにケラケラ笑いながら、放浪の魔女の気持ちはだいぶ軽くなった。
「もし不安なら、一度、会っておいたほうが、いいんじゃない? 世界の終わりを憂うようなものだと思うけど、ね?」
世界の終わりを憂うようなもの――要は“杞憂”という意味である。
「それもそうじゃな。あまり会いたくないが……」
ひとしきり笑った後、放浪の魔女は鎖の魔女の提案に同意した。
実際のところ、彼女の言う通り、気にしすぎだ。放置しても一向に問題ないと思う。
だが、無視を決め込むには、星詠みの魔女はあまりにも不安な存在だった……色んな意味で。
今まで彼女が具体的に何かをやらかしたとは聞かないが、だからこそ何か目的を持って動いているらしい今回が恐ろしい。
鎖の魔女も同じように思ったから、一応教えてくれたのだろう。
「じゃあ、お薬ちゃんのほうも、よろしくお願い、しちゃうわよ。あの子には、ちゃんと、幸せになってほしいから」
鎖の魔女は今度こそお別れに、ヒラヒラと手を振った。
彼女が言う「あの子」とは、もしかしなくてもソフィアのことであろう。
下手すれば同胞たちとすら千年単位で関わりがなかったはずなのに、やはり鎖の魔女は情が深いようだ。
「儂だって、そう願っておるよ。仕方ない。後で天文台の様子を見てくるかの」
放浪の魔女は別れを告げると、その部屋を後にした。
放浪の魔女が扉が閉じると、その扉は初めから存在しなかったかのように消え失せ、洞窟の壁だけが残った。
それどころか、放浪の魔女がその場から立ち去れば、いつの間にか洞窟すらもなくなっていた。
そして、放浪の魔女の姿も風と共に消えてなくなり、魔女たちが開いたお茶会の痕跡は何一つ残さず消え去った。