帰路の旅路
――はやくっ! はやくっっ!
クゥ、クゥッ! と鳴いて、ペトラが急かします。
トントントントン……と床を蹴る仕草は、王子様を焦らせました。
そんな彼女を、横から赤毛の少女が撫でます。
この少女もあの日、冬の城を訪れた四人組の一人でした。
「まさかこっちで会えるとは思わなかったよ」
白くてふわふわな毛並みを楽しみながら、赤毛の少女が言います。
しかし、ペトラはそれどころではありません。
もっとも、『残された時間は、そう多くありません。今晩中に発たないと、間に合わなくなっちゃいますよ♪』――こんなことを言われた日には、焦るのも当然でしょう。
――はやくっ! はやくしないと、あいつがもとにもどれなくなる!
クゥッ、クゥッ、クゥッ!!
「ご、ごめん、もうちょっとだけ待って……」
小さなシロウサギに急かされて、王子様もタジタジです。
「まったく、そういうことは私たちに相談してから決めてほしかったですねえ」
「まあ、ジーノもそう言うなって。アレックス、心配は要らねえぜ。お前が間に合わないときは、俺が黒騎士の相手をしてやる――引退前に最強の座を奪っておくのも悪くねえからな」
王子様の仲間たち――ペトラは彼らを騎士だと思っています――も、王子様の準備を手伝います。
「はいはい、引退間際のお爺ちゃんは無理しないでね~」
「するわけねーだろ」
赤毛の少女にからかわれて、大柄な男はため息を吐きました。
さて、そんなことをしている間にも、旅立ちの準備は整います。
持って行く荷物には、最低限の食料に水、防寒具に、秘薬、戦うための武器……。
ここからペトラの故郷となる『冬に呪われた地』までは、雪の積もった山脈を一つ、越えていかなければなりません。
しかも、向かう先は、王子様たちの国が戦争をしている相手です。
そんなのはあくまで人間たちの都合であり、ペトラにとっては知ったこっちゃない話ですが、敵兵に見つかって邪魔されても面白くないでしょう。だから、王子様はなるべく目立たないように、街道をできるだけ避けて進まなければいけません――そんな事情もあるため、準備は特に、念入りにしなければならなかったのです。
大変な旅になるのは明らかです。
なんて言ったって、わざわざ人里を避けて、冬の山道を行くのですから……たとえ雪原のエキスパートである案内兎がいるとはいえ、用心はしすぎて困るなんてことはないのです。
「……よし、準備できた!」
――じゅんびはできた!? じゃあいこう!!
立ち上がった王子様の足元で、ペトラがピョンピョンと跳ねます。その様子ははたから見ても、もう待ちきれないっ! といった感情が伝わってきました。
「じゃあオレ、行ってくるよ!」
「え、今から行くの? もう真夜中だよ?」
赤毛少女からの問いかけに、王子様は頷いて肯定します。
「うん、夜のうちに出発しないと間に合わないらしいからね。ソフィア姉ちゃんには、みんなから上手く言っておいて」
「おう……ってオイオイオイオイ、なに馬鹿なこと言ってんだ」
大柄な男は、王子様を制止します。
――どうしたの? はやくっ!
早く出発したいペトラ。
しかし、そうはいきません。
なぜなら、王子様はお姫様に黙って、危険な旅に出ようとしていたのです。
仕える騎士なら、ストップをかけて当然でしょう。
結局、もう少しだけ、出発は遅れることになりました。
* * *
王子様はお姫様の寝室に入ります。
愛し合う二人の、旅立つ前の語り合い。本当なら決して邪魔するべきものではないでしょう。
……とはいえ、おとなしく待っていられる性格のペトラではありませんでした。
――おそい!
しばらくは大人しく待っていましたが、我慢の限界です。
とうとう待ちきれなくなったペトラは、王子様が向かった部屋へ押しかけます。
そしてドアの前で、ノックの代わりに床を激しく蹴りました。
トントントントントントンッ!!
「キャッ!?」
ドアの向こうから、女の人が驚く高い声が聞こえます。
「だ、だれなの!?
――あれ? このこえは、オヒメサマ!?
思わぬ再会です。
いえ、よく考えたら、お姫様が王子様の巣穴に居ることは、以前から予想できていました。
――そうか! やっぱりここにいたんだ!
恐る恐る王子様がドアを開くと、僅かに空いた隙間からペトラは部屋の中に飛び込みました。
「あれ? ペトラちゃん!? どうしてここに?」
「クゥッ!!」
予想外の来客に、お姫様は驚きの声を上げつつも、喜びに顔をほころばせます。
――オヒメサマ! オヒメサマ!!
ペトラのほうも、久々の再会に喜びです。
やっぱり彼女は、優しいお姫様のことが大好きでした。
――ねえ、オヒメサマ、かえっておいでよ、またいっしょにくらそうよ。
ペトラはクゥクゥとじゃれつきながら提案します。
でもそれが無理な願いだということは、ペトラにも分かっていました。
だって、お姫様がここに居るということは、長老が言った通り、彼女と王子様とつがいになったということですから……それならばやはり、彼女があの冬の世界へと戻ってくることは無いでしょう。
――オヒメサマ……。
お姫様は優しく、そして悲しげに、彼女へ微笑みかけます。
その瞳は、冬の城で過ごした日々を懐かしむようで……。
――そうか……。
お姫様に抱きしめられながら、幸せな気分を味わいつつも、ペトラは淋しい思いを抱きました。
なぜなら、お姫様が冬の世界から出て行った意思を、いい加減に受け入れなければいけなかったからです。
――もう、いっしょに、いられないんだな……。
お姫様が王子様とつがいになりたいなら、ペトラはそれを祝福します。
黒オオカミについても、あの星空の少女が言う通り、お姫様の力を借りないで助けることができるのなら……どう考えても、彼女を無理やり連れていく理由にはなりません。
ただ、あの日々を気に入っていたペトラは、もうちょっとだけ、わがままを言いたい気分になったのです。
本当に、それだけなのでした。
――わかったよ……オヒメサマ。、
お姫様を堪能したペトラは、ピョンッとお姫様の腕の中から飛び降ります。
あまり未練がましくないように、努めて元気に振る舞いました。
だって、彼女はお姫様を守る騎士だったのですから……お姫様の望みは、かなえてあげたいからです。
――あいつのことは……くろオオカミのことは、あたいたちにまかせてよ! あたいとオウジサマが、なんとかするからさ!
そして最後にクゥッと、お別れにひと鳴きしました。
――ほら、じかんがないんだ! はやく、いこっ! いこっ!!
「わあっ!? わかった、もう出発するから!」
ペトラは王子様にピョンピョン跳びかかりながら、旅立ちの催促をします。
日が昇る前に旅立たなくては……となれば、もはや一刻の猶予もありませんから。
「……アルくん。さっきの話だけど……わたしからも、お願いしていいかな?」
お姫様も、王子様に頼みごとをします。
「魔獣さんに、よろしくね」
お姫様はそれだけを言うと、優しく微笑みました。
その笑顔は儚げでありながらも、悩みは吹っ切れたようにでした。
「でも、無理はしなくていいの。そのときはわたし、運命を受け入れるから」
「……心配はいらないよ。絶対に来てもらうし、たぶん魔獣さんも来てくれる。ソフィア姉ちゃんのことも、きっと助けてくれるって!」
王子様の頼もしい言葉に、お姫様は嬉しく思いました……少なくともペトラには、二人の会話がそのように感じられました。
「じゃあ、行ってくるよ!」
王子様とペトラは、お姫様の寝室から飛び出します。
こうして、ペトラたちは、冬の城を目指して旅立ったのでした。
* * *
……それから約半月後。
雪の降る山道を、一人の少年と、一羽のシロウサギが走ります。
お姫様の思いや、黒オオカミの未来を背負って――そして実はそれだけでなく、お姫様の故郷に暮らす人々はおろか、全ての生命の、いや、世界の命運すらも、知らぬままその小さな背に背負っているのです。
幸い二人とも強くなるため鍛えていたので、ここまでの道中はとても順調でした。
どうやら人間の世界では大きな戦争が始まっていたみたいで、その混乱の隙を突いて敵の目をかいくぐり、国境を越え、二人はついに北の果てまでたどり着いたのです。
無理して走り続けた一人と一匹は満身創痍で、もう足もクタクタで、気を抜けば足を取られて転んでしまいそうでした。
――まけるか! あたいは、ペトラ! オヒメサマのナイトだ!
千切れそうな手足を引き摺るようにしながら、彼女はなお走ります。
そして、大陸の北に広がる魔の森――その奥の奥にある、冬に閉ざされた、呪われし大地。
ペトラと王子様は、その境界を越えました。
周囲の景色が、微妙に変わります。
木々が葉を落としているのは相変わらずでしたが、それでもひっそりと生きていた木々は、死んだ木々にとって代わられました。さらに、春を待って息を潜めていた生き物たちの気配も極端に減り、代わりに雪と氷の世界に適応した冷たい体の生き物たちが現れました。
そこは、ペトラにとっては見慣れた、いつもの枯れ木の森でした。
外の世界の冬の風は、とても冷たいものでした。ですが、冬に呪われた世界に吹く風は、それ以上に冷たい風でした。
「本当に、入れた……!」
半信半疑だったのでしょうか、冬に呪われた地に足を踏み入れて、王子様は驚きの声を上げます。
この小規模な異世界は、余所者を拒絶する性格をしていたので、こんなふうに王子様がたどり着けるのは、とても奇跡的な出来事だったのです。
しかし、ペトラにとってここは故郷で、入れるのが当たり前。
そこに特別思うところはありません。
――オウジサマ! あとすこしだ!
ペトラはクゥッと呼びかけます。
王子様はハッとして、走るのを再開します。
距離にしてみれば、あと数キロ程度。
ただ、時間はもう、ほとんど残っていないはずです。
もうすぐ夜明けとはいえ、空は曇っていますし、まだしばらくは暗いままでしょう。
真夜中の森の中を駆け抜けるのは大変危険な行為でしたが……でも、そんなのは、今さらでした。
王子様とペトラは走ります。
王子様は、星空に定められた運命を壊して、お姫様を救うため。
ペトラは王子様を連れて行って、変わり果てた黒オオカミを助けるため。
しかし、ここに来て、最大最悪の難関が、二人の前に立ちはだかったのでした。
グガァアアッ!!
聞こえてきたのは、獣の咆哮です。
声の主は、脇目も振らず、こちらへと向かってきます。
「クソッ! あと少しなのに……!」
王子様が悪態を吐きます。
ここまでは幸運にも、大きなトラブルが起こることは無かったのですが、最後の最後で最悪な不幸が待ち伏せていました。
もしかすると、昨日までが大変幸運だったため、その揺り戻しが来てしまったのかもしれません。
小柄な少年と、小さなふわふわのシロウサギ――そんな二人を獲物に狙ったのは、大きなクマの魔獣でした。
しかも、そのクマは、ペトラが今まで見たこともないほど立派な体躯をしており、その巨体は『勝てない』と彼女に思わせるには十分なものでした。
一方で、クマのほうも、久々の獲物に歓喜します。
特にここ最近は、冬の城に住み着いた鱗と殻があるオオカミのような怪物……つまり、ペトラのよく知る黒オオカミの気が立っており、無差別にいろんな生き物を襲っていました。なので、このクマを含め、枯れ木の森の生き物たちはまともに出歩くこともできなかったのです。
黒オオカミに抵抗しようにも、不死身なあいつには、どんな生き物だって敵いっこありません。
奴に逆らえばむざむざ殺されるのが、クマの魔獣には分かっていました。なので彼はここ最近、プライドも捨てて、ずっと巣穴の中に隠れていたのです。
それがこのクマにとって、あまりにも屈辱的で、ストレスのたまる日々だったことは想像に難くないでしょう。
なにせ、食物連鎖の頂点として、悠々自適な生活を送って来たのに、他所から来た化け物によって、肩身の狭い生活を強いられているわけですから。
そんな中、巣穴の前を偶然美味しそうな獲物が通りかかったのです。
これを見逃す理由はありませんでした。
「戦いは、避けられそうにないな……!」
王子様が弓に矢を番えます。
どうやら、戦う覚悟を決めたようです。
ペトラも怖いという気持ちを抑え込みながら、今日まで頑張った鍛錬を、騎士として過ごした日々を信じて、立ち向かう覚悟を決めました。