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目がさめると、喉が渇き切っている事に気づいた。
首筋はじっとりと汗をかき、後頭部の方に手をやると、へんな癖ができていた。
ダヤンは目が覚めた直後は低血圧のせいで、あまりうまく起き上がれない。そしていつも尋常ではない頭痛が襲うのだ。身体は動かさないままに、腕をポッケの中に入れ、パイプを取り出した。
茶色いパイプを口で固定し、左手でライターを付けた。焦げた匂いと、あまい煙の香りが立ち込めた。ズキズキと痛んでいた頭痛は、煙を吸えばすぐに落ち着くようになると思い込んでいるから、プラシーボ効果的に痛みは消え去った。
やっと動くようになった身体を持ち上げて、周りを見渡した——何も変わらない、ただのがら空きの駐車場だ。腕時計を見ると、もうすこしで4時になるぐらいだった。まだ1時間も寝てないのか、もっと寝ても良かったが、空腹がそうはさせてくれなかった。すると、車の窓をノックする音が聞こえた。ヨハンだった。両手にタコスを持っていた。
「両手が塞がっていてドアが開けられないんだ。君の分も買ってきたよ。だから、どうか内側からドアを開けてくれないか」
ダヤンは助手席まで手を伸ばして、そして殴り飛ばすようにして強引にドアをあけた。
「やあ、ありがとう。よく眠れた?」
ダヤンは無言で渡されたタコスを受け取った。そして少し見つめたあと、一目散に貪りついた。タコスはものの数秒で無くなってしまった。ヨハンは笑いながら、その様子だときっと足りてないね、と言って自分の分も渡した。すぐさま受け取って、それもあっという間に食べてしまった。
「飲み物は水しかなかったけど、いるかい?」
「...」
ダヤンは精神的にも、身体的にもあまり喋りたい気分ではなかったから、無言でヨハンの手から水を奪い取った。全身に冷めた水が流れていく。喉越しが良い。爽快感を全身で味合うと同時に、一気に気力が戻ってきた。どうやら、うまく体が動かせなかったのは、脱水のせいのようだった。
「エドガーが心配してたよ。帰ってくるのが遅いし、連絡しても繋がらない。さっき焦った声で電話がかかってきたんだから。寝てるよって伝えたら、胸をなでおろしたように、あいつ、ため息をついた。ほんとに、エドガーも老婆心がすぎるね」
「...あいつに、あいつの所に集成図を取りに行くって1時間前に約束をしてたんだ。急いで行かないと」
ダヤンは無理に身体を動かそうとすると、貧血で立ちくらみを起こした。
「おおい、大丈夫?今日は特に酷いね。僕ぁ、今の君の助手席に座るなんてとてもおっかないよ。さあ、僕が運転するから、早く助手席側に移動して」
ダヤンはふらふらとしながら狭い車内を移動した。
ヨハンは一回外に出て、車を半周して運転席に入った。ヨハンは、彼の偏頭痛がヤニから来ているという事を薄々気づいていた——でも、言えなかった。それは彼の唯一の楽しみであったし、それを奪い取るなんて事は、到底出来なかったからだ。平生からヤニを吸ってきたダヤンは、実はもう身体はボロボロになっているに違いない。同年代のハズなのに、ダヤンのねずみ色の体毛は際限なく痛んでいるし、健康体のヨハンと比べて違いは一目瞭然だ。しばしば咳をするが、鈍感なダヤンは、一番自分の好きなものに、今自分を蝕まれているという事には、知る由もなかった。
ヨハンが運転している間にも、ダヤンは助手席で常に眠っていた。満腹で心地が良くなってまた眠りについたのだろう、ヨハンは思った。こうして見てみると、この一匹狼は、一体どこに向かおうとしているんだろうかとふと疑問に思った。なぜこの仕事を選んだのだろうか。どう考えてみても、ダヤンは好き好んでやっているようには見えないし、金を欲している訳でも無さそうだからだ。将来にどのような希望を持って日々生活しているのだろうか?家庭を持つ気はあるのだろうか?人生の終着点は?モットーは?信仰する宗教は?何もかもがダヤンには無かったのだ。気づくとヨハンは、ダヤンの事を一人孤独な少年のように思えてきて、仕様がなかった。しかし、寝顔だけは、夢と希望を持って、前に突き進んで行く少年のようだった。。心なしか微笑んでいるようにもみえる。彼がもし殉死しても、彼の葬式に参列する人はいるのだろうか?悲しんでくれる人はいるのだろうか?
そうだ、やっと気付いた。僕が一番老婆心なんだ。ダヤンのために、僕はこの部署をやめられない、コーヒー屋を営む夢も叶えられない。何故なら、ダヤンの側にいないと気が済まないからだ。気付いたら、彼が心配で心配でたまらないんだ。彼のそばに見え隠れしている"死"の一文字が、拭っても拭っても永遠に消えようとはしないからだ——認めたくないものだな、ヨハンは心にとどめた。そして、この不思議な感情は永遠に心の中にしまっておこうと決心した。
「ダヤン起きて、着いたよ」
いつの間にか、事務所に着いていたようだ。ダヤンは後で行くと言って、ヨハンを先に行かせた。
ここは、ダーレムという街のグリルパルツ通りにそびえ立つ、古びた商業マンションの駐車場。詰まる所、青締の事務所があるセンタービルである。外観は、よもやだれも住んで居ないのではないかと思わせるほどに朽ち果てている。蔦は際限なく壁を覆い尽くしているし、ペンキが剥がれ落ちているところを数えていけばキリがない。そんなところでダヤンたちは働いている。
目立つ、赤色の二枚扉の入り口がこのビルの一番の見所である。他は何もない。
玄関には名前の知らない紅色の花がポットで育てられている。蹴飛ばされたのか、少しだけ土が溢れている。誰かが掃除するだろう、そう思ってダヤンは重々しい扉を開いて中に入った。
入ると、そのまま廊下につながっている——ひたすらまっすぐ、奥まで廊下が繋がっているが少し奥へ行くと、なにやらダンボールや、粗大ゴミが大量に置かれてあって進めそうにはない。
廊下を前にして、右から二番目の部屋に青締の事務所はある。他の部屋は、例えば参考人を引き連れて話を聞いたりする部屋とか、会議室などがあるが、どれもあまり使われてはいない。どれも青締には有り余った。
ダヤンは、"第3特別刑事課"(事務所の部屋)と貼ってある部屋に入った。
ヨハンは既にコーヒーを淹れる準備をしていた。奥の方でコンピュータを使っていたエドガーは、ダヤンに気づくやいなやすぐ駆け寄ってきた。
「えらく遅かったじゃないか、心配したよ」
エドガーは鼻を高く上げてそう言った。エドガーは、ボーダー・コリーという種の犬型の顔立ちをしており、なかなか珍しい種である。年齢もかなり離れている。背丈はダヤンよりも小さく、かなり小柄な体格だ。
「昨日から寝不足で少し車の中で休んでたんだ。居眠りで事故るよりかは幾分かマシだろう。なあに、約束は忘れたわけじゃない、どれ、地図を見せてくれないかね」
エドガーは言われるがまま手に持っていた封筒と、一つの手のひらくらいの大きさの銀色のケースを渡してきた。ダヤンが不思議な顔をしながらその物体を眺めていると、エドガーが説明を加えた。
「その中には君の発作を抑える薬が入っている」
ダヤンは一瞬呆然とし、そして胸の奥から焦燥と不安が一気に湧き上がった。
「なにを言っているんだ?俺はまだサプリメントを飲むような歳じゃないし、身体だって、どっこも悪くない」
「ダヤンの喘息はもうほっとけない所まで来てるんだよ。自分では分かってないと思うけど、このままだとあと数年で君の身体は動かなくなる。この薬は、この前行われた健康診断の結果で、本署から配給された薬だよ。毎日朝晩食後に飲んで貰うからな」
その無機質な銀色のケースは、無情にもダヤンにその現実を突きつけた。ダヤンは薄々気づいてはいたのだ、自らの身体の変化を——言われなくても分かってるさ、ダヤンは思った。
現実と向き合うことは難しかった。この薬を飲めば、自分はヤニに負けたという事を受け入れてしまうし、逆に飲まなければ、俺の体は常にタバコよりも優位に立っているという事になる。自分の体はまだ大丈夫だという、その強がりに縛られて治療の第一歩を踏み出すことが出来なかったのだ。薬は尻ポケットに入れた。
自分のデスクに座って、エドガーから貰った集成図を大きく開いた。マーカーで黒色に塗りつぶされたところに、検挙対象になっている名前がちらほらと書いてある。ドーベルマンの役人の名前はちょくちょく耳にはするが、いざ対面した事などは一度も無かった。物覚えが悪いダヤンにとって、名前を覚えるのは至難の技であった。一人だけ覚えてるとすれば、グールマンを刺して逃げたネコ種のバックギャモンとかいう奴くらいだ。
さて、フィリベルトの所在はフランクフルトらしいが、現段階でのフィリベルトのラインについて考えなければならない。ダヤンの大まかな予想で言うと・・・グレーだ。
そもそも、青締が取り締まる対象は次の三段階に分けられる。一つがホワイトラインと呼ばれ、裏カジノに定期的に通い、博打中毒になってしまった者たちを指す。次がグレーと言われるラインだ。グレーラインは裏カジノに通うことで偶発的な犯罪を引き起こした者、小さい、又は大きな民事、刑事事件を引き起こした者に相当する。ここまでのラインに属する者たちは主に更生が必要、指導が必要と判断された者たちで、博打中毒から克服するための特別訓練を課せられるものたちである。(もちろん、グレーラインは犯した犯罪の振れ幅によって扱いは異なる)
最後のブラックラインは、単純にDFG(doberman families group)の役人達を指す。先ほどのラインとは扱いが大きく変わってくる。彼らは、殺害対象なのである。ドイツ全土が闇カジノに汚染されるようになった原因は、全てDFGにあるのだから、役員は即殺するべきだというものらしい。ネズミを1匹ずつ捕まえるよりも、ネズミが巣食う場所を無くしてしまおう、という考え方だ。我々青締は、対象がDFGの役員だと判断されれば即殺害の義務が発生するのだ。
とは言っても、いずれにも明確な基準は特に無い。役人と言っても、どれだけDFGに加担しているかによっても細分化された中で判断されるから、どれがブラックとか、ホワイトとか、グレーとか、一概には言えないというのが事実だ。さっき記した判断基準も、青締や、他の部署が勝手に決めたものなので法的信頼はまるでない。被疑者を取り締まる上での大胆な枠組みとして捉えてもいいだろう。
フィリベルトがグレーラインなのは言うまでも無い。違法性のあるカジノへの往来、または金銭的な問題による殺人の起因、その両方がフィリベルトの罪状である。その点ではフィリベルトはまだ軽い措置で済まされるだろう、ダヤンは思った。
ダヤンが一番危惧しているのは、もしもフィリベルトが闇に染まって、DFGの役員として成り下がってしまっていないかという事だ。どんな理由であれ、DFGとして働いているという事は、青締にとってタブーである。そこには殺害義務が発生するのだ。そんなことはあって欲しく無かった。もしそんな事になってしまったら、ダヤンを信頼して、ダヤンに協力してくれた友人達に合わせる顔が無い。俺がこの手で殺しました、守れなくてごめんなさい、と彼らに面と向かって言うのか。そんな事、出来るはずがない。思案が頭を駆け巡った。
ダヤンはふと、腰に装備したピストルが熱を帯び始めている感じがした。これは、訓練で発砲した時の煤の匂い?手の温もり?様々な事が次々と想起された。ダヤンは引き金を引くことが嫌だったのだ。対象の胸元にピストルの照準を構えて、引き金を引く、相手は胸と口から大量の血を吐きながら臨終する。撃ち抜かれた者は、自分のピストルによって——自分が引いた引き金によって——人生を終了したのだ。一体俺になんの権利がある?まるで死神代行にでもなった気分だった。だからダヤンは、威嚇用で拳銃を腰にしまって、いつも"ホワイトウルフ"という警棒を常備している。自分は灰色の狼警官だったので、使うたびにある種屈辱的な気持ちが湧き上がってくるのだ——。
すっかり日が落ちて、ダヤンは自宅には帰らず青締の事務所に泊まることにした。そもそも寝泊まりするようなとこではないが、最低限のものは揃っている。最低限の食料が入った冷蔵庫に、質素なシャワー室、寝るのはソファーの上でも構わなかった。ヨハンは日が落ちると同時に自宅に帰ってしまった。必然的に今ここにいるのはダヤンとエドガーのみだ。
ダヤンが掛け布団を用意してると、エドガーが言った。
「今日も住み込みかい、仕事熱心だねえ」
「帰るのが面倒なだけさ」
「車は...ああ、そっか、ヨハンが乗ってっちゃった」
「あいつも俺が大雑把な性格ってのはよく分かってるらしい」
かすかな笑いが生まれると、エドガーは足早に冷蔵庫を開けた。冷凍のオムライスが入ったプラスチックの容器を二つ分取り出して、それらを電子レンジに入れた。
「飲み物は?」エドガーが聞いた。
「オレンジ、いや、サイダーがいいな」
「ああ、残念、オレンジジュースとミルクしか無いや」
「じゃあ、オレンジでいい」
少しだけ最初にオレンジを選ばなかった事を後悔して、恥ずかしさを覚えた。
「サイダー、買ってこようか?」
「別にいいよ、そんなにサイダーが飲みたいわけじゃない。それに、サイダーは骨が溶けちまうからな」
エドガーはダヤンの諧謔を笑った。
しばらくして、解凍されたオムライスが電子レンジから香しい匂いを、この狭い部屋中に拡散させていた。ほんの少し前にタコスを二個も食べたのに、また腹はぐうぐうとなり始めたようだ。
テーブルの上には、ホカホカのオムライスが二つと、オレンジジュースが入れられた透明のガラスコップとスプーンが二つ。ダヤンとエドガーで卓を囲んだ。
「ほんの野菜でもあれば、料理の一つや二つすぐ作ってあげられるのに、あいにく冷蔵庫には既製品しか無いんだ。ゴメンね、ダヤン」
エドガーが悲しそうにそう言うと、ダヤンは無言で微笑みを返して、さあ食べようと言った。すると、エドガーのスプーンはいつにも増してぎこちない。ダヤンはそれが気になってしようがなかった。
「どうした、オムライスは苦手か?それとも猫舌か?いやぁ、君は犬種だろう?」笑いながら言ってもエドガーはクスリともしなかったから、ダヤンはかなり困惑した。
「まあ、今のは面白いと思ったんだがな」
乾いた笑いが空を裂き、気まずい空気が流れ始めた。
エドガーはスプーンを握ったまま、黙りっばなしだったから、これはおかしいとダヤンは思った。
「なにか悩みでもあるのかい?そんなら、俺じゃなくてヨハンに相談してくれよ、相談役なんざ俺は適任者じゃあない」
「じゃあ、僕の真剣な話は死んでも聞きたくないって言うの?」
「そういう事を言いたいんじゃない。いや、そこまで君が本気なら話は変わってくる。おれを頼るんなら、それは君の勝手だ。だけど、いいかいエドガー?俺を頼るなんて相当な博打だぜ」
「ダヤンは達観してるから」
「た、達観?」
言葉の意味がハッキリとは理解出来なかったが、いい意味では無さそうだった。そして、藪から棒にエドガーはその重い口を開いた。
「いつも思うんだ、なんで僕は青締にいるのかなって。僕はダヤンやヨハンと違って、特に戦闘能力もあるわけじゃないし、一応僕も刑事って肩書きは持ってるけど刑事らしいことは何もしてないしさ」
「君は自頭で入ってきたんだろう?脳筋な俺たちと比べるなよ。サッカーと野球どっちが面白いか考えてるようなもんだ」
「じゃあ、もっと待遇は君たちに偏っているべきだよ。いままで、ダヤンはよく現場で傷だらけになるし、無理してボロボロになって帰ってきたことだってある。正直痛々しいし、僕にはそんな事出来ない。それなのに給料は同等どころか、監査も任されてるからダヤンとヨハンよりも少し多く貰っているんだ。初めて知ったでしょ?」
「給料の事はどうでもよかったが、偏ってるとは思わない。それにコンピュータを満足に操作できるのはエドガーしか居ないし、自分が思っている以上に働いてるぜ、お前」
エドガーは少しもしこりが取れなさそうな様子である。
「でもそれなら!もっと有能な人を使えばいいじゃないか。なんで僕なんかが、小型クラスの犬種なんかがこんな大役を任されてるのか分からないよ」
ダヤンは、大きくため息をついて、三白眼をエドガーに向けて言った。
「お前は俺に何か期待してるのか?だとしたら勘弁してくれ、だから俺には適任じゃないと言ったんだ。俺がここで"君じゃなきゃダメなんだ"とか耳触りのいいこと言えればいいんだろうけど、俺はそういうヤツじゃない。キザ男くんの茶色い狐がいるだろう」
「違う、そういうやけじゃない」
「喋れてないぞ。なあに、俺はそういうのもかわいいと思うぜ」
「もういい!」
と罵声を飛ばし、顔を真っ赤にして飛び出して行ってしまった。怒らせたか、そう思ったが、エドガーは結構気の強い子だからそれほど心配しなかった。
ダヤンはヨハンに電話を飛ばした。
「はあい、ヨハンネスです」
「達観ってなんだ」
「なにそれ、誰かに言われたの?」
「俺は達観てなんだって聞いてるんだ」
「ダヤンは本なんか読まないし、誰かに言われたんだね?でもその知識欲は素晴らしいと思う!」
「意味の一つも言えないのかお前は」
「うーん、じゃあ、遠くのことまで物事を見据えている、的な感じかな」
「じゃあエドガーは俺を褒めてくれてたんだな」
「エドガーに言われたんならそうじゃない?彼はきみへの尊敬は随一だし、しかも」
ヨハンが言い続ける前にすでにダイヤルは切れていた。