北風の魔獣と太陽の王子、それとウサギの騎士
その日から黒オオカミは、ヒトが変わったように……もとい、オオカミが変わったように、枯れ木の森を彷徨っていました。
そして、何か獲物を見つけては、牙を剥いて襲い掛かり、その返り血を浴びて、臓物を喰らい続けました。
戦うことを、殺すことを愉しんでいる黒オオカミ。
ほかの生き物たちの命を奪い、尊厳を踏みにじることに優越感を覚える黒オオカミ。
「力こそ正義、誰も俺を殺せやしない……」
力に憑りつかれた憐れな怪物は、妄執に縋りつくかのように、あるいは言い訳するかのように、繰り返しそう口にします。
「だから俺には、奪い続ける権利がある……!」
心を失った怪物は、心無き残虐な行為で、森中の生き物たちを震え上がらせました。
ウサギのペトラも、その一羽でした。
今の彼は近付くのすらも恐ろしくて、様子が気になっても、陰からこっそり覘くだけで精一杯です。
――まさか、イヌからオオカミにもどってしまったのか!?
クマの母子を殺し、その骸を、冒涜するかのごとく、無残に食い散らかす黒オオカミ。
そのあまりの変貌ぶりに、ペトラは愕然としました。
もはや、あのどこか間の抜けていて、身内に甘くて、決して憎めない黒オオカミの姿は、そこに存在しません。
ただ殺すためだけに殺し、不要なのに暴食の限りを尽くす様は、まるで血に飢えたオオカミのようで……ある意味では、それこそが彼のあるべき姿だとも言えましたが、ペトラはそうじゃないと思いました。
――あんなの、ほんとうのあいつじゃない!
ペトラは勝手にそう決めつけます。
黒オオカミにとってはいい迷惑かもしれません。しかし、ペトラは黒オオカミが元に戻ることを望みました。
ペトラは、一緒に過ごした黒オオカミのことが、好きになっていたのです。
逆に、今の凶暴な黒オオカミは、好きになれませんでした。
――オヒメサマがいなくなって、イヌからオオカミにもどったから、あいつはああなったんだ。
ペトラは考えます。頭を使うのは苦手でしたが、必死で考えます。
――やっぱり、オヒメサマがもどってこないと、あいつはずっとあのままなんじゃないか?
長老の話を思い出しながら、どうすればいいのか、考えて考えて……どうにか一つ、閃きました。
――そうだ! オヒメサマをつれもどせば、またみんなでいっしょにくらせるのかな?
みんなで一緒に……真っ先にそう思うあたり、ペトラは思いの外、冬の城での暮らしが気に入っていたようです。
それもそのはず。いまのペトラには、仲間が居ません。
同じ耳長族であるウサギたちでさえも、長老以外は彼女を避けるのです。
独りぼっちは、もうイヤでした。
黒オオカミまでああなってしまったら、ペトラはまた独りぼっちでした。
――でも、オヒメサマはどこにいったんだろう? オウジサマのすあなかなぁ……?
王子様の巣穴……要は『お城』という意味でしょう。
ですが、彼らが向かった先は、枯れ木の森の向こう側――即ち、外の世界です。
あっちの方向は、黒い甲冑の騎士が去って行った方角でもありました。
――でも、あっちのほうには、こうらのかいぶつが……そうか、あいつのせいで、オヒメサマは、あんぜんなばしょににげたんだ。じゃあ、あいつをやっつければ、オヒメサマはかえってくる?
しかし、悲しいことに、どう考えてもペトラには勝ち目がありません。
あの姿を思い出しただけで、ペトラは身を震わせます。
黒い鎧の騎士はペトラにとって、本人も知らないうちに、深い心の傷となっていたのです。
――やっぱり、あたいじゃ、かてないのかな……。
ペトラがそんなことを考えていると、彼女の背後から突然、誰かの声が聞こえました。
「彼を、助けてあげたいですか?」
いつの間に居たのでしょうか? 声をかけられる瞬間まで、彼女の気配は全く感じられませんでした。
本来は臆病な生き物であるウサギ。彼らは、長い耳で常に索敵しています。
もちろん、ペトラだって例外ではありません。なのに、彼女が、近付かれるまで全く気付けないなんて……普通なら、あり得ないことでした。
驚いたペトラは反射的に逃げようとします。
ですが、駆け出した瞬間、何かにドンッとぶつかります。
見上げれば、ぶつかったのは誰かの足でした。
さっきまでこんなもの、なかったはずなのに……。
その足の持ち主、ペトラの前に二本足で立っていた生き物は、見た目はオヒメサマと同じ“ヒト”でした。少なくとも、外見はそうでした。
ただし、彼女はお姫様とは毛色が違っています。
見上げた少女の広がる髪は、まるで夜明け前の星空のようでした。
「彼は今、人と獣の間で苦しんでいます。あとしばらくは、心の残滓が残っているでしょうが……このまま放っておけば、彼は身も心も化け物になってしまうはずです」
不思議な雰囲気の彼女は、しゃがんでペトラと目線を合わせながら、語りかけてきます。
その声は、最初に語り掛けてきたものと同じ声でした。
ただ、彼女が喋っているのは、ヒトの言葉です。
そして、しがないウサギのペトラは、ヒトの言葉が分かりません。お姫様たちのおかげで簡単な単語は覚えましたが、複雑な長文になるとさっぱり。
だから、彼女が何を言っているのか分からない――そのはずでした。
――あれ? ことばがわかる!?
ヒトの言葉はわからないはずなのに、なぜか彼女が言っている意味を、ペトラは理解することができました。
目の前の少女は星空を閉じ込めたようなキラキラ光る瞳を細め、ペトラへ向けてにこやかに微笑みかけます。
「でもでも、今なら間に合います。貴女が望むなら、彼を元に戻す方法を教えてあげますよ♪」
彼女の声音は優しく、態度だってとても友好的なものでした。
でも、彼女は会ったことも無い知らない相手――さらに、何やら得体の知れない気配を隠している少女を前にして、ペトラは身構えます。
――おまえは、だれだ!?
ペトラはクゥッ! と鳴きました。
「キャハッ♪ そう警戒する必要はありませんって。そうですね……ステラちゃんは、彼にとって『運命の相手』ってところしょうか♪」
――ウンメイ……。
ペトラは燐光を纏う少女を、頭の上から足の先まで、何かを探るようにじっと見つめます。
――なるほど……つまり、どういうことだ!?
……どうやら、『運命』という概念はペトラには難しかったようです。
せっかくそれっぽい雰囲気になるよう言ったのに上手く伝わらなくて、星空のような少女――星詠みの魔女こと、ステラ・ラピスは苦笑します。
「あらら、少し難しすぎましたか……まあ、要するに、お友達ってところですね。今のところは。貴女と同じく、彼を助けたいと思っている、ただの恋する女の子ですよ♪」
しかし、ペトラは警戒を解けません。
野生動物の勘が、本能が、目の前のナニカを警戒しろと訴えかけてくるのです。
ですが、こうなることは『ステラちゃん』も織り込み済みだったようで、彼女は勝手に話を進めます。
「ではペトラちゃん。彼を助けるためには、貴女に頑張ってもらう必要があります。そう、彼を救うのはソフィア姫ではなく、太陽の王子と、冬の王に仕える騎士の役目なのです」
――ナイト……?
騎士と言えば、自分のこと。ペトラは耳をピクッと動かします。
――あたいが、あいつをたすけられるのか?
黒オオカミを元に戻せる(助けるってのは、そういうことでしょう?)と聞いて、ペトラは嬉しくなりました。
でも、はたして、自分に何ができるでしょうか? だって……。
――だって、あたいじゃ、あいつをたおせないよ……。
ペトラの胸の中に、暗闇が押し寄せて、何もできなくなってしまいます。
その感情が『無力感』と呼ばれているものであることは、彼女は知りませんでした。
「心配ご無用です! 黒騎士を倒すのは、貴女の役目ではありませんから♪」
しかし、不思議な少女は言います。
「強くなれば、なんでも思い通りにできる? いいえ、それは違います――少なくとも、彼を救うのに一番必要なのは、単純な強さではありませんよ♪」
――そうなのか?
ペトラが尋ねると、少女はにっこり笑いました。
「はい♪ 貴女の役目は、彼の傍に侍ること。孤独に逃げようとする彼を、こっちの世界へ引き留めること……そのためにまずは、王子様を連れてきてください♪」
――うん……うん? え? オウジサマ? なんで? オヒメサマじゃないの?
ペトラはいつの間にか、すっかりその気に乗せられていました。でも、それは仕方ないでしょう。なぜなら、この言葉が分かる不思議な少女は、今のところ唯一の希望なのですから。
警戒心は残しつつも、黒オオカミを助けるために、ペトラは怪しい少女の話を聞きます。
「それが、必要な運命にプロセスだからです。『愛されるより、愛したい』なんて言葉もありますが、まずは自分も尊敬され、愛され得る存在であるという自覚がなければ、独りよがりな自己犠牲ごっこから抜け出せませんからね」
――うーん……?
ペトラがまだ子供だからなのか、それとも人間の心に疎いウサギだからなのか……言っていることがなんとなく分かるような、分からないような……。
すこし騙されているような気もしましたが、案外そうでもないような気もします。
考えていると、ペトラの身体が背後から、ひょいと抱え上げられました。
目の前にいた少女は、瞬きしている間に消えてしまっています――いえ、いつの間にか背後に移動していたのでしょうか?
「彼は北風であると同時に、太陽が必要な旅人でもあります。闇に閉ざされた彼の世界に、王子様を届けるのがペトラちゃんの役目です♪」
――えーっと、つまり、オウジサマをつれてこればいいんだな?
ペトラは頑張って考えた結果、自分がどうすればよいかを確認することにしました。
それを聞いた少女は、笑顔でペトラの頭を撫でます。
「う~ん……まっ、そこまで理解できていれば、今は十分です。では、承諾してもらえたところで、運命を変えに行きましょう♪」
すると、ぶわっと風が吹いて、周囲の景色が歪んで、気が付けば周囲の枯れ木と雪の殺風景な景色が消えていました。
代わりに、お城みたいな白い石の地面と、見たこともない色とりどりの花々が咲き乱れる庭園で、ペトラは抱かれていました。
「それでは、彼女に案内してもらってください。中の住兎である彼女の手引きがあれば、『冬に呪われた地』の結界を越えて、冬の城へとたどり着けるはずです♪」
一瞬何を言っているのか分かりませんでしたが、ふと視線を下ろせば、あの日冬の城を訪れた少年――この少女が言うところの『太陽の王子』様がいるではありませんか!
――あっ、おまえ!
ペトラは自分を抱く少女の腕から抜け出し、自分たちを見上げる少年に向かって飛び込みます!
――みつけたぞ! おまえオウジサマだろ!? おまえのせいであいつがたいへんなんだ!
クゥクゥクゥクゥと、少年もとい王子様に訴えかけるペトラ。
――あいつをもとにもどすためには、オウジサマがひつようなんだって! たのむから、いっしょにきてくれよ!!
「わ、わっ!?」
急に飛び込んできたウサギに、慌てふためく王子様。
久々の再会を喜ぶ暇もなく、彼はフワモコのシロウサギに出発を急かされ続ける羽目となりました。